雪に埋もれる熱

「猪子槌! 居るか!?」

「――はっ、水掬樣。ここに」

 珍しくお呼びがかかったと思ったら、主は機嫌が悪いと見受けられる。自分は何か意に背(そむ)くようなことをしただろうか。水掬は天蓋の付いた暗がりに座し、眉を吊り上げていた。

「またあの異端者がこの土地を踏みおった。追い返してくれ!」

 邪険に思っているので、自身の獣者にも風当たりが強い。深い雪の中でも亥の脚では踏み分けられるだろう。丑では遅いし、子では埋もれる可能性がある。

「それは、もしや……炎帝樣のことでしょうか?」

「ええい! 聞きたくもないわ、その名前!」

 炎帝かと探ってみたところ激昂を貰ったので、やはりそうかと確信する。水掬は水を通して違和を感じることができたのだ。いまもなお炎帝のことを異端者と称している。

「大方允可を再度貰いに来たのだろう。彼奴らは南からこちらへ向かっている。街へも入れるな!」

「……はい、仰せのままに」

 折角再びいらしてくれたのに追い返すのは胸が痛むが、主の命となれば致し方ない。猪子槌は力強く立ち上がると、一礼して去っていった。この雪の中南から来るのは骨が折れよう。労(いたわ)りの言葉だけは用意して、亥は雪を蹴って駆け出した。

 ――しかしどうしたって南に……?

 南に向けて開けられた門を過ぎ、積もる雪の上を飛び跳ねる。亥の背ほども積もっていたが、彼にとっては容易いことだ。あまり知られていないが鼻も良く、もし埋まっていても探し当てられるだろう。神が雪に埋まるとは考えにくいが、万が一ということもある。我々はもちろん、民もほとんど足を運ばない場所なのだ。

 だから猪子槌は違和を感じていた。再び降り立つなら、玄武領に近い場所に行くのではないだろうか。水掬は街へ降りているので確かに南でも都合はいい。栗に訊いたのか。いやそれならば、北の山より下ってくるはずだ。わざわざ目的地を通り越して、南の雪原に向かうなど――。

「あれは……?」

 ふと、猪子槌の眼の端に、ひとりの民の姿が映り込む。ふらふらと、今にも倒れそうな少年は、薄着で街へと向かっているようだった。寒さに慣れている玄武の民でも、さすがにこの大雪にそのような恰好で出たりはしない。

「おい、大丈夫か!?」

「ひゃ……っ」

 人の言葉を喋る亥を眼の前に、哢は胸の中のものをきつく抱いた。ついに幻想まで見えるようになってしまったのだろうか。自分も火威も弱っている。しかし本物なら、ここで食われてしまうのではと懸念した。

 白い顔で戦慄く少年を見て、次いでその腕(かいな)で眠っている黒い物体に眼を落とす。その正体に気付いて、猪子槌は瞳を円くした。

「おい! 彼は炎帝樣ではないか!? 貴様、何をした!?」

「は……、火威樣を、しし、知って、いるのか?」

 猪子槌は吠えたが、薄着の少年は抵抗するでもなく応えを返す。息も絶え絶えといったところ。このか弱い民が何かできるとは思えない。それにしっかりと守るように隠している姿を見れば、信仰心厚い者のようだ。

「……話は後で聞こう。乗れ」

 捨て置くこともできず、凍死しそうな哢に向かって言い放つ。しばらく逡巡していたが、少年は獣者の誘いに乗ったようだ。おずおずと冷たい手を熱い背中に置き、腰を据える場所を探っている。やがて跨ったと感じた猪子槌は、全速力で走り出した。

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