風切

「そうですか、その……」火威はその一部始終を聞いて、肩を落とした。「ごめんなさい、僕が鳴かなかったから悪いのですね」

「いえ、そうではありません! ……ですが、どうか非礼を承知でお願いいたします。一声、鳴いてはいただけませんでしょうか?」

「一声……。どうすれば、いいのですか?」

 火威は産まれてから一度も朱雀に転変をしていなかった。本来神は獣の姿で産まれる。そのとき神力を使い、土地に恵みや一報を轟かせることができた。朱雀の場合は熱気と囀りを届かせることで、誕生の息吹を星に授けられる。

 熱気は充分にある。あとは一声鳴くだけで、朱雀の存在は明らかになりすべての民を黙らせることができるだろう。彼は本物だった。哢も奇跡を目撃したのだ。

「はい、あの、転変をしていただき、お声をお上げいただければと……」

しかし男児は、転変の仕方を知らなかった。一点の曇りなく見つめられ、逆に哢のほうが罰が悪くなる。鳴いてくれなければ始まらない。言葉を交わすだけでも信じられないのに、朱雀の一声を嘆願するなんて、何という巡り合わせだろう。

「火威樣! 侵入者です!」

「――!」

 詳しく訊こうとしたところで、蛇結茨が声を上げる。緊張は大地から皆に渡り、遠くの枝がへし折られる音が耳に良く届いた。その中に人一倍速く駆ける軍靴がある。林の切れ目から抜け出した武人は、すらりと剣を翻し、迷いなく振り下ろした。

 鋼と鋼がぶつかる、耳に不快な音。響いたかと思いきや、もはやその打ち合いも互いに離れ火花が散る。対峙したのは蛇結茨と、風切だった。




 あの日は、珍しく天気が愚図ついていた。風切は仕事に出かけると言って神宮に参った雨覆の帰りを待つ。父は炎麗の言葉を記し、炎麗の行動を残す役目だった。歴史家としてこれ以上の幸福はないだろう。息子の風切も鼻が高かった。

 正直言えば詳しいところは何をやっているのか分からなかったが、それでもきっと良いことなのだと思う。いつもより涼しい風が、コバルトの髪を撫でた。星の巡りもそろそろ落ち着いてくる頃だし、もうしばらくしたら帰宅するだろう。

 ところが今日に至っては、雨覆は深夜まで帰っては来なかった。父から教えてもらった空の見方を駆使して、現在の巡りを計算する。母親には早く寝なさいと言われたが、これが日課になりつつあるのでそれが終わるまでは決して眠れなかった。

 しかし前日までの記録があるので、ほとんど間違うことはない。それでもたった一周、星の巡りを見逃しただけで歴史が変わってしまうことがある。

「恒星は百三十八。昨日より少ない……」

 それが何を意味するのかは、まだ教わっていない。この遊星たちは、夜にも昼にも星が見られる。爆発は決まって同じように回ってくるのだ。生活に必要な光をもたらしてくれるが、命削る恒星を想うと気が引けた。

「お父さん、まだかな……?」

 微睡(まどろ)みながらぽつりと漏らす。眠気は気付かない内に身体を蝕んでいたようだ。心細くも睡眠欲には勝てず、幼い風切は机に顔を埋めた。



 遠くから、焦ったような声が聞こえる。ゆっくりと頭を擡げた少年は、白ける空を見た。そろそろまた星の爆発が始まるのだろう。雲は残るのに不思議と天は赤い。星を見るときは決まって作業場の屋根裏に登っていた。そこは雨覆の就寝場所で、たまに風切も一緒に寝てしまうこともある。

 なので風切はベッドを見渡してみたが誰もいる気配がなかった。父は結局戻っては来なかったのだろう。下で誰かが、誰かを呼ぶ声がする。いまし方帰ってきたのだろうか。

 風切はまだ眠い眼を擦るが、それより何より、焦げた臭いが鼻を突くのが早かった。

「――え?」

 空が焼けていると思っていたが、燃えているのは眼の端だった。いや、焼け落ちているのは、この作業場だ。赤土の壁なので崩れることはないが、反対にどこにも逃げ場がない。蒸れる熱気で意識が朦朧とし、いち早く死を覚悟してへたり込んだ。

「風切!!」

 それでもその呼ぶ声には反応を示さざるを得ない。待ち焦がれた父親の声。藍色の髪をした優しい彼は、煤に塗(まみ)れながら一心不乱に叫んでいる。

「お父さん……! お父さん、助けて!!」

「風切!! やはり上か!?」

 雨覆は天井を仰ぐ。どうかそこだけは居てくれるなと思っていたが、日頃の行いが災いとなってしまった。階段は火で炙られて足元は炭と化している。紙はいくらでも燃えていい。しかし息子だけは、風切だけはどうしても消えてはいけない。

 崩れる懸念はあったが、それを気にしてはいられなかった。雨覆は急いで梯子を登ると泣きべそをかきながら小さく震えている息子を発見する。

「風切! 来れるか!?」

「お、お父さん!」

 腰が抜けているが、腕だけでゆっくり進んでいった。恐怖で呼吸が小刻みになり、脳があまり働かない。指が触れ合うか触れ合わないか、そのときに父から勢いよく抱き寄せられる。炎とは違う暖かさを感じ、風切の腰はさらに砕けそうになった。

「よし! しっかり掴まっていろ!」

 雨覆は慎重に足を下ろしていく。立ち上がる炎が脛を舐めるが、絶対に急いではいけない。炭の梯子はすでに限界でメキメキと悲鳴を上げていた。そのときだ。

「ぐあっ!?」

 根元が折れ、バランスを崩し転倒する。雨覆は風切を守るため、さらに強く抱き、その拍子に背中を強打した。咳込んだ瞬間煙を吸い、気管を焼く。

「お父さん!?」

 良かった、息子は無事なようだ。だがそれも時間の問題。紙が燃えた小さな黒い火の粉の量が多くなる。風切だけでも逃がさなければ。熱は痛みとなり、痛みは熱となる。呼吸をするのも苦しい。

「……風切、走れ」

「えっ」

「いいから走れ! ふぅっ、がふっ!」

 血の泡を吹く父に言われても、従う気は起きなかった。まだ子どもの風切には、大人を担いで外に運ぶ力はない。それでも見捨てられないと、現実を見ないよう何度も頭を振った。熱風で涙はすぐに枯れる。必死に訴えているはずなのに、父にはどうしても届かない。

「走るんだ!!」

「は、ぁ……っ」

 その怒号は、初めて向けられた拒絶であった。優しくも厳しかったが、決して感情的に怒鳴り散らしたりはしなかった。そのとき風切は悟ったのだ。救えない自分では、雨覆の息子足り得ないと。非力でなければ、星読みなどばかりしていなければ、この俊足は愛する家族から遠ざからずに済んだかもしれない。偉大な父を、救えたかもしれない。

 無情な火の手は弱っていく父を呑み込んでゆく。その最期の姿を見た者は誰も居ない。奇跡的に灼熱の煙を吸わずに済んだのだが、それは掌で顔を覆っていたからであった。手根管から小さく嗚咽を漏らす。見たくない。父が死ぬところなど、一切。

 戸口から身を飛び出すと、すぐさま誰かに名を呼ばれる。弟子数人で土砂を掛け火を消そうとしているが、すべてを燃やし尽くして最大となった厄災は弱まることはなかった。



 後になって、あのとき看取っておけばよかったと思う。父の墓には何も供えられなかった。ただの石の塊だけが置かれ、そこで眠っているように描かれる。天気は珍しく雨。悼むように、それでいて参列者の噎(むせ)び泣きを掻き消すように、ただ騒がしく降り続いている。

「いまさら、降っても遅いのに」

 風切は誰にも聞こえることのない悪態を吐いた。遊星朱雀は極端に雨が少ないため傘を持つ者がほとんどない。頭頂から髪を伝って全身に回る水滴ですら、あの炙られた炎の熱を忘れ去ることはなかった。あのとき枯れた涙は、まだ戻っていない。

「どうして雨覆さんが――」

「噂によれば――」

「――炎麗樣に口答えしたからだと」

 作業場に出入りしていた弟子たちは、炎麗への疑念を口々に言う。炎を纏う神が、自分に反駁(はんばく)したから師を襲ったのだと。ゆえにこれまでの歴史資料は燃え、神に反論する者も滅ぼしたのだと。

「初めから、信じなければ」

 ふとしたことで嫌われる。いままで愛でていたのに、次の瞬間には蟲のように潰されて終わる。潰されるだけならまだいい。燃えれば、何も遺らない。

 献花が手向けられ、濡れては堪らずと次々に人は居なくなる。父が必死で遺した者たちは何だったのか。救助のため命を掛けるほどではなかったのか。いや、それは自分とて同じか。

 皮肉めいた笑みを覚えた少年は、嘘の笑いを作るのに難くなかった。

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