真実の次代

 産まれたての青龍は、一本のスモモの木に流れ着く。水の流れる音の間に、懐かしい、甘酸っぱい匂いが混じった。小さな龍は頭を擡(もた)げ、天を仰ぐ。枝の間から恒星の光が注ぐ。瞬膜を数回、張っては閉じ張っては閉じを繰り返し、紫花菜(むらさきはなな)の眼で何かを捉えようとしていた。

 ――まだ産まれたばかりで視界がぼやけているのだ。

 そう、蘢樹は直感で思っていた。なので蘢樹はスモモの木の根元で諦めたように蜷局(とぐろ)を巻く。しばらくすれば神力も膨れ上がり、恵みの雨を降らすだろう。李は母のように優しく包み込んでくれている。その温かみが蘢樹にとっては有り難かった。いま頃は他の神も誕生を喜んでいることだろう。それぞれの教えの木もまた役目が回ってきて嬉しがっていることだろう。

 ひと眠りしていた意識を戻すと、すでにそこには暖かい霧雨が降っていた。緑を育み、民に豊かさをもたらすものだ。しかしおかしい。眼を開けたはずなのに、瞬膜を持ち上げた感覚がない。いや、確かに動かしてはいる。眼の前に広がるのは、ただの暗闇なのだ。焦燥から首を左右に振ってみるが、どこにも光がない。

「お目覚めですか、蘢樹樣」

 すると頭上から、柔らかい声が降ってくる。老婆の声は蘢樹に安心を与えた。

「お初に御眼にかかります。わたくしは李と申します」

「グ……? グァ!」

「ここに控えております。わたくしはスモモの木でございますから……、蘢樹樣?」

 それでも見えなくて蘢樹の心には、また不安が込み上がってくる。きょろきょろと辺りを窺い続けていた主神を訝しんで、李は腕(かいな)を伸ばそうとした。しかし小さな花がふわりと舞うだけで、動くことは叶わない。抱き上げられない無念を悔しがって、深く落胆する。

「グァ、グァア!?」

 どう表現すればいいのか分からない。蘢樹は初めての感覚にずっと戸惑っていた。ぼやけるどころか常闇で、それでもはっきりとした意識が混乱を招く。怖い、逃げたい。しかしいくら身体を捩ってもこの暗闇は付いてくる。振りほどきたいのに、動くと動いた分だけ絡みついてくるようだった。

「蘢樹樣!? どうされたのです!?」

 嫌だ。その声もどこから響いているのか分からず、ただ水と土と、花びらの匂いがするばかり。何も存在などしないかもしれないと孤独を錯覚し始めたとき、温かく掬い上げる腕がある。

 鼓動と、また別の、木のような甘い匂い。人の指は優しく憂うように蘢樹の頭を撫で、鬣に雨を滲み込ませる。

「……桐子殿」

 女性の名は、桐子。この星の長である。まだ長になって若いが、李にも先代の梢枝にとっても馴染み深い人物であった。

「李殿、このお方は、次代の青帝樣でいらっしゃいますね?」

 静かに、悲嘆するように教えの木に問う。だがその眼はしっかりと星の王へと向けられていた。恐怖によりこの腕で丸くなっている細い龍に、愛おしみを捧げているのだ。

 先出の神は小さな爪を立てて、桐子の胸に蹲(うずくま)る。体温と感触で安心したのだろうか。確かめるように、小動物かの如く額を擦り付けてきた。

「……ええ、先程お産まれになった我らの青帝樣です」

 やがて諦めたように李は口を開く。ただならぬ様子で辺りを見渡していた主は、皮肉にも民に守られて落ち着きを取り戻したようだ。自分ではどうしようもなく空しく、こうした感情は初めてであった。

「直に獣者も参りましょう。桐子殿は、街へお戻りください」

「……そうはいきません。恵みの霧雨で、よもやとは思っておりましたが」

「何か、あったのですか?」

 教木の言葉の端々には若干ながらも険がある。しかし桐子はこの場を去ることは許されなかった。恐らく獣者も気付いている。この弱弱しい青龍が多大なる不敬を行ってしまったことに。

 どうしても先代の影と比べてしまい、この次代は異端であると決定付けようとする。その懸念を何度も振り払って、だが確かめねばなるまいと李の元までやってきた。実際目の当たりにしてみると、何とも脆弱でこの細い蛇のような体躯の龍にこの星が治まるとは思えない。

 ――梢枝樣は天をも覆うお身体だったのに。いいや、そうではない。

 恐らく梢枝も産まれたては同じ姿だった。桐子が生まれるずっと前のことなので、それは憶測の域を出ないが。思いやりがあり聡明だった先代の笑みが、諭すように脳裏に浮かぶ。

「李殿、青帝樣は、先出の罪で罰せられねばならないかもしれません」

 守らなければ。自分が、この手で。それが貴かった先代の願いであろうと察する。すべてを託して次代を産んだのだ。

「そんな……、それではまさか、炎帝樣はまだ誕生していないということですか!?」

「そのまさかなのです。李殿、並びに桐子殿。しばらく振りでございます」

 か細く可愛らしくはあるが、その言葉はこの場にいる全員の耳に入った。青龍に魅入られて、気付かぬ内に獣者たちは集まってきていたらしい。足元には紫苑の卯が控えている。両脇には寅と辰。その獣者のほうが、神としていくらか立派なように見えた。それでも、桐子の腕に抱かれたものに服従を誓っている。

「それでは、蘢樹樣は――!」

「死なせません! わたくしが、星の長であるこの桐子が! 絶対に青帝樣を殺させたりいたしません!!」

 その宣言は無謀にも思えたが、ひとりの民の願いを容易く折るわけにもいかなかった。それに獣者としても、主を手に掛けられることは避けたい。どうかこの命を、長い間紡いでいきたい。

 蘢樹は誕生の瞬間から発見されてしまったのだ。いつか来てしまうかもしれない終焉を避けるため、星の民全員で隠匿することに決めた。滝の裏の暗い穴蔵に留め置いて、星長が定期的に様子を見に来る。

 幼い仔を暗がりに置くのは気が引けたが、幸か不幸か、蘢樹の眼は見えなかった。視界を必要としない分、耳と鼻が利く。また、獣者たちが密かに傍に付いているので、案ずることもないだろう。とはいえ、早いところ朱雀が誕生し、允可を貰いに来ることを願う。

 彼が神として認められるには、他の存在が必要なのだ。




「桐子。私にも允可を戴きました。この星を、治めてもいいそうです」

「蘢樹樣……。何と嬉しいことでしょう」

 桐子の眼からは、大粒の涙が流れていた。半ば無意識と言っても良い。どうしても止められず、嗚咽も漏れ始める。思っていたより大きかった肩の荷は、この小さく薄い掌で下ろされた。

「いままでありがとう。民にも感謝を述べなければなりません」

 火威たちは一度星へ帰ると場を去った後で、畳の間に桐子を呼び寄せた。憑き物が落ちたように笑っていた蘢樹は、いつの間にか一段成長の階段を登ったように感じる。同時に彼女の手元から、離れていってしまったのではと。

 神の威厳。そう称するに相応しい言動で、今度は民を守ろうと、これより一歩外の世界へと踏み出される。

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