嘴の疑念
遠くから監視されている。そう嘴は気付いていた。帰宅し記録を付けたのはいいものの、それをどうやって外に持ち出そうか考えていた。
あの奇跡から数刻。星の武官も同時に目視していたので何か報道があるかと待ってみたが、おかしなことに全く音沙汰がない。
――妙だな。
それにはやはり、さすがの嘴も行き着いた思考だ。街外れで世捨て人同然の暮らしをしていたが、この空席の歳次中に歴史家としての腕が衰えたわけではなかったらしい。それならば星のために、この情報を皆に届けなければならないのだが、この状況下だ。家の影、茂みの影から、複数人の気配がある。師匠も同じ経験をしたと聞いた。都合の悪いことは、たまに揉み消されるのだ。
「いや、まさか……」
それでも今回は、この星が待ち侘びた朱雀の誕生の一報だ。それを秘密裏に消そうなんて誰が思うか。
「まだ星長は、あのことを……」
根に持っている。先帝が掛けた呪いのことを。しかしあれは自業自得だ。鶏頭がのうのうと星長の座に就くなど、本来はあってはならない。それでも地位を持つ者は彼しか残っていないのだ。小心者のわりには図太い。
丸眼鏡の奥で、小さな瞳を細める。それは哀れみと決意と、一瞬の軽蔑。混ざり合った思考の中、嘴は哢の安否を想う。あの口ぶりからすると、倅はきっと獣者を見た。それも本物の宣旨を賜って、皆の前で宣言してしまった。
自分が星長であったらどうか、その事実を揉み消そうとするなら――。親がいるのだから息子を殺してしまっては、現時点では事が大きくなってしまう。だとしたら安全な場所で隔離させて……。
「――星長の、庁か」
嘴は顔を上げて、窓を覗いた。そこにはお誂(あつら)え向きに、はっきりと星庁がガラス越しに見える。それに気づき、嘴は居ても立ってもいられなかった。資料を持っていくことは危険だ。それでは武官に勘付かれてしまう。置いておくのも危ういが、ここはぐっと我慢して留守を頼んだ。どうせ自分がすべて記憶しているものだ。破棄されてしまっても惜しくはない。
時は昼食を少し過ぎた頃。食事を買いに街に出ても、怪しまれることはないだろう。哢に関して、ここに居ないことを向こうが把握しているのか不明だが、できるだけ明るく、何も考えていないよう振舞うことに努める。どうせ付いてくるのだろうと知っていたが、やはり気付いてしまうと胸がざわついた。
なるべく悟られないように、気楽な格好で街をぶらつく。偶然見つけたふりをして、ある書店に足を運んだ。それは昔の弟弟子の店だ。ありとあらゆる歴史書物が並ぶ。
「俺だ、嘴だ。覚えているか?」
「……嘴、さん? どうしたってここに?」
「互いに歳を取ったな、啄(たく)」
灰色の髪のため嘴より歳上に見えるが、実際は後輩である。嘴は軽く笑い、あまり事情を説明せずに続けた。師が亡くなってからあまり顔を合わせていないが、珍しい本が入ればたまに覗くこともあった。
今後の展開を考えて、二節気前に会ったばかりなのに懐かしく思う。
「今日は特に収穫はないですよ?」
「悪いね、今日は客じゃない。何も訊かずに、裏口に通してくれ」
歴史を追い求める者は、時に命の危機に晒されることがある。その対策として、どこかに抜けられる裏口を設けることがあった。これも師の教えだ。啄は微妙な顔をしながらも、店の奥に通してくれる。随分使われることがなかったので、売れ残った書物の束で埋め尽くされていた。湿っぽい埃が舞う。
「啄と店には、迷惑を掛ける」
「……しょうがないですね、兄弟子の頼みですから。どうか無事で」
呆れたように笑って許してくれた。彼には救われる。啄の無事も祈りながら、抜け穴から身をにじり出した嘴は、地下を通って急いで出口へと向かう。
「…………そこで好きな本を漁ってください! 誰も邪魔しませんから!」
しばらく経ったあと、啄は客人が来ているらしく振舞って店先に戻っていった。半時した頃に二杯の茶を出す準備をする。そうして時間を稼げるのも今のうち。そろそろ痺れを切らすころだろうと踏んでいたが、不思議と剣呑な気配が去っていくのを感じ取った。
「風切様、ご報告があります」
嘴を監視していた風切に一報が入ったのは、古びた書店に入ってから半時ほど過ぎた頃だった。建物の陰に隠れて静かに見守っていたが一向に出てくる気配がない。そろそろ店主に話を訊きに行こうかと思っていたところだ。
「何だ?」
「嘴殿が、星庁で捉えられたとのご報告が」
「……やはり」
風切は驚くことなく、冷静に答える。歴史家には歴史家の友。その抜け道は各所に通ずる。それは父、雨覆(あまおおい)から聞いた過去の記憶だ。彼の父親は、熱心な歴史研究家であった。
――どうせ愛しても、燃やされるだけなのに。
神は気まぐれで人を愛し、そして気まぐれで人を嫌う。こちらがいくら擦り寄っても神のご意思ひとつで呆気なく打ち消される。雨覆には最低な仕打ちをされた。だから何も信じない。信じても裏切られるだけなら、始めから信じないほうが身のためだ。己だけを信頼し、ただ生きるため命じられたことには従う。
――本当に、燃やされると何も残らない。
父の墓には何も入れられなかった。少しばかりの花が手向けられるだけ。師が死ねば弟子もいなくなり、跡には未熟な少年だけが残る。
冷え切った心奥には、どんな風も吹くことはない。凪いだ意識で風切は、人知れず皮肉気に嗤った。
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