水掬の時代

「そうか、ご苦労であった」

「ええ! 民はたいそう喜んでおりました!」

 はにかむ水掬を見て取って、鼠刺は喜びで打ちひしがれる。積雪の中を苦労して進んだ甲斐があったと、きちんと報われたようだ。火威に向けた敵意とは一転、優しく笑む主は、実は優しいのだと獣者は感じ取った。

「それで、星長が挨拶に参りたいと申しておりまして。わたくしが連れて、登って参っても宜しいでしょうか?」

 猪子槌の背ならば、人でも楽に乗れるだろう。何より雪山を登ることに関してだけいえば丈夫な上、速い。水掬は目線を外し寸刻考えた後、改めて亥を射抜く。

「いいえ、妾が脚を運びます。母より頂いたこの身体、星長のみに見せるのでは勿体ない」

「……畏まりました。それでは牛莎草の背のほうが宜しいでしょう。わたくしより安定しています」

「そうだな」

 水掬はひとつ頷き、次いで牛莎草を見遣る。彼は丑の姿へとすでに戻っており、乗りやすいように脚を折っていた。降りるとなると、そちらの脚が良かろう。

「どうぞお使いください。牛歩ではありますが、滑ることはありませんので」

「これから統べに行くのだ。滑ってくれても構わないよ」

 珍しく軽口を叩き、水掬は牛莎草に腰掛ける。それは、これから何があってもお咎めなしということだ。雪山では視界も悪く、万が一ということもある。命を掛けるほどの覚悟だが、無礼があったとしても命までは取らないという。

 だが、そんな彼女の許しとは裏腹、結局は何もなく街へ到着することになる。鉱石の匂いが漂う街は、水掬の登場でさらに賑わい、また厳粛な祈りも捧げられた。石畳は綺麗に雪除けされており、ここでは亥の脚でも蹄を立てることができるだろう。

 牛莎草の背に揺られたまま星長の庁に辿り着き、そこで脚を下ろす。カツリと初めて、靴の音を聞いた。黒い山肌を削り建築された廟堂は、崩れることのない安定感を持っていた。

 ――そうだ。これでいい。

 玄武は民の繁栄と安寧を望む。この建物はその願いを象徴しているように思えた。長年の失跡は民からの不満をもらうだろうと考えていた。それでも自分を迎え入れてくれることは、とても有り難く誇らしい。いや、これは水掬に向けられたものではない。いままで統治してくれた星長と、氷深が残してくれたものだ。

「玄帝樣、ご足労おかけいたしました。お姿を拝見できて光栄でございます」

 入口では、ふくよかな女性が跪いていた。遊星玄武の星長、甲乙(かるめる)だ。仙女の如き光沢のある衣を纏い、白い肌が柔らかい餅のようであった。刻まれた皺と垂れ下がった目尻が、華(か)甲(こう)に近い年の頃であろうと推測される。甲乙は先代氷深の統治の時から遊星を共に守り、信頼の置ける補佐だった。

「いいえ、支えてくれた甲乙を呼ぶことこそ不敬に当たるかと。それに妾の誕生を皆に知らしめる必要がありました」

 舌足らずではあるが、しっかりと固い意志。それは亀甲ともとれる責任だった。雪山を降りる間に獣者から教えてもらった星長の名を呼び、その決意を確かなものとする。

「有り難きお言葉。さあ、中へいらしてください」

 水掬は軽く頷き、脚を動かす。長い裾は雪を巻き込み、庁邸に跡を付けた。それを水掬も甲乙も気に留めるでもなく先を急ぐ。

 通されたのは、漆黒の柱に囲まれた広間だった。恐らくは普段上座に座っている甲乙は、自制して水掬に譲る。自殿ではあるものの、神に下座は似合わない。水掬は当たり前のように促されたほうへと腰掛け、甲乙にも座ることを許してやる。

 両者椅子に腰を下ろしたと見るや、女官が高級そうな茶の湯を持ってきた。熱そうに湯気を湛えているが、この気候ではそれもすぐに冷めてしまうだろう。

「宜しければお茶を。先程恩恵をいただいた、滝の最初の一筋で作らせていただきました」

 神は飲食を必要としないのだが、彼女は知っているのだろうか。しかしそれを無下にしても良いことはないので、水掬は有り難く受け取った。滑らかな水面は、一点の濁りもない。

「そうでしたか。水は民に届いておりましたか。感謝します、甲乙」

 幼仔はひとつ息を吸い、そして続ける。

「民にはもっと、恩恵を授けなければなりません。甲乙、力を貸してくれますね?」

「もちろんです、水掬樣」

 椅子の上であるため簡易ではあったが、星長は叩頭する。それに倣って、傍に控えていた女官もひれ伏した。これより先は、水掬の統治の元、遊星が回っていく。

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