玄武の獣者

 しばらく降雪を待っている間、獣者は空を切って現れた。筋骨逞しい亥(いのしし)と丑(うし)の間に、一匹のか弱そうな子(ねずみ)。水掬はそれを見て取ると、人の姿に転変する。ブルームーンの艶やかな髪に琥珀の瞳が輝く女児は、甲羅と同じ肌の色をしていた。

「妾は玄武の次代。水掬と名付けられた。獣者たちよ、名乗る許しを与える」

「水掬樣、この度はご誕生おめでとうございます! お許しをいただき光栄でございます。わたくしは、鼠刺(ねずみさし)と申します」

 すると中央に控えた小子から声が上がる。黒い体毛は、まさに玄武に仕える獣者として相応しかった。小さき身体に快活とした人声は、深雪に吸われることなく水掬に届く。

「同じく、わたくしは猪子槌(いのこづち)と申します」

「また同じく、わたくしは牛莎草(うしくぐ)と申します」

 続けて雄の獣者が口を開くと、水掬はひとつ頷く。これが、我らが玄武を守る者たち。信頼を置き、一番に考えてやらねばならない。

「相分かった、転変の許しを与える。鼠刺、猪子槌、牛莎草」

 すると名を呼ばれた順に、細胞が変化し、人の姿となる。猪子槌はやはり思っていた通りの大漢で、緑の短髪が良く似合う。猪の毛皮を纏っているが、それは体毛と同じ翡翠だった。

 口の端から見える下から生えた牙は武器ではなく、背中に引っ提げた小槌を振るうのだという。柄が長いので、力強く振り回せば頭が小さくても威力は高いのだ。

 牛莎草も良く鍛錬されているといった感じだが、こちらは猪子槌と比べて引き締まっており、いくらか美丈夫に見えた。垂れ下がった赤褐色の髪は後ろ手で三つ編みにされており、肩から前へ顔を出していた。頭上には頑丈な角が顔を出し、その根元から生える丑の耳には金輪が通っている。樺色の革のコートの下には抹茶の着流しを着こなし、薄くしなやかに笑っている。

 水掬が一部始終を見守ったその時、玄武領域に誰かが踏み入った気配を感じた。

「水掬樣! ここは素早い鼠刺が行って参ります!」

 名を呼ばれた礼もおざなりに、鼠刺は絶壁を駆ける。下るだけなのでそこまで難しくはないが、それでも滑落の危険性を孕んでいるので普通の人間であれば尻込みする申し出だ。しかしそれを物ともせず、鼠刺は剣に手を置き旅立っていった。

 ――ならば案ずることはないだろう。

 簡単に獣者が命を落とすことはないと水掬は考えて、次いで姿を見られたときのことを考える。産まれたばかりで一糸纏わぬ、か弱き幼女の姿。そちらの方が不味かった。玄武は赤子の手を捻るほど脆く、矮小な存在なのだと、誤解があってはいけない。

「仕立てたものはあるだろうか?」

「はい、こちらに」

 水掬は牛莎草から王の衣を素早く着替えることにする。階下からは随分と距離があるはずなので、すぐには邂逅されないはずだ。誕生の日であり少々気を立てる必要があるが、善良な民であれば謁見を許されるだろう。

 だがしかし、水掬の前に現れたのは、忌々しい異端の朱雀であった。




「水掬樣、何も追い返すことは……」

「栗、教えの木だからといって、妾に申し立てしていいことと、してはいけないことがある」

 水掬は栗の根元に腰を下ろし、彼の忠告を断った。允可を授けることは、星の安寧を譲ることである。それがあの朱雀に務まるのか。

 ――どう見たって、異端者であった。

 考え込む主の様子を見て、栗は言葉を呑みこむ。彼女もまた、責任ある者の一柱なのだ。許せない気持ちは痛いほど分かる。水掬は頭を掻き、膝に顔を埋(うず)める。この姿を獣者に見られなくて良かったと、心底胸を撫で下ろした。

 獣者たちには、仕事を仰せつかった。山の下に根付く民へと、玄武誕生の報せを広めるよう降りてもらったのだ。三頭はこの水掬の命じるところにも、否むことなく応えをし、それはたいそう立派な態度であった。

 直に天辺(てっぺん)より滾々と湧き出た滝が、山肌を通って街々へ流れてゆくだろう。極寒の地でも凍らない水源は、民にとって生命の要となる。水掬は掌で杯を作り、水流をひとつ、掬った。乙女の加護は永遠となり、やがて命を育む。氷を食(は)んでいた時も終わり、水を飲めるようになる。その清らかな願いは、遠くの土地にまで行き届く。

「栗」ふと、主は声を上げた。「またすぐに、独りにしてしまうかもしれぬ」

 それは、細やかに割かれた心。民の近くで統治したほうが、良くその眼を光らせられる。栗は苦笑し、それでもおくびにも出さずに答えた。

「それを気にする必要はございません。わたくしは主のため、ここに根を下ろし、長年居座り続けています。いまさら数歳次どこかに行かれようとも、わたくしには一瞬でございます」

「……悪いね、栗」

 悲しく笑う水掬は、どこか母、氷深に似ていた。

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