水掬(すすき)

 卵から孵った物体は、雪の上に転げ落ちる。まだ生暖かく、命を感じる。氷深(ひみ)は自分の仔を抱え上げ、身体に付いた液体と卵殻膜を掬(すく)い取った。念願の仔は産まれたばかりでぐったりとしていたが、やがて薄目を開けて母を見る。ただぼんやりと、水を湛(たた)えた瞳で必死に視点を合わせようとしていた。瞬きをするうちに目くじらから水滴が零れ落ち、まるで誕生の喜びを感じ、涙しているようだ。

「これが、我が仔……。だが良かった、無事に産まれて」

 ――何が無事か。

 幼き陸亀は、ただただ時間を費やした虚しさを想う。学べなかったこと、見られなかったこと、何より民の安寧を守れなかったことが悔しい。比較的暖冬が続いたが、皆は無事だろうか。産まれたばかりの亀は必死に脚をバタつかせ、起き上がろうとする。

「どうしたの、水掬(すすき)?」

 ――水掬。それが妾の名か。

 母、氷深は嫋(たお)やかな名を与えてくれた。同時に水掬は全てを理解する。成すべきことと、成してはいけないこと。

「母君、妾を見守ってくださったこと、感謝申し上げます。これよりは水掬の時代。母君はお身体をお休みになられませ」

 母の腕に抱かれた小さきものは亀の姿のまま、産まれてすぐにそう告げる。いくらか不逞な宣旨ではあったが、統治できない時間が長かった分、すぐさま行動に移したい思いであった。

 降り積もる雪は改めて水掬の眼に入り込み、故郷の息吹を感じさせる。冷たい。その冷気がとても心地良い。

「しかしだね、水掬――」

 これから育てるはずだった氷深は、耐えかねて娘に訴える。長年待ち続けた赤子は、少し大きくなって現れた。人の子であれば、まだ親の手を借りなければいけない歳だ。それでも水掬はその加護を振り払ってでも、休息を促すしかなかったのだ。募った心労は大きかろう。このままでは氷深はどうにかなってしまう。

「母君、妾は紛れもなく玄武の次代。小さく、このような成(なり)ではあるが、案ずることはありません。やがて獣者もやってきましょう。妾を守ってくれる者は、多くあります」

 そのしっかとした双眸は琥珀に輝き、奥には母を閉じ込めていた。神の意志は自身に宿り、何もおかしなことはない。違(たが)えてしまったのなら、また繋ぎ直せばいいのだ。自然の摂理であれば、水掬はすでに親元を離れても申し分ない歳。氷深は育児もできなかったことに心苦しく感じていることだろう。しかしそれは娘にとってはただ煙たく、余計なことであった。

「困りごとがあれば迷わずご報告いたします。妾を信じてくれぬでしょうか?」

「水掬……。そう、だね。そのほうが良いのかもしれないね」

 所詮は初仔(ういご)。親の自覚はまだ足りない。それ幸いと水掬は思う。そもそも亀は仔を育てることはない。

「だったら、栗(りつ)だけは、傍に置いてやって。彼はクリの木の姿だが、物知りだからね」

「栗……?」

 ふと、水掬は辺りを見渡す。背後には、どっしりとした巨木が控えていた。すっかり葉が落ち、樹皮は湿気を吸って柔らかい。雪山には似つかわしくない、黒いクリの木だった。これが、玄武の教えの木。花や実すらつけることもないが、素朴な美がそこにはある。

「本日は、ご誕生おめでとうございます。額(ぬか)ずけぬ非礼をお許しください」

 栗が喋る合間に、細かい霜がその枝から振り落とされてゆく。氷が割れるパキパキとした音は、まるで寝起きの骨を鳴らすようだった。先師をも長らく待たせてしまった。水掬は感謝と、詫びを述べる。

「いいえ、栗よ。妾も長く留(とど)まり過ぎてしまった。申し訳ない反面、玄武の地を母と共に守ってくれたこと、お礼申し上げる」

「有り難きお言葉、この栗に沁み入ります」

 落ち着き払った、壮年のような声色。渋く、それでいて軽く、聡明と懇篤(こんとく)を併せ持つ。遥か昔から聳え立ち、玄武が統治する行く末を、善くも悪くも見張ってきた。この栗ならば水掬の教育を任せられるだろう。母のヒレから離れて、水掬は栗の根元に預けられる。

「栗、氷深はこれより室に籠ります。娘、水掬を頼みました」

 告げて、氷深は名残惜しそうにこの場を去った。途中何度もこちらを振り返り、それでも耐え忍び歩を進めていく。やがて遠くなった影を確認して、水掬が口を開く。

「栗、良く呑み込んでくれた。言いたいこともあるだろうが、妾はれっきとした玄武。其方(そなた)も見ていただろう?」

「――はい、水掬樣。わたくしは、玄武に仕えし身。崇拝しております」

「……栗は良くできているな。獣者にも、告げねばならぬ」

 水掬は軽く苦笑すると、もうすぐでやってくる彼らを待つ。待たせてしまったこともさることながら、この小さき姿で星を治めることの困難は計り知れない。それでも急を要する事態なので、少しずつでも動かねばならなかった。民のため、早いところ平らにしなければならない。

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