第二章 遊星玄武

降り立つ

 星間の旅は、非常に短く呆気なかった。魅了するものはあったとはいえ、獣者――特に午の脚では味わうこともない。それよりも新しく火威の意識を引っ張るものは、この気候である。

「さ……、寒いね」

 無意識に口から漏れる。科白(せりふ)は白い息と共に降雪に溶けた。これなら服を着て来て正解だったのだと悟る。宇宙の隙間が暖かかったのは、幸いのことだと火威は知らない。

「遊星玄武は、朱雀と比べて恒星の爆発が少ないですからね。その分、気温も下がります」

「……羊蹄は、あったかそうだね」

 火威は唇を尖らせて、語りかけてきた獣者に抗議する。未の毛は体温を保ち、寒さに弱い蛇結茨を巻き込んでいた。恒星の爆発の意味は分からないが、まずは自分の身体を守ることが先決である。

「暖かいですよ。火威樣も羊蹄の毛に包まりますか?」

「こら、蛇結茨! 我々はそのようなことをしに遊星玄武に来たのではない!」

 冬眠を誘う声色の蛇に、駒草が軽く叱咤する。見れば彼女はすでに人の姿に転変しており、居住まいを正していた。

 降り立ったのは白く切り立った山。所々見える岩肌は黒く、油断すれば滑落するほど磨かれている。吹雪いてはいないが絶えず降り積もる氷のせいで、岩肌が削れているのだろう。火威たちは山に設けられた小屋の、その最後に脚を下ろしていた。

「それでは火威樣、これより先は歩いて参りましょう。いくら朱雀とはいえ、玄武領に獣者で乗り入るのはご法度なのです」

 火威の眼の前には、自然そのままの山にはおよそ似つかわしくない、人工的に作られた長い階段があった。冷気ともつかない霞が棚引き、崖になっている片側を明らかにしないようにしている。さらに頂上に関しても靄(もや)のため確認できなかった。

「これを、登っていくの?」

 不安ながらに火威は問いかける。なにせ産まれたばかりの脚。滑りそうな道のりを行くのは大変危険な旅路である。しかし行かねば、ここまで運んでくれた駒草に申し訳ないだろう。意を決して固唾を飲み込んだ刹那、火威に向かって金切り声が届いた。

「誰だ!?」

 垂直に近い壁面を上から下へと左右に飛び移り、黒と深緑の影が舞う。駒草より小柄な少女は朱雀の前に立つと、腰に佩いた細身の剣を鼻面に向ける。その姿、優雅たるや。頭から生える大きな子(ねずみ)の耳がなければ騎士と見紛うほどである。彼女は、玄武の息が掛かった獣者であった。

「無礼な! 剣を収めよ、鼠刺(ねずみさし)! この御方は朱雀の次代である!」

 対して駒草が、何か小瓶を手に抗議の声を上げる。寒さに弱いはずの蛇結茨が、人の姿で火威の前に滑り込み、棘を構えて威嚇した。羊蹄は後ろに控えて、鞭を振るう体制を取る。

「……朱雀御大(おんたい)! これは飛んだご無礼を! お許しください!」

 しかし鼠刺と呼ばれた少女は、小柄ながらも良く通る大声を発しながら躊躇いもなく跪いた。膝が雪で埋もれることも、湿って凍えることも厭わない。それが正しい獣者の在り方であるのだが、火威にとっては不可解なことだ。

「だ、大丈夫、です」

 初めての敵意に関しても、気付くことなく朱雀は是認する。向こうも玄武を守ろうとしてのこと。きつくは言い付けられない。

「申し訳ございません。実は先刻、玄武の次代が産まれた直後なのです。この鼠刺、名を呼ばれ高揚していたところに領地に気配があり、不逞な輩だと思い込んでしまいました!」

 玄武の次代。つまりは火威と同じ代の、玄武。火威はその神に会いに、この極寒の地にやってきたのだ。

「やはり産まれたか。誕生を祝いに馳せ参じた。と同時に、こちらの朱雀、火威樣の星々の允可にも参ったところだ」

「おお! 火威樣と仰るのですね! 先程のご無礼に、道中お供いたします! お任せください!」

 薄い胸板を張って、鼠刺は立ち上がる。心臓の辺りに右の拳を持って行き、ドンと叩いた。その手には薄い黒手袋。フォレストグリーンのブラウスを過ぎて、手袋と同じ色のベストへと戻ってくる。下は、雪山には不似合いな膝丈で、靴下は穿いているものの軽装には違いなかった。女性、だとは思う。ともすれば少年のような出で立ちで、初対面の人物には混乱を誘うだろう。

 鼠刺は先導者となり、しっかりと雪を踏み分けていた。

「火威樣、もうすぐでございます!」

 彼女の体力は有り余っているようで、ハキハキちょろちょろと動いている。遠くに見える冬鳥でさえ警戒し剣を抜こうとして、あれは害なしと伝えても、眼光を緩めることはなかった。それでも鼠刺の団栗眼(どんぐりまなこ)では、特段怖い印象は見受けられなかったのだが。

 ちなみに蛇結茨は再び巳となり、羊蹄の毛の間に入り込み、暖を取っている。

 最後の一段を登ると、控える二頭の獣者が火威たちを待っていた。

「長旅、ご苦労様でございました。ご足労痛み入ります」

「本日はお目出度い日。誕生当日よりご来訪いただき、感謝いたします」

 どちらもがっしりとした偉丈夫で、亥(いのしし)と丑(うし)の獣者であった。名を猪子槌(いのこづち)と牛莎草(うしくぐ)と言った。恭しく頭を下げている彼らは、すでに人に転変している。つまりはこの二頭も名を呼ばれたのだ。

 正面奥に控える、あの少女に。

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