旅立ち

「それでは火威樣、私の背にしっかりとお掴まりください」

 駒草は午の姿へと戻り、その背に火威を乗せていた。重くないだろうかと心配しながらも、がっしりとした背は意外と頑丈で、逆に自分が振り落とされそうになる。鞍がないのが心もとないが、そういったことはきっとないだろう。何分(なにぶん)初めての経験なので戸惑いも隠せない。

 それでも駒草の鬣(たてがみ)はふわりと柔らかく、安堵を誘った。

「これから参りますは、遊星玄武と申す場所です。宇宙(そら)を舞います」

「空?」

 空とは、あの薄青に光っている空気のことだろうか。この土地には、また別の何かが生きているのだろうか。

「音が消えますが、案ずることはございません。火威樣もご自身の羽根が使えるようになりましたら、ご一緒に飛翔いたしましょう」

「……音が、消える?」

「往(ゆ)けば分かります。常人では越えられぬ壁を、貴方樣と、恩恵を授かった我々は抜けられます。参りましょう」

 言って駒草は前脚を勢いよく振り上げ、ひとつ嘶いた。下ろしたと同時に力強く駆け出し、しばらく助走をつけた後に天空へと向かって跳ね飛ぶ。湿地でぬかるむところもあるだろうが、なかなかどうして見事な脚捌きだった。

「――んん!?」

 重力が、身体に痛い。強力な身体の弾機(バネ)は、そのまま体躯を押し上げ、成層圏へと至った。考えていた空ではない、宇宙(そら)だ。

 耳に圧縮した空気の膜が張ったような感覚を覚え、火威は左手羽で頭を押さえる。その掌が擦れる音すら聞こえなかった。無音とは、得てして恐怖を煽る。しかし駒草は言ったはずだ。案ずることはない、と。

 大気の層を抜け、肺に供給されていたものも皆無になった。息ができない。が、不思議と苦しくはなかった。本来生身の生物が宇宙に投げ出されれば、弁解の余地なく即死だ。身体に酸素が行き届かないだけではない。沸点が下がるので、自身の体温で体液が沸騰する。

 生きながら煮えるのだ。それほどまでに、宇宙は未知で恐ろしい。

 駒草が、ひとつの岩を蹴る。衝撃は伝わるが、やはりこれも音がない。午と幼児の体重より小惑星の比重が重いので、浮いているはずの岩石はほんの少ししか動かなかった。恐らく蹴る石は決まっているのだろう。所々に蹄(ひづめ)の跡が見える。

 向かうは白く光る星。ここには朱雀と対等の神、玄武が住まう。火威の湿地からは見えなかったが、その反対側、北に向かうと水と氷の匂いがする惑星へと辿り着く。大きさは遊星朱雀とほとんど変わらないように見えた。

 左右を見渡すと、右翼に青緑に輝く星と、左翼に金に霞む星が確認できる。

 ――あれは……?

 と口にしようとしたが、真空に掻き消され、それ以上は聞けなかった。




 恒星の爆発は、この惑星ではほとんど見られない。南に位置する遊星朱雀では、数多(あまた)に星が散っているというのに。お蔭で熱が全く行き渡らず、遊星玄武では常に深雪が溜まっていた。

 寒くはない。産まれながらにして身体が慣れている。それでも雪を掻いて玄(くろ)い岩肌を確認しなければ、そこに卵は設えられない。卵殻膜のみに守られた仔は、穏やかに水の中を漂っていた。卵ばかり、丸く巨大に育っていく。

「まだ、産まれないのかね」

 そう、その卵の母親は呟く。雪は声を吸収し、中まで祈りが届いたか確かではなかった。いくら薄い膜とはいえ、中にも水分が詰まっているので外からは良く見えない。辛うじて何か――自身の仔がいることは分かったが、それでも氷深(ひみ)は胸が潰されそうであった。

 初めての仔は、中身がなかった。割ってみればただの溜まり水。無情にも仔を成すものは見当たらなかった。これは二度目の卵。産まれるまでに歳次が掛かり過ぎている。また出来そこないだと言われるのではないか。氷深は自身の玄い肌を抱きながら、仔どもの未来を思いやる。

「お願いだから、あんたは幸せになりな」

 ぽつりと、心の声を漏らす。雪色の髪を、同じ色の雪風がさらった。険しい山々に抜ける突風は、ひゅうひゅうと音を立てて民の住む山野へと下っている。

 ――南の神はまだ産まれないのかね。

 ここで願っても、どうしようもないことを想う。熱気に満ちた土地には一度もヒレを着いたこともないが、初めに斃れたことは獣者から聞いていた。気紛れな神々に翻弄され、斃れた土地から強制的に代替わりが行われる。玄武からも世を狂わせた世代がいるので、こちらも大声で抗議を挙げられることはなかった。しかしほとんどが南か西のせいである。

 世代が変わり始めてからというもの、氷深の元からは次々と僕(しもべ)が去ってゆき、やがて自らの息が掛かった獣者でさえも神力(しんりょく)を尽かして社に帰る。再び戻ってくるのはいつになるだろう。久遠にも等しいと諦めかけた刹那、小さな破裂音がして泡沫(うたかた)が溢れる音がした。

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