君の名は

 同じ時――哢が父に絆(ほだ)されている間に、雛は教えの木から第一歩を踏み出そうとしていた。艶やかで陶器のような脚を、草の指が撫でる。擽(くすぐ)ったそうにクスクスと笑った。

「擽ったい」

 ころころと笑いながら、しばらく感触を楽しんでいたが、やがてそろそろと地面にもみじを降ろした。蹠(あしのうら)で、細かな葉が手折れる音がする。

 風が幼児の頬を撫で、後ろでざわりと葉が鳴った。初めて身体に受ける風に、肩を竦(すく)ませる。次いで鈴のような円い眼を動かし、風の道筋、上部を見遣った。プラムのように瑞々しく蜜を称え、柘榴のように赤々と弾ける。燃えるような瞳が、杏を射抜く。

 ――緋色の、瞳。

 杏は軽く息を呑む。朱雀としての赤は眼に宿した。それも先帝の宣告通りだ。ではこのままでは――いや、あるはずがない。こちらが不安になれば向こうも不安を抱いてしまう。その驚愕は誰にも気付かれることなく、軟風に乗って溶ける。

「……杏?」

 本能で、こちらの正体は分かっていると見えた。そう、杏はアンズの木なのだ。意志を持つ木の声は、幹の内部より響いている。

「はい、杏でございます。火威(かい)樣」

「――」

 名を呼び、主を確認する。火威と呼ばれた朱雀の雛は、何か言おうと嘴(くちばし)を開閉したが、やがてそれは自分の名前なのだと受け取った。記憶ではない。身体に堆積されたものが、流れる血が、王としての振舞いをさせる。先代は呪いも吐いたが、善き名もまた遺してくれた。これが唯一の救いである。

 黒羽の朱雀は初めて見る存在だが、刻まれたものは同じらしい。自らの使命は教えなくともやがて思い出してくれるだろう。統治は簡単でもないが、政治のことは星の民に訊けばいい。そもそも産まれたばかりの仔には右も左も分からないので、しばらくは人民が己の管理をするように任されているのだ。これから気候が安定すれば、星が荒れることは少ない。

「まずは星々からの允可(いんか)を受けるのが宜しいでしょう。ご誕生の直後で恐縮ではございますが、すでに許しを受ける齢(よわい)には達していますので」

「星々の、インカ――?」

 ぽかんと、意味も分からず繰り返す。五歳ほどの体躯で、難しい言葉を必死に理解しょうと試みる。しかし頭にない知識はどう考えても答えは見つからなかった。

「何も難しいものではありません。そろそろ誕生の瑞兆(ずいちょう)を感じて、火威樣の獣者(じゅうしゃ)がやって参ります」

 言われて辺りを見渡すが、獣の気配も人の気配もない。どこからやって来るのだろうと考えていたら、突如上空が翳(かげ)った。木々の影ではない、別のものが通り過ぎる影。

 ――空を翔ぶ、生き物だ。

 火威は空を仰いで、旋回している蟲のようなそれを、真紅の眼で追う。しかし羽根はない。どうして浮いているのか、考察している内にそれらは地に降りてきた。恭しく火威の前に跪いて、一頭の獣が口を開く。

「この度は、転生おめでとうございます。誕生の報せを感じ馳せ参じましたが、ご挨拶が遅れましたこと、誠に申し訳ございません」

 少しの澱みなく人の言葉を発したのは、一頭の午(うま)だった。鬣(たてがみ)から紅鶸(べにひわ)色を垂らした小ぶりの午は、前脚を折って頭を地面に伏せている。脚の根元は真白だ。

 声は甲高いが、凛として澄んでいた。牝馬なのだろうか。火威から見て右側に金糸雀(カナリア)色の巳(へび)、左側に鸚緑(おうりょく)色の未(ひつじ)を携えている。すべてが頭を地に付け、朱雀を王として迎え入れている。火威は迷うように杏を振り返ると、促すように木の葉がさわりと揺れた。それを見て取って、改めて仔は動物に向き直る。

「……大丈夫、です。気にしないで」

「有難きお言葉。わたくしは駒草(こまくさ)と申します」

「駒、草。――あっ」

 名を復唱すると、駒草はぞろぞろと体面を動かし、午から人へと転変する。火威は驚きの声を上げて、一部始終を見守った。

「名をお呼び下さり、有難うございます。これでお力になれましょう」

 現れたのは小柄な若い女性。だが、膝を突いているのは変わらない。いつでも従えるように傅(かしず)いている。そわそわと残り二体の獣も、名を呼んでもらえることを待ち望んでいた。

 巳の名は蛇結茨(じゃけついばら)。未の名は羊蹄(ギシギシ)と言った。

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