熱読みの民、哢(ろう)

 嘴(はし)はひとつ溜息を吐き、いままで哢(ろう)が座っていた場所まで登っていく。梯子はギシギシと撓(しな)り、いまにも瓦解しそうだ。こういうとき、全盛期を過ぎた身体を口惜しく思う。確実に力は弱り、いつ梯子から転げ落ちるかと考えるだけでひやりとした。見た目とは裏腹、頑丈に作ったはずなのでそう近い未来には壊れないだろうが、それでも万が一ということがある。そうなると自分の身体は無事でいられるだろうか、と、己の身長よりたった少し伸びた距離でさえ恐ろしかった。

「よい、しょ」

 冷や冷やしながらも廂(ひさし)に登り切り、温度計を見遣った。確かに昨日に比べ急激な変化が見られる。星々の瞬きはそれほどまでに増えただろうか。ふと思って天空を仰ぐが、乱れは確認できなかった。

 ――そもそもがおかしかったんだけどねぇ。

 悪天候は風の乱れが引き起こすといわれている。どの神が斃れても天気の要である恒星の爆発に、変化が起こることは少ない。それでも荒天となるのは主を失った遊星が泣き叫び、悲しみの声を上げるのだと。この土地に感情があるのかは解明されていないが、近頃は磁気なども関係しているのではないかと調べていたところだ。

 手に取った細い透明なガラス管には、赤い液体が一筋流れている。水位を見ながらバインダーに留めた紙に書き込んだ。約六十月。時が流れた分、データも膨大になる。

 先神、炎麗(えんり)が灰になってから三月(みつき)――一節気――が二十回と、一月が過ぎた。いまごろではあるが、気にせずにはいられない。

 嘴は本日の異常を資料の端に書き込むと、また改めて温度計を見つめた。やはり気温は変わっていない。やはり朱雀が――いや、これだけでは不十分だ。もっと確証を得なければ。

「哢! 悪いが、湿地手前の温度計も見に行ってくれないか?」

 声を上げて息子を呼ぶ。奥で氷室(ひむろ)が閉まる音がした。そう言えば朝食がまだだった。

「あほ親父! 飯くらい食わせろ!」

 不服そうに哢が吠える。しかしこれは急を要する案件だ。少し申し訳なく思ったが、哢に走ってもらわねば自分では昼飯も間に合うか怪しい。

「……だったら朝は父さんが買ってくるから! それなら哢が戻ってくる前に用意できるだろ?」

「むむ……」

 男二人では、毎日の食事の種類に乏しい。それにそもそも手持ちが少ないものだから贅沢はできず、料理と呼べるものにありつける機会は少なかった。買い物に行くには街へ出る必要があるが、朱雀の領地の湿地への距離とは比べものにならない。それでも父が戻る前に行って帰る自信があった。哢は手に持った、瓶のトマトジュースを勢いよく飲み干すと、父に吐き棄てる。

「鳳凰堂(ほうおうどう)の枝豆とカボチャのサンドじゃないと納得いかないね」

「あー、……分かった! 分かったよ、行ってくるから!」

「よし! じゃあ一っ走り行ってきてやるよ! あ――」

 哢を鼓舞するために、少し高いが了承した。鳳凰堂は街きっての名店で、その味は保証されている。この星の名産の、かつ良いところばかりを使っているのだ。メモだけ引(ひ)っ手繰(たく)って玄関を出た哢は、去り際に小さく声を上げた。廂にいる父を少し振り返り、見つける。

「鮎の塩焼きも追加ね!」

 答えは聞かず哢は走り出す。珍しい出来事は重なるもので、きっとその要望も受け入れてくれるだろう。朱雀が転生したなら歴史家としての仕事も舞い込んでくるはずなので、その分の穴埋めも恐らくできると踏んでいる。父ならそう考えているはずだ。

 父親譲りの緑がかった髪は透き通る若草色。瞳は母から譲り受けた紺碧だった。肩下まで伸びた髪を揺らしながら、緩やかな丘を駆け上がる。これまでの荒れた天候のせいか、草が伸びず地肌が見えていた箇所が多かったが湿地に行くにつれて、だんだんと青々とした草花が見られるようになった。気付けば膝丈まで生える草原に差し掛かり、哢は速度を落とす。

 ――しまったな。面倒だ。

 哢は頭を掻いたが、しかしこれを乗り越えれば鳳凰堂のご馳走が待っている。鳴く腹を押さえて、もう少しの辛抱だと言い聞かせ、再度足を踏み出した。人の行き来が途絶えてから八節気ほどは経っていると思われた。哢にも、自分たち以外の最近の往来は記憶にない。

 植物の匂いが濃くなる。草の根を掻き分けて進んでいくと、ようやく湿地帯が見えてきた。小高い丘に囲まれた、落ち窪んだ場所にその湿地はある。湿地の手前に林があり、その黒く細い木の一本にガラス管は巻かれてあった。雨風に晒され土埃が付いているが、何とか中身は無事なようだ。記録のためペンを手に取ったその刹那、手前の茂みが鳴った。

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