第5話 残響

17時。終業時間になり、水鏡さんは「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」と言って足早に帰っていった。


彼女の業務態度は至って真面目で説明した事はきちんとメモを取る、慣れればすぐにでも戦力になってくれる人材だった。


……なんであんな子が派遣で来たんだろう?

不思議に思いつつも、僕は業務の遅れを取り戻すために残業をする。


……彼女は派遣で僕は社員。嗚呼、哀れな社畜。

職がある事にありがたみを感じつつ、定時で帰れない事を嘆く。


夢に見た大人とは違う生き方をしながらも、それを羨むだけで何もしない自分がいた。


渋々パソコンと格闘をしていると、雪吹さんが業務を終え帰り支度を始めていた。


……帰れるのか、羨ましいな。

僕が残業をする羽目になった原因を羨む。


まぁ、羨んだところで彼女もよく残業をしているので責める事は出来ないし、いずれは僕にも新人教育の役回りが回ってくる事はわかっていた。

だから諦めながら残った仕事を始める。


すると雪吹さんが僕のところへ歩いてくる。


「片桐君、お疲れ様。先に帰るけど、ごめんね。」


「お疲れ様です。いえ、自分も雪吹さんの役回りが回ってきたって思えばやる気も出ますよ。」

などと先程とは思っていた事と違う社交辞令を口にする。


「ありがとう……。あ、そういえば、あの子どうだった?」

少し恥ずかしそうに俯きながら、雪吹さん水鏡さんのことを尋ねてくる。


「あの子?……ああ水鏡さんですか。真面目でいい方だとおもいますよ?慣れれば即戦力になってくれそうな気がします。」

俺が水鏡さんの人物像を伝えると、雪吹さんは嬉しそうな顔でこちらを見てきたかと思うと、すぐに表情を曇らせる。


「そっか、ありがとう。長続きしてくれるといいのだけど……。」


「なんか懸念があるんですか?」


「えっ、あ、うん……何でもない。じゃあ、頑張ってね。また明日……。」

心配そうな表情浮かべた彼女にその真意尋ねると、雪吹さんは元気なさげな声で顔を振って帰路へと着いていった。


その様子を不思議に思いつつ、僕は残り作業を再開する。あたりは既に暗くなっていて僕の直上にある蛍光灯だけが煌々と光る。


残業を初めて2時間、ようやく一区切りがついた為帰路へとつく。


会社を出ると空は雨模様だった。


「うわぁ……、また雨かぁ〜。」

鬱陶しい気分で雨の中を歩いて帰っていく。


いつものように駅までの道を歩いていると、先日に聴いたピアノの調べが街中に響き渡る。


その音のありかがどこにあるかはもう分かりきっていた。この前の歩道橋の下でやってるんだろう。


前日と同じルートで音のする方を目指して歩いていくと、案の定、名前も知らない誰かが電子ピアノで弾き語りを行なっていた。


それを先日と同じように百貨店の壁にもたれながら聞いた。今日もどうやら僕一人しかいない。


雨の中、僕一人のためのソロライブが始まる。


流行りの歌からマイナーな曲までを順に歌っていく彼女の声は透き通った綺麗な声で、ピアノも上手かった。そして見た目も美しいのだ。


……いずれはメジャーになってもおかしくないな。


数多くデビューしていった後輩達を見てきたが、彼女はそいつらと同じように夜の雨の中でもキラキラと輝いていた。


そんな彼女の曲が終わり、周囲を見回した。

すると僕と目が合い、「あっ……。」と彼女は声を上げる。


先日も聞いていた事に気づいたのか、彼女は顔を赤く染め上げる。


おそらく彼女は緊張しいなのだ。


そんな事を考える俺も彼女の前で泣き顔を晒す失態を犯してしまった訳で、彼女に顔を見せるのは恥ずかしかったが、それ以上に彼女の歌が気になっていたのだ。


すると、彼女は最後の歌だと言ってピアノを弾き始める。


その音色はどこかで聞いたことのある曲だった。

それもそのはず……その曲は僕が最後に作った曲だったのだ。


その事に驚いた僕は手にしていたバックを落とす。

認められていないと思っていたものが時を超え、場所を変え、見知らぬ誰かによって歌われている事に喜びを覚える。


……と、ともにある言葉か僕の脳内にリフレインする。


『あんたには音楽の才能なんてないのよ……。』

その一言が頭から離れずにいると、彼女の歌が終わる。


拍手もできずに過去に囚われたまま、ただ呆然と立ち尽くしていると、目の前にいた彼女が立ち上がりこちらに近づいてくる。


「あの、ありがとうございます……。」


「い、いや。素晴らしい演奏だったからついつい拍手を忘れてしまいました。」

声を掛けられたことに驚き、社交辞令のような言葉を投げかける。


すると彼女はクスリと笑う。

その顔が自動車のライトに照らされて浮かび上がった表情にドキッとする。


絶世の美女……と言っても差し支えないほどの柔らかい笑顔が僕の鼓動を早くする。こんな感覚は久しぶりだった。


「……あの、何かついていますか?」

笑われた事に恥ずかしく思ってしまった僕は誤魔化すように尋ねる。


「いえ、この前も来ていただいた時もそんな顔をしておられたのでつい……。」

と言われて僕は真っ赤になる。

雨のせいなのか、最近感傷に浸ることが増えてしまった。


「この前の事も覚えていたんですね。」


「はい、初めて立ち止まって歌を聞いてくださった方でしたからよく覚えています。今日も来てくださって嬉しかったです。」

照れ隠しでこの前の事を聞くと、彼女は照れ臭そうにうなづく。


「そうだったんですか?けど、なぜ雨の日に歌われているんですか?」

そう尋ねると彼女は恥ずかしそうにしながらこちらを見つめる。


「この前初めて路上で歌ったんですけど、人に見られるのが恥ずかしくて……。」


彼女の言葉に共感を覚える。


僕が路上ライブを始めた時のことを思い出す。

不安、批判、無関心と言ったものと戦うのは勇気がいることだった。


それをあの当時の僕は仲間たちと乗り切った。

だが、彼女は一人で不安と戦おうとしているのだ。


その決意たるや当時の僕とは比べものにならない筈だ。


応援したくなる気持ちが生じるが、今の僕に何ができる訳でもない。なので彼女の奏でる音をただ聞くだけしかできないのだ。


「けど、まさか初めて聞いてくれた方が片桐さんだったなんてびっくりしました。」


「えっ?」

僕が驚きの声を上げると彼女は可愛らしい姿で首を横に捻っていた……。

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