第3話 深海

週末、僕は自宅から一歩たりとも出ることなく過ごした。

最近は特に用事がなければ自宅から出ることなく引きこもり生活を送る。


この年になると休日に誰かと遊ぶこともない。

同年代の友人も所帯を持ち、休日は家族サービスをしなければならずに、僕みたいな独身貴族に付き合っている余裕はない。


かという僕も、誰かを誘ってまでどこかに行こうという気はない。

なので結局は外出することはなく引きこもり生活を送る事になる。


この日は週明けからの教育係のことを思い出し、脳裏に不安がよぎり何かをしようにも集中できなかった。


僕自身が人見知りということが一番の原因だった。

部内の人間とはちゃんとコミュニケーションは取れるようになってはいるが、その他の部署の人と話すのは苦手。


その上に新人ともなるとプレッシャーがかかり、ますます会話ができないかもしれない。


……不安だ。


不安をなくすため、僕は部屋の片隅に置いてあるベースに手を伸ばす。

チューニングをして、ゆっくりと指を慣らしていく。


そして一曲、また一曲と弦を弾く。


現役時代のような激しいリズムを出すことは今の僕には出来なくなっているが、それでもベースの野太い音を出すたびに僕は音にのめり込んむ。

時間も忘れて、ベースは僕の思う音を発していた。



ふと気がつくと、外は雨が降っていた。

雨音に気がついた僕は雨音に耳をすませる。


サーサーといった優しい音を発しながら降り続く雨の音を聞くと先日の路上ライブをする女性の姿が浮かんでくる。


彼女の優しい歌声ににても似つかない激しいタッチのピアノ。そしてベースというピースが足りないあの曲を僕は気がつかないうちに弾いていた。


5年前に封印した僕のオリジナルソングを、深海に飲まれるように弾き続けた。



週も明け、月曜日。

僕は緊張しながら地下鉄で会社へと向かう。


別に僕が初出勤するわけじゃない。

ただただ新人を教えなければならないという不安が足を重くする。


そんな憂鬱をかき消すようにBluetoothのイヤホンを耳につけ、爆音で曲を流す。

不安や迷い、感情を音の海に沈めるように好きな音楽をただただ流し続けた。


地下鉄を降りた僕は、いつもと変わらない駅の風景をぼーっと見ながら改札を抜ける。いつものように人の雑踏が忙しなく往来する。


人混みが煩わしく思えたが、今はなにも考えない。

考えるのは仕事が始まってからだ。


停止させた思考で歩く僕の肩に誰かがぶつかる。

その衝撃で、僕の耳につけていたイヤホンが耳から外れ、地面に転がっていく。


「「あっ」」

僕は転がっていくイヤホンを視線で追いかける。


イヤホンは転がった先で止まり、足早に進んでいく通行人の足でぐしゃりと潰されてしまった。


……あ〜あ、壊れた。


潰されたイヤホンを見て僕は心の中で人ごとのように思う。

別に高価なものではないから壊れても惜しいものではない。

ただ、音楽が聴けないことが残念だった。


「すいません、壊してしまいました。」

不意に僕に女性が声をかけてきた。


その声の持ち主の方に僕は視線を移す。

そこには長い黒髪に丸ぶちの眼鏡、そしてリクルートスーツを着た女性が申し訳なさそうに立っていた。


「いえ、僕もぼーっとしていたので……。すいません。」

僕も女性に謝りながら、僕も日本人だな、なにもしていないのに謝るなんて……と思う。


「あの……、イヤホン弁償させてください。」


「いや、大丈夫ですよ、安物ですし。もう買い換えようと思っていたところなんで……。」

僕が彼女の申し出を固辞すると、彼女は焦り出す。


「いや、私の不注意で壊してしまったものなので、弁償させてください。お願いします!!」

固辞する僕を引き止めるように彼女は懇願してくるので、煩わしくなった。


「じゃあ、あそこのコンビニでコーヒーを奢ってください。僕もぼーっとしていたのでお互い様ですから、それでチャラにしましょう。」

正直なところ、これ以上彼女に時間を取られるのは無駄だ。

早く出勤してしまいたいところだった。


僕の申し出に彼女は驚いたような表情を浮かべたが、なにも言わずにコンビニまで行くと缶コーヒーを買ってきて、僕に差し出す。


「ありがとうございます。じゃあ、これでチャラで……。」


「いえ、それじゃあ私の気が済みません。あの、連絡先を教えてください。後日別のもの形でお詫びをしますので。」

僕がそういうと、彼女は頷くことはなく食い下がってきた。


「これで充分ですよ。じゃあ……。」

僕は彼女の手から缶コーヒーを受け取ると、彼女の提案を無視するように彼女の横を通り過ぎて会社の方へ向かって歩いていく。


彼女もこれ以上は食い下がることなく歩き去っていく僕の後ろ姿をただ見ているようで、その視線だけが僕の背中に刺さっているのが分かった。



会社に着いた僕は自分の席に着くと、「ふう……。」と一息ついて、今朝出会った女性にもらった缶コーヒーのタブを開ける。


……こんな出会いを無視しているから万年独身なんだろうなぁ〜。

僕は缶コーヒーを口にしながらひとり自嘲する。


そして、視線を雪吹さんの席の方に視線を移す。


いつもならばすでに席で業務の準備をしている彼女が今日に限っていまだに席にいない事に違和感を覚えながら、僕も始業に向けて準備を始める。


手元にあるパソコンの電源を入れ、周囲に筆記用具や付箋といった自分の業務スタイルを整えていく。


すると、事務所の扉がゆっくりと開く。

雪吹さんが出勤してきたのだ。


彼女は他の社員たちに挨拶をしながら、僕の方へと近づいてくる。

彼女の席は僕の席とは反対の方向にあり、どう考えても遠回りだった。


「おはよう!!片桐くん。」

僕の顔を見ると、雪吹さんは元気よく挨拶をしてきた。


「おはようございます。珍しいですね、始業ギリギリに出勤なんて。」


「うん、ちょっと今日は用があって遅くなったのよ。それより、今日からだね、新人が来るの。」

その表情はどこか楽しそうで、僕は「はぁ……。」とため息をつく。


「今日からですよ。週末は憂鬱で気が気じゃなかったですよ。」

僕が教育係の件を愚痴ると、雪吹さんはニチャ〜と言わんがばかりの笑顔でこちらを見ていた。


「大丈夫だよ、君なら。ちゃんと教えられるって!!」

僕の愚痴に彼女はいつも励ましてくれる。


不安な時、自信の無い時など僕が新人の時から彼女は背中を押してくれる。

その事がどれだけ心強かったか、彼女に感謝しても足りないくらいだ。


「それに、新人ちゃんもいい子だから。」

雪吹さんは優しい笑顔で僕を見ていう。


その笑顔はどこか母親のような母性を思わせるような顔だった。

だが、その表情にはどこか違和感がある。


「雪吹さん、その新人と知り合いだったりします?」


「さぁね〜?じゃ、しっかりやりたまえ、先輩!!」

彼女は何かはぐらかすように僕の背中を軽く叩いて自分の席へと向かっていく。

その行動に訝しみながらも、僕は新人の出勤してくるのを待った。


始業時間が訪れ僕が業務をしていると、上司が入ってきた。

その後ろに女性の姿が見える。

そして、上司とともに僕たちの席の前に立つと、上司は口を開く。


「今日から働いてもらう事になった鏡さんだ。仲良くしてやってくれ。」

上司の紹介の後、彼女は一歩前へと進む。


その姿を見て、僕は目を丸くする。

彼女は、今朝ぶつかった女性だった。


「水鏡音愛です。よろしくお願いします……。」

言葉数少なく彼女はいうと、ゆっくりお辞儀をする。


「そして君の教育係は片桐くんだ。彼の隣が空いているからそこが君の席になる。片桐!!」

そして上司が何かを言い終わると、上司は僕の名前を口にする。


「はいっ!!」

二度と関わることはないと思っていた彼女を見て呆然としていた僕は不意に名前を呼ばれて跳ね上がるように席から立ち上がる。


彼女も僕の様子を見て驚いたような表情をしていた。


……運命の悪戯なら、やめて欲しい。

僕はそう思いながら、彼女のそばへと向かっていった。


その様子を雪吹さんはどこか不機嫌そうに見つめていたが、僕にはその理由はわからなかった。








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