緋に墜ちる
オレは、空っぽの人間だ。
幼い頃から、人間の喜怒哀楽が理解出来なかった。
テキトーに周囲に合わせて、笑ったり泣いたり。
どれだけそれらしい行動をしてみても、自分の内側から感情が湧いてくることは殆ど無い。
多くの人の「感情の機微」とやらを眺めながら、いつも感心していたものだ。
何万、何億とありそうな、事実と感情の結びつきパターンを、多くの人は当たり前の様に表出している。
器用なもんだ、と、思う。
昔、「上手く生きられないの。」と嘆いた女が居た。
しかし、「嘆く」というさして意味のない行為を心の底から出来るだけでも、人間として上々なのではないだろうか?
オマケに、空腹も、眠気も、性欲も。
殆ど、感じたことがない。
食べ物があるから食べ、夜になったから眠り、女が「抱いて」と言うから抱く。
たったそれだけ。そこには、渇きもなければ、満たされた感覚もない。
特別優れた才能がある訳でも、飛び抜けて容姿が良い訳でもない。
若さと、時間と、ブリーチし過ぎてボロボロになった髪を持て余して。
どこにでもいる凡人だった。
でも、それ以上にもそれ以下にも成れないことを、知っていた。
オレにとっての世界は、常に灰色で。
その世界を眺めながら、酸素を二酸化炭素に変える為だけに息をしている。
いつも通りの夜。
いつも通りの、バイトの帰り道。
どこか生温い風が、頬を撫でる。
足元にあった小石を、蹴った。
蹴った小石が、側溝の隙間に落ちる。
友達との飲み会やお喋りさえも「ネット上」で済ませられる今、わざわざ夜中に出歩く人は少ない。
小石の、落ちる音。
履き古したスニーカーが奏でる、自分の足音。
夜風が揺らす、梢の音。
モノクロの世界の中で、自分だけが取り残されたような気持ちだった。
突然。
何処かから不穏な声が聞こえて、足を止める。
聞いた事の無い様な、切羽詰まった声。
言い争っているのだろうか?
声の主は、男と女が1人ずつ。
男の方はよく判らないが、女の声は若い。
痴情の縺れ、と片付けるには、少々荒っぽすぎる声だ。
内容は聞き取れないが、普段の生活ではとても耳にしない様な、不穏な音。
バイト先で聞くクレームの怒鳴り声も、別れ話中の女の金切り声も。
この音に比べればただの雑音だとさえ、思える。
まるで命の危機でも迫っているかの様な、必死の声という音。
バタバタと、2人分の足音もする。
どうやら走りながら言い争っているらしい。
不謹慎かもしれない。
でも、正直に言って。
胸が、高鳴るのを感じた。
其処にあるのは、非日常だ。
ストーカーか、通り魔か、はたまた別の何かか。
判らないが、明らかに尋常じゃない。犯罪の香さえする。
とにかく、普段の日常ではお目にかかれない様な何かが、繰り広げられている予感がした。
灰色の世界に、飽き飽きしていた。
何処かの誰かが、刺激をくれるのを、待っていた。
止めた方が良いという本能の忠告を無視して。
自分の足は、声の方向に向かう。
多分、近くの公園の方。
入り組んだ路地の先にある公園は、昼間でも人気が少ない。
夜ならなおの事、誰もいないだろう。
見てみたい、という好奇心と。
ヒーローに成れるかもしれない、という願望と。
危険というのは、常に刺激的で。
犯罪の香りは、危険なスパイスだ。
もし女性が襲われているなら、助ければヒーローになれるかもしれない。
あり得ないと分っていても期待してしまう自分は、確かに凡人で。
そんなくだらない事を欲していた自分に、少しだけ自嘲して。
でも、それで良かった。
怖いとは、思わなかった。
生まれてこの方、恐怖等という鮮烈な色彩には、出会ったことがない。
ただ、求めていた「刺激」に出会える気がして、走った。
これが、間違いなく。
オレが開いた、非日常の扉だった。
公園に着くと。
予想通りに、2人分の人影が見えた。
腰を抜かしたらしい人影が、地面を這いながら逃げようと足掻く。
そこから5mくらい離れた所に、もう1人の影が、仁王立ちしていた。
きっと、女性が襲われているのだろう。
事情はともかくとして。とりあえず、女性を庇わなくては。
そう考えながら走っていた自分の予想は、見事に裏切られることになる。
暗かったはずの世界を、急に、月明かりが照らし出す。
今日はどうやら、満月だったらしい。
明るくなった視界に移るのは、予想外の光景だった。
「ひぃっ。や、止めてくれ、助けてくれ。」
腰を抜かしたまま後退りしているのは、50代くらいの男性。
その前に仁王立ちしているのは、若い女性だった。
後ろ姿だけでも判るスタイルの良さと、公園の外灯に照らされた艶やかな金髪。
それが黒のトレンチコートの背中を流れながら、月明かりを弾く。
金髪なんて珍しくもないのに、初めて見た様な気にさえなる。
自分の痛み切った銀髪を思い出して、場違いながらも、つい見惚れていた。
そして、その女性は、刀を持っていた。
まるで、当然の様に。
まるで、自分の一部であるかの様に。
しかし、その刀は。
やけに「現実味」がなかった。
周囲の景色から、浮いて見える。
解像度の違う写真を無理矢理合成した様な、不自然さ。
あれは「何」だろうか?
上手く、表現出来ない。
でも、それが当然の様であるが故に、あまりに異様だった。
悲鳴を上げるなり、逃げるなりすべきだ。
だって、明らかにおかしい。
何故、刀なんて持っているのだ。
これは、殺人現場かもしれない。
目撃者は、消される可能性が高い。
でも、魅入られたように、全身が動かなかった。
妙に、美しいのだ。
その女性も、持っている刀も。
灰色以外の、色彩を求めていた。
それが、コレなのだろうか。
胸が高鳴る。
冷や汗が噴き出る。
あまりに非現実的過ぎて、頭がイカれてしまったのだろうか。
「お、俺に何の恨みがあるって言うんだ!?」
腰を抜かしたままの、男が叫ぶ。
どこにでもいる様なサラリーマン風の男。
どこか、バイト先の店長に似ている気がした。
顔面蒼白で、スーツも乱れ切って。
それでもなお、必死に叫んでいる。
「そもそも、お前は誰だ?こんなことされる覚えはないぞ!!」
「ふざけるな!なめやがって!!」
窮鼠猫を嚙む、と言ったところなのだろうか。
必死の命乞いが、いつの間にか攻撃的な口調に変わっている。
次から次へと色々喚いてはいるが、聞き取れない。
それ位に、意味のない叫び。
男の声は、死の恐怖に慄いている事を除いて、どこでも聞ける様なモノだ。
いつも通り。
金太郎飴みたいな、凡人の声。
どこにでもいる様な、ありふれた男と。
どこを探してもいない様な、非現実的な女と。
それが、あまりに神々しい光景に見えて。
美しい宗教画に、魅入られたみたい。
固唾をのんで、見守っていた。
「五月蠅い男ねぇ。」
初めて、女の声を聞く。
高いと言えばいいのか、低いと言えばいいのか。
判断力の落ちた頭では、どうにも思考が及ばない。
ただ冷たくて、それでいて妙に愉し気な、声。
聞いた事の無い声だ。
人間の声なんて、誰でも同じだと思っていたのに。
鈴の音の様な、楽の音の様な。
声と言うよりは「音色」に近い。
「あたしは貴方に恨みはないわ。ここにいるのは、お金を貰ったから。」
そう言いながら、女は、一歩一歩と間合いを詰めていく。
黒いエナメルのピンヒールの音が、公園の舗装を叩いて、響く。
男が喚く声が、どんどん大きくなっていく。
「『こんなことをされる覚え』については、自分の胸とやらにでも聞いてちょうだい。」
女が、刀を握り直した。
刀紋が、月光を弾いて。
妖しく、そして美しく輝く。
「あ、因みに。あたしの名前は凛火よ。」
刹那。
ぶわりと、強い風が吹く。
凛火と名乗った女性の髪が煽られて、輝く。
そして、そのまま。
まるで、先程から気が付いていたかの様に、こちらを見た。
その瞳は。
炎の様に、赤かった。
金の髪も、赤の眼も。
今時、さして珍しくもない。
カラーリングとカラコンと。
一昔前は「派手」と言われたであろうソレも、今ではただのお洒落の一環だ。
誰でもやっているし、特別綺麗だと思ったこともなかった。
だから、魅入られる理由なんて、無い筈なのに。
髪も、眼も。
今まで見たどんなものより、美しい。
特に、瞳の赤は、本当に炎みたいだった。
触れれば火傷しそうな、それでいて全部を浄化してくれそうな、あか。
あか。赤。紅。緋。
そんな、炎の赤が。
まるで、風に煽られたかの様に煌めいて。
紅色に染まった唇が、まるで三日月の様に弧を描く。
そして、その女性は。
改めて男に向き合い、刀を振り翳した。
「それじゃ、地獄で会いましょう。」
一切の躊躇いなく、刀が振り下ろされる。
悲鳴も、出なかった。
ただただ。
まるで、神の舞でも見ているかの様に。
呆然としたまま、見惚れていた。
「あ…。」
自分の喉が、久しぶりに鳴る。
血しぶきが上がるかと、思った。
しかし何故か、全く上がらない。
それどころか、女が持っていたはずの刀は消え、斬り付けられたはずの男は意識を失っているだけ。
悲鳴すらも聞こえなかった。
どういう事だろうか?
そんな当然の疑問も、オーバーヒートした頭では、全く処理出来ない。
張りつめていた空気が、緩む。
夜風の冷たさを、久しぶりに思い出す。
我に返った頭が、唐突に「逃げろ。」と告げた。
当たり前だ。
自分は今、明らかに、見てはいけないものを見た。
判らないことだらけではあるが、兎にも角にも逃げなければ。
目撃者は、消される。
そもそもあの女性は、こちらの存在には気が付いている。
この世界に飽き飽きして。
生きていても死んでいても良いと思っていた筈なのに。
いざとなると、生存本能が全力で死を恐怖する。
今すぐにでも、走り出すべきなのに。
それでも。
緋色に魅入られた身体は、動かなかった。
「さてさて。」
妙に間の抜けた高い声が、夜の公園に響く。
やっぱり、鈴の鳴るような声だ。
綺麗だけれど、どこか人間味がない。
「初めましてだね。」
再び女が、こちらを振り返る。
先程真っ赤に見えた瞳は、いつの間にか落ち着いたレッドブラウンになっていた。
「さっきも言った通り、私の名前は凛火。神喰凛火。」
そう言って、女は笑う。
笑った顔が、妙に艶めかしく、似合っている。
よく見るととても整った顔は、笑うとさらに美しかった。
女が、一歩一歩、近づいてくる。
ピンヒールの音が響くのを聞きながら、よくその靴で走っていたなぁなんて、場違いなことを思った。
「のぞき見は、感心しないわよ。」
敵意や殺意は、感じない。
でも、全く意図が読めない。
いつの間にか、自分の真ん前まで来ていた女が、小首を傾げる。
一瞬、何かに驚いたような顔をして、立ち止まった。
でもそれは、一瞬の事。
突然、身体を寄せてきて。
先程、刀を振り翳していた手を首に回してきた。
妙に色っぽくて。
それでいてどこか、神々しい。
そのまま自分の唇に寄せられた紅い唇からも、何故か目が離せなかった。
「貴方は、だあれ?」
キスする寸前、紅い唇が、嗤う様に囁く。
求めていた色彩が、目の前にあった。
でも、それは。
明らかに、此方の世界のモノではなかった。
緋に墜ちる
(恋に墜ちるのにも似た)
極彩色の偏見 雨月夜 @imber
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