ネットマナーを懐古するエッセイ
牛盛空蔵
ネットマナーを懐古するエッセイ
かつて、ネットマナー、別名をネチケットという決まりごとがあった。
個人ホームページ全盛期に現れたそれは、混沌としたネットに秩序を与えるかに見えた。
……しかし、その打倒を目指して立ち上がった、自由と公正の主張者たちがいた。
いわく、ネットマナーとやらの行き着く先は、マナーという名の不条理による支配でしかない、と。
その大きな戦争は、ずっと昔で、意外と近い時代の伝説だった。
さて、ネットマナー、ネチケットについて語りたくなったので書きます。
上記の通り、これに関する紛争が盛んだったのは、「個人ホームページ」が台頭していたころです。SNSもまだ目立っておらず、動画サイトや、果てにはブログの時代よりも一つ前の世代です。
これ以上、個人ホームページについて説明するのは難しいのですが、次にお話しするネットマナーの内容を追っていけば自然に理解できると思います……思いませんか? ちょっと不安だな……。
で、本題として、あの懐かしくも暴君じみたネットマナーの内容を説明していきます。
まず、このルールの集合体にはマナーという名がついてはいますが、実態は理不尽の塊でした――という主張が、最終的に勝利というか、敵の消滅に成功した反ネットマナー派によってなされました。
具体的に内容を見ると、特に批判された要素として
・無断リンク禁止
・ブックマークはサイトのトップページへ
・キリ番は必ず報告し、踏み逃げを禁止する
これらがあります。以下、一つずつ説明します。
・無断リンク禁止
なんだこれ? と思った方も多いでしょう。
ツイッターでいえば「無断での引用RT禁止」「無断リプ禁止」あたりが近いでしょうか。今からでは想像もつかない概念です。
なんでこんなマナーが主張されたのか。背景は一応あります。
当時、リンクといえば、まだ友人同士ですとか、交流のあるサイト管理人同士の絆の形としてするものという意識がありました。たぶん。
一方、評論系の界隈では、批判を書く相手の主張を、観衆にもわからせるため、その一次資料というかソースにアクセスできるように、リンクを打つのが当然の行為でした。
このリンクにつき許可を要するとなると、……そうです、批判がしにくくなります。
批判をするためには、ソースを確かめるのが必須、もはやむしろ礼儀です。ソースもないのに行う批判は、藁人形論法とか先入観に基づく批判にもなりかねないのです。
同時に、閲覧者がそのソースにたどり着けないとなれば、批判は勢いを失い、実効性を欠くことになります。
すなわち批判を間接的に妨害しかねないマナー。
当然ながら、最終的に無断リンク禁止派は駆逐されることとなりました。批判の封殺は、当時においてもよくないものでしたし、法的にも禁止する根拠、権限を欠いていたからです。
・ブックマークはサイトのトップページへ
これも一応の理由があります。
当時の個人ホームページは、トップページに訪問者カウンターを置いていました。そしてその回り具合、訪問者の多さが一種のステイタスになっていました。
ところが、ブックマークがサイトの各コンテンツに繋がっていると、訪問者がいるのにカウンターが回らず、真の訪問者数を把握できないことになってしまいます。
……もちろん、評論系のネット民にとっては、そこまでしてカウンターの勢いに配慮してやる必要はない、という意識が大半でした。そもそもブックマークはダイレクトに必要なコンテンツに飛ぶためのものですからね。
そして、この論争に拍車をかけたのが、「ホームページはいわば家なのだから、玄関――つまりトップページから入るのがマナーだ」という、反対者からみれば奇妙な主張です。
自由派からみれば、ホームページは各部分が各々世界中に公開されているものであり、家に例えるのが間違っている。至極もっともな反論です。
やはり最終的には自由派が勝利……というより、律儀に「玄関」にブクマを打つ人が自然に減っていきました。
ちなみに、ご存知の通り、後の世のブログ、動画サイト、小説投稿サイトなどになると、わざわざトップページに類するページをいちいち経由するほうが手間になりましたね。
・キリ番は必ず報告し、踏み逃げを禁止する
なぜこれがマナーになったのか、明確な理由はありません。あるのかもしれませんが、私には理解できません。
しいて言えば、各管理人が常連さんとの絆の確認をしたかったから……なのでしょうか?
キリ番とは、前述のカウンターにおいて、777番、1000番などのキリのいい番号を踏むことを言います。踏んだ人がこれを管理人に報告するのが通例とされていました。
それを報告しなければならない、というマナー。たまたま踏んでいってしまった新規の方は、報告がないと、場合によっては管理人にひどく非難されたようです。
善意の報告がいつしか義務じみたものと化し、管理人によるさらし上げなどの制裁を伴うに至った……こればかりはもはやマナーの暴走ともいえるでしょう。
これらのネットマナーは、主張者たちが自由派にじわじわ追い詰められ、やがて力を失い、廃れていきました。
なにせ自由派は基本的に法律、またはその趣旨による自由を唱えていました。マナーにはさすがに、法律を押しのける力はないのです。敗北は最初から決まっていて、ただ一時の流行に過ぎなかったのかもしれません。
と書きましたが、表現方法の変化も大きいのではないかと私は考えております。
上でもチラッと書きましたが、個人サイトからブログへ、そしてSNS、動画サイト、投稿サイト……この進化を経ていくうえで、リンク、ブックマーク、ビューカウンター等は複雑に変容し、従来のマナーが物理的、構造的に無意味になった、あるいは通用しなくなったという面もあるのではないか、そう思っています。
もっとも、ブログ台頭の時点でネットマナーはすでに息をしていませんでしたから、こういう話でもないですね、うん、違いますね。ハハッ!
いま、議論の余地のあるネットマナーといえば、せいぜいF外失とかその程度でしょう。他にも問題行動はありますが、是非を議論するようなものではなく、明確にそれは迷惑や害悪であると言い切れるものがほとんどです。
ネットマナー議論は死んだ。ある意味悲しいことです。
たまには、かつてのネットマナー議論を思い出して、または少しでもいいので言及してあげてください。リアタイ世代でなくても構いません。
そうすれば、あの時代に自由を唱えた論者たちも、少しは喜ぶことでしょう。私とか。
ネットマナーを懐古するエッセイ 牛盛空蔵 @ngenzou
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