ちっぽけな悩み

あれから3日後、真希はまだ気持ちの整理がつかずにいた。


行く場所もなく、家にいても仕方なく、昼過ぎに散歩に出ることにした。道中の河川敷に座り、日光が反射する河を眺めながら3日前のことや、これからどうしていくかなど、深く考え込んでいた。


だから、背後の黒い影にも気が付かなかった。


「こんにちは」


突然の声に真希は一瞬身構えたが、どこかで聞いたことのある澄んだ声であることに気が付いた。


「あっ、氣楽ちゃん」


相変わらずの無表情で真希を見下ろしている。この前は屋内であまり目立たなかったが、日の光の下の少女は透き通るような真っ白な肌をしているのが分かった。


「こんな所で何してるんです?」


そう問いながら真希の隣に来て体育座りし、同じように河を眺めた。


「……色々考え事してたの。この間のことがまだイマイチ整理つかなくて。今年大学卒業してこれから頑張るぞって時期なのにこんなことに巻き込まれるし。次の就職先考えなきゃいけないのに、この先どうなっちゃうんだろうって不安が先立って踏み出せないでいるの」


「そうですか」


氣楽が返したのはその一言だけだった。もっと包容力のある言葉を返してくれることを少し期待していたばかりに拍子抜けした。


だが、素っ気ない言葉で返した氣楽はどこか寂しそうに見えた。


すると、河の方を向いたままの氣楽は少し背筋を丸めて顔の半分を腕に埋めて静かに言った。


「……実は私、人としての感情ってモノがないんですよね。だから、真希さんの悩みに同情したり共有したりってことが出来なくて。相談相手にならず申し訳ありません」


淡々とした突然の告白に、動揺を隠せずに何も返答出来ずにいた。氣楽はそのまま続ける。


「感情が無くなったのは、数年前のある事件からですね……大事な人を失った時。あれからというもの、自分の気持ちも他人の気持ちも解釈したり理解したりというのが全く出来ないようになってしまって」


どんな事件だったのかは、問いただす気にはなれない。少女の辛い過去を無理矢理掘り出させているようで気に食わない。


しかし、それを聞いて胸が締め付けられるような思いだった。その「ある事件」とは、少女の心に今でも残る大きな傷跡を付けたのだ。


「あ、すみません。こんな話、まだ会って2回目の人に向けてするもんじゃないですね。大丈夫です。もう数年前のことなので、ある程度なら表情も作れるように……」


言い終える前に、少女は隣に座る真希に抱き寄せられた。少女は少し驚いたように目を見開く。


「あの?真希さん?」


「……氣楽ちゃんの話聞いてたら、自分の悩みがちっぽけに思えて……辛かったんだろうね、悲しかったんだろうね」


「……辛い、悲しい……もう、それがどんな感覚かも忘れちゃいました」


「氣楽ちゃんがこのことを話してくれる直前、なんだか寂しそうに見えた。だから、きっと、氣楽ちゃんの中のどこかには感情がちゃんと残ってるんだよ」


「……そうだといいですね」


そう言うと、氣楽はそっとその腕から抜け出し立ち上がった。


「さ、この話はおしまいです。私には真希さんの精神面でのサポートはちょっと難しいと思うのですが、仕事場なら私にでも提供出来ますよ」


「え?」


「以前に言っていた私の経営する事務所です。どうです?ちょっと見学だけでもしてみませんか。今日は他のメンバーも揃ってますし」


そう言う氣楽はいつもより少し明るい表情をしているように感じた。

座り込んでいる真希に手を差し出す。


「他のメンバーは皆しっかり者ですし、私よりは断然良い相談相手になると思いますよ」


真希は迷う素振りを見せたが、ほとんど氣楽の事務所に行く気でいた。

きちんとした職場ではないものの、看護師としての腕を磨けるのならいいと思えた。


真希は差し出された手を握り、立ち上がった。


「……じゃあ、よろしくね」

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