第96話 アンコウの戦い方
アンコウ一党の夜襲はものの見事に嵌まった。ナグバルたちに油断があったとはいえ、アンコウたちの綿密な事前準備が見事であった。
(まだ気は抜けない。時間が経てば必ず援軍が来る)
アンコウは、カルミや自身の戦闘能力を考えれば、援軍が来ても十分に戦うことができると考えているものの、できれば全軍を相手に戦うのは避けて済ませたいと思っていた。
そのアンコウの思惑どおりに事が進んでいる。
想定以上の早さで門を破ることができ、門内に入って早々に、ナグバル
あきらかに腰が引け、戦意が低下したナグバル兵たちを尻目に、アンコウたちは一気に邸内に突入する。
「ナグバル様ああっ!」
ドタバタと激しい足音を響かせながら、屋敷の執事の一人が血相を変えて、ナグバルのいる寝室に飛び込んできた。
ナグバルは、すでに服は着ているものの、未だ武装は整っていない。
「いかがしたっ」
「り、領主の兵がっ、敵がっ、邸内に侵入いたしましたっ!」
「なっ、何だとっ!」
驚愕。邸内に敵兵に入られたことはナグバルにとって恐怖以外の何ものでもなく、しかも襲撃をうけているとの報せが入ってから、まだそれほど時間が経っていない。
「へ、兵はっ、守備兵たちは何をしているっ!サイードはどうした!?」
「わ、わかりませんっ。せ、正門付近はかなり混乱しておりまして、も、もう、近づくこともできませんっ!そ、それよりもナグバル様っ、今すぐここからお逃げください!侵入した敵兵が、まっすぐこちらに向かっているようなのですっ」
「なっ、何だとっ!?」
ナグバルは、思っていた以上に、はるかに事態が切迫していることにようやく気がついた。
(くっ、屋敷内の情報も把握されているのかっ)
この手際のよさ、アンコウの今宵の襲撃が、単なる思いつきによるものではなく、相当に事前準備がなされているということにナグバルは思い至る。
「くくっ、あ、あの領主めっっ!」
「ナ、ナグバル様、お早くっ」
執事の男は、自分が飛んで入ってきたばかりの寝室の出入口のほうに主人を
「……くっ、わかった」
ナグバルは、自分の後ろに立っている十一番目の妻のほうを振り返る。
その妻の名はフラン。フランはあきらかに怯え、その美しくも華奢な体を震わせていた。
「フラン、大丈夫だ。何も心配はいらない。さぁ、わしについて来い」
ナグバルはフランに手をさしのべ、優しく声をかけた。
「は、はい」
フランの声は、5歳になる息子がいるとは思えぬほど愛らしい。
「ナグバル様、フラン様、お急ぎをっ!」
寝室の扉の辺りで待つ執事が、
ナグバルはその執事の言葉に、うむ と頷き、妻の肩に手を回して歩き出す。しかし、ようやく歩き出したナグバルの足がすぐに止まってしまった。
扉の前にいる執事の様子が、何やらおかしくなっていたからだ。
「おい、いかがした?」
ナグバルが執事に声をかけた。
「…ひっ…い…ナ、ナグバル様…………ぁ」
執事は立ちながら体を震わせ、顔に恐怖の色を浮かべて固まっている。
廊下の暗がりの中から、執事の顔にむかって、鈍く赤い光を放つ戦斧が伸びてきた。執事は震えながら後退する。
ナグバルの視界には、その全体像は見えていないものの、扉の向こう側から現れた戦斧の先に取り付けられているスピアーヘッドの先端部は、はっきりと見えていた。
執事の耳に、暗がりの中から『動いたら殺す』という男の囁くような声が聞こえた。
「ひぃぃぃ、」
そして、その戦斧を握る男が、扉の向こう側の暗がりの中から姿を現した。
「き、貴様はっ、アンコウ!」
現れた男の姿を見たナグバルが思わず叫んだ。
「おい、おい、ナグバル。御領主様を呼び捨てにするたぁ、いったいどういう了見だ。あぁ?」
アンコウは、そう凄みながら ドカッ! と、執事男を蹴り飛ばした。
「ヒグッ!」ドザァー
執事は、ナグバルの足元まで転がっていった。
ナグバルは、何とも言えない顔つきで、その転がってきたものを見ている。
そして、そのまま寝室の中に足を進めてくるアンコウ。
さらに、そのアンコウに続いて、アンコウの手下の兵たちが、次々に部屋の中に入ってきた。
アンコウが手に持つ戦斧にも、後ろに付き従う兵士たちが持つ武器にも、真新しい血がべっとりと着いている。
幾人もの兵士を従えて、堂々とナグバルの眼前にまで歩いてきたアンコウは、戦斧のスピアーヘッドの先端を、今度はナグバルの鼻先に突きつけた。
「うぐうぅっ」
ナグバルにとっては絶望的な状況。
自らの死を覚悟しつつも、つい数時間前まで、『
「き、貴様ぁぁ、」
憎悪のこもった目で、ナグバルはアンコウを睨みつけている。
アンコウは、ハァァーと、大袈裟にため息をつく。
「てめぇは、ここまでやられても、まだ自分の立場ってもんがわかってないみたいだなぁ、ああ?」
アンコウは、戦斧をナグバルに突きつけたまま、ナグバルの横にいるフランに手を伸ばす。
「イ、イヤッ!」
「動くなっっ!!」
魔戦斧との共鳴を上げ、その覇気をナグバルとフランの二人にぶつけた。
「なあっ!」「ヒィッ!」
この二人は共に抗魔の力保有者である。アンコウの力の変化にも敏感に反応した。
(こ、この男っ!)
ナグバルは、アンコウ個人の武力も過小評価していたことを知る。
(ち、力を隠していたのかっ)
ナグバルも身に抗魔の力を有しているが、共鳴を起こしたアンコウに対抗できるほどの戦闘力はない。
アンコウは、ナグバルからフランを引き剥がした。そして、背後にいた兵士を二人呼び寄せて、薄笑いを浮かべながら何やら指示を出した。
「キャアアッ!」
ドサンッ!
突然、アンコウに突き飛ばされたフランが、勢いよくベッドに倒れ込んだ。
「うへへへ」
「おほぉー」
そのフランに、アンコウが指示を出した二人の兵士が襲いかかる。
「フ、フランっ!」
ナグバルが、十一番目の妻の名を叫ぶ。
「いやっ!」
ドンッ!
「ぐわっ!」
フランにのしかかろうとしていた兵士の一人が、フランに突き飛ばされ、ベッドの下に無様に転がった。
この二人の兵士は普通人兵であり、たとえ華奢な体つきの女であっても、抗魔の力を保有するフランに膂力では勝てない。
それを見て、もう一人の兵もフランに襲いかかることができなくなってしまった。
「フグワッ!?」
しかし、次に床に転がるはめになったのは、フランのたった一人の夫ナグバル。
ナグバルがフランのほうに気をとられている隙をつき、アンコウがナグバルの
「ふっ!ふぐううーっ!」
脂肪腹を抱え、床でのたうちながら呻き声をあげるナグバル。
そんなナグバルに斧を突きつけ、アンコウはベッドの上のフランを見た。
「おい、女。このヒゲ豚がどうなってもいいのか?」
「アッ…ご、ご主人様、」
夫を人質にとられたフランの目に、恐怖と絶望の色が浮かぶ。それを見た二人の野卑な兵士の顔に、再び醜い笑みが戻った。
「へへっ!おとなしくしやがれっ!」
「おほぉー!」
「い、いやああーっ!」
アンコウは一呼吸つくと、ナグバルの体をグイッと引き上げた。
「……見えてるか?」
「フ、フラン、やめてくれぇ」
「人って奴はどうしようもなく欲深い。だからこそ謙虚は美徳なんだと思わないか、ナグバル。
権力者なんて人種のやつに、聖人君子並みの謙虚さなんて求めないけどな。度の過ぎた
アンコウがしゃべっている最中にも、フランの悲痛な悲鳴が響き続けている。
「や、やめろ、アンコウ。フ、フランには関係な」
「ああ!?てめぇはさっきから誰に口きいてるんだって言ってんだよっ!
「くくぅ……ア、アンコウ様…も、もうやめてくれえぇ」
ナグバルの顔に、屈辱と怒りと恐怖がない混ぜになったような表情が浮かんでいる。
「フンッ!はじめっからそう言えや、このヒゲ豚がっ」
アンコウは、汚いものを放り捨てるようにナグバルの体から手を離した。
そしてアンコウは、再びベッドのほうに目を戻し、フランに襲いかかっている二人に、
お前らもうやめろ と面倒くさげに言った。
しかし、
「そりゃあないですよ、大将〜。す、すぐ終わらせますからっ、へへへっ」
今、フランに馬乗りになっている男は、アンコウの言葉を無視して目的を遂げるために行為を続けようとした。
「……………ぁあ?……………」
男のその態度に、アンコウは表情を消した。
「…………………」
そして、その能面のような表情のまま、ちらりと後ろを振り返る。
そのアンコウの視線の先には、ホルガがいた。
アンコウのアイコンタクトを受けて、ホルガが動き出した。ホルガは音をたてることなく、騒がしいベッドのほうへと素早く近づいていく。
フランを組敷くのに忙しい二人の男は、ホルガの接近に気づかない。
ホルガがベッドの横にまで来て、フランの腕を押さえていた男がようやくその存在に気づいたようだか、フランの胸に吸いつこうとしている男のほうは、まだ気づいていない。
(……
アンコウは自分がけしかけたことは棚にあげて、フランに襲いかかっている男たちを見て心底から
ただ現実問題として、あちこちで金や食料を餌に雇い入れたアンコウの兵の中には、素行に問題のある者も少なからず混じっていた。
この二人の男も、アンコウの配下になった初めから、下衆と言われて当然な人種だった。
「ぐわあっ!?」
ホルガが男の髪の毛をつかみ、フランの胸に顔をうずめていた男をひっぺがした。そうして、男はようやくホルガの存在に気づいた。
「!?ホ、ホルガ殿、へ、へへッ……な、なんだよぉ、ウグッ!」
さらにホルガに、頭を後ろに反らすように髪の毛を引っぱり上げられて、男は喉がつまり、声がでなくなる。
ようやく静かになったベッドの上。そこに、アンコウ冷たい響きの言葉が発せられた。
「この作戦決行の前に俺は言ったはずだ。上からの命令には絶対服従だと、従わない者は死刑だとな」
それを聞いて、ボルガに頭をつかまれている男が震え出す。アンコウの目にも声にも、冗談を言っている雰囲気がまったくなかったからだ。
「!…ゥア…ァァアァ……アー…!」
男は必死に何かを言葉にしようとするものの、頭を引っ張り続けているホルガの力は強く、意味のある言葉を発することはできなかった。
「ホルガ、やれ」
アンコウは顔色ひとつ変えず、淡々と言った。
その瞬間、鈍い音が部屋に響いた。
ボギイィィ!
………ホルガの腕が、まだフランに馬乗りになっている男の首に巻きつき、その男の首がありえない方向に折れ曲がった。
「きゃあああーっ!」
フランの悲鳴。フランは知ったのだ。今も自分に跨っている男が死んだことを。
そして、続けて悲鳴が響く。
「ぎぃやああっ!!……ああ…ぁあ…」
その悲鳴の主は、フランを襲っていたもう一人の兵士。その兵士の目に、深々とクナイが突き刺さっていた。
そのクナイを投げ打ったのはアンコウだ。ナグバルは驚きの目で、クナイを投げたアンコウを見上げている。
「キャアアアーッ!」
再びフランの悲鳴が響く。
クナイが目に突き刺さった男の体が、フランの横でユラユラ揺れている。
ドザンッ!!
そして、その男の体はベッドの下に落ち、落ちた男の体は動かぬ死体となった。
そして……部屋中が静寂に包まれる。
「さぁて」
静かになった部屋で、アンコウは再び後ろに控えている兵士たちを振り返る。
「おいっ、あれを持ってきてくれ」
ハ、ハイッ と、声を震わせながら返事をした一人の兵士が、何やら大きめの包みを持ってアンコウの元へ。
アンコウはその兵士に、そこに包みを置けと、ナグバルが座る目の前の床を指し示す。
ドサンッ と、床に置かれた包み。
「開け」 と、アンコウはさらに指示を出す。
そして、その兵士の手によって包みの結び目はほどかれた。
「なあぁっ!」
包みの中から現れたものを見て、ナグバルの口から驚きの声があがった。
「………サ、サイード」
ハラリと開かれた包みの中から出てきたのは、サイードの血塗れの首級。サイードは、ナグバル配下で最も強いはずの武将であった。
アンコウが言う。
「ナグバル。たぶんだけどな、サイードの奴は助けに来ないと思うぜ」
ナグバルはアンコウの言葉に反応せず、ただ目を大きく見開き、サイードの首を凝視している。
そのナグバルの顔をのぞき込みながら、アンコウは口元に笑みを浮かべつつ、重ねて言う。
「サイードの野郎は助けには来ないぜぇ、ナグバルよぉぉ」
その時、開け放たれた寝室の扉の向こう、廊下の方から、
—— うわぁぁぁん と、子供の泣き声が聞こえてきた。
そして、その子供の泣き声が、どんどん近づいてくる。その声に、はじめに顕著な反応を示したのはフランだ。
男に襲われ、その男たちが目の前で殺された後は、ベッドの上で呆然としていたフランが、突如覚醒したように視線を廊下のほうに向ける。
「!……オスカー!?」
そして、小さな声で人の名を
「なっ、まさかっ、」
ナグバルは目を見開き、アンコウの顔を見上げる。そのアンコウの顔は、ナグバルを見て、またニヤリと笑っていた。
うわぁぁぁん —
「よう、大将。連れてきたぜ」
子供の泣き声とともに廊下から現れたのはダッジ。アンコウの命令をうけて、少し前から別行動をしていた。
「うわあぁーん」
ダッジの左手は、泣き叫んでいる小さな男の子の二の腕を乱暴にひっ掴んでいる。
「ああっ、父うえぇー、母さまああー」
部屋の中を見た男の子が叫んだ。
「ああっ!オスカーっ!」
ベッドの上にいたフランが男の子の名を叫び、その子の元へと動き出そうとするがホルガに体をつかまれてしまう。
「離してえっっ!」
フランはホルガを振りほどこうと激しく抵抗する。その暴れようは、先ほど男に襲われていたときよりも激しい。
「オスカーっ!」
子を思う母の愛情の現れだろう。
ダッジが連れてきたこのオスカーという男の子は、フランとナグバルの間にできた5歳になる息子であった。
「騒ぐな女。それ以上騒ぐと、そのガキがどうなっても知らないぞ」
アンコウが冷たく脅しの文句を口にする。
「おいっ、ダッジ」
アンコウが何やらダッジにアゴで指示を出す。
「い、痛たいい〜っ、母さまああ、」
子供の悲しい叫び声が聞こえる。アンコウの意思を察し、ダッジが男の子の腕を捻りあげていた。
「や、やめてーっ!その子には何もしないでぇー!」
「ア、アンコウ様っ!やめてくれっ!頼むうっ!」
オスカーの両親がアンコウに懇願する 。
「……ダッジ、やめろ。……わかるかナグバル、お前の家族がどうなるはお前次第だ」
「た、頼む。何でも言うとおりにするから……」
アンコウは、恐怖と怒りを目に宿しているナグバルを無感情な目で見下ろす。
「………そうか。じゃあ、ナグバルよ。まず、この屋敷のすべての兵士に武装解除を命令させろ。
それに、もう援軍の要請も出しているんだろ?それもすべて撤回して、この屋敷に誰も近づかせるな。話はそれからだ。いいなっ!」
「わ、わかった……」
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