第68話 空から降ってきた救出者

 つい先ほどまで、まったく作動していなかった幻門ファンゲート。門の大きなふたつの柱の向こう側には同じ北の広場の風景が広がっていた。

 しかし、今は違う。今、幻門ファンゲートを見つめるアンコウの目に映るもの。


 幻門ファンゲートの大きなふたつの柱の間は、何も写さない真っ黒な壁に変わり、それが激しく揺らいでいる。

 その真っ黒な壁の向こう側はどこにつながっているのか、アンコウは激しい悪寒を感じていた。


(やばいっ!!)


 アンコウはきびすを返し、周囲の者たちに体がぶつかることも気に止めず走り出した。

 しかし、さほどの距離を逃げる間もなく、周囲が悲鳴につつまれる。


キャアアァァアアーーッ!

ぐわあぁぁああーーっ!


 響く悲鳴に引っ張られるようにアンコウは振り返る。


ブシユユュュュユユーーッ!


と、その幻門ファンゲートから吹き出るこゆい魔素。


 そして、幻門ファンゲートの左右上下隙間なく、吹き出る魔素とともに魔獣どもが飛び出してきた。

 アンコウの視界に映った魔獣、そのほとんどが小型のオークだ。


 極大豚鬼王ビッグオークの『ロブナ‐オゴナル』への干渉による幻門ファンゲートへの影響は、極大豚鬼王ビッグオークそのものが出現した東の広場だけでなく、ワン‐ロン内のすべての幻門ファンゲートで強まっていた。


(やべええぇぇっ)


 すでに、ギィヤアァァ、ぐわあぁぁああ と悲鳴や怒号が北の広場のあちこちから聞こえ始めていた。

 この広場に設置されているすべての幻門ファンゲートで、同様の事態が生じていた。


 気が付けばアンコウの真後ろに、返り血に染まった一匹の小豚鬼チープオークが迫っていた。


「野郎おぉぉおおーっ!」

ザグウゥゥッ!

「グギイィィイイッ!」


 アンコウは無理な体勢ながら、腰から引き抜いた勢いのままに魔斧を一閃。

 無理な体勢の上に、まだ使い慣れていない武器。しかし、会心の一撃とは程遠いものの、アンコウが振るった斧は、その小豚鬼チープオークの左腕を斬り飛ばし、胴体深くに刃がめり込んだ。


 小豚鬼チープオークの動きが止まり、勢いのままに地面を転がる。

 アンコウはそれに止めを刺そうともせず、周囲の者たちを弾き飛ばしながら、再び走り始めた。


 幻門ファンゲートから、現れた小豚鬼チープオークは一匹や二匹ではない。一匹ほふったところで、この状況は何も変わりはしない。


(ここから逃げるしかないっ)


 そして、わずかな時を経て、北の広場は地獄と化した。


 キャアアアアーッ

助けてええーッ

 ぐわああーっ


 広場中から、苦痛と絶望の声が聞こえてくる。

 無論、魔獣相手に一歩も退かず、戦い続けている者もいる。しかし、如何せん多勢に無勢だ。


 ワン‐ロン統政府が、北の広場の備えをおろそかにしていたわけではない。

 ここを警護する精鋭部隊も配置されていた。しかし彼らは、東の広場に極大豚鬼王ビッグオーク現るの報を受け、すぐさまそちらに移動を始めてしまっていた。


 その後のことを考えて、この北の広場を守る代わりの部隊の手配もなされていたようだが、未だ到着しておらず、しかもその間に北の広場にはワン‐ロンからの脱出を希望する住民たちが殺到する事態になっていた。


 北の広場に殺到していた者たちは、通常のドワーフより戦闘能力、あるいは戦闘意欲が劣っている者たちの集まりだ。

 エルフに次ぐ、優等種族ドワーフといえども、そのような惰弱者の集まりでは、無尽蔵に湧き出る魔獣たちに抗することなどできない。広場は大混乱だ。


ぎいゃあああーーっ 痛いいいーーッ たすけえええーっ


 戦う力のない男たちに、小型のオークの牙が食い込む。腹を食いちぎり、新鮮な臓物を引っ張り出し、文字どおり湯気が立つ真っ赤な臓物に喰らいついている。

 実にうまそうだ。いや、うまいのだろう。


イヤッ、イヤッ、イヤッ、イヤッ、イヤーーーッ

いやぁぁぁあああああーーーっ


 男たちの断末魔とともに、女たちの絶望の悲鳴が響く。

 中型や、大型のオークとは違う 小型のオークの特徴。小型のオークは女を襲う。

 中型、大型のオークが、底なしの食欲にのみに突き動かされて行動するのに対して、小豚鬼チープオークは食欲よりも性欲のほうが強いとされている。


 広場中で、数え切れないドワーフの女たちが、小豚鬼チープオークに襲われ始めていた。


 小豚鬼チープオークといえども、その丸太のような体の全長は 2,3メートルはある。その小豚鬼チープオークたちが、何人もの女たちの上でうごめき、

ブフウモォォオオオッ と、怖気おぞけの走る悦楽のうめき声をあげていた。


 蚊が人を刺すとき、人の皮膚下に、まず麻酔物質を注入するという。

 小豚鬼チープオークも同じようなことをする。突き入れ、まず女の正気を弛緩させて官能を暴走させる物質を注入するらしい。すでに、その効果が現れている者もいるようだ。


 悲鳴ではなく、激しい嬌声も響きはじめている。

アアァァーーンンッ

 蠢く小豚鬼チープオークの下で、自ら腰を振りはじめている。醜悪すぎる地獄絵図である。



「どけええええーーっ!」


 アンコウは周囲の弱いドワーフたちを、老若男女を問わず、はじき飛ばしながら逃げ続けている。


 そして、ようやく広場の外周部に近づく。すでに北の広場の外に飛び出した魔獣もいたが、今ならまだ、この広場さえ抜け出れば、十分に逃亡路を確保することができる。


 しかし、(わずかな遅れが、致命傷になる) と、湧き出す魔獣の多さを確認していたアンコウは、此処ここは死地であると、ここで油断すれば死ぬと、はっきりと認識していた。


 広場の終わりに近づいてくると、アンコウと同じく逃げ出そうとしている人々で、ここまで以上の大混雑が生じていた。

 あちらこちらで将棋倒しが起き、そこに魔獣どもが群がり、阿鼻叫喚の惨状が広がっている。


「クソッ!進めないっ」


 ここまできて足を止めるほかなく、瞬時にアンコウは本気で目の前で壁となってしまっている人々を魔戦斧で斬り倒し、道を開くことを考えた。

(仕方がない。俺が死ぬよりかはマシだ)

 アンコウの目から感情が消え、魔戦斧を握る手に力がこもる。

 しかしその時、少し離れたところに、比較的そこまで人が密集していない場所があることに、アンコウは気づいた。

(ん?)


 そちらに目を凝らし、見つめるアンコウ。

 そこには小豚鬼チープオークの一群が密集しているようだ。ゆえに人はその場所から逃げ出していた。


(あれは………女か)


 アンコウが見つめる小豚鬼チープオークの姿が見える場所。

 そこには、このワン‐ロンに何らかの理由で訪れていた人間の集団がいたようだ。その人間の中の雌たちが、小豚鬼チープオークたちに襲われている。


 それを確認するとアンコウは、魔戦斧を下げ、突如そちらに向かって、これまで以上の速さで走り出した。


 小豚鬼チープオークはその種族を問わず、女を襲い、自らの欲望を満たそうとするが、その中でもドワーフや獣人よりも、なぜか人間族の女を好むということが広く知られている。


 少し距離があったにもかかわらず、一気に走り、距離を詰め、人間の女を襲っている小豚鬼チープオークの集団に迫るアンコウ。


「うおおおっっ!」

 気合声を発すると同時に、アンコウは跳躍し、

「ブフゥウモオォッ!」

 アンコウの足が、腰振る小豚鬼チープオークの背中を強く踏みつけた。


 アンコウの目に、踏みつけたオークの体の下にいる人間の女の顔が一瞬映る。それは、吐き気を催すような悦楽の表情。完全にラリっている。

 そして、その周囲には人間の死体がいくつも転がっていた。


 ウゲッ と、喉までこみあげてくるものをこらえて、アンコウは小豚鬼チープオークの背中を蹴り、再びジャンプする。


 当たり前だが、アンコウに襲われている人間の女を助けるつもりはない。

 いや、小豚鬼チープオークたちが女に気を取られてくれているのなら、逆に好都合なのだ。


 実際、この小豚鬼チープオークはアンコウに背中を踏みつけられても、声をあげ、一瞬アンコウのほうに意識をやっただけで、すぐにその意識を女のほうに戻してしまった。


 ブモオォッ!

ボフウウウッ!

 ブフウウウッ!

アンコウは小豚鬼チープオークの背中の上を、次々に飛び移っていく。


(よしっ!よしっ!よしっ!)


 広場の終わりがどんどん近づいてくる。

 大量の魔獣たちが、この北の広場の幻門ファンゲートから、今も飛び出し続けているが、まだその多くは広場の内側にとどまっている。


(この広場には、魔獣どもの足止めする撒き餌どもが、まだいっぱいいる。このまま広場を抜けきれば、十分逃げられるっ)


「もう少しっ、もう少しだっ」


 もうあと何匹かの小豚鬼チープオークの背中を蹴れば、この死地からの逃亡のルートが開ける。

 オークに襲われている女の嬌声も、周囲に転がる死体も今のアンコウには気にかからない。


 今はただ、自分が助かるために安全地帯に逃れることが第一で、そのルートが見えてきている。自然、アンコウの口元がわずかにほころんでくる。


「よしっ、もう少し!!」


その時だった。


「ゃゃぁぁぁぁああああああーーっ!!」


 なぜか空から近づいてくる叫び声。


ドオオンンッ!!


 アンコウが次に飛び移ろうとしていた小豚鬼チープオークの上に、何かが降ってきた。


「!!なっ!!」


 アンコウはやむを得ず、とっさに小豚鬼チープオークの背中の上で足を止めた。


 アンコウの眼前。次に飛び移ろうとしていた小豚鬼チープオーク

 その背中に薄っすらと紫色の光を放つ長い剣が突き刺さっていた。


 ついさっきまで人間の女の上で腰を振っていた小豚鬼チープオークは、今は完全に地面に縫いつけられてしまっている。

 小豚鬼チープオークに襲われていた人間の女も、地面と小豚鬼チープオークの間に押しつぶされて完全にスプラッターだ。


 一瞬のあまりの出来事に、アンコウは事態がまったく把握できない。

 しかし、アンコウの眼前、動かなくなった小豚鬼チープオークの背中には、グサリと突き立てられた紫光の長剣だけでなく、その剣の柄を握る者もいた。


綺麗な若草色の毛、健康的な褐色の肌、それは獣人の女のようだ。

 ただの女ではない。

その雌豹のような躍動的な身体、その装備、その噴き出す覇気。

 あきらかに戦士、勇ましき女獣人戦士だ。

その女獣人戦士が、ゆっくりとアンコウのほうに顔をあげる。そして、


「アンコウっ!!助けにきたぞっ!!!」


デジャブ

 一瞬で真っ白になったアンコウの頭の中に、いつか見たあの日の光景がほのかに浮かぶ。


 ここにいる筈のないヤツがいる。

ここにいてはいけないヤツがいる。

 目の前に、いま此処に来られたら、一番やばいヤツがいた。

アンコウは、その女獣人戦士の顔を知っていた。


「ウゲッ!」

 それを見てアンコウは……少し吐いた。

 アンコウは口の端から、少し吐瀉物をたらしながら、顔をあげる。

「……お前、何で……マニ」


「助けに来たぞっ!!おおおおーーっ!!」


 マニの戦意はマックスをすでに越えていた。アドレナリンが出まくっているのはまちがいない。

 小豚鬼チープオークの背中から、紫光の長剣を引き抜き、いきなり雄叫びをあげている。


 呆気に取られているアンコウだったが、自分の足元がぐらりと揺れ、いま自分が置かれている状況を思い出した。


「や、やめろっ!マニっ!!」

 しかし、もう遅い。


 人間の女たちを襲っていた小豚鬼チープオークたちがいっせいに体を起こし、少し離れたところにいた魔獣たちも、マニの方を見る。

 そして、その魔獣どもの視界の中には、アンコウも入っているのだ。


「ブモオオォォオオッ!」

 アンコウの足の下にいた小豚鬼チープオークも立ち上がった。


「チイィッ!」

 アンコウはとっさに飛びさがるが、周囲にいた小豚鬼チープオークたちは、すでにみな体を起こしていた。


「なんで、なんで、何がどうなってる?」


 一瞬で消えた逃げ道、アンコウはまだ混乱している。しかし、アンコウが混乱していても魔獣どもは待ってはくれない。


 そして、その次の瞬間には、アンコウは乱戦に巻き込まれていた。


 ザアァンッ!

ドォオンッ!

 ザグウゥゥゥッ!

「ブモォォォッ!」

「くそぉぉおおおっ!」


(ちくしょう、なんだ、なんだこれっ、どうなってる?)


「あはははっ!やるなぁアンコウ!何でそんなに強くなってるんだ!?」

ザグググゥゥゥ!

「グヒイイィィィッ!」


「!マ、マニいぃっ!お前マニだろおっ!」


「何バカなことを言ってるんだアンコウ、当たり前だろっ」


 そう言いながらマニは、嬉々として、アンコウがこれまで見たことがない紫光の長剣を振るい続けていた。そう、マニは確かに強い。

 だが、そんなことは今のアンコウにはどうでもよかった。


アンコウはわけがわからないながらも、泣きそうになっている。

アンコウはわけがわからないながらも、誰のせいかはわかっていた。

アンコウは、ようやく混乱から脱する。


「ふ、ふざけんなっ!!俺はここから逃げるんだよっっ!!」

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