第36話 目が覚めると サミワの砦

 朝日が昇る。この世界は緑多く、空気は澄み、雄大な自然をそなえている。

 大自然は時に、そこに住む者にとって無情の牙をむくこともあるが、多くの恵みを与えてくれる神にも等しい存在である。そのことは世界が違っても変わりはしない。


 輝かしい朝の光に照らされながら、アンコウは疲労困憊、半死半生のていで、何とか息をしているような状態だった。

 アンコウはいまだローアグリフォンとともに空を飛んでいる。


 今のアンコウは、何とか意識は保っているが体の感覚は麻痺しており、痛みもほとんど感じていない。


 このまま意識をなくせば、アンコウは死んでしまう可能性が極めて高い。アンコウは、ほとんど感覚がなくなりつつある体を何とか動かし、魔具鞄の中から回復用のポーション瓶を取り出した。


「グウギャアァーッ!」


 この雄大な景色とは調和しないローアグリフォンの無駄に大きいだけの叫び声が響く。


 しかし、五感のすべての感覚が鈍った今のアンコウには、ローアグリフォンの破音咆哮も効きはしない。


 朝日が大地を照らし、アンコウの眼下に広がる神々しいばかりの景色の中を猛スピードで飛びながら、アンコウはこの空の旅をはじめてから何本目かの回復用ポーションを一気に飲み干す。

 しばらくすると、アンコウの疲労困憊、半死半生の体に力が戻ってくる。


「があぁーっ!痛てぇーっ!」


 そして、当然ながら感覚のよみがえった体は痛みも通常どおりに感じてしまう。アンコウはポーションを飲む度にこれと同じことを繰り返していた。


 ローアグリフォンが無魔素地域で通常どおり活動できる時間は、半日ほどだと言われている。このイカレたローアグリフォンが魔素地帯を出てから、とっくに半日以上が過ぎているだろう。

 少し前から、空を飛ぶ速度が落ちてきていた。


 アンコウは痛みに耐えながら、こうなったらこのイカレ鳥犬と自分のどちらの命が先に尽きるかの本当の命がけの我慢比べだと思っていた。

 ローアグリフォンの飛ぶ速度が落ちてきたことはアンコウにとって喜ばしいことであり、

(とっとと落ちろ、クソ鳥犬)とアンコウは思っていた。


 しかしこの後も、このローアグリフォンは徐々に弱っていきながらも相当に粘り、目的地もなく飛び続けた。

 普通半日しか無魔素地帯ではまともに活動できないとされているローアグリフォンが、アンコウを捕まえてから、丸一日近く、それ以前の時間を考えると丸一日以上も活動を続けた。


 アンコウにとっては不幸にも、このローアグリフォンは、種としてかなり優れた個体であったようだ。


 しかし、この日の夕方、日も落ちかけた時刻に、とうとうこの魔獣にも限界が来た。この驚異的な耐久力を見せた魔獣も限界を超え、明らかに体から力が抜けていく。


 そして、鮮やか過ぎるほどに赤い夕日が地平線のかなたに沈むのに合せるように、ローアグリフォンの翼は羽ばたきを止め、力を失ったその体が地上にむかって一直線に落ちはじめた。


「キュアァァーーンーー!」


 これまでとは違う太陽が沈みゆく地平線のかなたにまで、真直ぐに響いていくような澄んだローアグリフォンの鳴声がこだました。


バキッバギッ!ボギッ!

 バサッバサッ!ドサドサンッ!


ドザァアンッ!!


 ローアグリフォンが落ちていったのは美しい緑生い茂る森の中。木々の枝をへし折りながら、ローアグリフォンの大きな体は地面にたたきつけられた。


 アンコウは地面にたたきつけられて動かなくなったローアグリフォンの体の上に乗っかっている。最後にほんの少しだけツキが残っていたようだ。


 アンコウの目はかすむ。今にも意識が飛びそうになる中、最後の一本になったポーション瓶を震える手で取り出す。


 アンコウにローアグリフォンとの命がけの我慢比べに勝った喜びを感じる余裕はない。

 ポーション瓶を何とか口元まで持ってきたアンコウは、液体の半分近くは飲み損ねて口の外にこぼしながらも、何とかひと瓶を空にした。


 しかしアンコウはあまりにも体力を奪われ、血を失いすぎていた。

 アンコウの思考は安全なところに移動しなくてはと思っていたが、金縛りにあった時のようにアンコウの体は動かず、アンコウの意識はそのまま深い闇の中に落ちていった。



————————



「お、おい、どうなっている?」

「ま、間違いない。あれはローアグリフォンだ。それもかなり大きいな」


 ローアグリフォンとアンコウが落ちた場所から少し離れたところで、2人の武装した男が空から落ちてきたものの様子を伺っていた。


「し、死んでいるんだろうな?」

「たぶんな。この森には魔素はないからな。しかし一緒に空から落ちてきたあの人間はいったい……」

「どうする?近づいて確認するか?」

「いや、とりあえず隊長に報告しよう」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ローアグリフォンの死骸とその上に乗っかって気を失っているアンコウのまわりを武装した多数の男たちが取り囲んでいる。

 男たちが身に着けている鎧にはグローソンの紋章が刻み込まれていた。それに男たちの中には手傷を負っている者の姿もあり、何らかの戦闘を経て、ここに来たようだ。


「……こんなところにローアグリフォンとは。いったい何が起こっているんだ。これも敵の策謀の1つなのか」

「た、隊長!この男、息があるようです!」

「本当か!」

「それに、この男の腕輪を見てください!グローソンの紋章!公爵様の名が刻まれてます!」

「何っ!?」





サミワの砦。

 砦の規模としては中規模のものであろうか、ネルカ城よりもさらに東北、グローソン公領内に位置する砦である。

 この砦は領境に直接接しているわけではなく、主に食料や武器などの貯蔵用の兵站拠点の砦のひとつとして、ここ最近は使われている砦だ。


 しかし、この砦が建設された昔は敵兵を防ぐための実用軍事施設として建てられたものであり、高さはそれほどないが、急な斜面が多く、木々が生い茂る山の上に立てられていて、その防壁もしっかりとしている。


 そしてアンコウは今、この防壁の内側、砦の中にいた。アンコウを見つけたグローソン兵の一団の手によって、2日前に運び込まれたのだ。

 アンコウはこの砦に運び込まれて2日間、一度も目をあけることなく眠り続けていた。


 そのアンコウの目がパチリと開く。


 寝たままの姿勢でアンコウはまわりを確認する。


(……知らない天井だ)


 アンコウは知らない部屋のベッドで寝かされていた。

 そしてアンコウが寝ているベッドの横の椅子には、使用人服を着た知らない女が座っている。少し離れたところにあるこの部屋の扉の横には腰に剣を差した男が立っていた。


 アンコウは急いで再びを目をつむり寝たふりをする。

(……どこだ、ここは)

 アンコウにここがどこかはわかるわけがないが、アンコウはできる限り今の状況を頭の中で確認していく。


 アンコウはローアグリフォンとともに地上に落ち、何とかポーションを口にしたところまでは覚えていた。

 そして今、自分は生きている。

 体も動く、大きく怪我をしていたはずの右肩もわずかに痛む程度になっていた。見張りらしき男はいるが、牢屋に放り込まれているわけではなく、寝ているベッドの質は良い。


 アンコウは自分のここでの待遇は悪いものではないと判断できた。

 それでも十分に警戒はすべきであると、薄目を開けて周囲に武器になるものはないかと探りを入れる。

 しかし当然ながら、看病をされている怪我人のまわりに武器になるものなど置かれていない。アンコウはさらにしばらく寝たふりをしながら、どうするか考えつつ、気づかれぬよう慎重に周囲をうかがっていた。


 そしてアンコウは、少し離れた扉の横の立っている兵士と思われる男の甲冑にグローソンの紋章が刻まれているのを見た。


(まだ、グローソンの手の中か)

 それと気づきアンコウは寝たふりをしながら落胆した。


 あれからどれぐらいの時間が過ぎているのか、アンコウは正確にはわかっていないが、アンコウの体内感覚として、少なくとも丸1日以上は経過していると感じていた。


 アンコウはローアグリフォンとともに空を飛んでいる時に、グローソン公ハウルがアンコウの捜索を始めるのを待つと言っていた朝日が昇るのを確認していた。

 その朝日が昇った日の陽が沈む時刻まで、アンコウはローアグリフォンと共に空を飛びつづけ、そして地面に落下したのだ。


 それからさらに少なくとも1日以上意識をなくしていたのだとすると、アンコウは逃走に使うべき時間を相当ロスしているはずだ。


(まずいな。もしかしたら最悪俺はもう捕まったのかもしれない)


 ハウルはバルモア以外の者が直接捕まえることはしないと言っていた。

 バルモアがここにいるかどうかはわからない。バルモアはいないとしても、もしかしたらアンコウを見つけたらすぐに公爵にまで知らせるようにという通達ぐらいは届いているかもしれない。


 アンコウは再び固く目を閉じた。

(……考えるだけ無駄か。どちらにしろここがグローソンの支配地域なら命の心配は要らないだろうし、実際待遇は悪くない……)

 アンコウは意を決すると勢いよく目を開いた。

 そしてベッドの横に座っている女に声をかけた。


「おはよう。今何時かな?」





 アンコウの体の傷は普通に動かす分にはまったく問題のない程度に回復していた。

 各種薬剤ポーションを使った治療から、精霊法術を用いた治癒術まで、かなりこの砦の者達が手厚くアンコウを治療してくれたらしい。


 無論この砦にアンコウの知り合いは一人もいない。すべてはグローソン公爵によってつけられたアンコウの右腕で金色に輝く臣下の腕輪のおかげであった。


 グローソン公ハウルは、ウィンド王国内に存する一領主なのだが、この世界、この国の有様ありようとして、公領というのはその領内においては一独立国にも等しい存在であり、グローソン公ハウルは専制君主に等しい権力を握る存在だ。


 その公爵自身の意思でしか与えられることのない臣下の腕輪をしている人物を、グローソン領内にあるこのサミワの砦の者が無碍に扱うことはありえない。

 たとえ仮に、その者に何らかの疑念を感じさせるものがあったとしても、それが明らかになるまでは丁重に扱わざるを得ない。


 しかも、この砦の者はアンコウに対して何ら疑念を抱いていないようであった。

 アンコウは今、目を覚ました寝室とは違う部屋に通されていた。

 アンコウの目の前には焼きたてのナンに、野菜に肉も入ったスープが置かれ、おいしそうなニオイとともに湯気を立てている。


「このようなもので申し訳ございません。怪我が癒えて間もない空腹の状態では、あまり重いものはお体に触るだろうと思いまして、デザートの果実は別に用意してございますので」


「い、いえ、とんでもないです。助けていただいたうえに怪我まで治していただき、本当にありがとうございます。そのうえ食事までご用意いただいて、そ、そんな頭を上げてください」


 アンコウは珍しく、上っ面ではなくて本当に恐縮していた。

 その言葉遣いは、このあいだネルカの城で何やかんやとやり合ったハウル公爵に遣っていたものよりも遥かに丁寧だ。


 今、アンコウの前にいる男の名は、ヒルサギ。今、このサミワの砦の留守居役を勤めるこの砦の最高責任者であった。


 しかし、ヒルサギの話によると通常ならば彼の地位はそこまで高いものではないらしい。

 正式な最高責任者である砦守将は、何でも自分たちの主君であるグローソン公がいるネルカ城が襲われたとの報を受けるとともに、援軍の緊急出動要請を受けて、3日前にこの砦を主だった将兵とともに出立した。

 その際に砦守将は、自分に代わるこの砦の留守居役としてヒルサギを指名したとのこと。



 アンコウはそこまで話を聞いた時点で頭を傾げた。


「ヒルサギ殿、俺はそのネルカから来ました。俺がこの城に運ばれたのが2日前なら、そのネルカの城で大掛かりな反乱が起こったのも3日前になる。

 その日のうち、いや、朝のうちに来たのなら、ネルカではまだ戦闘など起きていなかった。それなのに、そんな使者が来るのはおかしいと思うのですが」


「おお、そうですか。アンコウ殿はやはりネルカから……」

 ヒルサギの表情がひどく曇る。


 ちなみにアンコウは自分から名を名乗ったわけではない。今のところ、この砦にアンコウに関する情報が届いているような気配はなかった。


 アンコウとしてはグローソン公との賭けのことがあり、自由を得るための逃走中の身である以上、自らの情報はできるだけ秘匿したいところだったのだが、アンコウの名前は右腕の腕輪に誰もが見える形できっちりと彫られていたため、隠しようがない。


 アンコウという名前を知られたリスクは小さくはないが、命が助かったことを思えば致し方がないとあきらめもついた。


 それに公爵の直臣であることの影響力は大きく、職務に関わる事情があり自分の存在は、ネルカや砦の外に知らせないでほしいというと、詳しい説明を求められることもなく受け入れられた。


「実は、どうやらこの砦に来たネルカ城よりの使者というのは偽者で敵の謀略であったのです」


 ヒルサギが苦渋に満ちた表情でアンコウに話し始めた。

 その話の深刻さゆえに、自分には関係のない話だとアンコウは思いつつも、おいしく頂いている途中だった食事の手を止めざるを得なかった。

 (チッ) アンコウは心の中で舌打ちをする。恐縮していても腹は減る。


 ヒルサギの話によると、偽者のネルカ城からの使者が持参した命令書は、今見ても偽物と判ずることが困難なほど、その体裁は整えられているものであったらしい。


 さらにこの近隣に領地を持つグローソンの家臣に仕える者が、その偽使者と共にネルカから同行してきており、その者にいたっては、このサミワの砦守将をはじめとして実際に面識があり、よく知っている人物であった。


「つまり、その者の主人は、主君であるグローソン公を裏切ったのです」


 しかもグローソン公を裏切った家臣は、その家臣の他にも複数人いるようで、ロンド公と通じ、その動きに呼応して兵を挙げたらしい。


 アンコウは神妙な顔をして、ヒルサギの話に相槌を打っていたが、内心 (よくある話だな) と思っていた。

 実際アネサ側にはグローソンの調略により裏切ったものが多数いたので、お互い様の話だ。


 この世界も、このウィンド王国も、弱肉強食、群雄割拠ぐんゆうかっきょの時代だ。裏切りも下剋上げこくじょうも犬のクソのごとく道を歩けば転がっている話。


 そして、その偽使者の書状を信じ、砦守将はこの砦の主たる戦力を率い、主君の窮地を救わんと、その日の内に砦を立った。

 その決断と行動の速さは賞賛されるべきものであったが、この時は出兵したこと自体が誤りだった。


 彼らが砦を出てわずか半日後、日が落ちても行軍を続けたこの砦守将率いる一軍は、待ち構えていた裏切り者どもの夜襲をうけ壊滅した。

 その襲撃で砦守将をはじめ、従軍した主だった将兵たちの大部分が討ち死にしたとのことだった。


 空から落ちてきたアンコウを見つけ、この砦まで運んでくれた者たちはその生き残りで、サミワの砦に命からがら逃げかえる途中であったらしい。


 ヒルサギはその討ち死にした砦守将によって取り立てられた農民出身の叩き上げの軍人であり、その能力を認められて、この緊急時に一時的にこの砦の指揮を任せられただけであって、本来の地位は未だそこまで高いものではないとのことだ。


 アンコウがこのヒルサギの話を聞きながら理解したことは、ロンドのグローソンに対する反撃は、どうやら自分が思っていたよりも広範囲に渡って複雑な形で進行しているようであるということ。

 そして、その動きに巻き込まれたこのサミワの砦も、間違いなく混乱した状態にあるということだった。


(この混乱に乗ずれば、案外楽にこの砦から逃げ出せるかもしれない)

 アンコウは空腹を満たしたら、早速この砦から去る算段をしなければと考えていた。


 しかしアンコウは、少なくとも今現在はこのサミワの砦の指揮官であるヒルサギが、こうしてこと細かく自分に状況説明している理由をまだ理解していなかった。

 そしてヒルサギはさらに話を続ける。


「アンコウ殿、今この砦は裏切り者どもに囲まれております」

「えっ?」


 兵站へいたんの面での重要な役割を果たしているこのサミワの砦に食糧や武器が多く備蓄されていることは、ごく一般的に知られている。

 裏切り者どもは、この砦の主要将兵を罠に嵌めて排除したあと、ふた手に分かれて、一方はグローソン公ハウルの首をとるべくネルカ城にむかい、もう一方はサミワの砦まで引き返し、そのまま砦を包囲した。


 裏切り者どもがこの砦を狙う大きな目的は2つある。ひとつはこの砦にある潤沢な物資を確保して、自分たちの軍需物資として活用すること。

 もうひとつはグローソン公ハウルを裏切った者はまだほかにもおり、彼らがネルカ城まで兵を送ろうとすれば、どうしてもこのサミワの砦がある付近を通る必要があり、存在自体が邪魔になるこの砦を無力化しておく必要があった。


 物資を確保し、安全な道を確保する。そのために彼らはわざわざ軍勢を分けてまで、このサミワの砦を落とそうとしていた。


「か、囲まれてるって。で、でも少人数なら砦を出ることも可能でしょう?」


「この砦から山を下り、人が移動できる道は限られています。敵もついこの間までは味方であった者たちです。この砦とその周辺部の地理に明るい者が間違いなくいるでしょう。

 不可能とは言いませんが、隠密としての専門の訓練を受けている者でも命がけになると思います」


「…………」

 簡単にこの砦を逃げ出せるかもというアンコウの楽観的な期待はあっさりと消え去ってしまった。アンコウは急に呼吸をする空気が重くなったように感じた。


(何だそれ!?逃げられないどころか、かなりやばいんじゃないのか!?)


「アンコウ殿」

「へっ?ああ、何ですか?」


 少し自分の内心の声に気をとられていたアンコウにヒルサギが話しかける。


「アンコウ殿にお聞きしたいことが、よろしいでしょうか?」

「え、ええ。何ですか」

「なぜローアグリフォンとともにあのような場所に落ちてきたのか。その事情をよろしければお聞かせいただきたいのです」


 ヒルサギは真剣な目つきでアンコウを見つめている。よろしければと言いはしたが、その目つきからは何が何でも話して頂きたいという意思が見えた。


 アンコウはその強い目に少し気圧されながらも、

「構いませんよ」

と答えた。

 そしてアンコウは少し脚色しながら、グローソン公の直臣?としての自分の立場が悪くならないように、ローアグリフォンとの戦いの物語を話した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


「おおー、やはりアンコウ殿があのローアグリフォンを」


「いや、まことに失態でした。それまでの敵兵との戦いで手傷を負っていたとはいえ、魔獣ごときにさらわれてしまうとはお恥ずかしい限りです」


「何を言われるのです。公爵様のため、ネルカの市民のための獅子奮迅のお働き、お見事にございます。この砦の兵の間でも、アンコウ殿のことは噂になっておりますぞ。おいっ、あれを」


 ヒルサギが後ろに控えていた従者に声をかけた。従者は布を被せて横に置いていた物を取りあげ、ヒルサギのところまで持ってくる。

 ヒルサギはその被せてある布をはずし、慎重にそれをアンコウに差し出してきた。それはアンコウの赤鞘の剣であった。


「この剣は例のローアグリフォンに突き刺さっておりました。この困難な時に、グローソン公爵様の臣下の腕輪をも持つアンコウ殿がおられるだけで、兵の士気もあがるのです」


「……そ、そうですか」


「しかし、呪いの魔剣を使われるとは、いや、失礼。調べたわけではないのですが、はじめは抜き身で魔獣の体に刺さっていましたので、それをはじめに抜いた兵が少々剣の呪いに当てられてしまったようでして」


「ああ、この剣は俺専用でして」

「おお、呪いの魔剣が専用とは。さすがはお殿様より臣下の腕輪を賜るほどのお方だ。何か特別な力をお持ちなのでしょう」


 アンコウは妙に自分が期待されていることに気づき、内心複雑な思いにとらわれながらも、差し出された赤鞘の剣をうけとった。





 アンコウはひとりこのサミワの砦の防壁の上を歩いていた。

 現在は兵站備蓄用の砦として使われているが、元は実践防御を目的としてつくられただけあって、このサミワの砦はかなり堅牢な砦であるとアンコウは見た。


 一方には切り立った崖があり、一方には木々が生い茂る急峻な山道があり、見渡す砦の四方全てに、かなり厳しい地形が広がっていた。

 どこが通れてどこが通れないのか、上から見る分にはまったくわかりはしない。

 この堅牢さは、この砦からの逃走を考えているアンコウにとっても不都合なことだ。そして砦が立っている山の下には、敵軍の陣が築かれているのが見えた。


 アンコウは出来るならば黙って一人でこの砦を抜け出したいと思っているが、眼下に陣を敷く敵に捕まれば、間違いなく拷問され、相当な確率で殺される。それを考えると、実行に移すには相当な勇気がいる。


「くそっ!どうしたらいい?」


 この砦ではアンコウはこうして自由に行動できている。

 それも当然でグローソンにおける地位でいえば、今現在のこの砦の現場の最高責任者であるヒルサギよりも、公爵直与の臣下の腕輪をしているアンコウのほうが立場は上になる。


 昨日はヒルサギに請われ、アンコウはこのサミワの砦の作戦会議なるものにも出席した。

 しかも、その作戦会議の場にいた者の中に、ヒルサギに代えてアンコウに指揮官に就いてもらおうと言い出した者がいた。当然ながら、その者は別に本当にアンコウの力を評価して言ったわけではない。


 ヒルサギが死んだ砦守将の命により、この砦の留守居役を任されたのはほんの数日前であり、その作戦会議の場にいた者たちが皆、ヒルサギの指揮下にあることに納得していたわけではない。


 実にくだらない嫉妬混じりのちっぽけな権力争いであったが、アンコウはたとえ形のうえだけでもそんなのものにされたらたまったものではないと、全力で辞退した。 

 その際にアンコウは、指揮官としてヒルサギ以上に適任な者はいないと、良く知りもしないヒルサギの人柄や手腕を褒めちぎった。


 アンコウの強い辞退の意志と、むろんヒルサギに味方する者もおり、結局、指揮官はヒルサギのままということになった。

 そして、そのことについてアンコウは2人だけの時にヒルサギから礼を言われた。


「アンコウ殿。ありがとうございました」

「いや、別にそんな礼を言われるようなことでは……」


 アンコウとしては本当にヒルサギに肩入れをする気持ちなどまったくなく、自分の都合上そのような発言をしただけであり、正直言って自分が何を言ったのか細かいことは覚えていないぐらいだ。


「アンコウ殿の目には私は地位に執着する卑しい男のように映っているかもしれませんが、私は別にこの砦の指揮官という地位に執着しているわけではないのです。

 ただ亡くなった砦守将様は、私にこの砦の留守の守りを任せるといわれ、私は必ず守りぬくと約束したのです」


 死んだ砦守将の話をするヒルサギの目は充血し、肩が細かく震えていた。ヒルサギは自分に目をかけて、信頼してくれた砦守将にかなり強い恩義を感じているようだ。


「このような緊急時でもあのような馬鹿げたいさかいの火種は消えはしません。しかしアンコウ殿がいてくださったおかげで無事におさめる事ができました」


 ヒルサギは自分の指揮下に入ることを快く思わない者がいるだろうことはよくわかっていた。

 それがたまたまとはいえ、アンコウの言動によってごく小さい段階でおさめる事ができたことに本当に感謝していた。


「これで戦いに集中することができます。アンコウ殿!」

「は、はい」

「私は命に代えてもこの砦を守り抜いて見せます!」

「は、はい」

 アンコウはヒルサギの気迫に圧されて、ただ頷く。


「われわれは砦守将様をはじめ、大切な仲間をすでに多く失ってしまいましたが、今ここにアンコウ殿がいることをすべての精霊に心から感謝いたします!」

 ヒルサギは両手でアンコウの手を握り、力強くそう言った。


「が、頑張りましょう……」


 アンコウとしては、この砦のために何をするつもりもなかったが、あまりのヒルサギの迫力に、とりあえずそう言うほかなかった。



 そして今、

 アンコウの眼下に広がる鬱蒼うっそうとした森。その先にある敵の陣地。ここは完全に戦場であり、いつ殺し合いが始まってもおかしくはない。

 アンコウとしては自分が無事に生き延びることができれば、どちらが勝とうがどうでもいい話なのに、そこから安全に離脱するよい算段はまったく浮かばなかった。


「くそっ!本当にどうしたらいいんだ?」


 アンコウは次の行動に移れないまま、また日が暮れていく。

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