第35話 攫い攫われ ローアグリフォン

 ネルカ城下にある人気ひとけのないとある建物の中。


「フフッ、楽しみだなぁ。来るだろうか、こいつの仲間は」


 ある男がある物を見て楽しげにつぶやく。

 男の目の前には一匹の魔獣の姿があり、その魔獣は何やら液体のようなものに包み込まれている。

 液体が入っている容器があるわけではなく、おそらく水がかかわる精霊法術でも使っているのだろう。しかし、それはめったに目にすることのない珍しい術だった。


 そのニコニコと笑っている男の後ろで、困ったものだと言うような表情で立っている一人の獣人の男がいる。


「ゼルセ様は、ロンド公の味方をされるのですか?」

「何を言っている、ガルシア。俺は一応グローソンの客将だぞ。ロンドに肩入れする義理も無い」

「しかし、それでは……」


 この2人の男、ひとりは白いエルフのゼルセ、もうひとりはその従者である獣人のガルシアだ。


 ガルシアは首をかしげながら、ゼルセが捕獲してきた魔獣を見つめる。

 当然ながら、人の住む町であるこのネルカは魔素が漂う地ではない。魔素がなければ、魔獣は生き続けることはできない。


 しかし、この液体に包まれている魔獣は明らかに生きているし、衰弱もしていない。

 魔獣を拘束し、しかも魔素のない地でもその生命力を維持させる。それこそが、ゼルセが使ったこの法術の効果であった。


 そして、その液体の中に拘束されている魔獣の名は、ローアグリフォン。その幼獣だ。

 ローアグリフォンも他の魔獣たちと同様、魔素の漂う地に限定して生息しているのだが、ローアグリフォンは人間や獣人など非魔素地域に住む者たちから特に警戒されている。


 なぜなら、このローアグリフォンは魔素のない地での耐性がかなり高いことで知られる魔獣であり、成体のローアグリフォンなら、その気になれば半日ほどは魔素のない地域でも活動をすることが可能だからだ。


 しかし魔獣の本能として、ローアグリフォンも魔素のない地には極力出てくることはない。しかし、まれに比較的魔素の漂う地の近くに住む者たちが、魔素の地より出てきたローアグリフォンに襲われたということが起こる。

 それゆえにローアグリフォンは、人間や獣人たちから他の魔獣以上に警戒されている。


 しかし、このネルカはもっとも近い魔素の森でも、馬を飛ばして半日はかかる距離が離れており、この町にこのローアグリフォンが現れたことなどとは聞いたことがなかった。


「ゼルセ様。その法術を解けば、ここには魔素はないゆえ、いかにグリフォンでも幼獣ではそんなにもたないのでは?」

「大丈夫だ。完全に解きはしない。ただこのローアグリフォンの子どもの呼び声が通るようにするだけだ」

「……そのようなことが」

「ああ、できる。風の精霊たちが、運んでくれるよ。ふふふ」


 ローアグリフォンは非常に子煩悩であることでも知られており、危機に陥ったローアグリフォンの幼獣は仲間を呼び寄せるため警戒が必要だとされている魔獣でもあった。

 ゼルセはこのローアグリフォンの幼獣を使って、この町にローアグリフォンの成獣を呼び寄せるつもりのようだ。


「ガルシア」

「はい」

「俺は別にロンドの味方をするわけじゃない。しかし、アネサもこの町もいくさが終わるのが早すぎる。俺はまだまだ楽しめていないぞ」


 ガルシアは別に止める気はないようだが、仕方がないお人だというように首を振っていた。


「フフッ、ガルシアよ。ロンドの残党どもが悪あがきをするのは明日だったな」

「はい」

「あやつらだけではグローソン公も退屈するだろう。せっかくまたいくさを始めてくれるというんだ。主を楽しませるのも客のたしなみと言うものだ。そう思わないか?ガルシア」


 ガルシアにとってはいつものことでもあるのだろう。ガルシアは自分の胸に手をあて、ゼルセにゆっくり頭をさげた。


「……どうぞ、ゼルセ様の思うがままに」

「ふふふっ」


 グローソン公ハウルもそうであったが、この世界の力ある者たちの楽しみというのは、ロクでもないものが多い。





 アンコウとテレサは手早く出立の荷物をまとめ、行動を始めた。アンコウは、ごく簡単に、今すぐにこの町を離れることになった経緯もテレサに話した。

 アンコウとテレサは、とりあえずこの屋敷の厩舎きゅうしゃのほうに向かって走っている。走りながらテレサがアンコウにたずねた。


「旦那様、マニさんはいいんですか?」

「………」

 アンコウがじつに嫌そうな顔をして、斜め後ろを走るテレサを見た。


「テレサは一緒に行きたいのか?」

「えっ、私………」

 テレサは無言のまま、視線を下に向けた。

「……だったら聞くなよ」


 マニは間違いなく戦力にはなるが、マニ自身がその戦力を必要とする事態を引き起こすリスクのほうが大きいとアンコウは思っている。

 これから1ヶ月、ただ逃げなければいけないアンコウにとって、マニも一緒に行くなどという選択肢はない。

(絶対嫌だ)ということだ。


 アンコウたちは屋敷の廊下を走り抜け、厩舎きゅうしゃのある屋敷西側の敷地に飛び出した。アンコウは馬が残っていてくれよと願いながら、すでに視界に入っている厩舎めがけて走る。


 そしてアンコウが厩舎きゅうしゃの間近まで迫ったとき、厩舎の中から出てくる人の姿があった。その者もアンコウの存在に気づいたようだ。


「ああ!アンコウか!ちょうど良かった。私もさっき来たばかりだ」

「なっ!おまっ、」


 アンコウは声をかけてきた人物の前で足を止めた。その人物がアンコウの後ろをついてきていたテレサを見つける。


「テレサ!」

「マ、マニさん……」

「良かった!無事だったんだな!」

「え、ええ。ありがとう」


 そう、厩舎の中から出て来たのはマニだった。マニは両手に手綱を持ち2頭の馬を引きながら現れた。


「マニ!何でお前がここにいるんだ!」

「正門の連中はあらかた片付けたよ。後はモスカルたちだけで十分だ」

「だからって何でここにいるんだ!」

「ん?逃げるには馬があったほうがいいだろ?」

「正門のところにも乗ってきた馬がいただろう!」


「ははっ、さすがにあの騒ぎの中、馬を引いて屋敷の中を移動なんてしてられないさ。だからここで調達するしかないだろ」

「違う!俺たちが正門のほうに戻るかもしれないだろうが!」

「アンコウは戻ってこないだろう?それぐらい言われなくってもわかるさ。だから何も言わず行ったんだろ?とにかくテレサが無事でよかったよ」


( くっ、こいつ、何でわかる?何当たり前のことみたいに言ってんだ。エスパーかよっ)


 アンコウが腕をプルプルと震わしていると、テレサがマニに話しかけた。


「あの、マニさん。馬は2頭だけ?」

「ああ、こいつらが最後みたいだ」

「何!」


 アンコウはマニの横をすり抜け、厩舎きゅうしゃの中を覗き込む。マニの言うとおり、中にはもう一頭の馬も残っていなかった。


「…………」

 アンコウは無言のまま、顔を後ろに戻し、マニが持っている馬の手綱をこれまた無言のまま奪い取った。


「どうしたアンコウ」


 アンコウはマニの問いかけには答えず、そのまま一頭の馬の背に飛び乗った。

 そのアンコウの行動はそれほど荒っぽいものではなかったが、マニの意見を聞くようなそぶりは一切ない。


「お、おい、アンコウ?」


 アンコウはマニの呼びかけはまったく無視して、馬の背の上からテレサに話しかける。


「テレサ、馬乗れたよな?」

「は、はい。一応」

「じゃあ、こっちに乗って」

 アンコウはもう一頭の馬の手綱をテレサに渡す。

「は、はい」


「おい、アンコウ!私はどうするんだ?」

 完全に無視されていたマニが大きい声でアンコウに聞いてきた。


「……マニ、お前とはここでお別れだ。お前には散々迷惑を掛けられたが、多少世話になった気もしないでもない。一応感謝しておく。だが、ここからは俺たちだけで行く。

 お前はソロの冒険者だろう。マニ、お前はお前の居場所に帰れ。

 今この町ではグローソンとロンドの残党との戦いがまた始まっている。お前は傭兵稼業もこなす冒険者みたいだから、このままこの町の戦いに首をつっこむのもいいだろうし、気が乗らないのならアネサに帰るのもいいんじゃないのか、マニ…………

 なぁ、マニ、お前ひとの話を聞けよ……」


 マニは、アンコウがマニに向かってしゃべっている途中から動き出し、手際良くもう一頭の馬にテレサを前に乗せて、その後ろに自分が飛び乗っていた。


「アンコウ!テレサのことは任せろ!」


 故意であるかないかの差はあるが、人の話をスルーする能力も、やはりアンコウよりマニのほうが高いようだ。


「……………」

 アンコウは無言のまま冷たい目でマニを見ている。


「あ、あの旦那様」

 テレサは心配そうな顔で、アンコウを見たり、後ろのマニを見たりしている。


 しかしアンコウは、マニに向かって声を荒げることも、これ以上マニに行動を別にすることを主張することもしなかった。

 アンコウは、これ以上いろんなものをここで無駄にすることを避けた。


「…………さぁ、行くか。とにかく町の外に出るんだ」

 アンコウは能面のような顔をしてそう言った。


 もはやアンコウはマニの顔もテレサの顔も見ていない。アンコウは馬の手綱を引き、屋敷の外に向かって馬首を返した。

 そんなアンコウにマニたちも続く。


「よしっ、行くぞ。アンコウ!テレサ!」

「……………」

「……………」


 アンコウは黙って馬を歩かせながら、心の中では、

(うがあぁぁーーっ!このヤロォーーッ!)と、絶叫していた。


 テレサは時おりアンコウの顔色を窺いながら、アンコウは怒っているんだろうなと思いながらも、黙ってマニと一緒に馬の背に座っていた。


 そして、馬に乗った3人は共にこの屋敷をあとにした。





 町のあちこちから火や煙があがり、多くの人々が逃げまどっていた。アンコウはそれを避けながら馬を走らせる。

 しかし、町全体が混乱しているために、馬を走らせる速度を上げることはできなかった。


「アンコウ!こっちの道が空いているぞ!」

「だめだ!ここからは見えないが、初めに集中的に爆発が起きていたのは町の東のほうだった。今頃どうなっているかわかったものじゃない」


 アンコウは一時馬を止めて、あらためてここまでに見た爆発や煙があがっていた方角を思い出す。確実はないが、最善を選択しなければならない。


「とりあえず、南門を目指すぞ!」

「わかった」


 アンコウたちが、馬首を南門へとつづく道へ向け、再び走り出そうとしたときだった。


――「キャアァァー!たすけてぇーっ!」――


 子どもの悲鳴が聞こえた。そしてその悲鳴が急速に近づいてくる。アンコウはその違和感に、思わず走りだそうとしていた馬を止めた。


「何だ!?」


 その子どもの悲鳴が接近してくる速度もおかしいが、その声が空から聞こえてきていた。アンコウは警戒しつつ、視線を上に向けた。


「キャアァァーッ!」

ゴワアッッ!!

「何ぃぃ!」


 大きな影がアンコウたちの頭上をかなりの速さで飛び去っていく。

 巨大な鳥動物のような生き物が空を飛んでいた。アンコウはかつてこのようなものを見たことがなかったが、それが動物ではなく魔獣であることは瞬時に判別できた。


「なんで魔獣がこんなところに!」


 アンコウはまれに魔素のないところにも魔獣が出没することは知っていたが、こんな町の真ん中で魔獣を見るなんてことは初めてだった。


「ローアグリフォン!」

 そして、アンコウの横にいるマニがそれを見て叫んだ。


(ローアグリフォンだと!?)


 その魔獣の形体は、アンコウが元の世界で聞いていたグリフォンとはいささか違うようだが、とにかく体も羽も大きくて、鳥と獣が入り混じったような魔獣であることは間違いなかった。


「あれが…(怖っかねぇ!)」


「いやだあぁぁーーっ!」

 子どもの泣き叫ぶ声がアンコウたちの真上で響く。


 飛び去ったかと思ったローアグリフォンは、アンコウたちの頭上の空を大きく旋回していた。

 そして、そのローアグリフォンとともに、小さな子供の姿も見えていた。


 ローアグリフォンは体つきは動物のようであったが、その足には4本ともに鳥のようで大きなカギヅメがついていた。


 空を飛ぶ子どもが生きているのは、その子どもがローアグリフォンの巨大なカギヅメに掴まれているのではなく、何があったのかはわからないが、祭りで使うような派手な色彩の縄がローアグリフォンの後ろ足に巻きついており、その縄のもう一方が、その子どもにからみ付いていたからだ。


 そのために、その子は空を飛ぶローアグリフォンの後ろ足から、縄につながれて宙吊り状態になっている。


(かわいそうだがどうにもできないな)


 この状態を見てアンコウは、いっそ高いところから落ちて、苦しむことなく死んだほうがあの子のためだとさえ思った。


「チッ、」

(ますますやばくなりそうだ、急ごう)


 アンコウはローアグリフォンの登場にさらに危機感を募らせ、あらためて、少しでも早くこの町を出なければと思った。

 そして、アンコウが再び飛び去って行くローアグリフォンから視線をはずし、馬の手綱を引こうとしたとき、


「待てぇーっ!!」

「ちょっ!マニさん!?」

 マニが飛び去っていくローアグリフォンの後を追って、突然全力で馬を走らせ始めた。


 マニたちは土煙をあげながら馬を走らせ、その場にとどまるアンコウから急速に離れていく。


「待てぇーー!」・・・・・………


 おそらくマニと同じ馬に乗るテレサも何か言っているのだろうが、もうすでにアンコウの耳にテレサの声は聞こえていない。


 アンコウは口を半開きにし、瞬きもせず、どんどん小さくなっていくマニたちが乗る馬を見ていた。アンコウは、何度マニの猪暴走をみせられても慣れない。


 しかし、あきれにあきれたマニの行動にアンコウが呆然としたのは実際には極短い時間だった。

 わずかな時間で我を取り戻し、自分が乗る馬のほうに目をやったアンコウは、すでに意を決していた。口は一文字に硬く閉じ、目つきは鋭く前を見る。

 そして、アンコウも馬を走らせ始めた。


 テレサやマニに背を向け、町の南門を目指して。


 アンコウがゆく道の先にマニたちの姿はない。アンコウは可能な限り、走る馬の速度を上げていく。


(仕方がない。マニの馬鹿にはこれ以上付き合っていられないし、これも運命だ。こっから先はテレサの運次第だ。俺と一緒に来たら必ず生き残れるってわけでもないからな)


 そう、マニはともかく、アンコウはわざわざ迎えにいったテレサのこともあっさりと切った。

 あれだけかっこいい台詞をテレサにむかって言っていたのに。ほんの少し前、やさしくテレサを抱きしめていたのに。


 アンコウは、できればもうグローソン公には会いたくないと思っているが、腕輪のこともある。

 グローソン公との賭けの勝ち負けに関係なく、成り行き次第で、またグローソン公たちに会う必要が出てくるだろうと思っていた。


 その過程で、ここでテレサと別れても、生きていればまた会うことになるかもしれない。だからテレサを見捨てたわけではないと、アンコウは都合の良いように自分の中で理由付けた。


 それに、たとえこれでテレサと2度と会うことがなくなったとしても、自分と一緒に行くのもマニと一緒に行くのも、テレサの今後の人生の可能性に大きな差はないだろうと、お互いの人生の行く道がここで分かれただけだと、アンコウは割り切ったのだ。


 多少アンコウを擁護するなら、アンコウは自分の死後、あるいは行方不明時のテレサの処遇については、テレサの奴隷の首輪にきちんとしるしてある。


 テレサにつけられている首輪はアンコウの腕輪と違い、非常にチープな代物だ。所有者であるアンコウ以外でも、よほどひどい奴隷商会でもない限り簡単に取り外すことができる。

 この騒乱が静まった後で、どこかの奴隷商会にでも行けば、その内容は明らかになるだろう。


 むろん、そう上手く事が運ぶためには、テレサが適切な時と適切な人物に恵まれる必要はあるが。それを含めてテレサの運次第である。

 これが、このときのアンコウが選んだアンコウにとっての最善の選択だった。


「行こう」


 アンコウはひとりつぶやき、逃げまどう人たちを避け、テレサたちとは違う方向に遠ざかり、小さくなっていった。





「ちょっ、ちょっとマニさん!どうするつもりなの!」


 テレサは振り落とされないように、もの凄い速さで走っている馬のたてがみを必死で掴んでいた。


「決まってる!あの子を助けるんだ!」

 マニはそう言うとさらに走る馬の速度を上げた。

 

 普通の女なら、とっくの昔に振り落とされているだろう激しい馬の走りであったが、テレサは両足でしっかり馬の胴を挟み、両手でしっかりと馬のたてがみを握っており、一度も落ちそうはなっていない。

 テレサの筋力があればこそなせることだ。


 マニの手綱さばきも見事なもので、先ほどまではアンコウにあわせて、馬を走らせていたようだ。

 マニたちが追っているローアグリフォンも本気の速度は出しておらず、マニたちは離されることなく、ローアグリフォンについて走ることができていた。


ドオォンッ!

「フギャーッ!」

 突然の爆発音とローアグリフォンの悲鳴。


 地上から飛んできた火球がローアグリフォンを捉えた。


 しかし、たいしたダメージもローアグリフォンに与えていない。

 マニたちの視線の先に、今の攻撃を行ったと思われるダークエルフの男と、長槍を手に持った数人の戦士が道の真ん中に立っている。


 どうもこのグローソン軍には、比較的多くのダークエルフが属しているようだ。

 そのダークエルフが、続けて2発目の精霊法術による攻撃を行おうとしていた。


「グゥギャアァァーッ!!!」


 自分を攻撃してきた地上にいる者たちに頭を向けたローアグリフォンは、大きく口を開き、彼らに向かって凄まじい咆哮ほうこうをあげた。

 これは、ただの咆哮ほうこうではない。破壊的な音波振動を伴うローアグリフォンの持つ攻撃手段の一つだ。


「ギャーッ!」「わぁーっ!」「キャーッ!」

バリンッ!バリンッ!

 ガシャガチャンッ!


 周囲にいる人たちが次々に倒れ、ガラス製と思われる窓や通りのショーケースも次々に割れていく。


 マニとテレサも、怯え暴れた馬の背から振り落とされていた。


「くそっ。テレサ、大丈夫!?」

「え、ええ。驚いたけど、問題ないわ」

 マニもテレサも怪我はしていないようだ。


 ローアグリフォンの破音咆哮によって、2発目の精霊法術による攻撃は阻止された。

 そして、テレサたちの前方で、その攻撃を阻止されたダークエルフが、急降下してきたローアグリフォンによって襲われていた。


 先ほどの精霊法術の攻撃力から推測するに、このダークエルフの戦闘能力はそれほど高くはない。無残にローアグリフォンの鋭い爪によって地面に押さえつけられ、鋭いくちばしと牙による攻撃をうけていた。


「こ、この化け物めーっ、ギャアーッ!」


 悲鳴をあげ、動かなくなるダークエルフ。

 一緒にいた戦士たちが長槍を繰り出すが、まともにあたっていない。


「は、離れろーっ!」


 彼らはローアグリフォンに対する恐怖によって、完全に腰が引けていた。

 そしてローアグリフォンの足元には、おそらくまだ10歳にもならないだろう女の子がいた。


 女の子は幸いにも衝撃少なく地面に着いたようだが、ローアグリフォンの動きにあわせて人形のように地面を引きづられている。

 意識はあるようだが、自分の思うようにはまったく動けていない。


「ガグゥアッ!」


 ローアグリフォンは、前足の下で動かなくなったダークエルフから離れ、咆哮をあげながら次の標的である長槍の戦士たちに向かって鉤爪かぎづめを繰り出した。


「うわぁっ!」

「ヒ、ヒィッ!」

 次々と舞う血しぶき、彼らでは魔獣ローアグリフォンを倒せそうもない。


「あっ!」

 その様子をどうすることもできず、ただ見ていたテレサの口から、小さく驚きの声があがる。

 思うままに暴れ続けるローアグリフォンの背後にもの凄いスピードで迫る人影が見えた。

「マニさん!」


 ついさっきまでテレサの隣にいたマニが、いつのまにかローアグリフォンに接近していた。ローアグリフォンも、未だマニの接近に気づいていない。


「ああっ!た、助けてくれえっ!」


 マニの接近に気づいた長槍の戦士の一人が、思わず叫ぶ。

が、それによってローアグリフォンにもマニの接近を気づかれてしまった。

 ローアグリフォンが接近するマニを見た。


「チッ!」

 それでもマニは走る速度を落とさない。そのまま、ローアグリフォンに肉薄する。      

 眼前に迫ったマニに向かって、ローアグリフォンは容赦のない前爪による攻撃を仕かけた。


「グガアッ!!」


 しかし、上から下に叩き潰そうとでもするように、マニを襲ってきた鋭く大きい鉤爪かぎづめをマニは難なくかわした。


「マニさん!」

 その様子を少し離れたところから見ていたテレサが思わず声をあげる。


 ローアグリフォンの初撃をかわしたマニは、地面を力強く蹴り、大きく跳びあがった。そして、ローアグリフォンのさらに頭上を舞うように飛んだ。

 マニは、そのままローアグリフォンの頭を跳び越え、再び地面に着地。


ズザアッ!


 マニは周りで血を流しながら倒れている者たちを一顧だにすることなく、地面についた瞬間、気合一声、

「オオッ!」 ローアグリフォンに斬りかかった。


 それに気づいたローアグリフォンは後方に飛びさがるが、完全にかわすことはできず、女の子が引っかかっていない方の後ろ足を、マニの剣によって斬り裂かれた。


ザシイャッ!

「グギャアァ!!」


 マニの戦闘に関する能力は高い。このチャンスを見逃すわけもなく、さらなる攻撃を加えようと動き出そうとしたとき、少し離れたところにいるテレサの声が聞こえた。


「マニさんっ!上よっ!」


 そこには、別の方向から、いつのまにか近づいてきていたローアグリフォンがもう一頭、上空から猛烈な勢いでマニにむかって襲いかかろうとしていた。

 テレサの声に反応したマニは瞬時に体をひねり、そのままの勢いで宙を斬り裂く。


ザシイャッ!

「グギャーッ!」


 飛び散る青い鮮血。

 その青い血とともに、新たに現れたローアグリフォンの前足が一本、マニの足元に転がった。


 しかし、その足を一本斬り落とされたローアグリフォンは、地面を転がることなく片足で踏みとどまり、強烈な怒りの形相でマニをにらみつけていた。


「グゥギャアァーッ!」

 そのローアグリフォンによるマニを狙った破音咆哮が響く。


「ぐうぅぅーっ、ガアアァーーッ!」

 しかし、マニはその近距離からの破音咆哮にも耐えてみせた。


 マニは再び剣を構えて、前足を一本斬り落としたローアグリフォンに向かって攻撃をはじめた。


 少し離れたところで、さっきまで、そのマニの戦いを見ていたテレサが、剣の柄に手を伸ばし身構えている。

「ああっ」(どうしよう!)


 マニが後から現れた一頭に気をとられている隙に、はじめの一頭がその場から飛び離れた。

 そして、次に着地した場所の近くに、テレサはいた。


 マニは新たに現れた もう一頭の相手をしており、マニの助けは期待できない。

 急速にテレサにむかって近づいてくるローアグリフォン。


「大きい、来ないで、」(怖いっ)

 恐怖で体が硬直するテレサ。

 しかし、そのテレサの意識が劇的に変化する。

「あっ」

 近づいてくるローアグリフォンの足には、まだあの女の子が引っかかっていた。


 テレサの目が、その女の子の姿をはっきりと捉えてしまった。

 生きているだけでも奇跡と言えるその女の子の顔は、ただ恐怖に固まり泣いていた。


 剣を構え、戦闘態勢をとったテレサだったが、そのローアグリフォンはテレサを攻撃することなく再び飛び上がり、テレサの頭のすぐ上を通り過ぎ、上昇していく。


「キヤアッ!」


 このローアグリフォンの後ろ足にはマニに斬りつけられた傷があり、その傷から止まらない血が、地面へと流れ落ち続けていた。


 テレサは、自分の頭上はるか上空に飛んでいったローアグリフォンを見つめている。いや、テレサが見ているのは、そのローアグリフォンにぶら下がっている女の子だ。


 テレサの顔についさっきまでの恐怖の色はなく、変わりにその表情にあらわになっているのは怒りだ。


 テレサは見てしまった。自分の頭のすぐ上をその女の子か飛び去っていくとき、恐怖に固まり、涙に濡れた女の子の目がテレサの顔を見たことを。

 そして、声は聞こえなかったが、その女の子の口がテレサを見ながら『お母さん』と動いたことを。


 テレサはその瞬間、自分の体の中を血とともに巡っていた魔獣ローアグリフォンへの恐怖が、血が沸騰するような怒りに変換されていくのを感じた。

 テレサは、その女の子に数年前の幼い頃の我が娘の姿を重ねた。テレサは口を真一文字に固く結ぶ。


(あの子にも母親がいる。きっとこの町のどこかで生きて、あの子を探している)


 魔獣に対する恐怖で、目に溜まりつつあった涙は消え、テレサの目にも怒りが宿る。


 そしてテレサは近くにあった武器屋めがけて走り出した。通りに面して立っているその店は、どこにでもあるごく普通の外観をした武器屋。

 ただこの戦闘のせいで、ショーウィンドウのガラスが一部壊れ、全面にヒビが入ってしまっている。


 そしてその展示用の武器の中に、客寄せ用、あるいは一種の飾り品と思われる大きな強弓ごうきゅうが置かれていた。

 テレサはその店の前まで走ってくるとためらいなく、ヒビの入ったガラスを素手で強く叩く。

 するとショーウィンドウのガラスは上から下に、砂城が崩れるように砕けていった。


 そしてテレサは、展示されていたその大きな強弓ごうきゅうと一本だけ共に置かれていた矢を手に取った。

 その弓にも矢にも派手な装飾が為され、派手な飾り紐までついている大きな弓と矢であった。


「お、おい!ちょっとあんた!」


 するとその店の中からテレサに声を掛けてくる者がいた。どうやら隠れていたこの店の主らしい。


「あんた、それをどうする気だ?」

「ごめんなさい、ご主人。ちょっとお借りするわ。子どもを助けないといけないの」


 店の主も今の外の状況はわかっている。テレサがあの弓で、あの空飛ぶ化け物を射るつもりだということも理解した。


「無茶だ!その弓は一流の武器職人に作らせたものだが、大の男でも一人で引けるもんじゃない。あくまで飾り用の品だよっ」


 テレサはそう言う店主に向かって、微笑を浮かべる。そしてテレサは矢はつがえずに、おもむろに大弓の弦を引いてみせた。


「なあっ!」

 驚きに目を剥く店主。

 テレサは苦もなくその大きな強弓の弦を引いた。このところのテレサの筋力の増強には目を見張るものがある。

「……あんた、抗魔の力の保持者か。しかし、その細腕で」


 店主が驚く顔を見て、テレサはアンコウが自分の二の腕を触りながら、何でこんなに細くて柔らかいのにそんなに力が出るんだと、首を傾げていたのを思い出した。


「お借りしますね。矢は返せないかもしれませんが」


 テレサはそう言って空に浮かぶローアグリフォンをにらみつけた。

(矢はひとつしかない。一発勝負ね)


「あんた!ちょっとまってくれ!」


 今度は店の主はテレサのほうに走り寄ってきた。テレサは少ししつこいと思いながら、近づいてきた店主のほうを見た。


「これを使ってくれ」


 店主は手に壷のようなものを抱えており、それをテレサにむかって差し出した。壷の中には何か液体のようなものが入っている。


「これは?」

「毒だ」

「毒!」


「そうだ。その弓を使ってまともに当てたとしても、あのデカブツにどこまで通用するかはわからん。しかも矢は一本しかない。この毒は強い神経錯乱系の毒だが、うちにある致死系の毒より魔獣相手にはおそらく効果があるはずだ」


「でも、あの子どもに当たったら」


「同じことだろう。このままじゃあの子どもは絶対に助からん。今生きているほうが不思議だ。助けたいのなら、強烈な一撃をあの化け物に入れるしかないんじゃないか?私だってあの子どもを助けてやりたいと思ってるんだ」


「…………」

 テレサは無言のまま、店主にむかってうなづいてみせた。

 そして、手に持つ矢の矢じりを店主が持つ壷の中に突っ込んだ。


「頼んだよ、姉さん。あんたとあの子どもに大精霊様のご加護がありますように」

「……はい」


 毒壷から矢を取り出したテレサは、再び道の真ん中まで走り出た。

 哀れな女の子をぶら下げたローアグリフォンは、宙に浮かび、ほぼ静止している。


 地上では仲間であるもう一頭のローアグリフォンがマニと激しく戦っており、明らかにその戦況はマニが有利な状況にある。

 しかし、宙に浮くローアグリフォンの意識は、マニたちのほうには向けられていない。


 このローアグリフォンは魔獣である自分たちにしか聞けない声を聞いていた。

 ローアグリフォンは無魔素状態における耐性が強い魔獣であるとはいえ、本来ならば魔素の地域からこんなに離れた人の町までやって来るなどということはしない。


 彼らがこの町にやって来た理由はたった1つ、助けを求める彼らの子どもの声を聞いたからだ。

 彼らの子どもが、この町にある屋敷にいわば誘拐監禁されている。今も自由を奪われ拘束されているローアグリフォンの幼獣は、ひとり助けが来るのを待っている。


 そしてその幼獣を攫ってきた犯人は、もはや幼獣が監禁されている屋敷にもいない。


 誘拐犯の白いトンガリ耳は、自分にとって必要なすべての処置をなし、ローアグリフォンの幼獣を放置した。

 そして今頃この町のどこかで、この状況を楽しんでいるのだろう。


 低空で宙に浮かぶローアグリフォンは、声の発信源を探すように遠くをじっと見ていた。

 そしてその状態は、ローアグリフォンにぶら下がっている子どもを助けようとするテレサにとって、まぎれも無いチャンス。


 そのローアグリフォンを見上げるテレサの脳裏にチラリとアンコウの顔がよぎる。

 さっきまで一緒にいたアンコウは、ここにはいない。マニと違いテレサは、アンコウがすでに独り去って行ったことをわかっていた。


 驚きはない。テレサはアンコウがそういう男だと知っているから。

 でも、(ひどい人)とは思う。同じ日に自分を絶望的な状況から救ってくれたかと思えば、あっさりと捨てる。

 自分は奴隷で、アンコウはその奴隷の主だから、テレサはアンコウのことを裏切り者だとは思わない。ただ(ひどい男だ)とテレサは思う。


「……私がやるしかない」


 あの子を助ける。私を見て、涙を流しながら『お母さん』と言ったあの子を助ける。――テレサはそのことに自分の精神を集中させていった。


(だめ。私にあの細い縄だけを射抜く技術はない。この矢をあの大きな魔獣の体に当てる!)


 テレサは意を決して、弓と矢を持つ手に力をこめた。


「時間はないわ」


 テレサは大きく息を吸い、太い毒矢を大きな弓につがえ、その強弓ごうきゅうを引きながら矢先を空に向け静止する。

 それは、大弓とテレサの体から、ギシギシと音が聞こえてきそうな光景であった


 店の中から外を窺い見ている武器屋の店主は、空に向け強弓ごうきゅうを引き絞るテレサを見て、抗魔とはいえ、あの細い腕の女の身で、よくもああも軽がるとあの弓を扱えるものだと感心していた。


 しかし、空に浮かぶ魔獣に狙いを定め、強弓ごうきゅうを引いたまま静止しているテレサ自身に、それほどの余裕があるわけではない。

 ただあの女の子を助けたいとの思いで必死になっていた。


 テレサの額から幾すじもの汗が伝いはじめる。テレサは狙いを定め、ジッと待つ。

 弓を引くテレサの姿勢は美しい。


 テレサに弓の使い方を教えてくれたのもアンコウだった。


『的を見ろ。頭を動かすな。胸を張れ。腕を下げるな。体に型を覚えさせるんだ』


 テレサはいつものように、後ろからアンコウの声が聞こえてきた気がした。


「 くたばれ、このクソ鳥犬」


 テレサはアンコウの口調をまねて、小さな声で悪態をついた。

 風に揺れていた弓についている飾り紐が不意に動きを止めた。そしてテレサは無言のまま矢を持つ手を離した。


ヒイィュューーウンッ!


 風切り音を後ろに残し、飾り紐をたなびかせながら、太い矢がローアグリフォンにむかって一直線に進む。


「グガッ!」

 宙に浮いているローアグリフォンが、近づく矢に気づく。


(お願いっ!当たって!)


 テレサは矢を放った体勢のまま微動だにしていない。ただ心の中で祈っていた。

 ローアグリフォンが矢を避けるためにわずかに動いた時点で、テレサが放った矢は到達した。


「ガガアァウゥーッ!!」


 ローアグリフォンが衝撃に悲鳴をあげる。


 テレサはローアグリフォンの体の真ん中を狙って矢を放った。

 実際には、その矢はローアグリフォンの後ろ足、女の子が引っかかっているほうの足に突き刺さっていた。


 ローアグリフォンの足に矢が突き刺さったのを見て、テレサは息を飲む。まだテレサの目的は達していない。


「グガガァーッ!」

 

 矢が足に刺さった衝撃と痛みで、宙に浮いているローアグリフォンは悲鳴をあげつづけ、矢が刺さった足を振り回すように大きく動かしていた。

 そして、その足の動きに連動して、その足に引っかかっている女の子も大きく揺れる。その女の子の様は、地上からはまるで乱暴に扱われる人形のように見えた。


「ああっ!危ない!」


 テレサは思わず大声で叫ぶ。

 そして次の瞬間、振り回されていた女の子がひとり大きく宙を舞う。ローアグリフォンと繋がっていた縄が切れたのだ。


「ああっ!」


 宙に放り出された女の子の体が重力に引き寄せられ、加速しながら地面にむかって落ちてくる。


 テレサは手に持っていた大弓を放り出し、女の子が落ちてくる場所にむかって必死で走り出した。テレサの目は落ちてくる女の子だけを映していた。


「間に合ってぇーっ!」


ズザザザザァァー!

ドサンッ!!


 テレサは女の子が地面にたたきつけられる前に、しっかりと自分の胸と両腕の中に抱きしめた。


「ぐはっ!」

 地面と女の子とのあいだにサンドウィッチになる形で、テレサは地面にたたきつけられた。

「ぐうっ、」


 それでも女の子は、テレサの胸の中でしっかりと抱きかかえられていた。



 テレサのすぐ目の前に女の子の顔がある。とても軽い。まだ10歳にもなっていないだろう女の子。


「………ねぇ、大丈夫!?」

 テレサはまだ体に痛みを感じつつも、女の子に言葉をかけた。


 女の子の目がテレサの顔を見た。顔中が涙と鼻水とヨダレで汚れているが、そこには何一つ不潔さはない。

 女の子を見るテレサの顔に、子どもを安心させるためのいつくしみの笑みが浮かぶ。


「もう大丈夫よ」


 そうテレサに声をかけられた女の子の顔がぐしゃりと歪む。


「う、うわあぁーん!あー!」


 そして女の子はテレサの腕の中で大きな声で泣き出した。泣き続ける女の子の頭をテレサは優しくなで、つつみこむ様に泣きじゃくる女の子を抱きしめた。


————————


「グガァーッ!」


 マニの剣をうけたローアグリフォンの片翼が青い鮮血とともにドサリと地面に落ちる。

 一対一で戦闘をつづけていたマニとローアグリフォンの戦いも終わりが近い。


 マニの体にも傷はついているがいずれも浅い。

 マニが戦っているローアグリフォンは、テレサに矢を射られた個体よりも一回りほど小さいようだが、それでもローアグリフォン相手に一人で戦い、終始優勢を保っているマニの実力は相当なものがある。


 マニは深手を負わしたローアグリフォンに最後の足掻きをする隙を与えない。

 マニは魔獣が一瞬姿を見失うほどの速さで動き、大きく飛び上がる。

 片翼に前片足をなくしているローアグリフォンは、すでにマニのその動きに対応することができない。


「だあぁーーっ!」

「!!ゲフンッ、」

 ドズウゥンッ!!


 マニの剣がローアグリフォンに深く突き刺さった。しかし、ローアグリフォンは最後の咆哮をまともにあげることもできなかった。

 マニの剣はローアグリフォンの頭の天頂から顎下に突き抜け、最後はローアグリフォンの頭を地面に縫いつけてしまっていた。

 そのローアグリフォンは頭部の周りに血溜りをつくり、そのまま息絶えた。


「があぁぁーっ!」


 最後に響いたのはマニの勝利の雄叫びだった。



 マニの戦闘における勝利を嗅ぎ取る嗅覚は確かなものだ。しかし、そのマニの欠点はおのれの戦闘に没頭するあまり、周りの状況判断をしなくなることだ。


 マニは目の前のローアグリフォンを倒すまで、もう一頭のローアグリフォンとテレサのことを完全に忘れ去っていた。


「あっ、テレサ!テレサはっ!」


 意識さえすれば、当然マニのいる場所からもテレサの姿が目に入る。テレサは地面に座り込んでいた。

 そして、その腕の中に小さな子供を抱えているのが、マニの目に映った。


「テレサッ!大丈夫!?」


 マニは大きな声をあげて、テレサの安否を確かめようといるほうへ向かって走り出した。


 そのときマニの頭の上から、大きな破音咆哮が響いた。テレサに弓で射られたもう一頭のローアグリフォンだ。


「グギイィヤアァァーーッ!」


 それに続いて、

バリンッ!バギィッ!

 バリビシィィッ!

 いろいろなものが壊れていく音が響く。


「ぐうぅぅっ!」


 マニも思わず頭を押さえながら、空を見上げる。

 空の上にいるもう一頭のローアグリフォンは、やはりマニが今倒した個体よりも一回り体が大きい。


 しかし、その様子が明らかにおかしい。宙に浮きながらもがき、相手もなく暴れていた。


「何だ?」


 マニはそのローアグリフォンの様子に驚きながらも再び走り出し、テレサの元まで駆けよっていく。


「マニさん!」

 テレサが駆けつけてくれたマニの名を呼ぶ。


 テレサの腕の中ではまだ女の子が泣いていた。女の子は体中あちこちを怪我しているようだったが、命にかかわるようなものはないようで、テレサはひと安心していた。


「テレサ!大丈夫かい?」

「ええ。マニさんも」

「……その子はあのローアグリフォンに引っかかっていた」

「ええ、この子も大丈夫みたい」


「グギイィヤアァァーーッ!」


 また上空でローアグリフォンが叫んでいる。今度の破音咆哮はテレサたちがいる方向への影響は少なかった。


「くっ、あいつは一体どうしたんだ?」

「あのローアグリフォンに毒矢を射たの。精神錯乱系の毒だって言っていたからその影響かも」


 空の上にいるローアグリフォンは確かに錯乱しているようだ。


「でも、あの破音咆哮、力を増していないか?」


 正確に言えば、力を増しているというより力の制御が利かなくなっているという感じだ。


「……ええ。暴走しているのかしら」


 テレサは錯乱するローアグリフォンのほうを窺いながら、不安そうに言った。

 マニが空で狂乱している魔獣をにらめつけながら、剣を構えなおす。


「テレサ、その子を連れて隠れてて」

 マニのその言葉にテレサがうなずいたとき、

「あっ!」

 と、空を見上げるマニが声を発した。


 そのマニの声に驚いたテレサが空を見ると、ローアグリフォンが足に刺さった矢についている飾り紐をたなびかせながら、どこかにもの凄いスピードで飛び去っていく姿が見えた。


「チッ!逃げたか!」

「……大丈夫かしら。あの魔獣、また町のどこかで暴れるんじゃ……」


 マニが言うようにあのローアグリフォンが逃げたとはテレサは思わない。ただ錯乱しているだけ。

 あのローアグリフォンが錯乱しているのはテレサが射た毒矢が原因。

 そのために錯乱し、さらに暴れだしたあのローアグリフォンが、またどこかで誰かを襲わないかと、テレサは心配になった。

 

 マニは構えた剣を下ろし、テレサのほうを振り返る。


「でも、テレサ。よくやったな」

「えっ?」

「テレサがその子を助けたんだろ」


 マニは、テレサが抱きかかえている女の子を見て言った。テレサが自分の腕の中にいる女の子を見る。


「……ありがと」

 女の子はまだ目にいっぱい涙を溜めながらも小さな声で、テレサにお礼を言った。


 それを聞いたテレサの顔に、心から染み出たような慈愛のこもった笑みが浮かぶ。

 確かに錯乱したローアグリフォンのことは心配だが、この子が助かってよかったと、テレサは自分がしたことを誇らしく思えた。


・・・・・・・・・・・「グギアァァーーッ!」


 遠くのほうから聞こえるローアグリフォンの叫び声がさらに遠ざかっていく………。





 逃げ惑う人を避け、迂回し続けたせいで、思った以上に時間がかかってしまったが、アンコウはようやく南門近くの広場まで到着していた。

 そしてアンコウはすでに視界に入っている門にむかって、休むことなく馬を進めて行く。


 そこにアンコウの名を呼ぶ声が響いた。


「アンコウ殿―っ!」


 アンコウはその声に聞き覚えがあった。

 どうしたものかと一瞬考えたが、このまま無視して町を出ることはできそうもなく、アンコウは仕方なく馬を止めて、声が聞こえたほうを振り返った。


 振り返ったアンコウの視線の先には、馬を走らせ近づいてくるモスカルの姿があった。しかもアンコウにとってまずいことに、モスカルは20人は越えているであろう手勢を背後に付き従えていた。


「チッ、もう少しなのに」


 馬を走らせて、モスカルがアンコウの目の前まで来る。


「おお!アンコウ殿!」

「どうしたんだ、モスカル?」

「どうしたとはこれまた。先ほども言いました。私はアンコウ殿のお世話をするのが、私に命ぜられている役目だと」


 アンコウはこのモスカルと言う男はじつに面倒だと思っている。このモスカルの言葉はそのまま受け取ることはできない。

 そもそもこの男は世話係という名の監視員だ。

 それをこの期に及んで実に誠実面をしてもっともらしく言葉を吐く。間違いなく頭が良いだけに面倒だ。


 アンコウは顔には内心の感情の動き、思索の動きを一切みせることなく、この男を追い払うべく口を開いた。


「いい加減にしろ!モスカル!」


 アンコウは突然モスカルを一喝し、グローソン公ハウルによってはめられた金色の臣下の腕輪が輝く右手を、モスカルにむかって突き出した。


「俺はグローソン公より、直接この腕輪を賜った。いわば、今ではグローソン公の直臣ともいえる立場にある男だ。お前が俺の監視を命じられたときとは違うんだ!」


「お言葉ですが、アンコウ殿。私はお世話役であり、あなたの監視など」


「黙れモスカル!そんな敵を欺くような詭弁はいらない!それともお前はこの腕輪をする俺をいまだに敵か部外者扱いする気か!主君グローソン公ハウルより、直接この腕輪を賜ったこの俺を!」

 アンコウはこれ見よがしに右手の腕輪を見せつける。


「い、いえ。決してそのようなことは」


 モスカルは言葉に詰まる。モスカルは確かにアンコウを監視する役目を与えられていたが、アンコウ自身に別段悪意を持っているわけではない。

 そういう意味ではモスカルは自分に与えられた仕事をこなしているだけだ。


 それにこの時点では、モスカルにアンコウとグローソン公がした賭けについては知らされていなかったのだから、アンコウから何やら不審なものを感じとり、屋敷でアンコウを見失った後も引き続き捜索していたモスカルは、グローソンの家臣としてはとても優秀だ。


「モスカル!グローソン公の直臣としてお前に問う!」


 アンコウはいつの間にやら自分を大嫌いなグローソン公の直臣にしてしまっていた。アンコウとしては、少しでも早く、より良い形でこの町から脱出できればそれでいい。


「この町の状況を見ろ!方々から火の手があがり、あちこちで殺し合いが起こっている。俺はさっき、魔獣が空を飛んでいくのを見たぞ!この町は今戦場になっている。そんな時にお前は何をしている。

 馬に乗り剣をさげ、十二分に戦う力があるにもかかわらず、俺のお世話を致しますだと?恥を知れ、モスカル!

 お前に付き従っているその武装した戦士たちは何だ!そいつらも俺のお世話係なのか!」


 アンコウはモスカルだけでなく、その後ろにいる騎馬の戦士たちをぐるりと眺め見る。その中にはテレサを助けてくれた屋敷で警護兵をしていた2人の男の姿もあった。

 アンコウは次にその者たちにむかって話し出した。


「今お前たちが剣をささげ忠義を誓った主のためになすべきことは何か!今この町にはグローソンに仇なす敵兵があちらこちらに湧いている。

 そいつらを叩き潰す者は誰なのか!戦士たちよ!主君に忠義を捧げしその剣は何を為すためのものなのか!戦士たちよ!お前たちのこの目の前の光景を刮目かつもくして見よっ!

 今まさに、この町の多くの無辜むこの民たちが、凶悪な敵どもに蹂躙じゅうりんされているのだ!

 その罪なき、力なき者たちを無道な暴力から守るのは誰なのか!お前たちの腰の剣は何のためのものか!なぜいまだその腰の剣は鞘の中に納まっているのだ!主君のため、罪なき民のため、その剣を抜き放てっ!!」


 アンコウはそこそこ口がうまい。心にも無いことを次から次へ言葉にして叫けぶ。

 そして最後には、まわりにいる関係ない者たちも足を止めるほどの大声で絶叫するとともに、金色の腕輪が輝く右腕を、天に向かって突き上げた。


 すると、20騎を数える騎馬の戦士たちが、アンコウの絶叫にあわせていっせいに腰の剣を抜き放ち、声をあげた。


「「「オオーーッ!!」」」


 モスカルはひとり剣を抜くことなく、その光景を横目で見つつ、何とも言えない顔でアンコウを見ていた。


 そしてアンコウは上げた右手をゆっくりとおろし、モスカルのほうを見る。

 モスカルは困ったことをする人だとでもいうように、少しあきれたような顔でアンコウを見ていたが、特に怒っているふうではなかった。


「モスカル、少しきついことを言った。謝罪する」


 次に突然謝罪をしてきたアンコウにモスカルは怪訝そうな顔になる。


「モスカル、お前は知恵に優れ、多くの部下に慕われ、主君への忠義疑いなき優れた男だ。それに先ほどはともに剣を持って、許されざる敵どもを相手に戦い、その武勇優れたところも見せてもらった」


 モスカルの顔が少し歪んでくる。アンコウのこのモスカルへのほめ方は、いわゆるほめ殺しに通じるものがある。


「モスカル!このお前の後ろに並ぶお前を慕ってついてきた戦士たちを率いるのはお前しかいない!お前はこの勇敢な戦士たちを率い、我らが主君に弓を引き、民を苦しめる悪逆非道な者どもを討ち取ってくれ!頼んだぞ!」


 アンコウはそう言うとさっさと馬首を返し、門へ向かって走り出そうとする。


「なっ!アンコウ殿!お待ちを!」


 今にも馬で走り出そうとしたアンコウをモスカルは呼び止めた。そしてアンコウは、なぜか悲しそうな微笑を浮かべながら、モスカルたちのほうを振り返った。


「人にはそれぞれの戦場がある。今のこの状況でネルカをあとにするのは俺も辛い。だが、それが主君のため、グローソンのためになるのなら、俺は主命に従い行かなければならないのだよ。

 モスカル!戦士たちよ!この町のことは任せたぞ!」


 アンコウはじつに曖昧に、それらしいことを、それらしいていで言った。

 こんな言われ方をすれば、モスカルたちも言葉が続かない。アンコウは再び南門のほうを向き、馬を走らせはじめた。


(よしっ!成功だ!このまま町を出るぞ!)


 アンコウとモスカルたちの距離がどんどん開いていく。

 モスカルはこれはもう仕方がないと、仲間たちのほうを向き、新たな指示を出そうとしたとき、自分たちの頭の上を大きな影が通過していった。


「なっ!あれは!」

 モスカルはその影が行く方向を目で追う。

「まずいっ!」



「よし!門番もいない。このまま出られそうだ!」

 アンコウが走る馬の足をさらに速めようとしたとき、背後からまたモスカルたちの声が馬蹄の音とともに聞こえてきた。


「アンコウ殿ぉー!」


(あいつまだ追いかけてきていやがる。しつけぇっ)


 モスカルが再び追ってきていることに気づいたアンコウだが、もう後ろを振り向かなかった。

 ある程度の距離はあけた、門もすぐ目の前にある、このまま門を走り抜け、彼らから逃げることを選択した。それでも追いついてくる者がいたら、町の外で斬ればいいとアンコウは考えた。


 しかし、その時、

ブワアッ!!

 アンコウの背後から凄まじい突風が吹いた。

 しかもただの風ではない。アンコウは風が吹き抜けるとともに強烈な悪寒を背中に感じた。


「なんだっ!?」

 アンコウは後ろを振り返ろうとするができなかった。

(えっ?)

 気づけば、アンコウは馬にも乗っていない。


 なぜかアンコウは馬で走るよりも速いスピードで宙に浮きあがる。それと同時に、アンコウの右肩に強烈な痛みが襲った。


「ぎいぃやあぁーっ!」


 宙に浮いたアンコウが、突然襲ってきた強烈な痛みに耐えかねて、耳をつんざくくような悲鳴をあげた。


 悲鳴をあげるアンコウの目に、間近で見る大きな魔獣ローアグリフォンの姿が映っていた。そして激痛が走るアンコウの右肩にはそのローアグリフォンの後ろ足の鉤爪が突き刺さっている。


 アンコウの顔に血がかかる。自分の血ではない。このローアグリフォンの血だ。

 このローアグリフォンは後ろの両足を怪我しているようだ。そこまで深い傷ではないようだが、一方の足には矢が突き刺さっていた。


 それにどうも様子がおかしい。このローアグリフォンは町の中心部の方角から物凄いスピードで飛んできたと思ったら、アンコウを捕まえるとまた町の内側にむかって飛びはじめた。

 しかも無駄に上下左右に蛇行していて、そのたびにアンコウの体に激痛が走る。


「ウガァーッ!痛てぇーッ!」


 このローアグリフォンは狂っていた。

 アンコウを捕まえたものの特にそれ以上何をするでもなく、捕まえたことを忘れたかのようにただ猛烈なスピードで街中を飛んでいた。

 当然ながら、とっくの昔にモスカルたちの姿は見えなくなっている。


「こ、このっ!ヒィてぇー!」


 アンコウは右肩を掴まれているせいで、自由に右手を使うことができない。

 それでも何とか左手を使い、痛みにわめき散らしながらも、腰に差している赤鞘の魔剣を引き抜いた。

 痛みはおさまらないが、引き抜いた魔剣との共鳴によりアンコウの体の力が増していく。


「ヒグッ!こ、このクソ鳥犬ぐぁーッ!」


 おそらく冷静に対処していたら、ちゃんと共鳴を制御したアンコウなら、十分にこのローアグリフォン相手にも勝つことができただろう。

 ましてや相手は手負いである。しかし、アンコウはこれ以上ないぐらい冷静さを欠いていた。


 初めて戦う種類の魔獣、しかもいきなり空中を物凄い速さで飛んでいる、それにアンコウはとんでもない激痛を感じ続けていた。

 これはさすがにアンコウに冷静になれと言うほうが無理かもしれない。しかし、それでも、この世界の不条理をはねのけて生き残るためには、アンコウは冷静でなければならなかった。


 アンコウの気配の変化に本能的に気づいたローアグリフォンは、空を飛びながらも体を折り曲げるようにして、鋭い鉤爪のついた両前足と大きな牙のついた口を近づけてきた。


 冷静さを欠いたアンコウは痛みと怒りと恐怖のままに、きちんと狙いを定めることなく、何らタイミングも計らず、手に持つ呪いの魔剣をローアグリフォンの体めがけて、ただ力任せに突き上げてしまった。


「うらぁーっ!」

「ギィガァーッ!」

 ローアグリフォンの悲鳴が響く。アンコウの剣はローアグリフォンに刺さった。


 だがそれは、闇雲に突き出した剣が大きな標的にとりあえず刺さったというような一撃。ローアグリフォンが体をひねると同時に、アンコウの肩にもまた激痛が走る。

 その瞬間、アンコウは剣を持つ手を離してしまった。


「ああっ!ああ、痛いぃーッ!ああ、剣ぐぁあー!」


 共鳴が消えたアンコウの体から再び力が抜ける。アンコウの赤鞘の剣は、ローアグリフォンの前足付け根に突き刺さっていた。

 しかしそれでも、この魔獣が空を飛ぶスピードは落ちなかった。


 アンコウは何とか再度攻撃を仕掛けようと思うが、魔獣の前足に刺さった剣には手がとどかない。

 予備の武器や精霊封石弾が入った魔具背嚢は、ローアグリフォンに掴まれる際に襷紐たすきひもが切られたらしくなくなっていた。長旅に備えてもう1つ体に巻いていたボロい魔具鞄の中には攻撃に使えるような物は何も入っていない。


「ああ、クソッ!」

そして、

「グギイィヤアァァーーッ!」

 響くローアグリフォンの破音の咆哮。


「ぐわあぁ!み、耳がぁーっ!痛てぇーッ!」





 テレサとマニは、とりあえず武器屋の中で簡単に自分たちに治療を施したあと、再び様子を見に外に出てきていた。

 ローアグリフォンから取り戻した女の子も奇跡的に命に別状はない様で、気の良さそうな武器屋の店主に戦いが落ち着くまで預かってもらうことにした。


 今テレサはひとり武器屋の前の道に立っている。マニは少し前に近くまで偵察に行ってくると姿を消した。

(ほんとに偵察だけで帰ってくるのかしら)

 とテレサは少し心配している。


 先ほどまでとは違いこの辺りに魔獣の気配はもうない。しかし、町中の至る所から響いてくる戦さ声は間違いなく大きくなっていた。

 戦闘が拡大していることは、その気配からテレサにも察することができた。


「テレサっ」

「あっ、マニさん!」


 しばらくすると、マニが近くの路地から現れた。マニはそのままテレサに走りよってくる。

 マニが抜き身のまま持っている剣には真新しい血がついていた。やはり偵察だけではすまなかったようだ。


「……でもよかった。戻ってきてくれて」

「ん?ああ、あっちこっちで戦いが本格化している。でも反グローソンの勢いが拡大しているんじゃなくて、グローソン側の反撃が本格化している感じだ。この戦さ、意外と早くケリがつくかもしれないな」


「そうですか。いくさなんて、早く終わってくれればいいんだけど」

「テレサ、私はグローソン側につくよ。反グローソンの連中はロンドの者というより、ゴロツキが多いみたいなんだ。町中で悪さをしている」


「……そう、じゃあ私は自分の身は自分で守らなくちゃね」

「テレサはどうする。一緒に来るかい?」

「いえ、私も戦闘が終わるまで、このお店に居させてもらおうと思う」

「そうか。うん、それがいいな。アンコウも私たちがこっちの方角にきたのはわかってるはずだから、もうすぐ来るかもしれない」


 マニはそう言ったが、テレサはアンコウが来ないだろうことを知っている。

 テレサはアンコウと別れたとき、マニが走らせる馬のたてがみを掴みながらも、アンコウが自分たちと違う方向、南門の方向に馬を走らせて行くのを自分の目で見ていたから。


「……そうね。どうかな」

「大丈夫だよ。どこかで戦いに巻き込まれているだけさ。アンコウは強いし、しぶといからな。終わったらすぐにテレサのところに来るよ」

「……そうね」


 マニにそう言われても、テレサはアンコウは来ないだろうと思っている。自由になるためにひとりで逃げたんだと。

 テレサはアンコウを責めるつもりはない。だけど、少し悲しく、寂しく、とても不安だった。戦闘がこのまま終わっても自分はどうなるのかしらと。


「バカ」

 テレサは頭に浮かんだアンコウの顔にむかって言った。

「えっ?…バカってそんな」

「あっ、違うわよ!マニさんに言ったんじゃないわ!」

 テレサがあわてて、マニに手を振りながら否定していた時、


グギヤァァーッ!

 ギャイィーンッ!

   ガガァーーッ!!


 立て続けに魔獣の声が突然響いた。


「なんだっ!」

「ええっ!」


 テレサやマニ、そのほか周りにいる人々が空を見上げる。


「「「なっ!」」」


 見上げる空の上を先ほど飛び去っていった手負いのローアグリフォンとは違う複数のローアグリフォンたちが飛び過ぎていった。

 そのローアグリフォンの群れの中の一頭が、子どもと思われる小さな幼獣を足で大事そうに掴んでいた。


 彼らは目的を果たしたのだ。

 そして彼らの姿は、あっという間に見えなくなってしまった。彼らが飛び去って言った方角を見てマニがつぶやく。


「帰っていったみたいだな」

「えっ?どこに?」

「うん?家じゃないの」

「マニさん、そんなことがわかるの?」

「何となくだよ。そうじゃないかもしれない」

「……そう」

「じゃ行くよ。魔獣がいなくなっても戦さが終わったわけじゃないからね。すんだらここに戻ってくるから」

「ええ、待ってい」

ギャガガアァー!!

 テレサたちの耳に再び魔獣の咆哮ほうこうが聞こえた。


「えっ!また!?」


―――――


 空中で、痛みに悶えながらもアンコウはあがき続けていた。

 アンコウは痛みで頭の中がいっぱいになっていても、さすがに現在の自分が置かれている状況はもう理解できていた。


 それはもう最悪である。多くのことを耐え忍び、多くを捨てて、ようやくこのネルカを脱出する直前まで行っていたのに、アンコウはローアグリフォンという魔獣に捕まり、空を飛び、激痛に悶えていた。


「ふざけんじゃねぇぞーっ!このクソ鳥犬があぁっ!」

 

 アンコウが共鳴をおこす為の赤鞘の剣は、この気違いローアグリフォンに突き刺さったままだ。手を伸ばしてもアンコウの手はとどかない。


「痛てえぇっ!」


 肩にこの化け物の鉤爪がめり込んでいる状態で、空を猛スピードで飛んでいるのだ。血も痛みも止まるわけがない。

 それでもアンコウは何とかこの鉤爪を外させようと足掻いた。地面に落ちれば何とかなると思い。喚きながら、アンコウは暴れつづけた。


 しかし共鳴をおこしていないアンコウの力では、狂気の力を発揮しているローアグリフォンの鉤爪を外すことはできない。


「グケエェェーーッ!」

 ローアグリフォンが思い出したように破音咆哮を発する。

「ぎゃあーっ!み、耳がぁー!」


 空の上のアンコウは、何と忙しいことか。

 そのときアンコウの視界の中に、派手な色をした紐のようなものがたなびいているのに気がついた。

「あ?」

 アンコウがそれを見ると、その派手な紐は、ローアグリフォンの足に突き刺さっている矢につながっていた。


 アンコウは痛みをこらえつつ、その紐に手を伸ばす。風向きが味方してくれたこともあって、アンコウの手はその紐を掴むことができた。

 何か考えがあったわけではない。藁をもつかむ思いで、アンコウはその紐をつかんだ。そしてアンコウは思いっきりその紐を引っ張った。すると、


「グギイイヤアァァーッ!」

 再び響くローアグリフォンの破音咆哮。

「ぎゃあーっ!み、耳がぁー!」

 さらに、アンコウを掴むローアグリフォンの鉤爪に力が入る。

「ぎゃあーっ!痛てえぇーっ!」


 その紐を引っ張ったことでアンコウはただ無駄に痛い目をみた。アンコウは掴んでいた派手な紐を投げ捨てるように手放した。


「ハガッ、ハガッ、ハガッ、こ、このクソ鳥犬があぁぁ、ふがっ!?」


 今度はローアグリフォンは、何の意味もなく急激に高度を下げ、さらに飛ぶ速度をあげながら方向転換をした。

 それによってアンコウに強烈なGがかかる。アンコウはもう声も出ない。


「!!~~~~!!」


 さらに、いかれたローアグリフォンは方向を転換した後も速度を落とすことなく、地上からかなり低い高さを飛び続けた。


―――――


「テレサ!気をつけて!こっちにむかって飛んでくる!」


 マニの言葉を聞くまでもなく、テレサは緊張で身を硬くしながら身構えた。

 マニが家に帰ったと言ったローアグリフォンが、一頭だけ物凄い速度で自分たちのいる方向にむかって飛んできていた。その速さを考えれば、自分たちが逃げる時間はない。


「あっ!」

 テレサは飛んでくるローアグリフォンを見て2つの事に気がついた。


 ひとつはそのローアグリフォンの足には派手な飾り紐がくっついた矢が刺さっていること。

 この時点でこのローアグリフォンは、少し前にテレサが毒矢を射て、女の子を助けたあの個体にまちがいない。


 そしてもうひとつは、このローアグリフォンはまた人間をその足にぶら下げていること。

 しかも今度は縄が巻きついているわけではない。鋭く大きな鉤爪でしっかりとその人間を掴んでいる。


「…あ、あ、あれは」


 しかもテレサはその捕まっている人間の顔に覚えがあった。

 テレサの横にいるマニが叫んだ。


「ああっ!!アンコウだ!!」


 テレサはその光景を見て、目は見開き、全身が硬直した。

 テレサはあの錯乱してどこかへ飛んでいってしまったローアグリフォンが、また町のどこかで暴れるのではないかと恐れた。その心配はテレサが予想だにしていなかった形で現実となっていた。


 アンコウを捕まえたままそのローアグリフォンは、低空を維持しながらも地上に降りる気配はなく、猛スピードのままテレサたちの頭上を通過していく。

 アンコウの声は聞こえなかったが、アンコウが暴れている姿はテレサたちの目ではっきりと確認することができた。


 マニは剣を突き上げるが、剣がとどく高さではない。弓を用意する時間もなかった。


「アンコウを返せーっ!」


 地上の道にはローアグリフォンが飛んでいったあとに、あの固体のものであろう青い血が転々と落ちていた。

 いつのまにかテレサの頬にも空から落ちてきた血がついていた。テレサがその頬を自分の手でぬぐう。

「赤い」

 テレサの手に着いた血は赤かった。これはローアグリフォンのものではない。アンコウの血だ。


 アンコウを捕まえていたローアグリフォンは、さっき子供を抱えて通り過ぎて行った群れとはまったく違う方向に飛び去っていく。

 そして、そのローアグリフォンの影はすでに彼方となっていた。


 テレサは体を震わせながら、無言でその影を見つめていた。そしてそのわずかな影すら見えなくなってしまったとき、テレサは膝から地面に崩れ落ちた。


「………ああぁ」



―――――


「ぐわあぁーっ!痛てぇーっ!」


 アンコウにはテレサもマニの姿も確認できなかった。そんな余裕はなかった。

 このローアグリフォンは今は町の城壁を越えて、さらに飛びつづけていた。

 マニがいう家に向かって飛んでいるわけではないだろう。この魔獣は未だ錯乱し続けているだけなのだから。


「グギアァァーーッ!」

「ぐわぁっ!み、耳がぁーっ!痛てぇっ!離せぇーっ!」


 そしてあっという間にアンコウたちの姿は、町の城壁の上からも見なくなってしまった。

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