第32話 薔薇の思い出

 はじめのころほど大きくはないが、散発的に町のほうから爆発音が響いていた。これがグローソンに反発する者たちが仕掛けた一斉攻撃であろう事はほぼ間違いない。


 このネルカ城本館にいる者たちもすでにあわただしく動き始めている。

 しかし、この城の現在の主であるグローソン公ハウルは、いまだ現在起こっている騒動とは関係のないアンコウたちの相手をしていた。


「殿、これは尋常ならざる事態かと」

「ああ、そうだな。だが、いつものことでもある。そうであろう、バルモアよ」

「…ははっ」


 バルモアは、軽くグローソン公に頭をさげた。

 バルモアはハウルの古参の家臣。グローソン公のゆく所に戦いあり、その修羅の道を骨身に染みて知っている男でもあった。


「ふふふっ、だが、確かに遊んでいる場合ではないな」


 アンコウとマニもバルモアにうながされて、グローソン公の近くまで来ていた。


「アンコウ、先ほども言った。賭けは貴様の負けだ。よいな」

 ハウルはアンコウのほうに目を向けて、問いかける。

「……はい」

「マニよ。貴様もこれ以上、手間をとらせるようだったら、まずこのアンコウの首が飛ぶことになるぞ」


 ハウルは凄むわけでなく、淡々とした口調で言った。

 それがかえって、脅しではなくハウルが本気であることをマニにも感じさせた。マニは反抗することなく、無言でうなずいた。

 それを見てハウルは、再びアンコウに視線を移す。


「もはや時間もない。手短に言うぞ。よいかアンコウ、これは話し合いなどではない。決定事項だ」

「あ、し、しかし、」

「今一度チャンスをやると言った。口をはさむな、アンコウ」

「は、はい」


 ここまで力及ばぬまでも粘ってきたアンコウだったが、もはやグローソン公が言う決定事項というものを受け入れるほかなしと口をつぐんだ。

 マニも抵抗するそぶりなく、おとなしくアンコウのうしろに控えている。


(仕方がない。本当に祈るだけになったな)


 グローソン公がアンコウに今一度やると言うチャンスというものが、単にグローソン公が楽しむためだけの遊びではなく、本当に自由をえる可能性があるチャンスであって欲しいとアンコウは願った。


「何、簡単な話だ。見てのとおり仕事が入ってな。私はこれから少し忙しくなる。アンコウ、貴様はそのあいだにどこへなりと逃げよ」

「はっ?」


 どういうことだと、理解しかねているアンコウを見て、ハウルは薄笑いを浮かべた。


「鬼ごっこみたいなものだ。子どもでもわかるだろう。しかし、私も忙しいからな。鬼はバルモアにしてもらうとするか。そうだな……1ヵ月、逃げ切れたら貴様の勝ちだ。

 バルモア以外の配下の者たちを使って、直接お前を捕まえさせることはさせぬし、他の者には賭けの具体的な内容は伏せておく。ただし情報収集はさせるし、そのための手配もかける。

 それでもお前が逃げ切ることができれば、自由になることを認めよう」


「……1ヵ月」


 アンコウは、その条件ならば逃げ切れる可能性があるのではないかと思った。

 それでもアンコウは自分が勝ったとして、この男が本当に負けを認めるのかどうか、正直信用はできなかったのだが、一時的にでも逃がしてもらえるのなら、本当にそのまま逃げてしまえるのではないかとも考えた。

(悪くない話だ)


「それで公爵様、その鬼はいつから追いかけてくるんですか」

「そうだな。今、この町にあがっている火をすべて消し終えたら、とでもするか」


 アンコウは聞きながら考える。町にあがっている火がすぐに消されてしまったとしたら、町を出る前に捕まってしまうんじゃないかと、それに、


「情報収集要員のほうがずっとつけて来るとか?」

「……ふぅむ……」


 ハウルが少し考え込んでいるのを見て、アンコウは(こいつ誰かに後をつけさせる気だったな)と思った。


「ふむ。では情報集めを始めるのは今日の陽が落ちてからとするか」

「いや!それは早すぎます!」

 アンコウは思い切って口をはさむ。

「貴様、決定事項だと言っただろう」


 グローソン公はギラリとアンコウをにらむが、

 (いま考えたくせにっ)と、ここはアンコウも後には引かなかった。


「……よかろう、ならば明日の日の出ひのでだ。それまでは貴様に関する情報を集めることはしない。それに明日の日の出ひので前に、このネルカにあがっている火をすべて消し終えたとしても、バルモアは待機させておく。

 どのような形であれ、お前を追い始めるのは明日の日の出ひので以降ということだ」


 ハウルが少し譲歩した。アンコウは、これ以上抵抗するのは危険だと思い、グローソン公にむかってうなずいてみせた。

 逃げ切れる可能性はあるとアンコウは表情を変えることなく心の中で思う。

 それに、だったらこんな町、1ヵ月でも1年でも灰になるまで燃え続ければいいとアンコウは思った。


「よし、バルモアあれを」

「はい」


(……うん?)

 グローソン公に声をかけられたバルモアが、突然アンコウに近づいて来た。そしてバルモアは、そのままアンコウの右手をとった。


「ちょっ!何をしてるんだっ」

「これを貴様の腕にはめる」


 バルモアはアンコウの右手をつかんでいる手と逆の手につかんでいるものをアンコウに見せた。


「なっ、その腕輪、魔具かっ!」

「そうだ、アンコウ。お前はそれをはめるのだ」


 グローソン公が、バルモアの持つ腕輪をあごで示しながら言った。魔具の腕輪、その道具としての原理は、奴隷たちがしている首輪とまったく同じものだ。


「ふ、ふざけるな!」


「心配するな。その腕輪に刻まれている印章と文字を見よ。それはこのグローソン公ハウルの配下であることを示すものだ。お前にはそれをつけて逃げてもらう。

 アンコウ、それは誰にでもつけることを許しているものではないのだぞ。私が認めたわずかな者たちにだけ、つけることを許している。光栄に思えよ」


「何が光栄だ!」


「アンコウ、お前は賭けに負け、私の配下となった。そのうえでもう一度チャンスをやろうというのだ。そして、お前はそれを受け入れた。ここに至って条件が気に入らないからおりると言うのなら、お前は腕輪ではなく、首輪をはめることになる。奴隷の首輪だ」


「ふ、ふざけるなって言っているだろう!」

「ほう、まだそのような口を利くか。ならばこのまま奴隷になるか?お前も一度奴隷になれば、今の自分でも十分自由であったと知ることができるぞ」

「必要ねぇ!奴隷は経験済みなんだよっ!」


 ハウルは何かを思い出したように少し目を見開く。


「……ああ、確かそのようなことも聞いていたな。ならば、よほど待遇の良い奴隷であったか、それともお前の記憶力に問題があり、その辛さを忘れてしまったかいずれかであろうな。

 よいかアンコウ、奴隷はただのモノだ。その命も尊厳を守る自由すらない。それに比べて我が配下になるということは自由をなくすということではない。それどころか、世間的には出世以外何ものでもない。

 にもかかわらず、お前がこの状況でいつまでも自由、自由と叫ぶのはまるで別の世界の話を聞いているようだ」


「勝手なことを言うな!」


 おそらく、ここでこの腕輪をアンコウがはめるというならば、所有者の血を使うのではなく、精霊法力を注入する方法で腕輪をはめることになるだろう。

 そして、それを為すのは、バルモアかハウル自身になるはずだ。


 魔具というもの自体が、魔石を加工・利用して特殊な力を付加されて作りあげられた道具であり、それを作ることができるのは、それに適した精霊法力を有し、魔工の術を行使することができる魔工匠といわれる者たちだ。


 バルモアが手にしている魔具の腕輪は、素人のアンコウが見ても相当に優れた者の手によるものだとわかる。テレサが首にしている首輪などとは段違いの品だ。


 この腕輪にハウルかバルモアクラスの法力をこめてアンコウの腕にはめられたとしたら、その法力の強さと質ゆへに、法力をこめた本人以外には相当優れた力を持つ魔工匠でないと腕輪を外すことができなくなる。


 しかも、この腕輪にはこの腕輪をしている者がグローソン公の家臣であることが印されている。


 この手の道具はたとえ奴隷でなくとも、普通、主の許可なしに外すことは許されないとされているものだ。勝手に外せば、腕輪をしていた者もそれに手を貸した者も罪に問われることになる。


 一度この腕輪をはめられてしまったら、これをはずすためには、この腕輪をはめるための法力をこめた本人に頼み込んで取ってもらうか、腕輪に印された主君であるハウルに許可状をもらって、それだけの腕を持つ魔工匠のところにいくしかない。


 そんなことはできるわけがないし、アンコウには、それでもこれを秘密裏にはずしてくれるような優れた魔工匠の知り合いなどいない。


 仮に約束の期限を逃げ切れたとしても、腕輪を取るためにはハウルの元に一度は戻ってくる必要があり、その時にハウルが本当にアンコウを自由にしてくれる保証など、どこにもないのだ。


 無論、逃げて腕輪をしたまま一生を過ごすという選択肢もあるだろうが、それでは一生指名手配の逃亡犯のようなものである。


「口をはさむなといっても聞かず、条件を受け入れもせずに自由、自由。あげくに勝手なことを言うなだと?馬鹿が。

 いいから、早くその腕輪をはめて逃げろ。そして俺を楽しませろ。そうすれば、捕まっても俺の配下になるだけだ。拒否すれば、この場で奴隷にしてやる」


 グローソン公はわずらわしそうに言った。アンコウは口をつぐみ考えている。


「ぐぐっ」



――ドォォーン――


 城下町のほうでは、いまだ爆発音が響きつづけていた。

 やはり気にはなっているのだろう、ハウルはわずかな時間、町の方向に目をむけた。


 しかし、再びアンコウのほうを見たその目には、やはりあせりの色などはなく、アンコウに交渉の余地などはありそうもなかった。


「………アンコウよ。これ以上は時間の無駄だ。お前にこれから奴隷には自由がないという意味を思い出させてやる。そうすればどのような条件でも受け入れる気にもなるだろうて」


 ハウルは妙な笑みを浮かべながらそう言うと、いきなりアンコウの肩にある浅い傷口の辺りを強く手でつかんできた。


「つぅ、何をっ!」

「フフッ、はじめから、おとなしく条件を飲んでいればよいものを」


 そして、アンコウに触れたハウルのその手から、突然何かが体の中に流れ込んでくる感覚をアンコウは感じた。

 それは以前アンコウが、名義上このグローソンに属しているエルフのゼルセから、精霊法術による光の玉を体の中に入れられた時の感覚に似ていた。


「何をしているんだ!」

 アンコウの後ろで、その様子を見ていたマニが声をあげた。


 しかし、マニの手がアンコウにもグローソン公にもとどくことはなく、マニはさらに後ろから誰かに引っ張られ、逆にアンコウたちから引き離されてしまった。


「だ、だれだ!離せッ!」

 マニが自分を引っ張る手を振りほどき、怒声をあげる。


 そしてマニが振り向くと、そこにはいつのまにかマニの後ろにまわっていたバルモアがいた。


「これ以上、余計なことをするなと言われただろう?マニ。心配するな、殿はアンコウを傷つけるようなことはなされない。逆に貴様が手を出せば、アンコウの首が飛ぶぞ。殿が先ほど言われたことは、ただの脅しではない」


 バルモアだけではなかった。いつのまにかマニたちのうしろには、アンコウと戦っていたロムや似たような格好をした武装兵たちが控えていた。

 その武装兵たちが、バルモアの合図で一斉に剣を鞘から抜いた。


「マニよ、おとなしく見ていろ」

「む、むうっ、」


 マニは歯を噛みしめながらも剣の柄から手を離し、視線だけをアンコウたちのほうに戻した。



「な、何…だ…」

 アンコウは自分の体が、まったくというわけではないが、思うように動かせなくなっていた。

「ングッ!!」

 次にアンコウは、突然口が利けなくなった。


 口がきけなくなったのは、ハウルが流し込んできた何らかの力の影響ではない。アンコウの目の前には、綺麗な造作をしたハウルの顔があった。

 アンコウの口は、その近づいてきたハウルの唇で塞がれたのだ。


「ふぐぐっ、や、やめっ、な、何をして、ググッ」


 アンコウは思うように体が動かせない、流し込まれた力の影響だけではなく、アンコウをつかむハウルの手と腕が巧みにアンコウの動きを封じていた。

 しばらくして、ハウルがアンコウから唇を離す。


「ブハッ!ぐっ、ペぺッ!…お、お前、何を!」


 ハウルの唇は離れたものの、アンコウはハウルの手から逃げることはできなかった。そして、あらためて間近でハウルの目を見たアンコウは背筋に悪寒が走る。


(こいつの目っ、)

 ハウルの目には色情の色が浮かんでいた。


「フフフ、お前は剣の腕も顔も中の中と言ったところか。あまり好みの顔ではないのだがな。アンコウよ、奴隷はモノだ。思い出したか?何をされても文句も言えない。そうなりたいのか?

……まぁ、それはそれとして、たまには抱かれる側になるのも悪くはないぞ、アンコウ。おぼえて帰るか?」


「ざ、ざけるな…に、二度とごめんだっ・・・」

「…ほう、こちらの経験もあるのか」

「あぐっ、…し、知るかよ」

「おとなしく腕輪をして帰れ、アンコウ。貴様に選択肢などない。くくっ、それともこのまま奴隷になるか?」

「何を、ン!?」


 再びアンコウの口がハウルの唇で塞がれた。

 アンコウは身をよじるが、ハウルに抱きしめられて、まったく逃げ出すことができない。


「んんんっ!!、ンーッ!」


 アンコウの口の中にヌルリとハウルの舌が差し込まれてきた。

 アンコウはどうすることもできず、そのままハウルの好きなようにされるほかなかった。


 男色の嗜好を持つ者は、戦場に身を置く者の中には身分の上下を問わず少なからずいた。ハウルも常日頃から、女だけではなく、そういった目的を含めた寵童を身辺に置いている男だ。


 先ほどアンコウと戦っていたロムも、騎士としてだけでなく、そういう意味でもハウルにかわいがられている者の一人であった。

 それはこの世界のこの時代においては、別段珍しいことでもない。


 しかし、アンコウにはそういった衆道しゅどうの気はまったくない。ただただ気持ちが悪いだけである。

 それはアンコウがこの世界に来て、男を知ってしまった後でもまったく変わることがなかった。


 いや、まったく望まぬことを無理やり知らされたがゆえに、それはアンコウの心のトラウマになっていた。

 アンコウは、他人に自分が過去、奴隷であった時期があるという話はしても、そのことは誰にも話したことがない。


 そして、ハウルの手がアンコウの体を這うように動く。

 ハウルの手指が、アンコウの臀部の溝にまで到達し、さらにその奥にまで力が加えられた。アンコウはその刺激に体を大きくそらす。


「うぐぐっ!!」

(やめろーっ!)

 口は相変わらず塞がれている。大きく体をそっても、ハウルは離れない。

「ウウゥーッ!」


 ついにアンコウの体がプルプルと震えだした。それでもなお、ハウルは舌と指でアンコウを刺激し続ける。

 そして、しばらくするとアンコウの体から力が抜けていった。


「うぐぅーー」


 ハウルはそれを確認すると、ようやくゆっくりとアンコウから唇を離した。


「……アンコウよ。条件を飲み、腕輪をはめるか?私はお前を配下にしても、まず体は求めぬ。私にとっては貴様の存在自体に価値がある。

 お前が我が手中にある、ただそれだけで良いのだ。しかし奴隷となった場合、他の者がお前に何をするかは私は知らぬぞ」


 アンコウは少し頬を赤く染めながら、声は出さず、力無くうなずいた。

 そしてそれを確認すると、ハウルはアンコウから手を放した。ハウルの体が離れると、アンコウはその場に崩れ落ちるようにひざをついた。


「オェーッ!ペッペッ!グェーッ」


 アンコウは両手を地面につくと同時に、えづき始める。


 ハウルの体からにおっていたローズの香りが、まだアンコウの鼻にまとわりついている。

 アンコウの口の中にも同じようなローズ系の香りが、ハウルがアンコウの口の中に残したものからほのかに香っていた。

 それが嫌なニオイではなく、かぐわしい香りであることがさらにアンコウを気持ち悪くさせていた。


 ハウルは、自分が入る風呂の湯にはいつも色鮮やかなバラの花を浮かべ、自分が飲む水の水差しにはいつも清純なバラの花びらを散らし、そして戦場でも芳しきバラの香水を身心にふるうことを忘れない、そんな一面のある男だった。


 それにハウルに強く押され、刺激されたアンコウの尻には、いまだ圧迫され続けているような感覚が残っており、それがアンコウのいやな記憶とともに激しい嘔吐を呼び起こしていた。


「オグエェーッ!」


 ハウルはそんなアンコウを横目で見ながら、バルモアに何やら声をかけ、多くのとりまきを従えて、その場から消えていった。





「ハァハァハァ!どけーっ!」


 アンコウは全力で城の中を走り続けていた。

 城の中も一連の爆発騒ぎのせいでかなりあわただしい雰囲気になっており、普段なら目立つであろう全力で城の中を走り抜けるアンコウの姿も、それほど違和感をまわりに与えなかった。


 走るアンコウの右手首には、金色に輝きを放ち、細やかな装飾がなされた腕輪がはめられていた。

 それはテレサらの奴隷がしている首輪と同様に、その接触面は完全にアンコウの皮膚と一体化していた。


「グーッ!カァーッ!」

 アンコウは走りながら、時おり大声をあげていた。


 アンコウは、グローソン公から渡された例の赤鞘の呪いの魔剣をそのまま所持していた。しかし、その呪いの魔剣はアンコウの腰の赤い鞘に、そのままおさまっている。


 アンコウは奇声のような大声を発しているが、呪いの影響を受けているわけではない。怒りイラ立ちの感情が溢れ出している。

 走り続けたアンコウは城の本館一階、すでに建物の外に出ていた。


「アンコウ、待てよ!ちょっと落ち着け!」


 アンコウのうしろをピタリとついて走っていたマニにアンコウはとめられた。アンコウはここまで、とにかく城の外を目指して闇雲に走ってきた。

 そのことはうしろを走っていたマニにもわかっていたので、建物の外に出た時点でアンコウを呼び止めた。


 足を止めたアンコウは、ゼェゼェと激しく肩で息をしている。それに比べてマニはさほど息を乱していない。

 元々の体力差に加えて、アンコウの精神状態が大きく影響していたのは間違いない。


 しばらくするとアンコウの息も少しずつ落ち着いてきた。その横でマニが心配そうにアンコウを見ている。

 マニも全身にかなり傷を負っているようだが、痛そうなそぶりはまったく見せていない。


 一部始終を見ていたマニには、アンコウがここまで取り乱している理由がよくわかっている。マニはアンコウの息が整ってきたのを見て、アンコウに声をかけた。

 マニがアンコウの肩に手を置く。


「アンコウそんなに気にするなよ。キスをされて、ちょっと尻を触られただけだろ?ほら、お前私に言ってたじゃないか、胸や尻を触られてもとりあえず笑っとけってさ」


ボガァッ!

「痛ったあッ!」


 アンコウは拳骨げんこつで思いっきり、マニの頭を殴った。マニは痛そうに両手で頭をおさえている。


「マニ!2度と俺の前でその話をするな!」


 アンコウはマニのほうをジロリと見てから、まわりを見渡す。アンコウは少し落ち着いてきた頭で、これからどうしたものかと考えはじめていた。



「アンコウ殿!待ってください!どこに行かれるんです!」


 建物を出てすぐの場所に立っていたアンコウに、声をかけてくる者がいた。


「……あ?」

 その声のした方向にいたのはモスカルであった。モスカルがアンコウのほうにむかって走ってきていた。

(そういえば、途中で見かけたな)


 アンコウは、ここまで走ってくる途中のどこかの廊下でモスカルらしい人物とすれ違っていたのを思い出した。

 そういえば、何か大声で叫んでいたようだったが、ここまでついてきたのかとアンコウは思った。


 モスカルは先ほどの屋外広場で一時顔を見せたが、ハウルと少し話しをしてすぐにその場を離れていた。ゆえにモスカルは、まだあの屋外広場での顛末てんまつは知らないはずである。


「はぁはぁはぁ、ア、アンコウ殿いかがしたのです?」


 アンコウのすぐ近くまで走ってきたモスカルが、息を切らしながらアンコウに話しかける。モスカルは話しかけながらも、うしろをチラチラと見ていた。

 アンコウはモスカルに答える前に、まずマニのほうをチラリと見た。これは余計なことを言うなよと、アンコウはマニに目で合図した。


 マニに通じるかどうか不安だったが、マニは小さくうなずいていた。

 アンコウは、本当にわかってんのかと少し怪しげな思いでマニを見ていたが、すぐに視線をモスカルに戻す。


「誰も追ってこないぞ、モスカル。俺は逃げているわけじゃない。心配するな」

「し、しかし、ではなぜ?殿様とのお話は?」


 モスカルはアンコウの言ったことをまったく信用していないようだった。

 それは当然で、モスカルはつい先ほどまでアンコウたちが自分の主君であるグローソン公ハウルと斬り合いをしていたのを見ていたのだから。


「その殿様から、用事を仰せつかってな。喜びのあまり、おもわず城中を走ってしまったんだよ。驚かせたかい?もう落ち着いたよ」


 無論、アンコウのそんな言葉をモスカルが信じるわけはない。

 アンコウの言いようも実に適当なものだった。そして、さらに疑わしそうな目でアンコウを見るようになったモスカルに、アンコウは黙って右手を差し出してみせた。


「なっ!そ、それは、アンコウ殿!」


 アンコウの右腕につけられている金色に輝く腕輪、それが何を意味する腕輪なのか、モスカルにもひと目でわかったようだ。


 この臣下の腕輪は、アンコウがひどくえづいている間にバルモアが手早くつけた。

 アンコウにとっては不本意極まりないクソ腕輪であったが、こうしてつけられてしまった以上、利用できるものは何でも利用するというのがアンコウのポリシーだ。


「そういうことだ。早速、公爵様から仕事をいただいた。急ぐんでな、城の馬を借りていくぞ」


 アンコウは少し離れたところに見えている、うまやを見ながら言った。


「し、しかし」

「ウソだと思うんなら、殿様に聞いてきたらいい。おれたちは急ぐんだ」


 アンコウは、今のモスカルは自分がしているこの腕輪の真の意味を知らないとわかって話をしている。

 そして、今はモスカルは何も知らないかもしれないが、遅かれ早かれ、いずれグローソン公との賭けの存在を知るのも間違いない。


 アンコウを直接捕まえることができる鬼はバルモアだけだが、ほかのものにも情報収集はさせるとグローソン公ハウルは言っていたし、それに情報収集などと言っても、実際は何をしてくるかはわかったものじゃないと、アンコウは思っていた。


 ならば、アンコウとしてはグローソンに属する者たちは全員敵だと思っておくべきだし、モスカルも当然その中に含まれる。

 少なくともモスカルのような人間にいつまでも付きまとわれていれば、このまま逃げ切ることなどできるわけがない。


 それにアンコウは、まだ自分の感情もこれからの方針も整理しきれていなかった。

(もう少し、落ち着いて考えをまとめたい)

「マニ、行くぞ」


 アンコウがマニに声をかけて、うまやのほうにむかって歩き出した。マニはアンコウの横に並ぶと、そのままついて歩いていく。


「……マニ、いまは余計なことは誰にも話すなよ。モスカルにも、たとえグローソンと関係ない者にもだ。今は何の計算もなしに、わざわざ情報を広めるようなことはしないに越したことはないだろう」

 アンコウは小さな声で、横を歩くマニに言った。


「ああ、わかっている」

「あいつらにどれほどの諜報探索能力があるかはわからないが、とにかく逃げ切ればいいんだ」


 アンコウが今いる場所からは、うえの屋外広場にいたときのように町全体の様子を確認することはできなかったが、遠くからあがっている煙は今も視認することができた。

 それに、おそらくそう遠くないであろう場所から怒号混じりの大勢の人の声の波が、アンコウの耳にもとどいていた。


 アンコウは、自分が逃げるうえではこの騒動は実に好都合であり、いまがチャンスであるととらえた。


「待ってください!アンコウ殿!」

 うまやへむかうアンコウたちの後ろを、モスカルは追ってきた。

「…チッ、」

(面倒だな、ついてくるなよ)


 アンコウは足を止めて、追ってきたモスカルのほうを振り返る


「何だよ、あんたもグローソン公から何か命じられてたんじゃないのか?」


「先ほど殿様から命じられたことは、すでに済ませています。緊急配備の手配をとるよう皆に伝えただけですから。私本来の今現在の任務は、あなたの世話をすることなのです」

 そう言ったモスカルに、アンコウはあからさまに不愉快そうな顔をむけた。


「俺はもうあんたに監視される立場じゃない。公爵のところへ行って、事情を聞いて来いよ」


 アンコウは再び、臣下の腕輪をはめている右腕をモスカルにむかって突き出した。


「いえ、私ごときの身分では、お声がかりも無いのに自分の都合で殿様に会いに行くなどできません。まして今は、戦時体制が敷かれてしまっています。

 それぞれが自身の判断でその責を果たさねば、叱責の対象とされてしまいます。それにアンコウ殿、私はあなたの監視役ではございません。世話役なのです」


 アンコウはモスカルに賭けの内容を話そうかと思ったが、今の段階で無駄に知る者を増やすのも考えものだと、言葉をのんだ。

 今はここでモスカルとこんな言い合いを続けるよりは、急いでこの場を離れるべきだと思った。


(ここで無駄に時間をつぶす必要はない。こいつの始末は後ですればいい)


 おそらくモスカルは武術の心得はあるとアンコウは思っていたが、モスカルが抗魔の力を持っていないことはすでに確認済みである。

 多少武の心得があろうとも、抗魔の力がない者ではさすがにアンコウと勝負にはならない。モスカルに関しては、いざとなれば力でどうとでもできるとアンコウは判断した。


「チッ、急ぐぞ、マニ」

「ああ」

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