第29話 グローソン公爵の望み

 グローソン公ハウルは顔に苛立ちを浮かべたまま、自らも元の位置に戻り、椅子に座った。

 グローソン公ハウルは足を組み、先ほどまでの感情が読み取れない目とは違い、明らかに冷たくなった目でアンコウを見ていた。


(なるほど、やはりこの程度の男か)


 アンコウは失敗したと思いつつも必死で自分の心を落ち着けようとしていた。


「………平凡か」

 ハウルがぼそりとつぶやく。


「えっ?」

 ハウルのつぶやきを耳にして、アンコウがうつむいていた顔をあげる。


 ハウルは顔をあげたアンコウを、そのままじっと見つめている。アンコウも何とか怯む心を抑えつけ、逸らすことなくグローソン公の目を見ていた。


―――――――


「……うむ。少しは落ち着いたようだな、アンコウ」

「は、はい」


「はじめに言っておくが、私が貴様をここに呼んだのは、貴様が同郷の者である可能性が高いと判断したからだ。

 しかし、だからと言ってそのことで貴様を特別扱いするつもりは毛頭ない。仮に貴様を敵だと判断すれば、そのときは貴様を殺すことに何らためらいはない。つまらぬ勘違いはするなよ」


 ハウルの目は本気だった。アンコウもそのハウルの言葉が、冗談でも脅しでもないことを瞬時に感じ取った。アンコウは自然と唾をゴクリと飲み込む。


「……は、はい」


 ハウルは十代でこの世界に落ちてきて、現在に至るまで30年以上戦い続け、力で今の地位を勝ち取った男だ。

 その若々しい容貌とはまったくそぐわない威圧感をハウルは放っていた。


(グゥ、ビビるなって言うほうが、無理だ……)


 心も体も萎縮してしまったアンコウに、ハウルが問いかける。


「アンコウ、精霊法術は使えるのか?」

「えっ?使えませんが、」

「なぜだ?」

「えっ?なぜって、」


 アンコウとしては、なぜって何が?という心境だ。

 一般的に精霊法術を使うものといえば、妖精種である場合がほとんどだ。いわゆる妖精種と呼ばれている族人であれば、基本的に精霊法力を用いる能力が、生まれながらにその身に備わっているのが普通だ。


 また、同じ妖精種であっても、例えばエルフ族とドワーフ族とを比較すれば、生まれ持ってくる法力の大小やその法力の持つ特徴に明らかな違いがある。


 しかし人間族においては、法力の大小や特徴以前に、彼ら妖精種が使うような精霊法力を使用できる人間の存在自体が少ない。


 この精霊法力は抗魔の力とまったく別のものというわけではなく、抗魔の力をもって、この世界に偏在する精霊の力を借り受ける、あるいは融合することによって術者の制御下におく力だと認識されている。


 人間族や獣人族は、この抗魔の力を精霊法力に変換する能力に劣り、また法力に変換できるものの中でも、法術として具現化できるものがまた少ないと言われている。


 しかし、今ハウルは、アンコウが精霊法術を使える者がほとんどいない人間族であるにもかかわらず、まるでアンコウが精霊法術を使えないことが、おかしいことであるかのような聞きようをした。


(あっ、そういえば、グローソン公はかなりの精霊法術の使い手だって話だったな)


「本当に使えないのか?」


 アンコウが精霊法術を使えないということはちゃんと情報としてハウルには届いていたが、ハウルは重ねて聞いた。


「…はい、まったく」

「……そうか」


 ハウルはわかっていたことの確認をしただけなのだろうが、それでも軽くため息をついたのは、失望の表れなのだろう。


「俺は使えるぞ」

「……はい」

「俺と一緒にここに落ちてきたやつも使えた」

「えっ……!!」


 ハウルはアンコウが聞き流せない一言を言った。しかし、ハウルは何でもないことのようにごく自然な口調であり、アンコウが驚いているあいだに話を続ける。


「異世界からの落人おちうどは人間でも精霊法術が使える者が多いらしいのだがな」

 ハウルはそう言うと、座っている椅子に大きく息を吐きながらもたれ掛かった。


「そ、そんな話聞いたことがない!」

 アンコウはいまだ驚きつつも、ようやく声をあげた。


「……使えないものは仕方がないか」


 ハウルはアンコウのほうは見ずに、アンコウの声に答えたわけでもなく、つぶやくように言った。


「さて、今後のお前の処遇のことだが、」

 ハウルはさらりと話を変えようとする。

「ちょ、ちょっと待てよ!まだほかにも異世界から来た人間がいるのかっ!」


 ハウルが自分と同じ異世界から落ちてきた者だということの詳しい話も聞く前に、他にもまだいるのだという話がハウルの口から出たのだ。

 アンコウの心は、そのことを無視して聞き流すことなどできはしない。


「そ、そもそもあんたが俺と同郷っていうのも本当なのかよっ!」


 気がつけば、アンコウは椅子から立ち上がり、唾を飛ばしながらハウルに問いただしていた。


「……アンコウ。貴様誰に向かって口を聞いているのだ……?」


 ハウルは足を組んで椅子に座り、肘掛にひじをおき、自分のこぶしのうえに軽く顎を乗せて頭をかしげていた。

 そして、ハウルがアンコウを見る目は冷たく鋭い。発せられた言葉は、抑揚のないものだったが、凍りつくような迫力があった。


「……アンコウ、つい今言ったはずだ。同郷であろうが、貴様を特別扱いするつもりはまったくないと。貴様誰に向かって口を聞いているのだ?」


「あ、い、いや……」


 アンコウはハウルに威圧され、一瞬でその目は泳ぎ、勢いがなくなった。

 アンコウのその様子を見て、今度は顔には出さなかったが、ハウルはアンコウへの期待値をさらにさげる。


「アンコウ、座れ」


「…………」

 アンコウは無言のまま、再び椅子に腰をおろした。


「……いいだろう。少しだけ時間を割いてやる。しかし、余計な口は挟むなよ」

 アンコウがおとなしく座ると、ハウルは面倒くさそうにそう言った。


 ハウルとしても、アンコウにまったくその関係の話をせずに済むとは思っていなかったのだが、ハウルにとっては、元いた世界のことなど、遠い昔のの話になってひさしい。


 しかし、そんなハウルとて郷愁というものが完全になくなったわけではない。だからこそハウルは、こうしてアンコウと会っている。


 アンコウはハウルを見て、緊張解けぬ面持おももちで、無言でうなずく。

 ハウルは変わらず面倒くさげではあったが、少し遠い目をして話し出した。


「俺は30年以上も昔、この世界に落ちてきた。あまりに唐突に、そして理不尽に。だが、そのころの思いはもう忘れた。

 アンコウお前は一人でやってきたようだが俺は違った。俺は、俺ともう一人、当時の俺よりも20も年上の男と一緒に、この世界に落ちてきた。

 その男は元の世界からこの世界に落ちてきたとき、たまたま俺の横を歩いていた男だ。その男は向こうの世界で、普通の社会人だったと言っていたな。

 ただ、当時まだ二十歳はたちにもなっていなかった俺にとってはものすごく頼りになる存在だった。一時はこの世界の親父だと思っていたこともあったよ。

 その男がこの世界で得た力は身体能力に関しては俺よりも落ちるものだったが、精霊法術に関しては当時の俺と互するかそれ以上のものがあった。あのオヤジは強かった」


 ハウルが少し懐かしげに語る。しかしアンコウはハウルのその態度にわずかに引っかかるものを感じた。


「強かった?……その人は今どこに?」

「……ああ、アイツは死んだよ。俺の敵にまわったから殺した。……あっさり殺しすぎたと、今でも後悔しておる」


 ハウルの表情、口調、雰囲気が一変する。ハウルの体から目に見えるのではと思うほどの生々しい憎悪が噴き出した。

 それを間近で感じたアンコウは、恐怖を覚えずにはおれなかった。


「そ、そうですか……」


 地雷だった!余計な質問だった! とアンコウは口ごもる。

 幸い次の瞬間にはハウルから発せられた禍々しい感情は退き、ハウルは話をつづけた。


「さっきは異世界からの落人おちうどは人間でも精霊法術が使える者が多いらしいと言ったがな、俺も実際に自分と同じ異世界の人間を見るのは、その男以来、貴様が2人目なのだ、アンコウ。

 ただ、この世界の歴史は古い。一般の者が目にすることはまずないが、いくつかの国や地域の歴史書や伝承に、異世界からの落人おちうど異界渡いかいわたりの者の記述や語りが残っている」


「そんな話ははじめて聞きます……」


 アンコウはずっと元の世界に帰りたいと思い続けていた。

 正直、現実的ではないとあきらめてはいたのだが、それなりに情報を求めることはしてきた。しかし、そんな話はまったく聞いたことがなかった。


「当たり前だ。アンコウ、貴様はただの一介の冒険者なのだ。貴様の目に国の歴史書などが触れることはないだろう。それを研究している者の話を耳にすることなどなかろう。

 ひとつの町のひとつの迷宮に引きこもり、小銭稼ぎをしている狭き冒険者が、古き森の民や山の民の伝承の歌を聞くことなどはない。

 何百年かあるいはそれ以上昔に現れた異世界の人間のささやかな物語など、この世で日々の生活に追われる大衆が知るわけがない。何の腹の足しにもならないからな」


「…………………」


 ハウルは別にアンコウを責めているわけではない。しかし、アンコウはそれに関して、何も言い返すことも聞き返すことができなかった。

 それでもアンコウにはどうしても聞いておかねばならないことがあった。アンコウは意を決して顔をあげた。


「あの、グローソン公、」

「貴様、」

 話しだそうとしたアンコウを、グローソン公がさえぎる。


「くだらない目だ。俺にとっては、生まれ育った世界など、とっくの昔にそちらが異世界になっておるわ」

「ぐっ、」

 アンコウの思いを、完全にハウルは見抜いていた。


「今から言うことでこの話は終わりだ。これ以上は質問も一切認めない」


 ハウルの冷たく鋭い目がアンコウを射抜く。ハウルはそのまま話しを続ける。


「俺は元の世界に帰る方法は知らない。さがしてもいない。異世界から来たといわれている者たちの伝承の中に、彼らが元の世界に戻ったとされるものもない。貴様がそれを求めるのなら、自力でやることだ」


 ハウルは平坦な口調で一気に言った。言い終わった後のハウルがアンコウを見る目は、アンコウに一切の質問を許さぬという厳しいものがあった。


「うくっ………」

 アンコウは一瞬声を詰まらせたあと、天を仰ぎ、大きく息を吐き出した。

「………フゥーッ」


 ハウルの言葉はアンコウにとって厳しく、冷たいものであったが、アンコウは少なくともハウルがウソを言っているようには思えなかった。


 ハウルは異世界人であって、かつアンコウよりもはるかに多くの情報源を持つ権力者である。そのハウルであっても、元の世界に帰る方法となるとアンコウ同様何もわかってはいない。


 それがわからないのなら、国家機密の歴史書も古の伝承なるものも、アンコウにとって何の意味も持たないのものだ。

 それでも自分と同じ異世界からのトリップ者の存在とそれに関する話は、アンコウの望郷の念をいたく刺激した。


「さぁ、この話は終わりだ。では、今後の貴様の処遇のことだが」

「ちょっ、待って、」


 しかし、ハウルはどうでもいい話はここまでだと言わんばかりに、アンコウが最も関心が強い元の世界に関する話を早々に切り上げて、話を進めようとする。

 そこにアンコウの意思を汲み取ろうとするそぶりはまったくなかった。


 そしてグローソン公が続けた言葉は、アンコウのそんな望郷の念を一瞬で霧散させるものであった。


「ではアンコウ、貴様は今後俺の臣下として働くにあたって、何か望むことはあるか」

「ん?……えっ、……臣下……?」


 アンコウは予想していなかったハウルの言葉に一瞬戸惑う。そして、理解する。


「なっ!ちょっ、ちょっと待ってくれ!臣下って、何だ…いや、何ですか!俺はそんなことは望まない!し、臣下って何なんです!?俺は言われたとおりにこんなところまで来たんだ、もういいでしょう!」


 ハウルの話の内容も話の進め方も、じつに自己中心的でこの世界の権力者らしいものだ。


 そもそもアンコウがここに来た理由は、何の用かは知らないがグローソン公に会って、とっとと自由にしてもらおうということだけだった。

 誰かの家来になるなど論外の外であり、アンコウは突然何かとんでもない話になっていることに焦り、激しく戸惑う。


「だめだ。言ったであろう、俺が知る同郷の者はお前が二人目、一人目はすでに死んでいるのだ。俺はこの先もこの世界で生き、この世界で死ぬだろう。もはや望郷の念などない。

 しかし、俺も一人の人間だ。世界の違いなどとは関係なく、自分の遠き日々の思い出を懐かしく思うこともある。

 アンコウ、貴様が俺の過去の思い出の中にいるわけではないが、あの世界を知るものとして、貴様の存在そのものに俺にとって幾ばくかの価値がある」


 ハウルは堂々と、自分の意思が通ることが当然のことのように言い切った。

 ハウルのその言を聞いたアンコウの胃が一気に重くなる。


(こ、この野郎、今なんて言いやがった?)


 ハウルは、はじめからアンコウの意思などまったく無視している。しかもこの言い様だ。しかし、アンコウはそんなハウルに怯え、ここまで縮こまっていた。

 仕方がないことだとは思っているが、それでもアンコウは良くも悪くも内心自分に惨めさを感じるぐらいの意地は持っていた。


 そして、そのあげくに上から目線のこの命令である。


 アンコウは思う。この世界の権力者の家来になるなど、こいつの奴隷になるのと変わりはしないと。

 アンコウは慎重で勘が鋭く、どちらかといえば平穏無事を好むタイプだ。しかし、呪いの魔剣との共鳴がないときでも、ごく稀にキレる。


 アンコウはあの日の朝、アネサの迷宮へ魔獣狩りに行く途中に攫われて自由を奪われた。それ以降今日までに積もりに積もったドロドロのマグマのような感情を、心の内側に溜めに溜めていた。


 それはいつ決壊してもおかしくない状態でアンコウはここにやって来た。人間キレる時は、時も場所も相手も関係がないものだ。


「楽に生活ができるだけの金と屋敷は用意する。それに適当な肩書きはくれてやろう。そうだな、なにがよいか、」


(ふ、ふざけるな、ふざけるな、……)

 それではここまでの軟禁生活と実質変わりはしない。アンコウの心の声が、のど元まであがってくる。


「……ふ、ふ、ふ、」

「ん?どうした、アンコウ」


「……ふ、ふざけんなぁ!頭湧いてんのか、おまえぇ!黙って聞いていれば、好き勝手言いやがって!俺がここまでどれだけ我慢して、どんな目にあわされたと思ってんだ!自由になれると思っていたからここまで来たんだっ」


 アンコウは怒鳴り声をあげると同時に立ち上がっていた。


「何で俺が、お前の下につかなきゃいけない?お前がどんな生き方しようが勝手だけどな。俺はお前みたいな生き方は趣味じゃねぇんだよっ!あげくに何言いやがった?

 俺があの世界を知っているから、俺の存在に幾ばくかの価値があるだと?んなこと俺の知ったことかっ!

 俺はお前の思い出オナペットじぁねぇぞ!お前が今までこの世界で、何を見て何を喰って生きてきたのかは知らねぇけどな、くそ気持ち悪ぃんだよ!テメェ脳みそにウジでも湧いてんのクカッ!ガガグガアアアーッ!」


 突然アンコウの怒声が、悲鳴に変わる。


 いつのまにかアンコウの後ろにまわっていたバルモアがアンコウの肩をつかんでいる。バルモアはいかづちの精霊法術を発動していた。

 アンコウの体を激しい痺れと燃えるような痛みが支配する。


「グ、グギイィーッ!」


「貴様、口の聞き方には気をつけろと命じられたであろう。貴様の無礼、我が殿が許されても、このバルモアが許さん。貴様のような下賎の者が我が殿に悪態をつくなど決して許されぬことだとその身をもって知れ」


 バルモアはきわめて無表情に淡々とした口調で言った。

 まるで死刑執行人のようにアンコウの後ろに立ち、しっかりとアンコウの肩を握っている。

 アンコウは悲鳴をあげつづける。何とかしようにも全身が激しく痺れ、まともに体を動かすことすらできなかい。


 しかし、アンコウはすぐには折れず、その目にさらに激しい怒りの色を浮かべた。

 そして、その目がアンコウの正面に座るグローソン公の目をとらえる。


(ほう……)


「……ふん、この程度の力しか持たぬものが、公爵様に歯向うなど、この愚か」

「ぐがあぁーっ!」

「なっ、」

バギィイッ!!

「ナグァッ!」


 アンコウは、雷の精霊法術をくらいながらも突然動いた。

 近くにあった自分が座っていた椅子をつかみ、振り向きざまバルモアを思いっきりぶん殴った。

 バルモアはとっさに腕で椅子を防ぎ、頭を直撃されるのはまぬがれたものの、勢いよく吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。


(ほう……動くか)


 バルモアはグローソン公に仕える精霊法術の使い手の中でもトップクラスの実力者だ。

 無論、先ほどのバルモアの様子からわかるように、全力でアンコウにいかづちの精霊法術を使ったわけではなかったが、ハウルもバルモアもアンコウがあの状態から動けるとは思っていなかった。


 おそらくグローソンに軟禁される前、もっと正確に言えば、あの赤鞘の魔剣との共鳴をおこす前のアンコウなら、先ほどのバルモアの精霊法術から自力で抜け出すことはできなかっただろう。


 アンコウは魔剣との共鳴なしでは大幅に抗魔の力を増強できるわけではない。

 しかし、共鳴を起こしたことをきっかけに、通常時でも使える抗魔の力の底が、以前より間違いなく深くなりつつあった。

 この変化については、アンコウ自身もいまだ完全には把握できていない。

 

 バルモアを強打した椅子はバラバラに壊れてしまった。アンコウはその椅子の残骸を握ったまま、ヒザから崩れ落ちる。


「ぐうぅっ、」

 アンコウは無理やり動いたものの、全身の痺れは未だとれておらず、一気に体から力が抜けた。


「お、…おのれぇ、図に乗りおって!」


 地面にたたきつけられたバルモアが動き出す。

 アンコウに椅子で殴られた衝撃はかなりのものだったが、バルモアもこの程度でやられる男ではない。


 それどころか明らかに下に見ていた男から受けたこの一撃は、バルモアにとって屈辱以外の何ものでもなく、先ほどまでとは違い全身に怒りという闘気をまとっていた。


バチ、バチ、バチッ!


 小さく電気がはじける音をたてながら、アンコウより先にバルモアが立ち上がる。 

 アンコウは未だ床に片ひざをついたままだ。


 しかし、アンコウはバルモアの目には見えないように、自分の体で隠しながら壊れた椅子の残骸をきつく右手に握りしめていた。

 バルモアが先に仕かけるか、アンコウがバルモアに飛びかかるか、無言のかけ引きがわずかな時間におこなわれた。


 そのとき、アンコウは自分たちがいる空間の気温が一気に下がったかのような寒気に襲われた。


――――――(なんだ!?)


 アンコウは一瞬身体が固まり、わずかに状況確認が遅れた。

 そしてアンコウがバルモアのほうに目を戻すと、バルモアはすでに精霊法術の発動を完全に解いており、片膝をつき、アンコウとは違う方向にこうべを垂れていた。


 アンコウはバルモアが頭をさげてる方向を急いで見た。見るまでもなく、その方向にいるものが誰かはアンコウにもわかっている。

 アンコウが目を向けた先にはグローソン公ハウルが口角をあげ、少し楽しそうな笑みを浮かべてアンコウを見ていた。


 ハウルは先ほどまで座っていた椅子からは立ち上がっており、その右手に鞘から抜き放った剣をしっかりと握っていた。


「ああっ、なんだこれ……」

 アンコウは激しい悪寒に襲われる。


 アンコウは初めからハウルからただならぬ威圧感を感じていたが、その白刃を抜き身で持つハウルから感じる覇気はまったく質の違うものに変わっていた。


 しかしアンコウは、このハウルの覇気の変化の仕方そのものには覚えがあった。自分自身の経験としてダブる感覚がある。

 アンコウは固まりそうになる体をなんとか動かし、ゆっくりと立ち上がりながら、後ずさりするように後退していく。


「……き、共鳴なのか」


 ハウルは狼狽するアンコウを見すえながら。もう片方の口角も上げた。


「生意気な男だ。貴様ごときが、この私に歯向かうとは愚かなことよ。ただ、少し面白い」


(間違いない、共鳴だ)


 アンコウはグローソン公がだらりと下げた右手に持つ魔剣を見る。

 それはすばらしい剣だった。いま打ちあがったばかりのような輝きを放つ銀色の刀身。

 アンコウはまるで陽炎ようえんが揺らめくように、力がその剣から発せられているごとく感じていた。


 ハウルが持つ魔剣は、魔剣そのものが意思を持っているかのような存在感がある。

 アンコウはゴクリと唾を飲む。しかし、アンコウの目は未だきつくハウルをにらむように見ていた。


「くっ、くっ、アンコウよ。その棒切れで俺とやりあうつもりか?」


 ハウルが持つ魔剣は呪いの武具ではない。ごく普通の、いや、呪いの付加など一切ない一級品の魔剣であった。

 アンコウのようにその精神に影響を受けるということはまったくない。それにハウルはその魔剣との共鳴の力を完全にコントロールしているようにアンコウには見えた。


(絶対にこの程度ではない) とアンコウは見抜く。


 まともにやり合って、自分に勝ち目などないとアンコウは知っている。絶対に殺されると思う。

 しかし、ひざを折ってこの男に許しを乞うて、それが受け入れられたとしても、下手をすれば死ぬまでこの男の御家来様でいつづけねばならず、しかも、そのお役目がこの男の思い出オナペットだ。


 くだらなすぎる。人生、命があってナンボ。だが、生きていれば良いという訳でも決してない。そこにアンコウの求める自由はない。


 このときのアンコウは、ハウルの力におののきつつ、未だ爆発させた感情がなかなか制御し切れていない状態にあった。

 それはここに至るまでに、いろんなことを我慢しすぎたせいだったのかもしれない。


 まず自分の命の安全を確保してから次を考えるというアンコウらしい発想が、未だ激しく揺れる感情の波に飲まれ、アンコウの頭に浮かんでこなかった。


(いやだ!いやだ!) アンコウの頭には、まだ血がのぼっている。しかし、ハウルが恐ろしくもある。


 ハウルはアンコウが死んだところで別にかまいはしないが、少なくともここにアンコウを呼んだのは殺すためではなかった。

 アンコウがおとなしく自分の命令を受け入れていればそれでおしまい、それだけのつもりだったのだが、ハウルは少し面白くなってきていた。


 少し退屈しのぎができるかもしれないと、それでこの男が死んでも、それはそれで面白いだろうと思った。

 ハウルにとってアンコウは何が何でも手に入れたいと思う男ではない。手に入るならとっておくかという程度の存在だ。


「アンコウよ。お前にチャンスをやろう。自由になるチャンスだ」


 アンコウを見て、グローソン公は少し楽しげに言った。アンコウはそのグローソン公の様子を見て、さらに警戒心をあげる。


( ク、クソのみだ。)


 それは人を人と思っていない者が浮かべる表情。

 アンコウは奴隷であったとき、何度も、何人もから、そのクソの笑みをむけられ、なぶられ、いたぶられた経験を決して忘れてはいない。


 アンコウは必死で逃げる方策を考え、わずかな時間で頭をめぐらせる。しかし、当然ながらアンコウには自力でこの状況を打開する妙案は何も浮かんでこない。


 アンコウの腹の底からこみ上げてくる怒りと、今すぐにひざを屈して許しを乞いたいという矛盾した紛うことなき本心が、アンコウの心の天秤にかけられて、右左みぎひだりと高速で動いていた。


「クックッ、アンコウ。ついて来い」


 ハウルはそう言うと剣を腰の鞘におさめて、アンコウの横を歩いて、すり抜けていった。


「えっ、えっ?」


 ハウルは、そのまま執務室の扉にむかって歩いていく。

 アンコウがどうしたものかとその背中をだまって見ていると、アンコウの横につけたバルモアがアンコウのほうは見ずに話しかけてきた。


「何をしている。悩むことなど不要だろう。貴様は殿の命に歯向かってなお、貴様の望みを得ることができるチャンスをいただいたのだ。その機会をも足蹴あしげにするということは、貴様のゆく先はあの世しかなくなるということだ」


 バルモアの口調に先ほどまでの怒りはまったくなくなっている。意識的にであろうが、ただ淡々と言った。


「くっ、チャンスだと?グローソン公は本当にオレを自由にする気があるって言うのか?それを信じろって?」


 あの手の権力者の言うことは信頼できないとアンコウは思っていた。

 この圧倒的に有利な状況で、グローソン公が自分の意思を一歩でも譲ることをするとは、アンコウには到底思えなかった。


「アンコウといったな。どれほどゼロに近くとも可能性がほんのわずかでもあるならば、それはチャンスだろう。それがたとえ1%にも満たないものであっても。それを手にするかどうかは貴様の実力しだいだ」


「ふざけるな。ボケがっ」

「なにっ、」


 アンコウのバルモアに対する先ほど受けたビリビリの怒りはまだおさまっていない。やたらとバルモアの言うことはアンコウのしゃくに触った。

 それに、こいつらは俺を自由にするつもりなどない、これはお貴族様のお遊びだと、アンコウは確信を持っていた。


 バルモアが実に不愉快そうにアンコウをにらみつけた。


「ではそのままそこに立っていろ。殿の命令が有り次第、私がここで貴様を殺してやろう。先ほどのような幸運が2度も続くと思うなよ」


 バルモアはアンコウから視線をはずし、グローソン公の後を追って歩いていった。


 バルモアが体勢を立て直し、アンコウへの油断もなくなってしまった以上、アンコウはバルモア一人に勝てる自信もまったくない。

 力のある者が正義なのか、力なきことが罪なのか。

 どちらにせよアンコウが生きることを望むならば、グローソン公ハウルの遊びに付き合う以外の選択肢などなかった。


「くっ、くそっ!」



 そしてアンコウは、前を行く2人の後を追って走り出した。

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