第28話 異世界人 グローソン公爵 ハウル・ミーハシ

 グローソン公ハウルがネルカ城に入って、すでに1ヵ月が過ぎようとしていた。


 グローソンのネルカ城をはじめとする新たに広げた地での戦後処理は極めて順調におこなわれている。ネルカ城下でも、あちらこちらで戦火に焼かれた町を復旧するための槌音が響いており、町に活気が戻ってきていた。


 町にこれだけの被害を出したグローソンの侵攻であったにもかかわらず、住民からグローソンに対する大きな怨嗟えんさの声は聞こえてこない。


 グローソンが住民に対して行っている復旧支援が効いたのか、ロンド公に徳がなかったのか、あるいは戦乱が当たり前のこの世界では、支配者が変わったからといって、いちいち憎悪で心を染めていられないのかもしれない。


 グローソン公が入城してからも、かなりバタバタとしていたネルカ城内であったが、最も忙しかったころに比べると幾分落ち着いてきたようである。


 今、グローソン公爵は城内に設けた自分の執務室におり、何をするでもなく椅子に座っていた。グローソン公と小姓が1人、部屋にいるのはその2人だけ。

 少し前まではグローソン公の机を囲むように多くの家臣たちがいたのだが、仕事をひと段落させて一休みしているようだ。


コンッコンッ

 執務室の扉を叩く音がする。


 小姓こしょうのまだ年若い男が扉のほうへ近づいていき、扉の向こう側にいる者と何やら言葉を交わす。


「お殿様。モスカル殿が参られたようです」

「そうか。入るように言え」

「はい」


 小姓がグローソン公に頭をさげ、扉を開いた。

 執務室に入ってきたモスカルは、目線を下げたまま速やかにグローソン公の前まで進み、深々と頭を垂れて定型の挨拶を述べた。


「うむ。顔をあげろ、モスカル」


 モスカルは、ハウルに恭敬の意を示しながら頭を上げる。


「モスカル。アネサから連れてきた男の世話をお前がしているそうだな」

「はい」

「名前はなんと言ったか」

「アンコウにございます」

「ああ、そうだったな。で、どのような男だ」


 モスカルはこの1ヵ月間、自分が見てきたアンコウという男の印象を極めて端的に述べる。


「ごく平凡な男かと」

「……冒険者であるのだろう」

「魔剣との共鳴者であるとは聞いておりますが、戦う姿を見たことはありませんので戦士としての評価はいたしかねます。しかし、人としての資質はごく平凡な男という評価が妥当かと」


 実際、モスカルの目にアンコウという男はそう映っていた。

 モスカルは、アンコウはアネサで軟禁され、実質強制的にこのネルカにつれてこられた冒険者だと聞かされていた。しかも、魔剣との共鳴者だとも聞かされていたので、多少の騒動は起こるだろうと覚悟していたのだ。


 しかし、ネルカにやって来たアンコウという男は、多少言葉遣いが乱暴な時がある程度で、全体的には実におとなしくこの1ヵ月間用意された屋敷で過ごしていた。


「アンコウは、ただの冒険者として、アネサでの元の生活に戻ることを望んでおります」


 それを聞いたグローソン公の顔が面白くなさそうなものに変わる。


「ふん。役に立たんか」

「さぁ、それはなんとも。少なくとも冒険者として生きていくだけの抗魔の力は持っているのでしょうし、平凡であるということはまともな頭の働きは持っているということですので」

「何か力を隠し持っているという可能性はないのか」


「断言はできませんが、そのようなそぶりは感じられませんでした。それに先ほども言いましたが、私はアンコウが実際に戦っている姿を見たことはありませんので。

 ただ、あの者から公爵様が求めておられるほどの大きな力や飛び抜けた威圧感を感じたことは一度もございません」


「ふぅむ。共鳴抜きでは、やはりあまり期待できないということだな…まぁ、しかたなかろう」

「公爵様。いかがなされますか」

「うむ、そうだな……」


 グローソン公は、より興味が失せたような表情を浮かべていた。





………「ああん!」



 今朝、アンコウの元にモスカルが訪ねてきた。

 この屋敷にアンコウが来てから約ひと月。モスカルは、3日に1度はアンコウの様子を見に来ていたのだが、この日アンコウは、これまで何度もモスカルに求めていたことが、ようやく実現されることになったという話を聞かされた。


 グローソン公ハウルが、明日アンコウを城に連れてくるように言ったことを、モスカルはアンコウに伝えに来たのだ。


 かなり急な話であったが、それはアンコウ自身が望んでいたことでもあり、また、たとえ望んでいなかったとしても今のアンコウには拒否権などはなく、モスカルがアンコウに伝えたことは、アンコウの意思とは関係のない決定事項である。




………「あんっ!」



 モスカルはグローソン公からの呼び出しがあったということと、明日の段取りを手短に説明すると、すぐに帰っていった。


 アンコウはどうせグローソン公に会わなければ、この軟禁もどきの状況から脱することができないのなら、できるだけ早くグローソン公に会いたいと思い、何度もモスカルにまだかまだかと催促をしていた。


 しかし、今朝モスカルから実際にグローソン公と会うことが決まったと伝えられると、アンコウは特別喜ぶこともなく、モスカルが帰ってからはほとんど口をきかなくなってしまった。


 モスカルが帰った後、アンコウは何か考え込んでいる様子で午前の時間を過ごし、昼食を食べ終えると、昼間から酒を口にした。酔うほどには飲まなかったが、アンコウが昼間から酒を口にすることはとても珍しい。


 そしてアンコウは酒を飲むことをやめると、今度は木剣を手に取り、庭に出て素振りをはじめたのである。



………「ああっ!」

 夜の静けさの中、灯明の光が広がる部屋で、アンコウは女の声を耳にしていた。

「ああっ、あっ、あんっ、」



 この日の昼間、1人庭で木剣を振るアンコウの姿をテレサは見ていた。

 アンコウはこの屋敷に来てからも日常的に素振りをしたり、体を鍛えることをつづけていたのだが、この日のアンコウの様子は明らかにいつもとは違っていた。


 テレサもアンコウに付き合って一緒に素振りをすることがあったのだが、この日はアンコウから何も言われなかったし、自分から参加しようとも思わなかった。

 テレサが声をかけることさえ躊躇ためらわれるような雰囲気をアンコウは身にまとっていた。


 体がなまらない程度に、ほどほどの鍛錬をするといったいつもの雰囲気ではなく、木剣を振りおろすアンコウからは張り詰めた緊張感が漂っている。

 アンコウは、まるで戦場に立つ者が持つ殺気のようなものを周囲に放っていた。


 しかし、テレサがアンコウの真剣そのものの表情から感じとったものは、勇ましさではなく、ある種の怯えのようなもの。

 無論、テレサは、そのようなことを自分の主であるアンコウにわざわざ言いはしない。


 しかし、そのテレサの感覚は正しものであった。アンコウは自分の中にある不安を抑えるべく、酒を飲み、木剣を振り続けていたのである。


 モスカルはこのひと月ほどの観察で、きちんとアンコウという男の性質を把握していたと言える。モスカルがグローソン公に申したとおり、アンコウの心はごく平凡な男のそれであった。


 多少の力を手に入れ、多少の戦闘の経験を積んでも、凡人に生まれついた者がそうそう簡単に英雄や勇者になれるわけではない。

 アンコウの心の強さは、まだ凡人のそれに留まっている。


 アンコウは、モスカルに早くグローソン公に会わせろと何度も言った。

 テレサにもグローソン公に会わないことには何も進まないと、とっととしやがれと、しょっちゅう愚痴っていた。


 アンコウは別に強がって、そのようなことを言っていたわけではない。客観的に状況を見たうえでの分析と、そのときの自分の気持ちを正直に口にしていただけだ。

 しかし、いざモスカルから明日グローソン公に会えと言われたとき、アンコウの心に最も強く生じたのは喜びや安堵ではなく、不安という感情であった。


 アンコウとグローソン公の身分・立場の違いは、決定的なものだ。子供が遊びでアリを押しつぶすような感覚で、グローソン公はアンコウを殺すことが許される。


 グローソン公が、どんなにむごたらしくアンコウを殺したとしても、それをとがめる者など誰もいないだろう。

 法にも社会道徳にも触れはしない。それほどグローソン公の前ではアンコウの命は軽い。


 逆にアンコウがグローソンが支配するこのネルカ城で、グローソン公に毛筋ほどの傷でもつけようものなら、その結果は考えるだに恐ろしいものになるはずだ。


 この世界でのアンコウとグローソン公ハウルとの身分・立場の違いというのは、それほど強烈なものだ。そして、アンコウもそのことをよくわかっている。


 いつグローソン公と会えるかわからないときならば、その事実をたいして意識せずに言いたいことを言えても、明日そのグローソン公と会わなければならないと知ったうえで、なお平然と構えていられるような強心臓をアンコウは持っていなかった。



………「んんっ!あっ、あっ、アアン!」

アンコウの顔から流れ落ちる汗がぽたぽたと女の体に落ち続けている。

「フッ、フッ、フッ、」

「あっ、あっ、アアンンッ、」

「テ、テレサっ」



 アンコウは途中からは上半身の服を脱ぎ捨て、全身から汗を噴き出しながら、狂ったように木剣を振りつづける。

 しかし、振っても振ってもアンコウの心から不安が消えることなく、振れば振るほど、さらに強い焦燥感にも似た思いに囚われていくようであった。


 テレサは、その無駄な贅肉のない鋼のような筋肉が、全力で剣を振りつづけることでさらにあらわとなり、全身を真っ赤にしながらも木剣を振りつづけているアンコウの姿をじっと見つめていた。


 結局アンコウはこの日、陽が傾くまで木剣を振りつづけた。

 ようやく木剣を手放し、全身汗まみれになって地面にしゃがみこむアンコウに、テレサはタオルを差し出し声をかけた。


 テレサから何かあったのかとアンコウに問うと、アンコウは明日グローソン公に会うことになったと笑みを浮かべながら答える。


 アンコウは、1ヵ月も待たせやがって何様のつもりなんだかと、うそぶいて見せた。


 しかし、いつもの文句を言うときのアンコウと違い、いくら隠そうとしても、その顔から強張こわばりは消えていなかった。

 そんなアンコウにテレサは、ただそうなんですかと笑みを浮かべながら返した。


 今の状況が不安であることはテレサも変わらない。しかも、自分の主であるアンコウのこの不安げな様子を感じ取ってしまえばなおさらである。

 奴隷にとって、自分の主人の命運がすなわち自分の命運に直結するのだから。


 しかし、もって生まれた性格によるものか、これまでの経験によって培われたものなのか、あるいは女の持つ強さというものなのか、この状況になって、アンコウよりもテレサのほうが腹が据わっているように見えた。


 テレサは、今はアンコウに言葉で何を言ったところで無駄だろうと、逆に下手なことを言えば、アンコウの男のプライドなるものを逆なでするかもしれないと思い、地面にしゃがみこむアンコウのそばから離れて1人屋敷の中に戻った。


 そしてアンコウは、この後夕食の時間になっても姿を現さなかった。



………「ああんっ!あっ、あっ、あんっ!んんっ!」

「ハッ、ハッ、ハッ、くうっ、」

「ああん!旦那様ぁんっ!」



 この日テレサは、アンコウのいない夕食を済ませた後、アンコウとは別の自分たちにあてがわれた部屋に戻っていた。

 そして夜の闇が濃くなる前に、アンコウからいつもの連絡があった。


 その連絡が来たのを見て、マニがニヤニヤ顔でテレサに一言声をかけた。

 そして、しばらくしてからテレサは、アンコウの部屋に向うため部屋を出る。マニはニヤニヤ顔のまま、いつものようにテレサを送り出した。



………「ううっ!」

 動きを止めたアンコウは、テレサにおおいかぶさるように体の力を抜いた。


 テレサは自分の顔の横で、激しく息をするアンコウの呼吸音を聞いている。

 すでに果ててしまったアンコウとは違い、テレサは自分の内側から発せられる未だ激しく肉体を焦がす欲望の炎の熱につつまれて息を荒げている。


 テレサは何も考えず、しばらくの間、ただその快感をともなう欲望の炎の余韻に身をゆだねていた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁん………」


 アンコウは体の力を抜いて、テレサにおおいかぶさったままだったが、いつのまにか激しく呼吸していた息づかいも落ち着き、その口から何ら音が発せられなくなっていた。


 そしてしばらくすると、テレサの体の上でじっと動かなくなっていたアンコウの体が、小さく震えはじめた。

 ごく小さい震えではあったが、未だ体が密着している状態のテレサには、そのアンコウの震えがはっきりとわかる。


「…んっ?…はぁ…はぁ…?」

 テレサは少し呼吸を落ち着けてから、アンコウのほうに顔を向けた。


「ん、旦那さまぁ?」


 テレサはまだ完全には息が整っていない状態ながらアンコウに話しかける。

 しかしテレサに話しかけられても、アンコウはすぐには答えず、アンコウの体は小さく震えつづけていた。


 そしてしばらくその状態が続いた後、アンコウはテレサにおおいかぶさり、ベッドに自分の顔を押し付けたまま、小さな声でささやくようにテレサに訴えた。


「……テレサ、」

「……はい……」

「……俺は……少し、怖いんだ……少しだけ…怖い」

「あっ、……旦那様」


 アンコウはそれ以上は何も言わず、そのままテレサの体を強く抱きしめてきた。

「あっ」

 そしてテレサもアンコウに答えるように、アンコウの背中に両手を回して、その手に強く力をこめる。

「んっ、旦那様」


 テレサの体の中を暴れる龍のごとく巡っていた欲望の炎、テレサの体はいまだ熱い、しかしその熱の質が急速に大きく変わっていく。

 テレサはアンコウの背中にまわした手で、アンコウをやさしく撫でさすりはじめた。


「大丈夫。大丈夫よ、旦那様」


 テレサの手が優しくアンコウの背中を撫でつづける。

 そのまましばらくの間、テレサがアンコウに声をかけながら、アンコウの背中を撫でつづけていると、アンコウの体の震えが徐々におさまってきた。


 そしてアンコウの体の小さな震えが完全におさまると、アンコウの体は再び、テレサの体の上で大きく動きはじめた。

 そのアンコウの動きは、手も足も口も腰も、さきほどよりもさらに強く激しいものになっていた………


「テレサぁ」

「ああんんっ」


 この日、いつもより激しく大きいテレサの声が夜遅くまで部屋中に響いていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 アンコウとテレサがいる部屋の外、そのアンコウの部屋の扉にぴったりと耳をつけている者がいた。


 つい先ほどまで扉に耳をつけるまでもなく、部屋の外の廊下にまでテレサとアンコウの声が聞こえていたのだが、ふたりの声が聞こえなくなると、その者はアンコウの部屋の扉にくっつけていた耳をゆっくりと離し、大きく息を吐き出した。


「フウゥーッ、」

 薄暗い廊下に立つその者の影は獣人の女のもの。

「2人とも今日はなんか様子がおかしかったんだけどな。大丈夫そうで安心したよ」


 誰に言うわけでもなくつぶやいたその獣人の女は、自分の部屋に戻るべく体の向きを変える。

 そして、歩き出しながら扉の近くに立っている見張りの男に声をかけた。


「ほんとアンコウとテレサは仲がいいよな。そう思わないか?」

「え?あ、ああ」

「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せって言うだろ?アンコウとテレサはあれだな」

「い、いや、あの女は奴隷だろう?」


 獣人の女は男の質問には答えない。獣人の女は自分から話しを振っておきながら、すでに男の言葉を聞いていなかった。

 もうすでに見張りの男の前を通り過ぎてしまっている。


「しかし、余計な心配して損したな。無駄な時間だったよ」

 そう歩きながらつぶやくその獣人の女はマニだった。

 

 ついこのあいだアンコウとのメイド契約が切れたにもかかわらず、マニはごく当たり前のようにこの屋敷にとどまっていた。

 マニはそのまま振り返ることなく自分の部屋の方向に歩きつづけ、真っ暗な廊下の先に消えていく。


 見張りの男は何とも言えない表情でマニが消えていった廊下の先を見つめていた。


「……何だったんだ……」


 いつのまにかここに現れたマニは、ほとんど部屋の扉の前から動くことなく、2時間近くもこの部屋の扉に耳をつけていた。


 マニの態度はごく自然で、実に堂々としたものだったが、見張りの男にしてみれば、マニはただの盗み聞きの出歯亀でばがめに見えなくもなかった。いや、途中からはそれ以外の何者にも見えなくなっていた。


 見張りの男は無論マニのことも知っていた。職務上、男は何度かマニに話しかけようとしたのだが、そのたびにギラリと眼光鋭くマニににらみつけられた。


 見張りの男は何とも言えない思いを抱きつつも、マニの姿が完全に消えた後、無理やり気持ちを持ち直そうとするかのように何度も大きく首を振った。

 そして意識的に前を向き、しっかりと背筋を伸ばして胸を張る。


 見張りの男は、薄暗い真夜中の廊下で、その姿勢のまま、ひとり立ちつづける。彼は再び自分の仕事へと戻ったのだ。





「アンコウ殿はしばらくここでお待ちを」

「ああ」


 アンコウの視線の先に、グローソン公の執務室の大きな扉が見えている。

 ネルカ城の本館は先の戦闘でもほとんど無傷であったようで、アンコウはここにくるまでに、その規模と装飾の華麗さに圧倒されていた。


(ネルカの城の館は、そんなに大きいほうではなかったはずだよなぁ)


 アンコウは廊下に立って周りを見渡している。

 ネルカの城は国境の実戦備えの砦の役割も兼ねており、城壁や堀などはかなり重厚に造りこまれていたが、儀礼式典等で重視される本館建築物の大きさや華麗さは、その分抑えられていた。


 それでもアンコウにしてみたら、自分が歩いてきたふかふかの絨毯や廊下の壁や柱の美しい装飾、今いる場所の天井の高さまで、ただ廊下を歩いてきただけで別世界を見ているようだった。


(おい、おい。また異世界トリップかよ。まぁ、実際のトリップはただグニャグニャして気持ちが悪いだけだったけどな)


 アンコウは完全に場違いなところに来てしまったと、あらためて感じていた。

 アンコウは朝一番に迎えに来たモスカルに連れられて、このネルカ城本館の重要区域まで入ってきていた。


(そういえば、モスカルのヤツここまで顔パスだったよな。何だ、あいつ結構お偉いさんだったりして)


 そのモスカルはアンコウを1人残し、大きな扉の前まで歩いていった。

 そしてモスカルは扉の前まで来ると立ち止まり、しばらく直立して静止している最中だ。


(ああ、本物のお偉いさんなら、あんな直立不動にはならないか)


 大きな扉がわずかに開いたのが、アンコウの目にも見えた。

 アンコウが立っている場所からは、その部屋の中の様子を窺い見ることはできなかったが、モスカルは部屋の中の誰かと何やら話をしていた。



 モスカルは部屋の中にいる誰かと少し言葉を交わした後、再び扉を背に振り返り、早足でアンコウのいるところまで戻ってきた。


「さぁ、アンコウ殿。お行きなされ」

「あ、ああ」


 アンコウは一度大きく息を吸い込んで、わずかに開いている正面の大きな扉を見据える。


 モスカルはアンコウを平凡な男だとグローソン公に言ったが、どちらかと言えばアンコウには好感を持っていた。


 モスカルから見て、アンコウのような者は、この国でさらなる覇を唱えようとしているグローソン公の求める人材ではないと言わざるをえない。

 しかしアンコウは欲少なく、無駄に人を傷つけるようなことは避けており、抗魔の力を持つ人間としては珍しい男だと、モスカルはアンコウのことを評価していた。


「よいですか、アンコウ殿。私はご一緒いたしませんが、決してグローソン公を怒らせるようなことをしてはいけません。命を長らえること、それ以外は望まぬことです」


 モスカルは、グローソン公の苛烈な気性をよく知っている。

 グローソン公は、何やらアンコウに興味を持っているようではあったが、いざとなればアンコウの命を奪うことに、何らためらいはしないだろうことをよくわかっていた。


「あ、ああ、わかった」


 そう言って、アンコウは1人ゆっくりと扉向かって歩き出す。

 そしてアンコウは、扉の前まで歩いてくると足を止める。心臓の鼓動は速くなり、足はわずかに震えている。


 アンコウは大きく息を吸い込んで、心の中で『落ち着け、覚悟を決めろ』と自分に言い聞かせる。

 すると、目の前にあるわずかに開いていた扉が大きく開きだした。


 そして開いた扉の先には、ゆったりとした法術師風の服を着た中年の容貌のダークエルフの男がひとり立っていた。


「さぁ、入れ」

「あ、ああ」


 アンコウは促されるままに部屋の中へと足を踏み入れた。





 グローソン公は奥にある大きな執務机の前に豪奢なイスを置き、そこに座っている。グローソン公は、何ら感情が読み取れないような目でアンコウを見ていた。


 じつは、このときにはすでに、あちこちから上がってきていた情報により、グローソン公のなかでアンコウに対する評価はほぼ固まっていた。


グローソン公爵 ハウル・ミーハシ。

 貴族・豪族の生まれではなく、その出自は定かではない。

 ある地方豪族の娘と結婚し、ウィンド王国の一地域に、はじめてその名があがったのは、今から30年近く前のことであった。

 その後30年の彼の歴史はまさに戦いの歴史であり、戦い続けることで、領地を広げ、名を広め、今ではウィンド王家から正式に王国公爵の地位を認められている男でもある。


 今、アンコウの目の前に座っているグローソン公のこの程度の略歴は、この国の者であれば誰もが知っている。


(た、確か、年齢としはもう50を越えてるって話だったよな)


 アンコウの目の前に座っている男は、アンコウの目には二十歳はたちそこそこの若者に見える。アンコウの目にグローソン公は、自分より年若にすら見える。


 抗魔の力による保若ほじゃくの効果であることはまちがいないのだろうが、人間族でこれほどの保若効果を持つ者にお目にかかるのはそうそうあることではない。



「貴様、何をしておる。グローソン公の御前だぞ。ご挨拶をせぬか」

 アンコウのうしろから、白髪混じりのダークエルフの男が声をかけてきた。


「あっ、は、はい」


 ぼおっとして、突っ立っていたアンコウは慌てて膝をつき、こうべを垂れた。


「ア、アンコウと申します。御命を受け参上いたしました」


「うむ。よく来た、アンコウ」


 そう一言だけ言うと、グローソン公は次にアンコウにではく、白髪混じりのダークエルフの男にむかって話しかけた。


「バルモア、後ろの椅子を持ってきてくれ。アンコウの分とお前の分もだ。この者とは堅苦しい話をする気はない」

「はい。承知いたしました」


 バルモアと呼ばれたダークエルフの男がアンコウの後ろに椅子を置く。バルモアはもうひとつの椅子をグローソン公の側に置き、そのままその椅子に自分が座った。


 グローソン公はアンコウの後ろにあるイスを指差し、アンコウに座れとその指をクイクイッと上下させた。


「は、はい。ありがとうございます」


 アンコウは急いで立ち上がり、その椅子に腰掛ける。


「うむ。では話をはじめるか。まどろっこしい話は抜きだ。これでも私は忙しいのでな」

「は、はい」


 アンコウが返事をするのとほぼ同時に、グローソン公は親指をはじき、アンコウのほうに何かを飛ばしてきた。


「えっ」

 アンコウはとっさに手を差し出し、自分のほうに飛んできた物体を掴み取った。そしてアンコウは、その飛んできた物を握った手を開き見る。


「あっ」

 アンコウの手の中にあったのは王将と書かれたショーギの駒であった。そしてその駒は、アンコウがアネサで作ったアンコウ手作りのもの。


 アンコウが視線を駒から前に戻すと、グローソン公が立ち上がり、アンコウのほうにむかって歩いてきている姿が目に映った。


 グローソン公の背はアンコウよりはかなり高いが、細身である。モデルのような体型の優男やさおとこがアンコウに近づいてくる。

 しかし、グローソン公を見つめるアンコウの背中は、すでに汗でぐっしょり濡れていた。優男グローソン公の身にまとっている威圧感は、アンコウがこれまで感じたことがないようなものだった。


( くそっ、何にもしていない相手にビビってんじゃねぇ)


 アンコウは何とかポーカーフェイスを保ち、近づいてくるグローソン公を見つめる。

 そしてグローソン公は、アンコウの目の前まで来るとアンコウを見下ろしながら再び口を開いた。


『よう、アンコウ。お前この世界の人間じゃねぇだろ?同郷か?いつこっちに来たんだ?将棋なんてオッサン臭い趣味だな』

 グローソン公の口調が、権力者のそれから突然くだけたものに変わる。


「………え?」


 自分と同じ異世界人がいる。アンコウはまったく予測していなかったわけではない。

 可能性は非常に低いと思いながらも、ここに至るまでの経過の中にあった将棋という唯一の重要キーワードを考えれば、わずかながらその可能性も頭の中では考えてはいた。

 ゆえにまったくの想定外の外と言うわけではない。


 しかし、今のグローソン公の問いかけを聞いたアンコウの頭の中は、すでにパニックをおこしていた。


『二、ニホンゴ!ナ、ナンデ……アレ?ナンデダ?オレガシャベッテルノ、ニホンゴ……ア???』


 アンコウの耳に聞こえたグローソン公が話していた言葉は、日本語だった。そして、思わずアンコウの口から出てきた言葉も日本語だった。


 アンコウは一瞬でわけがわからなくなる。

 グローソン公が日本語で話しかけてきた。そして反射的に自分の口から出てきたのも、久しぶりにしゃべった日本語であった。


 そう、それは久しぶりに聞き、口にした故郷の言葉だっだ。


 つまりアンコウは、この世界に来てからいったい何語をしゃべっていたのだろうか。アンコウは、なぜか故郷と同じ言葉が使われている異世界だと、この世界のことを今の今まで認識していた。

 アンコウはこれまで自分がまったく想定していなかった事実に気がついた。


『オ、オレ ハ イママデ ナニゴヲ シャベッテタンダ?ナンデ シャベレタンダ?ド、ドウイウコト ナンダ?』


『……おい、そんなことはどうでもいいんだよ。どっちの言葉でもいいから俺の質問に答えろ。お前が日本人なのはわかった。それでいつ来たんだ?』


『ア、アレ、……オレハ ナンデ?……ナニガ ドウナッテル?……』


 アンコウの頭の中は完全にグチャグチャになっていた。とてもじゃないが、グローソン公の質問にまともに答えられる状態ではなくなっていた。

 そんなアンコウを見て、グローソン公は苛立ちをあらわにする。この男の気性は間違いなく荒い。


「チッ、面倒なヤツだ」


 グローソン公はそういい捨てると、同時に右手を大きく振りおろす。

ドガッ!

 グローソン公の右こぶしがアンコウの顔を打ち抜いた。

「ふぐぅっ!?」


 アンコウは座っていた椅子から吹き飛び、床に叩きつけられた。


『……ぐっ、な、何を』


『何をじゃねぇ!自分がどこの言葉を使ってたのかもわかってなかったのか!このバカが!異世界で自分の世界の言葉が通じるわけがないだろう!

 それに、学んだことのない異世界の言葉がしゃべれるのだって十分不思議なんだ!考えても無駄なことで、いちいちパニクるな!神の恵みとでも思っておけ!今さらにもほどがあるぜ!』


「ううっ、」


『チッ、言葉なんざぁ、わかればどこの何語だってどうでもいいんだよ!面倒だ。こっちの言葉に戻すぞ。気ぃ使って、故郷の言葉を使って損したぜ。とっとと座れアンコウ!』


『あ、ああ、すまない』


 アンコウは慌てて立ち上がり、椅子をおこしてあらためて座りなおした。


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