第18話 エクセレントスタイル

「旦那様、もう少し食べないと体力が戻らないですよ」

「体はもう大丈夫だ」


 体は大丈夫だと言ったアンコウは、もう昼を過ぎているというのにベッドに横になって天井を見つめている。アンコウは用意された今日の昼食を半分以上残していた。

 テレサは、その食べ残しの多い食器を見て、心配そうにアンコウを見ていた。


「もうさげてもらっていいよ」

「でも旦那様、」

「1人にしてくれ」

 アンコウは心配するテレサのほうを見ることもなく、まったくとりつくシマもない。

「………はい、わかりました」


 テレサはまだ何か言いたそうだったが、それ以上何も言わず、食器をカートのうえに移していった。

(……でも話してくれるだけでもましになったわ。体のほうも傷はもう大丈夫みたいだし)


 テレサは、アンコウがこの屋敷に運び込まれる少し前にこの屋敷にきた。そして、アンコウが運び込まれてから5日間、つきっきりでアンコウの世話をしている。


 テレサは近所の人から、あの日アンコウが魔獣狩りに出かけた朝に、アンコウらしき人物が何者かと町中で戦っていたようだと聞かされた。

 しかし、それが本当にアンコウなのかどうか、仮にアンコウだったとして、その後どうなったのかはまったくわからなかった。


 心配なままに時間は過ぎていったが、結局、予定していた魔獣狩りの期間を過ぎてもアンコウは戻ってこなかった。


 アンコウの迷宮からの帰宅予定日を数日過ぎたある日、アンコウの仲間の冒険者だと名乗る男がやってきた。その男は以前、テレサが女将をしていたトグラスで何度か見かけたことのある顔なじみの男だった。

 その男から、アンコウが怪我をしたから一緒に来てほしいと言われ、テレサは疑うことなく男が用意した馬車に乗り、この屋敷まで連れてこられた。


 しかし、テレサがこの屋敷に来たときには、まだアンコウはここにはいなかった。

 テレサはだまされたのかと思ったが、テレサがこの屋敷に来て半日もしないうちに、アンコウが運び込まれてきた。


 運び込まれてきたときのアンコウは、全身血まみれで目はまったく焦点があっておらず、起きているのか寝ているのかもよくわからない状態だった。


(あの時の状態を思ったら、たった5日でよくここまで回復したわ)


 現在、アンコウもテレサも、この屋敷に軟禁された状態になっている。

 だが、全身に怪我をして運ばれてきたアンコウに施された治療は、じつにしっかりしたもので、テレサが手にしたこともないような高価な治療回復剤をこの屋敷の者は惜しげもなくアンコウに使っていた。


 実は、この屋敷はグローソンの密偵たちがアネサで活動の拠点にしている最も重要な場所のひとつで、彼らには優先順位こそ低かったが、主命としてアンコウを確保する命令が下されていた。

 予定していたより早くなってしまったものの、こうしてアンコウの身柄を確保した以上、死なせるわけにはいかなかったのだ。


 テレサにも、この屋敷の者たちがアンコウの仲間などではないということはすでにわかっている。

 しかしアンコウは大けがを負っており、そのアンコウの治療をこの屋敷の者たちがしてくれる以上、この屋敷の者たちの狙いが何かはわからなくても、テレサはここに留まり、アンコウの世話をするだけであった。


「旦那様、何かあったらすぐに呼んでくださいね」


 アンコウはテレサの問いに答えず、天井をじっと見ている。

 アンコウは体の傷が癒えても、時折奇声を発したり、物を壁に投げつけたりしており、まだ精神的にかなり不安定だ。しかし、アンコウ自身もそれを自覚できており、決して狂ってしまったわけではない。


 テレサは天井を見つめて動かないアンコウを見て、軽くため息をつきながら部屋を出て行く。


 軟禁状態といっても、アンコウやテレサに対する監視や拘束はかなり緩い。

 アンコウが軟禁されているこの屋敷に常駐している人の数もかなり少ないようで、彼らもアンコウの監視などに人員を割く余裕はあまりないようだ。


 部屋のとびらの外には、常に見張りが1人立ってはいたが、アンコウが望めば、屋敷の庭を散策するぐらいのことは簡単に認めてもらえるだろう。しかしアンコウは、自らの意思でこの部屋の中に閉じこもり続けている。


 また外では、グローソン軍がアネサを囲んですでに2週間近く経っており、大規模な戦闘にこそ至っていないものの、水面下で行われている工作や周辺地域での両軍の動きは佳境に入ってきていた。



 アンコウは、この日も夕方近くになっても一度も部屋を出ることなく、またテレサが昼食をさげにきて以降、誰も部屋に入ってくる者もいない。


「があぁぁぁーっ!」

 そして、アンコウは部屋の中で時折奇声をあげている。

 

 それはまるで、アンコウの胸の中に溜まり続けているドロッとした感情を吐き出しているかのようだった。


「くそおっっ!」


 外にいる者たちも、すでに慣れてしまっているようで、部屋の中からアンコウの奇声や罵声が聞こえても、いちいち部屋を覗くようなこともしない。


( ぐうぅぅぅぅ、……だめだ。どうしても気持ちがおさまらない。腹が立っているのか、怯えているのか、自分でもよくわからない……)


 今アンコウは、部屋の中でひとり、まだどこか焦点が合っていないような目をキョロキョロさせながら、イライラした様子で、グルグルと部屋の中を歩いていた。


「 くそっ!こんなところにいてられるか」


 どういう感情の動きによるものなのか、それまで一歩もこの部屋から出ようとしなかったアンコウが、突然部屋の隅にテーブルを移動させ、さらにそのうえにイスを置いて、そのうえにのぼりだした。


 そして、アンコウは手を伸ばせば届く位置にまでせまった天井に、なんの躊躇もなくこぶしを突きあげた。

ゴンッ、という音とともに天井の隅のひと枠が簡単に外れる。


 アンコウが天井を殴ったときに出た音も、それまでのアンコウの奇声やモノを投げつける音に比べれば小さいもので、外に立っている見張りもまったく気にしていない。

 アンコウはぽっかりと穴の開いた天井に手をかけて、勢いよく体を持ち上げた。そして、アンコウは天井裏にあがると、梁をつたってゆっくりと移動をはじめた。



 天井裏にはそこそこの空間があり、かなり暗かったが、あちらこちらから明かりも漏れ入ってきていて、問題なく動くことができた。

 アンコウのこの行動に特別目的があるわけではなく、かなり衝動的に外に出ようと思い立っただけの行動である。


 アンコウは、まだ安定しきっていない自分の感情をうまく制御できていない。

 自分がいま軟禁中であるという状況やテレサのことなどもほとんど考慮にいれず、意味なく起伏を繰り返す自分の感情にその行動を支配されているようだった。


 壁のない天井裏をアンコウは闇雲に進む。時折光が射し込んでいる隙間から下の部屋をのぞき込むが、すぐに顔をあげてまた移動をはじめる。


(あっちから風が吹き込んでいる)


 アンコウは少し強めに風が吹いてきている方向に向かって移動する。その途中、また下から光が射し込んでいる隙間をアンコウはのぞき込んだ。

 するとアンコウはこれまでと違い、すぐに顔をあげることなく天井板に手を伸ばし、器用にナイフを使って、それをずらして顔をさらに近づけた。


 アンコウがのぞき込んでいる部屋は、物置がわりに使われている大きめの部屋。

 そこには、日用雑貨や衣服などが乱雑に詰め込まれるようにおかれていた。そしてアンコウが見つめる一角には、武器防具の類も置かれていた。


 アンコウはさらに天井板を大きくずらして、天井裏からその倉庫のような部屋に飛び降りる。

ドンッ! と、アンコウが飛び降りると、アンコウの周囲に床に溜まっていたホコリが一斉に舞い上がった。


 しかし、アンコウはほとんど表情を変えることなく、お目当てのモノの前まで、まっすぐに歩いていく。アンコウが歩いて行った先には、所々塗りがはがれている赤い鞘に入った一本の剣があった。

 この部屋に置かれている物品のうち、武器防具のたぐいは多くはなく、どれもホコリをかぶり、なかには明らかに使い物にならないだろうと思われるものも乱雑に置かれていた。


 アンコウがじっと見つめる赤い鞘の剣も、とてもではないが大切に保管されているようには見えない。しかし、アンコウは天井裏からこの部屋をのぞき見て、その剣が視界に入ったときから目を離せなくなっていた。


 アンコウは、その剣に妙な力というか、蠱惑的こわくてきな魅力のようなものを感じていた。

 しかしそれは、いま現在のアンコウの不安定な精神状態からくる錯覚なのかもしれない。


 ただ気になることに、そのアンコウが見つめる剣には、この剣が呪物であることを示す一枚の御札が貼られていた。


「この剣は………」

 アンコウはそこに立ったまま、しばらく剣を見つめている。


 この世界で、その製造過程において魔石を用いてつくられる魔武具の中には、稀に製作者の意志によらず、魔武具の呪いと呼ばれる力を宿す物がある。

 この場合の呪いというのは、何かの意志がそこに介在しているわけではなく、たまたま造られた魔武具に宿った特性の1つに過ぎない。


 それがなぜ呪いといわれるのかというと、本来魔武具の類は、それそのものが持っている武具としての優劣はあっても、それを使う者が有する力そのものに影響を与えることはないのだが、稀に使用者の力そのものに影響を及ぼすような魔武具が出てくる。

 そして、そのような力を持つ魔武具のうち使用者にマイナスの影響をもたらす魔武具を一般的に呪いの魔武具と呼んでいる。


 その呪いの魔武具を使えば、強い抗魔の力を持つ戦士であっても、その力が減少し、思うように戦えなくなったり、精神に錯乱をきたしたりすることもある。


 また同じ呪いの魔武具を手にとっても、人によって出現する作用は異なり、それは魔武具と使用者の相性によるものだといわれている。しかし生じる影響が異なっても、呪いは呪いであり、通常、使用者に悪い影響しかもたらさない。


 そしてアンコウは、さらに一歩その剣に近づき、その剣を取らんと手を伸ばした。

 そして、その剣をしっかりと両手でつかみ取ったアンコウは、何かに魅入られるかのようにその赤鞘の剣をじっと見つめる。


 ドクン、ドクン、とアンコウの鼓動が大きく、早くなる。アンコウの中にある何かが、この剣に強く反応しているのを感じた。


 拷問をうけて以来、どうにも自分で操縦がきかなくなっていた感情が高揚し、何ともいえず心地がよくなる感覚をアンコウは覚えた。アンコウは柄に手をかけ、一気に剣を引き抜いた。

 両刃の長剣を右手に持ち、アンコウはその剣をかかげる。


「お…おお……うくぅぅーっ!」


 アンコウの体が小刻みに揺れはじめる。アンコウの口元には何ともいえない笑みが浮かび、顔に一気に赤みがさす。それが何ともいえず気味が悪い。


 アンコウが発した声はかなり大きかったが、幸いこの周囲に人はいない。

 アンコウの反応は、普通呪いの魔剣を手にした者が示す反応とは明らかに異なっていた。何やら一種の快感を覚えているようでもある。


「…はあぁぁー、何だこれぇぇ。気分が…すごくよくなってきたあぁぁ、アハァ」


 アンコウはしばらくの間、剣をかかげてその場を動かず、小刻みに震えつづけていた。

 そしてアンコウは、しばしその快感に浸ったあと、剣を握ったまま部屋の中を漁りはじめ、あれやこれやと見繕みつくろい、この部屋にあった品々で身支度を整えていった。


「何だ、ここは。まるで宝の山じゃないのか」


 アンコウは、やはりこの屋敷を1人で抜け出すつもりのようで、その意志は変わっていないようだ。

 アンコウはここにくるまで寝間着と変わらぬ格好をしていたが、この物置部屋にあったもので着替えをすませ、その出来上がった自分の姿を部屋にあった大きな姿見に映して、1人恍惚と悦に入っていた。


「………エックセレンットッ」

 アンコウは鏡に映る自分の姿を見て、恍惚とつぶやく。


 アンコウは寝間着を脱ぎ捨て、ここにあった使用人用の給仕服を着ている。

 この部屋の片隅に今アンコウが着ているものと同じデザインの給仕服が、男性用も女性用も山積みに放置されている。


 デザイン自体はこの国で一昔ほど前に流行はやったもので、流行りゅうこうはずれではあるものの、なかなか洗練されたデザインで、アンコウの元いた世界のホテルのベルボーイが着ていそうな制服であった。

 また、その生地の素材もなかなかよいものが使われているようで、アンコウは着心地良さげに自分が着ている服を触っている。


 しかし、この山積みになっている給仕服は、ホコリまみれになってはいるものの、どれもほとんど使い込まれたような形跡はなく、どうやらさほど使用されることなく、この物置の肥やしとなってしまったようだ。


 その理由はおそらく、この給仕服の色だろう。デザインも生地の質も悪くはないが、この給仕服は男物も女物もすべてショッキング-ピンク一色に統一されてた。

 それは目が痛くなるほどのドピンクだ。

 この給仕服を作らせた人物は、かなりエキセントリックな趣味の持ち主だったのかもしれない。


 趣味は個人の自由であり、身内のみの場でこれを着用させる分には問題ないだろうが、来客を迎える際に家にいる使用人がこれを着て客の応対するのは、この世界の常識でもいささか問題であるといわざるを得ない。


 作ってみて初めて気づいたのか、わかっていても作りたいという衝動が勝ったのかは、今ではもう誰にもわからない。

 とにかくアンコウは、そのショッキング-ピンクの給仕服に身を包んでいた。


「素晴らしい色合いだ………エックセレンットッ」

 アンコウはその服を着た自分の姿を見て本気で言っている。


 そしてアンコウは、そのショッキング-ピンクの給仕服のうえに、足元まで届きそうなほど長い、マントらしきものを羽織っている。しかし正確に言えば、アンコウが首に巻いているその布はマントではない。


 それは、アンコウの後ろにある大きい木箱の中に入っていたもので、大きくて薄手の真っ白なレース編みの布だった。

 それは、アンコウにはマントに見えたのかもしれないが、普通の人が見れば、薄手のレースのカーテンにしか見えない………。


 そしてアンコウは、そのレースのカーテン仕様のマントを首の前で上手に結んでいるのだが、その結び目にはライオンの精緻な彫り物がほどこされた年代物の大きなブローチをつけていた。

 アンコウはそのレースカーテンマントを、手でヒラヒラと遊ばせている。


 そして、それら以上に目立っているのは、アンコウが頭にかぶっているかぶとだ。アンコウはこの兜をかぶる際に、中に布を詰め込んで、しっかり頭にフィットするように工夫していた。


 アンコウが頭にしている兜は金属製で、長年ここに放置されていたとは思えない銀色の光沢を保持している。

 その兜の形は少し変わっていて、上に行くほど少し細くなっているようだが、先は尖ってはおらず、平らな面になっている。そして、かぶっている状態の兜の下の方には、デザインとして巧みに凹凸がつけられており、それが光りをキラキラと美しく反射させていた。


 さらに、その兜の左右には取っ手がついており、アンコウはどこからか金糸の織り込まれた綺麗な組紐をもってきて、その左右の取っ手にきつく結び、さらにその両方の組紐を自分のアゴの下でしっかりと結んで、その銀色のがずり落ちてこないように固定していた。


………そう、である。

 アンコウが頭にかぶっているのは、正確に言えば兜ではなく、銀色の特徴的な形をした金属製の鍋だ。


 アンコウは自分で服をコーディネートして、ここまで気持ちが高ぶったのは初めてだ。


 アンコウはショッキング-ピンク一色の洒落たデザインのベルボーイのような給仕服に身を包み、背中には首から足元まで届きそうな白いレースのカーテン仕様のマントを纏い、頭にはしっかりとフィットするように工夫された銀色に光り輝く鍋をかぶり、腰には塗装のはがれかけた例の赤い鞘の剣をさしている。


 それに、もうひとつ。アンコウは鍋兜なべかぶとの上に一本の魔ロウソクを立てていた。

 この魔ロウソクもこの物置にしまわれていたものだ。魔ロウソクにつけられた火は、専用の火消し鋏を用いるか、完全に水につけてしまうかしないと、なかなか消えないことで知られている魔具の1つ。


 その魔ロウソクに火が灯され、アンコウの頭のうえでユラユラと小さな火が動いていた。


「………エックセレンットッ。力がみなぎるようだ」


 今のアンコウは本気で言っている。鏡に映る自分の姿に、何ら違和感を感じていない。

 アンコウの顔は熱っぽく赤く上気していた。アンコウはあの剣を抜いてからかなり精神的にハイになり、美的感覚などにいささかの変調をきたしてはいたが正気はちゃんと保っている。


 より可憐であると感じた女物の給仕服は着ずに、ちゃんと男物の給仕服を選んで着たのだから………。


 アンコウは、鏡の前からレースのカーテンマントを翻して動き出すと、飛びおりてきた天井裏に再び這いあがっていった。





 アンコウが軟禁先の屋敷で、天井を見つめながら不安定に揺れ動く自分の精神と戦っている間に、このアネサの町が置かれている状況が大きく変化していた。


 ロンドとグローソンの領境付近にあるロンド側の最重要要塞であり、今回のいくさの主戦場になっていたネルカ城が、ロンドの援軍が充分に到着する前にグローソン軍の攻勢の前に早々はやばやと陥落したのだ。


 ネルカ城陥落の一報がこのアネサにも届き、太守をはじめとする為政者たちの間に大きな動揺が走った。

 一方、アネサの防壁の外に陣をかまえるグローソン軍にもこの情報は届いているのだろうが、彼らはいまだ大きく動き出すことなく、アネサ側から見れば気味の悪い沈黙を保っていた。


 そんな中、昨日新たに届いた2つの情報があり、ひとつはこのアネサにむかって、何とか反乱貴族を抑えたロンドの援軍の一部が進んできているという情報。

 もうひとつはネルカ城を落としたグローソン軍の一部がこのアネサを目指して進んできているという良悪相反りょうあくあいはんする2つの情報であった。


 そして、アンコウが天井を這い回っていたこの日、アネサの太守は動揺する人心を抑え、兵士の士気を鼓舞すべしという臣下の進言をうけ、防壁西門付近に兵民を集めて演説を行うことになっていた。


 しかし、このアネサの太守が演説を行うことになったのは、このアネサの町で暗躍しているグローソンの草であるダークエルフたちが仕組んだ計略の一端であり、太守たちはその事実に気づいていなかった。



「ダッジ、準備は整っているか」

「ああ、おれの仲間たちは、あんたらの仲間たちと一緒に一足先に北門のほうに行ったぜ」


 マイキーとダッジは、もうすぐ太守の演説が行われる予定になっている西門の広場を見渡せる場所にいた。広場にはすでに多くの兵士と市民の姿が見える。


「あと1時間もしたらあの防壁のうえで太守の演説が始まる。明日の朝日が昇る頃、あの壁の上にひるがえっているのはどこの旗だろうな」


 マイキーが獲物を前にした魔獣のように白い歯をみせて、広場に集まる人たちの姿を眺めていた。


「ダッジ、ここは騎士団の連中にまかせる。おれたちも北門に移動する」

「……もし騎士団の連中が裏切ったらどうする気だ」


「完璧な策など有りはしない。しかし打てる手はすべて打ち、すべてこちらの都合のよいように事が進んでくれた。仮に騎士団の連中がアネサの太守から離反することなく、ロンドの援軍が来たとしても、結局この町はグローソンの手に落ちることになる。落ちるまでの時間がわずかに延びるだけだ。

 騎士団の連中も腐っても軍事の玄人だ。今の状況を見れば、それぐらいのことはわかっているはずだ。欲の深さゆえに騎士団の連中はおれたちとの約束を違えはしないだろう」


 ダッジはそのマイキーの意見にうなずいた。そこまでこの連中が手を打っているのなら、あとは手柄目あてに自分たちの仕事をするだけだとダッジは思った。


 そしてマイキーは、広場に背を向けて移動をはじめる。

 その歩き去っていくマイキーの後ろに、あちらこちらから人が集まってきて、彼の後ろに付き従い、ともにこの西門広場から消えていった。





 事件は太守が西門の防壁のうえに立ち、広場に集まった多くの兵士や民衆にむかって演説を初めてすぐに起きた。グローソン側が周到に用意した計略が実行に移されたのだ。


 多くの兵士や民衆を前に演説をはじめた太守にむかって、その太守の警護をしていた騎士団の一団が突如襲いかかった。

 そして、自分を警護する兵士に裏切られた太守にはその襲撃を防ぐすべはなく、一瞬のうちに命を刈り取られてしまった。


 むろんすべての兵士や太守の家臣が裏切りを働いたわけではない。太守が謀叛の剣に倒れたその瞬間から、この西門広場の付近は大パニックに陥った。

 裏切り者たちと太守派の者たちが剣を抜き、あるいは精霊封石弾を用い、あるいは精霊法術を用い、激しい戦闘が開始された。


 そして、ここにいたのは兵士だけではない。

 多くの民衆や冒険者の一部も太守の演説を聴くため、あるいは警備のためにここに集まっていた。何らの武装もしていない民衆も戦闘に巻き込まれて、次々に血を噴き出しながら倒れていく。


 そして、それを見ていた他の市民たちが我先に逃げだそうと動きだし、この一帯は収拾がつかない阿鼻叫喚の場と化した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「始まったようだな」


 西門で起こった戦闘とそれに伴う混乱の余波は、響く爆音や轟く叫声となって北門付近に潜んでいたマイキーたちの一団にも伝わってきた。

 マイキーはすでに幻視の術を解き、マイキーの姿は誰の目にも耳が長く褐色の肌を持つダークエルフの容姿として見えている。


 マイキーたちの周辺に、事態が動き出したことを察知した諜報隠密部隊の仲間やアネサの町に一般人として紛れ込んでいたグローソン兵たちが集まってくる。

 この作戦における彼らの役割は、寝返った騎士団員たちが太守の首をとり西門付近に混乱状態をつくり出すのを好機として、その隙に手薄となったこの北門を襲って門を開くことだ。


「よし、みなの者、いくぞ!」


 この集団の中には、ダッジやこのアネサの町を拠点に活動していた多くの冒険者たちの姿もある。今まさに、アネサは内側から崩壊しようとしていた。





 装備をととのえ、再び天井裏を移動していたアンコウは、ついに出口を見つけ、軟禁されていた建物の外に出た。

 外といっても今アンコウが歩いている場所は、まだこの屋敷の敷地内であり、今アンコウは門の外に出るべく移動を続けていた。


 アンコウは天井裏を移動してきたために、せっかく綺麗に整えた服や装備のあちこちにすでに汚れや蜘蛛の巣のようなものがついてしまっている。

 しかしアンコウは、あれだけ吟味して選んだ服や装備であるにも関わらず、そういったことにはまったく頓着していないようで、何やら鼻歌混じりで、機嫌良さげに歩いていた。


 そのアンコウの耳に、

ドオォーンッ ドオォーンッ ドオォーンッ と、連続して響く爆音のような音が遠くから聞こえてきた。


 その音を聞いたアンコウは立ち止まり、音が聞こえてきたと思われる方向に意識を集中する。その爆発音は途切れることなく、まだ続いている。

 さらにアンコウのもとには、数百、数千の人々の叫び声が重なった地響きのような空気の振動も伝わってきていた。


 アンコウはそれを聞いて、この町のどこかで大きな戦闘が起こっていることを知る。

 アンコウは例の剣を抜いてから継続して妙な興奮状態にあったのだが、戦闘のにおいを嗅ぎつけると、さらに心沸き立つような興奮が湧きあがり、自分の心が愉楽に包まれていくのを感じていた。


 アンコウはまるで大きいお祭りに参加しにいくような気分になっていく。そしてアンコウはスキップ混じりに移動を再開した。


 アンコウは自分が軟禁されているということはわかっている。今も記憶が飛んでしまっているわけではなく、ちゃんと状況の認識はできている。

 にもかかわらずアンコウは、裏口に回るでもなく、壁を越えようと試みるでもなく、堂々と屋敷の正面門から外に出ようとしていた。


 アンコウにとって幸いなことに、この屋敷のおもだった者のほとんどが、今まさにこのアネサで行われている戦闘に参加しており、今正門前にいるのは見るからに年寄りの見張りが1人立っているだけであった。

 だが、門に近づくアンコウに最初に気づいたのはその門番ではなかった。


「おい、貴様なにをしている!」


 アンコウはうしろから鋭く声をかけられた。

 アンコウを呼び止めたのは、この屋敷に留守居役るすいやくを命じられている男で、門番の年寄りなどとは違い戦闘要員としても充分な実力を持っている。


 アンコウはその声のほうを振り返る。アンコウの目に映った男はダークエルフの男。すでに戦闘に備えた装備も身につけていた。

 ダークエルフの男も、アンコウの顔を見た。


「なっ!お前は!」

 その留守居役の男はアンコウの顔を見知っていた。


 この屋敷の警護とともに、アンコウをこの屋敷で保護することも上から命じられているのだから当然だ。しかし男には、そのアンコウがなぜこんなところにいるのかわからない。

 おまけに自分のほうを振り返ったアンコウのいでたちを見て、留守居役の男は固まった。


 アンコウのいでたち。ショッキング-ピンクの給仕服を着て、レースのカーテン仕様のマントを纏い、頭に銀色の鍋をかぶり、その鍋の上には一本の魔ロウソクが火の灯った状態で立っている………誰が見ても普通ではない。


 この留守居役の男はアンコウの怪我や精神状態について報告を受けていたため、一瞬、ついにこの男、気が狂ったのかと思った。しかし次の瞬間、留守居役の男の目にアンコウの腰にある剣鞘が目に入った。

 そしてアンコウの手には抜き身の長剣。男はその剣にも見覚えがあった。


(あれは、東館の屋内倉庫においてあった呪いの魔剣か)

 男はもう一度アンコウの腰の剣鞘を見て確認する。

「くっ、この馬鹿が。どうやって入ったのかは知らないが、あんなゴミ屑みたいな剣を。呪いの魔武具を示す札が貼ってあっただろうがッ」


 アンコウはまったく表情を変えることなく、男の言葉を聞いていた。

 留守居役の男は、アンコウの精神状態はまだ万全とはいえないが、かなり改善してきていると報告を受けていた。ならば、今のアンコウのざまは、あの呪いの魔剣のせいで、何らかの精神的影響を受けている可能性が高いと考えた。


「おい、貴様。その剣をこちらに渡せ。その剣はお前のものではないだろう」

 男はアンコウの剣を指さして、言った。


「それは無理だ。剣がないと戦えない。音が聞こえるだろ?これからおれも戦いに行くんだ。剣がないと戦えない。誰も使っていなかったんだからこいつも使って欲しいんだよ。だからこれは借りていく。ちゃんと後で返す。

 ああ、剣だけじゃなくていろいろ借りていく。服にマントにかぶとにぃ、」

「いいからその剣を寄越せ!」

 ダークエルフの男は厳しい口調でそう言うと、アンコウに近づいていく。


「……ケチケチするなよううぅぅぅーー!」


 それまで穏やかに話していたアンコウが、目を見開いて突然絶叫した。


「なあっ!」


 そして次の瞬間、アンコウは身をひるがえして、白いレースのカーテンマントをなびかせながら門の外にむかって全力で走り出した。


「くっ!お、おい、待てっ!」


 アンコウはかなりのスピードで門を駆け抜けた。門番の年寄りが気づいたときには、アンコウはすでに門の向こう側を走っていた。

 ダークエルフの留守居役の男は慌ててアンコウの後を追う。


 この屋敷があるあたりは人気の少ない地区であり、またアネサの町ではすでに大規模な戦闘がはじまっているということもあり、ダークエルフの男は周囲を気にすることなく、全力でアンコウを追いかけた。


 ダークエルフはエルフ族の忌み子、白いエルフよりも黒いエルフは持って生まれた力が大きく劣る。エルフの支配するこの国で、その近親ゆえにエルフから最も蔑まれている一族でもある。


 しかし、人間や獣人から見れば精霊法術を扱うその能力は恐るべきもの。普通の人間ならば、ダークエルフに抗すべくもない。


 身体能力においても、ダークエルフは抗魔の力を持つ獣人と比べれば、一般的には腕力・体力で多少劣る場合が多いかもしれないが、決して弱いわけではない。またダークエルフはスピードだけに関していえば、種全体の特徴として、抗魔の力を持つ人間や獣人と比べても、間違いなくそのうえをいく。


「待て!手間を取らせるな!」

 ダークエルフがアンコウとの距離を一気に縮めていくが、屋敷の門からはどんどんと離れていく。

「くそっ、面倒なっ」


 ダークエルフは早くアンコウを捕まえようと、さらにスピードをあげた。しかし、・・・・・

・・・・

「………?」

 おかしい。はじめは距離を縮めたものの、ダークエルフの男はなかなかアンコウに追いつくことができない。

(なぜだ、どういうことだ)


 男は拠点のひとつであるあの屋敷の留守居役を命じられるほどの実力者。同じダークエルフの仲間内でも優れたスピードを持つことでも知られていた。

 なのに、冒険者であるとはいえ人間族のアンコウに追いつけない。男の顔に焦りの色が浮かぶ。


 いま、アネサの町全体が混乱に陥ろうとしているが、それでも、できればあまり人の目に触れることなくアンコウを捕まえたいと男は思っていた。

 それにアンコウをすることも自分の仕事であり、捕まえるためとはいえ、アンコウに攻撃をすることも|できれば避けたいと考えていた。


 常識的に考えれば、簡単に捕まえられるはずなのだ。

 このダークエルフがこれまでに得ている情報の限りでは、アンコウという人間族の冒険者が自分より優れた身体能力を持っているとは思っていなかった。スピードという点ではなおさらだ。


 それに普通、呪いの魔武具を身につけた者はどのような形であれ、その身体能力が落ちることがあっても向上することはない。

 呪いの魔武具とは反対に使用者の力そのものを向上させる力を持つ魔武具として、神与の魔武具と呼ばれるものはあるが、アンコウの持つあの赤鞘の剣が呪いの魔武具であるということは、あの屋敷の留守居役である男自身がずいぶんと前に自分の目で確認済である。


 あの剣を持たせた者たちは、1人残らずその戦闘能力が減退した。なかには精神的錯乱を起こした者もいた。

 それになによりアンコウのあのざま、あの剣が神与の魔剣であるはずがない。


「くっ、なぜだ!」

 にもかかわらず、アンコウの走る速度はいつもよりも段違いに速い。


 ダークエルフには見えていなかったが、アンコウは満面の笑みを浮かべながら走っていた。追いかけられながら走っていると、どんどんどんどん気持ちが高ぶっていったのだ。


「イイィィィー、カァァァアアアアーー!!」


 アンコウはついに奇声を発しながら走り出した。遠くから聞こえてくる激しい戦闘の響きにむかって走る。さらにアンコウの走るスピードが上がる。


 上下ショッキング-ピンク一色の給仕服が周囲の風景から鮮やかに浮き上がり、白いレースのカーテンマントをなびかせて走る。傾きつつある太陽の光が銀色の鍋兜なべかぶとに反射してキラキラと光っている。このスピードで走っても、頭のうえに灯る魔ロウソクの火は消えない。


 ダークエルフはどんどんアンコウとの距離を離されていった。


 アンコウは腰にさしている例の赤鞘の長剣を手に走り続ける。そして剣先を前方にかかげ、いま走っている少し広めの通りから、細く狭い路地へと走る方向を転換した。


「アアアァァァアアーー!」


 細い道に入ってもアンコウの走る速度はさらに増している。

 ダークエルフの男がアンコウが曲がっていった路地の入り口まできたときには、すでに真っ直ぐに伸びるその路地の先にアンコウの姿を見ることはできなかった。


 ただ、どこからかアンコウが発しているだろう奇声だけが、かすかにその路地にもこだましていた。

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