第15話 新築一軒家にて

 テレサは今、アンコウの奴隷として住んでいる家の中にいた。この家でリビングダイニングとして使っている部屋に、テレサは1人座っていた。


 この家のどの部屋にいてもまだ新築特有の良いにおいが漂っており、いろんなものが綺麗だ。

 掃除を終えて、ひと休みしているテレサも、掃除のしがいがあるわとひとりごちた。


「ふうーっ」

 テレサはハーブ茶を一口飲み、息をつく。


 テレサの目の前にある長いテーブルも、いま座っているイスもまだ新しい。高価なものではないが、新しいというだけで気分が良いものだ。


 テレサは手に持っているハーブ茶が入っているカップを見た。このカップも新品で極々普通の品。

 ただ、テーブルやイスと違うのは、このカップを選び、買ってきたのがテレサ自身だということだ。


 むろん奴隷となったテレサにそんなことに使えるお金はなく、支払いに使ったお金はアンコウのものだ。


 テレサはテーブルのうえにカップを置き、次にテーブルの向こう側にある棚の上に置かれた花瓶に目をやる。


(………ずいぶん私が買ってきたものが増えた)


 テレサがこの家で生活をするようになって、3ヶ月になる。

 テレサがこの家に来た日までアンコウもここには住んでおらず、家具など最低限必要なものは、ほぼ業者まかせで買い揃えていたようだが、ここで2人の人間が生活していくためには、日用品などを中心にまだまだ足りていない状態だった。


 アンコウはテレサの仕事のひとつとして、この家の家事全般をするように命じており、そのために必要な品々と、テレサ自身が使う生活用品をテレサの判断で買いそろえるように言われていた。


 むろんお金はアンコウが管理しているのだから不要な買い物はできない。その都度チェックはされるのだが、ここに住み始めたかなり早い段階で細々としたものは全部事後報告という形になっていた。


 いまテレサが飲んでいるハーブティーも、手に持っているティーカップも、棚のうえに置かれている花瓶も、すべてテレサの趣味で選んだものだ。


 そのほかもテレサの私物だけでなく、この家にある日用品のかなりの部分がテレサが選んだものになっていた。買い物自体もお金だけをアンコウから預かって1人で行くことが多い。

 たまにアンコウ用に買ってきた食器の絵柄などがアンコウの趣味ではなく、文句を言われたときなどは、じゃあ一緒に来てくださいと、思わず言ってしまったこともあった。


 テレサはトグラスの女将であったときと同じように、時には冗談も言ったりしながら、アンコウと話をすることができていた。

 元々アンコウは宿の客であったので、テレサはアンコウには敬語丁寧語主体で話していたのだが、それでもここに来た当初は口の利き方ひとつにしてもどうすればよいのかずいぶん迷っていた。


 初めにアンコウからは、命令には必ず従ってもらうということをかなりきつく言われたが、細かな立ち居振る舞いや話し方などに関しては、ほとんど何も言われなかった。

 テレサは様子をうかがいながら、アンコウと日々の会話を重ねていくうちに、自然と奴隷になる以前の宿屋の女将と客であった頃とさほど変わらない話し方、接し方になってしまっていた。


(……あの人が前とほとんど変わらないから)


 テレサが変えなかったというよりも、アンコウが以前どおりの態度だったのだ。

 アンコウとしては、テレサを奴隷屋から引き取ったときにこちらの望む要求を命令としてテレサに伝えており、それをテレサが守っている以上無駄に威圧的になる意味がなかっただけのこと。


 テレサはテッグカンの奴隷屋に売られてきたときには、奴隷の身となってしまった以上、今後買われた先によっては人としても扱われず、最悪、歪んだ趣味や目的のため、殺された方がましと思えるほどの責め苦を与えられるかもしれないと一時は真剣に覚悟していた。


 実際にテレサは借金取りたちの手によって、奴隷屋に売り飛ばされる前にかなりの暴力を受けていたのだから、その不安は深刻なものだった。


 その不安感は、トグラスの顔見知りで好感を持っていたアンコウに買われることが決まった後も完全には消えず、テレサがすぐに絶対の安心を持つことなどできるはずがなかった。


(………主な仕事は、この家の家事全般。……トグラスの仕事よりずっと楽だわ)


 しかし、テレサのその不安はいい方向に外れた。

 この家でアンコウから課せられた仕事は、実質的にひとつの宿屋を切り盛りしていたテレサにとって、ずいぶんと楽なものだったし、この3ヶ月の間にアンコウからひどい暴力を受けるようなことは1度もなかった。


 しかもアンコウは、月の半分近くはこの家に戻ってこない。

 アンコウが留守の間も事前の許可なり事後報告なりをちゃんとすれば、テレサはかなり自由に行動することが許されていたし、もう二度と会うことが出来ないと思っていた娘のニーシェルにも、このあいだ会うことができた。


 ニーシェルは、テレサの首にはめられた奴隷の首輪を見て初めは泣いていたが、この場所で今のテレサがしているのと同じように2人座ってお茶を飲みながら、テレサがなだめるように話をしていくうちに、複雑そうではあったが少しは安心できたみたいだった。


「ふふっ、あの子も驚いてたわね。奴隷の勤め先としてはここはずいぶん好待遇だわ」


 でも、一人きりの部屋でそうつぶやくテレサの顔はやはりどこかさびしく不安げなもの。


 どのような良いと思える扱いを受けていようが奴隷であることは変わりなく、テレサは自分が奴隷であることに納得し、あるいは諦め、奴隷であることに染まり切るには、まだ少し時間が足りていない。


 体がまだトグラスで朝から夜遅くまで働き続ける感覚を覚えている。

 それは決して楽しい生活ではなかったが、いまにして思えばトグラスの女将として、やりがいというものも感じていたのだとテレサは思う。


 それに、しょせん奴隷はモノ。アンコウが誰かに自分というモノを売れば、この生活はその瞬間で終わってしまう。テレサの今とこれからの生活はそういうものなのだ。

 ここに来る前ほどではないにせよ、漠とした不安がテレサから完全に消えることはない。


「ふうーっ、いいかげん早く慣れないとだめね」


 テレサはカップに残ったハーブ茶を飲みほした。


 奴隷となってしまったものが、その所有者である者の意思に反して奴隷自身の力でその境遇から抜け出し、新たな人生を切り開くなどということは、少なくともテレサのような女にできるような荒事ではない。

 

 テレサは座っていたイスから立ち上がり、空いたカップを洗い場に持っていく。テレサは水を張った桶の中にカップを沈める。

 テレサが移動してきた場所は炊事場として使われている部屋で、開け放たれている大きめの引き戸のとびらは、直接庭につながっている。


 開け放たれているとびらの近くには一本の木剣が立て掛けられている。テレサは何の気なしに、今朝も庭で振っていた木剣をつかんだ。

 そう、この木剣はアンコウのものではなく、テレサがアンコウから練習用にと貰ったものだった。


「ふうーっ、嫌だな。実際に戦うようなことにならなければいいのだけど」


 アンコウに初めて剣を渡されて、これから剣を稽古するようにと言われたときは、テレサは恐怖でそれをすぐに受けとることができなかった。

 アンコウはテレサに抗魔の力が多少なりともあることを知っていた。テレサは、アンコウが自分を鍛えて、魔獣狩りに使うつもりなのかと思ったのだ。


 テレサの持つ抗魔の力はかなり限定的で中途半端なもの。しかも、テレサがその力に目覚めたのは子供を産んだ後のことであり、剣を振るって魔獣と戦ったことなど、これまでに1度もない。


 覚悟のない者が中途半端な抗魔の力を持つことは、必ずしも喜ばしいことであるとは言えず、逆に不幸や面倒ごとの種になりかねない。

 魔獣と戦うことなどは望まないテレサは、これまで自分からそのことを人に話すことをしなかったし、アンコウに知られたのは偶然によるものだった。


 テレサは迷宮などに連れていかれたら、最も弱い魔獣のエサとなる自信がある。

 しかし、ためらうテレサにアンコウは、命令だと言ってテレサに有無を言わせず剣を持たせた。いずれ迷宮に連れていくこともあるかもしれないとも言われた。


 まっ青になり体を震わすテレサに、アンコウは心配はいらないと言った。

 基本的には魔獣狩りに連れていく気はないのだと、それはテレサに与える仕事には入っていないと言った。


 ただし、自分の奴隷になった以上迷宮に入らなければならなくなる可能性はある。力が多少でもあるのなら、自分の身は自分で守れと言われた。

 また冒険者などをやっていれば、いつどこで斬り合い殺し合いに巻き込まれるかしれたものではなく、お前も他人事でないとテレサは言われた。


 戦うことはテレサの仕事ではないが、この家の留守を守るのとテレサ自身の身を守るのは仕事のひとつであり、この家もテレサも自分の所有物なのだと、それを守れと、そのために剣の基礎を教えると、アンコウに言われた。



 テレサは手に持った剣を構えて、1度だけ振り下ろす。

ビュンッ!

 剣が空を切る音が3ヶ月前に比べるとずいぶん鋭くなった。テレサは眉をしかめながら、木剣をじっと見つめる。


「ふうーっ、」

(………嫌だな。やっぱり迷宮に連れていかれたりするのかしら。それは仕事じゃないって言っていたけど)


 テレサは軽く自分の顔をたたき、気分を変える。


 そしてテレサは木剣を元の場所に戻すと、炊事場に戻り、鍋のふたを開けてスープの出来を確認した。


 アンコウからテレサが聞いていた予定では、今回の魔獣狩りで迷宮に潜っているのは昨日までだったはずだ。

 予定が変わることはこれまでにも何度もあったが、昨日の夜に地上に戻ってきているなら、お昼頃にはここに戻ってくる可能性が高い。


 テレサは今ある料理と食材を確認して、アンコウがいま帰ってきても簡単な食事をすぐ出せることを確認した。


「とりあえず大丈夫そうね」


 午前中の仕事をほぼ終えて、手持ちぶさたになったテレサは2階に上がっていく。

 買い物に行く用事もあったのだが、アンコウがいつ戻るかわからないため、いま外に出て行くことははばかられた。


(待つのも仕事のうちね)


 トン、トン、トンと調子よく階段をのぼり、テレサは2階の寝室に入った。


 この家は2階建てで、それぞれの階にいくつかの部屋はあったが、テレサ専用の個室というものは与えられていない。

 しかし2階にあるアンコウが書斎にしている小さい部屋を除いて、テレサは自由に出入りしてもよいと言われており、特にアンコウがいないときなどは、どの部屋も気兼ねなく自由に使っていた。


 テレサは寝室に入って、中に置かれている鏡台の前に座り化粧を直す。

 この鏡台とその横に置かれているタンス、それに窓の近くに置かれているベットは、テレサがテッグカンの奴隷屋からこの家にやって来たときには、テレサ用の家具としてすでにこの部屋に置かれていた。


 この寝室はリビングを除いて、この家で一番広い部屋であり、テレサのベッドのすぐ横にはアンコウのベットも置かれていて、この部屋は2人で使う寝室になっている。


「………目尻と口元のしわがまた薄くなってる。肌に張りも出てきてるし。話には聞いてたけど、すごいわね」

 テレサが鏡に映った自分の顔を見ながらつぶやく。


 ある程度以上の抗魔の力を持つ者は、多少の個人差はあるものの、その者が属する種族の一般的な寿命よりずっと長く生き、またその伸びた寿命の割合以上に長期間若々しい肉体を保つということは、この世界の者ならば誰もが知っている。


 しかし、これまでテレサには保若ほじゃくという効果はその体に現れておらず、それはテレサの持つ抗魔の力が保若の効果を現すにはいくらか不足していたためであった。


 また、抗魔の力を持つ者の血や体液にはその力が強く宿っていることも広く知られている。

 この抗魔の力を持つ者の血や体液を継続的に用いることで、抗魔の力を持たない者でも、老人が若者になるということはさすがにあり得ないが、老化を食い止め、寿命を延ばすという効果を期待することができた。


 そのため抗魔の力を持つ者の血や体液そのものが売買の対象にさえなっており、中途半端な力しか持たない者が、それを狙った者たちによって狩りの標的にされるという現実もある。


 これを証明するひとつの証左として、抗魔の力を持つ者と一定期間定期的に性的な交わりをもち続けている者には、全てにではないが、その者が抗魔の力を持たない者であっても、保若長寿ほじゃくちょうじゅの効果が現れる場合があるという事実があった。


 ただ、それにしても今のテレサのように3ヶ月ほどで、その効果が目に見えて現れてくるというのはいささか早い。


 そのことをテレサがアンコウに問うと、アンコウは単にアンコウが持つ抗魔の力の影響だけじゃなくて、テレサ自身が持っている抗魔の力の影響と、アンコウとテレサの相性なども相乗的に働いているんだろうと言っていた。


(そうね。最近自分の中に感じる力自体が、少しずつだけど増している気がするし………)


 テレサは出産を期に、自分の中に、ある種の力を感じるようになっていたのだが、ここに来るまではそれが増減しているような感覚をおぼえたことは1度もなかった。

 しかしテレサは最近、稽古で木剣を振っているときなどに、体から湧きあがってくるその力が、これまでよりもわずかずつではあるが、増してきているのを感じていた。


 テレサは鏡に映る少しシワが消えてきた自分の顔を見て、ふいにこの変化をもたらしたであろうアンコウとの行為を思い出して、年甲斐もなく顔を赤らめた。


「ふうーっ………」


 テレサは少し意外だった。いや、奴隷となった女が男に買われていった以上、その購入に特別な理由や用途がない限り、女として体を求められるであろうことは当たり前のことであり覚悟はしていた。


 アンコウ本人からも、テレサはこの家に来る際にはっきりとその役割についても求められていたのだが、テレサにはどうにもピンとこないものがあった。


 というのも、テレサはトグラスの女将をしていたときは、冒険者たちをはじめ、多くの宿泊客たちから口説かれるということがよくあった。

 男たちの、多くは遊びで時には真剣に、トグラスのような宿屋の女将をしていれば、それはごく日常的な出来事だ。


 しかし、アンコウは違った。テレサとしては、アンコウは多くの宿泊客の中でもかなり親身に接していた客であったし、暴漢に襲われそうになったところを助けてもらったこともあった。

 そんなこともあって、アンコウには商売を抜きにした顔を見せることもあったのだが、アンコウに口説かれたことはもちろん、自分の体をいやらしく見られていると感じたこともなかった。


 アンコウとしては、女が欲しくなったら魔獣狩りで儲けた金を持って娼館に行くだけであり、多少親しくしているからといって、自分が泊まっている宿の人妻子持ちの女将をわざわざ口説くなどという発想自体がなかっただけだ。

 だからといって、別にテレサに対して女としての魅力を感じていなかったわけではない。


 しかしテレサは、アンコウにとって自分はそういう対象ではないのだと受け止めていた。だからテレサは意外であった。


 今そこにあるベッドで、アンコウが自分にむけた男の目。アンコウに服を脱がされ、テレサも何もまとわぬアンコウの体のすべてを見た。


 アンコウは服を着ていると、冒険者としては細身に見える。しかし、裸になったアンコウは、魔獣たちを斬り伏せて生きのびてきた無駄のない筋肉を全身に張りつけた戦士の体をしていた。


 そのアンコウの激しい息づかいに荒々しい手つき、すべて女としてのテレサにむけられたものであった。

 アンコウが自分に激しく欲情していたことは、今ではテレサ自身の体がよく知っている。


 この3ヶ月の間にテレサはアンコウに何度も抱かれた。それだけが原因でないにせよ、アンコウの持つ抗魔の力が自分の体に変化をもたらすほどに、その力を身に受けていた。


 むろんテレサは男を知らないわけではない。しかしテレサの夫であった男は、テレサと結婚した当初から酒とバクチにはまっており、テレサに対する関心は低かった。

 それでもテレサは二十歳の時に一子をもうけたが、さらにそれ以降、夫がテレサを女として求めることは少なくなっていった。


 そして夫との仲に決定的な亀裂が生じた頃、テレサは精神的にも非常に不安定になり、ある一時期にテレサは数人の夫以外の男に抱かれたこともある。


 しかし、いずれも一時いっときだけの関係で、テレサが夫との関係に見切りをつけ、再び仕事と子育てに注力するようになってからは、そのような火遊びをすることもなくなっていた。


 テレサにしてみれば、男は知っていても自分をこれだけ激しく女として求めてくる男と生活をともにするということは、この3ヶ月が初めてだった。


 テレサはアンコウが迷宮にいく前日、このベットでアンコウに抱かれたときのことを思い出す。

「んんっ………」

 この3ヶ月でテレサの体はアンコウの体をおぼえはじめていた。


 アンコウの体を見て、熱くなる自分のからだ。アンコウの手の動きに答えるように声が漏れ、その声がどのようなものであったか、どれぐらいの大きさであったのか、自分では思い出せない。


 ただ、アンコウの動きに合わせるように、身をよじり、手も足も全身を激しく動かし、テレサは嬌声をあげていた。


(………はずかしい)


 テレサは全てをおぼえているわけではないが、思い出そうとすると顔が赤くなる。

 自分は男を知らない10代の乙女ではない。恋に身を焦がす若い娘でもない。男を知り、結婚もし、子も生み育てた30半ばの女。アンコウは、自分より10歳近く年下の20代半ばの男。


 その男にベッドのうえで組み敷かれ、演技ではなく完全に主導権を奪われ、乱れている自分に信じられない思いがした。

 テレサはいま自分の頭の中に浮かんだ情景を振り払うかのように頭を振った。


 そしてアンコウの別の顔を思い浮かべる。


「でも、あの人は………やっぱりよくわからない」


 テレサにとってアンコウは、元々よくわからない部分のある男だったが、その思いはこの3ヶ月でより強くなっていた。


 一緒に暮らしてみれば、アンコウは奴隷である自分に対してもこれまでとほとんど態度が変わることなく、思っていた以上に優しくて配慮のある男だったのだが、アンコウには常に見えない冷たい壁があるようで、テレサは本当のところアンコウが何を考えているのかよくわからなかった。



・・・・ゴォーン・・・・ゴォーン・・・・

 正午を知らせる町の鐘が鳴る。


「あっ、もうお昼。もう帰ってくるかもしれないわね」


 テレサは鏡台の前のイスから立ち上がって、また考える。

 予定どおりに狩りを終えていれば、アンコウは間違いなく今日中に帰ってくる。ちょうどお昼時で、簡単な食事ならすぐに用意できる準備もほぼ終わっていた。


「ごはん食べるかしら。それに……」

(どうしようかしら、服、着替えておいたほうがいいかしら)


 テレサはアンコウが帰ってきた後のことを考えて、反射的に服を着替えておこうかと考えたことに、また少し顔を赤らめた。

 別にテレサはこの3ヶ月で恋する乙女に戻ったわけではない。現実はちゃんと見ている。


 アンコウはテレサに対してやさしさを見せ、それなりの配慮もしてくれているが、それはテレサに懸想けそうしているからではない。テレサを自分の奴隷とした後も、以前と接し方が変わらなかっただけのことだ。

 

 しかし、テレサは長い間忘れていた自分が女だということを、この3ヶ月の生活でどうしようなく思い出させられてもいた。


 アンコウは普段、夜の寝室以外でテレサを求めることはほとんどない。

 しかし、仕事である魔獣狩りから戻ってきた日だけは違った。男のさがであろうが、より強く荒々しく女を求めるようになっている。


 テレサは狩りから戻ってきたアンコウを家に迎入れると、そのまま抱きすくめられて体を求められたことがこれまでに何度かあった。

 初めて昼間、寝室ではない明るい場所で裸に剥かれたときは、さすがに恥ずかしかった。

 普段よりも荒っぽく、テレサに対する配慮も少ない。着ていた服が破れてしまったこともある。あれがアンコウとの最初でなくてよかったとテレサは思う。


 湯屋には昨日も行っているが、今日もテレサは朝には稽古のため木剣を振り、家の掃除をし、料理のため火も使った。着ているものに、汗もニオイも付いてるだろう。 

 今から湯屋に行くわけにはいかないが、テレサはとりあえず体をふき、着ているものを着替えておくことにした。





 そしてアンコウが帰ってきたのは、それから1時間ほどしてからだった。

 テレサが1階の部屋で座っていると玄関の呼び鈴が鳴った。のぞき窓から見てみると、この家の主人であるアンコウが立っていた。

 テレサは急いで玄関の扉を開けた。


「おかえりなさい」


 テレサはアンコウを迎入むかいいれる。アンコウが着ているものは、迷宮から直接帰ってきたときとは違い、綺麗でこざっぱりしたものだった。

 やはり、昨日はどこかで泊まってきたのだろうとテレサは思った。


「ああ、ただいま」


 アンコウはテレサのほうをチラリと見て、そのまま家の中に入ってきた。

 アンコウの表情はどこか硬く、テレサは狩りがうまくいかなかったのだろうかと思った。


 トグラスの女将をしていたときも、魔獣狩りがうまくいかずに帰ってきた泊まり客は、人によっては相当荒れる者もいた。

 そのあたりの冒険者の機微を知るテレサは、アンコウに狩りの成否をたずねることはしなかった。


「旦那様、お昼にしますか?すぐに用意できますよ」

 テレサはアンコウの体のホコリを払いながらたずねる。

「いや、昼は食べてきたからいらない」


 アンコウはそう言うと階段に向かって歩き出した。テレサは階段のしたまでアンコウについていく。

 アンコウは階段に足をかけた時点で、テレサのほうを振り向いた。


「テレサは昼まだなのか?」

「はい。朝は食べましたよ」


 テレサは冗談ぽく務めて明るい感じでそう答えた。しかし、それは反射的なもので心がこもった笑みとは言えない。

 これも宿屋で、不機嫌そうな冒険者の客の対応をしていたときのクセだ。そういう者が目の前にいれば、何も考えなくともそういう対応が普通にできる。


「そうか。じゃあ、テレサは昼ご飯を食べて。食べ終わったら、お茶を持ってきてくれるかい」

「あ、はい」

「ああ、急ぐ必要はないから。ごはんはゆっくり食べてくれていい」


 アンコウはそう言うと、1人2階に上がっていった。そしてテレサはアンコウが2階に上がるのを確認すると、1人炊事場のほうに歩いていく。



 アンコウは服を着替えた後、1人書斎に入っていった。

 アンコウはダッジと別れたあと、少し遠回りをして歩き、途中で簡単に昼をすませてから家に戻った。


 アンコウは書斎のイスに座り、何をするわけでなく机に向かっていた。どうにもダッジが将棋を指しながら言っていたことが気になっていた。


 アンコウはダッジにもっと突っ込んで聞いてもよかったのだが、何やら面倒なことに巻き込まれそうな予感がして、あえて関わり合いにならないほうがいいとあの場では判断した。しかし、


(あの表情。ダッジのやつが何の理由もなしにあんなことを言うとは思えない。何かの情報でも持っているのか………)


 ダッジの話の中には、アンコウの個人的なこともそうだが、かなりきな臭い内容も含まれていた。しかし具体的な話があったわけではなく、何かが起こると決まったものではない。

 ただそれでも用心深いアンコウは、心配を払拭することができず、余計なトラブルは勘弁して欲しいと考えをグルグルと巡らせていた。


 せっかく家を買って、わずかながらも落ち着いた時間をようやく持てるようになってきたのだ。

 冒険者稼業なぞをやっている以上、いつまでもここに住んでいられるとはアンコウも思っていないが、こと戦争なんてことになれば、最悪、町を捨てることも考えなくてはいけない。

 家を買って3ヶ月では短すぎるだろうと、アンコウは思う。


「まぁ、さすがにそれはないか。油断はだめだが、考えすぎはおれの悪いクセだな」


 アンコウがこの町に着てから3年、町自体が巻き込まれるような戦争は1度も起きていない。

 このアネサを治める領主と、この領主と互する力を持つ他の貴族が治める地との境界線はこのアネサからはいくぶん離れているため、他領の貴族が武力を持って、このアネサを攻めようと思えば、いくつかの町や砦を突破してくる必要がある。



「ふーっ。まぁ、貴族同士の戦争なんて、どっちにしても俺にはどうにもできない。やばくなったら逃げるしかないか」


 アンコウは、自分の命とこの家を天秤にかけるつもりは毛頭ない。アンコウは壁を見ながら、そうつぶやいた。

 そしておもむろに今回の魔獣狩りで使った剣を取りよせて、アンコウは剣の手入れをする準備を始めた。





 剣の手入れが終わろうとしていたとき、アンコウがいる書斎のとびらがノックされた。食事を終えたテレサが、アンコウに言われた通り、お茶を持ってきた。


 アンコウは手入れを終えた剣を仕まい、テレサに中に入るように言う。

 テレサは書斎の中に入ってきて、机の上に持ってきたお茶をおいた。


 アンコウは集中して剣の手入れをしたのが気分転換になったのか、帰ってきた時のような硬さは、その表情から消えていた。テレサは、それを見て少し安心する。

 これだったら少し話をして大丈夫かしら、とテレサは思った。


「……あの、旦那様。留守にされていたときのご報告を今しても大丈夫ですか?」


 アンコウは、持ってきてもらったお茶を一口飲んで、また机の上に戻す。


「ああ、大丈夫だ」

 アンコウはテレサに自分が留守の時は、かなり自由に行動することを認めていたが、必ず事後報告をするように命じていた。

「はい、それでは、」


 アンコウは、この数日にあったことを話すテレサの言葉をほとんど口をはさむことなく聞いている。

 アンコウはテレサを奴隷として買ったことは正解だったと思っている。一言ひとことで言えば役に立つと言うことだ。


 この家を買うと決めたときから、金の都合次第で、奴隷を買うことは決めていた。奴隷を買ったときに感じた心の乱れは、いまではまったくなくなっている。

 元の世界ですり込まれていた倫理観が全く消え去ってしまったのか、再び心の奥底に押し込められてしまったのか、あれ以来感じることがないのだからアンコウにもわからない。


 しかし、今では全くの不要物だと思っている元いた世界の道徳や倫理観が、アンコウの中からなかなか抹消することが出来ずにいるのは、アンコウが今でも元の世界に戻りたいという気持ちを持っているからだろう。


 アンコウは元の世界に戻る方法を積極的に探してはいない。そんな方法はないか、あっても見つけられないだろうと思っているからだ。

 そういう意味では諦めているのだが、もし今、元の世界に戻れるがこちらの世界には二度と戻れないドアが目の前にあれば、ためらいなくそのドアをくぐる。アンコウの諦めはそういう種類のものだった。


 アンコウは理不尽にもこの世界で死ぬことになるのなら、元の世界の道徳や倫理などゴミのごとく捨て去り、この世界で少しでも自分の思いのままに生きたいと思う。

 しかし、アンコウの描く思いのままというものは、この世界に生きる冒険者の普通の感覚とは明らかにずれている。


 この家の有様ありようが、アンコウの元いた世界への郷愁から発せられたものと、今のアンコウの生き方とが歪いびつに混じり合って形づくられたものであることはあきらかであるのに、アンコウがその歪さに気づかぬのは哀れでもあった。


 アンコウは自分が買った家で、自分が買った奴隷の女を見つめている。途中からテレサが話していることは、アンコウの耳に入らなくなっていた。


・・・・・・・・・・・


「旦那様?報告は以上なんですが?」

「ん?あっ、そうか。わかった。」


 アンコウは少し慌てて返事をする。そして机の上に置かれているお茶に再び手を伸ばし、口に運ぶ。飲んだお茶はいつのまにかすっかり冷たくなっていた。


 テレサはアンコウがその冷たいお茶を飲んで少し顔をしかめた様子が妙におかしくて、思わず笑いそうになってしまう。

 でも、テレサは笑ってはダメだと目を逸らして、何とか笑いをかみ殺した。


「………あの、それでこの後なんですが。私は少し買い物をしてきたいと思うんですが?」

 テレサはアンコウが途中から上の空だったなとは気づきつつも、それは指摘せず話を続けた。

「ん?ああ、そうか。買い物か」


 アンコウは手に持つ空になったカップを机に置いて、再びテレサのほうを見た。


「………ああ、それでそんなお洒落しゃれをしているのか?それこのあいだ買った服だろう」


 テレサがいま着ている服は、先日アンコウに買ってもらった新しい服だった。普段着ではなく外出用にと買ってもらったものだ。


 アンコウの何の気のないそのセリフは、テレサにとって思わぬ不意打ちになった。

 テレサの白い肌に急速に赤みがさしてくる。テレサはもう忘れていたのだが、この新品の服を着たのは買い物に行くためではなく、アンコウが帰ってくることを考えて着替えたのだということを思い出していた。


「えっ……いや、これは、」

「でも、そんなめかし込んでどこに行くんだ?」


 アンコウは別にとがめるとかではなく、ただ普通に聞いた。しかし、それがさらにテレサを追い込む。


「!い、いえ、肉屋さんと八百屋さんにっ……夕食の食材を買いに……」


 アンコウは顔を赤くして慌てているテレサを見て、少し首をかしげる。そして、何かを悟ったのか、アンコウは口元にいやらしく笑みを浮かべてテレサのほうを見た。

 アンコウは何も言わずに立ち上がり、テレサのすぐ近くまで歩み寄っていく。


「だ、旦那様?」


 テレサは自分の目の前まで来たアンコウを見る。

 そのアンコウの目には、欲望の熱が浮かんでいた。それを見た瞬間、テレサの心拍数も上がりだす。

 そしてアンコウは、いきなりテレサを抱き寄せ唇を重ねた。

 

「あっ、んんっ!」


 しかし、乱暴なことはせず、すぐに唇を離す。でも、テレサを見るアンコウの目には、よりいっそうある種の欲望が燃えていた。

 唇は離したが、アンコウはテレサの腰にまわした手を自分のほうに引き寄せたまま力を抜こうとはしない。


「テレサ、その買い物は、いま行かないとダメなのか?」

 アンコウはテレサの服の前ボタンを外しながら聞く。


「は、はい、夕食のおかずが減ってしまいます」

「………減っても構わないよ。外食にしてもいい」


 アンコウの手が、すでにテレサの服の中に入ってきている。


「ああっ、は、はいっ、………んんっ、」


・・・・・・・・・・・・・・・


 アンコウは自身も気づかぬうちに、いろんなものをこの世界に落としながら生き抜いてきたのかもしれない。


 しかしアンコウは、自分のなかの何かを押し殺してまでして手に入れた このわずかな仮初めの安穏な時間を過ごすことも、残念ながら長くは許されなかった。

 神仏というものがいるのならば、この世界に落ちてきて以来、アンコウは未だ安穏な時間のサイクルに入ることを見えざる力によって許されていないのかもしれない。


 アネサの町が侵攻してきた他領主の軍団に囲まれたのは、この日からわずかひと月後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る