第13話 奴隷を買うということ

 テッグカンの奴隷屋は、アンコウたちが集まっていた建物から、歩いて15分ほどで行けるかなり近い場所にあったのだが、アンコウはロイスに頼んで力車を呼んでもらい、一度カラワイギルドに行って、預けている金を引き出してくることにした。


 結果として奴隷を買うか買わないかは別にして、モノを買う側で商談をするならば、現金を持っているほうが絶対に有利に商談を進めることができる。


 そしてアンコウはギルドの口座から金を引き出してから、再びこの貧民街に戻ってきた。


 夕方までにはまだ少し時間がある 晴れの日の午後。アンコウはロイスがつけてくれたお供の男とともに、テッグカンの奴隷屋にむかう。

 その店はロイスが言っていたとおり、貧民街の中にあるかなりいかがわしい雰囲気の漂う通りにあった。


「場末のカビ臭い奴隷屋か、カリムの言っていたそのまんまの店だな」

 アンコウはテッグカンの奴隷屋の前で店の外観を眺めながら言った。


「アンコウさん、なかも見た目どおりの店ですよ。ここは」

 アンコウに同行してくれている男が言う。


「そうか。じゃあ、とっとと入って用事を済ませるとするか」


 アンコウも、今日は夜までには、宿屋に戻らなければならない。なぜならアンコウは、いま泊まっている宿屋で、今日の夕食に出される黄金こがね角大猪のステーキとシチューを実はかなり楽しみにしているからだ。


 アンコウは同行している男の先導で店に入っていった。

 男は店に入ると、アンコウを1人で待たせて店の奥に姿を消し、しばらくすると、この家の主人と思われる男を連れて戻ってきた。


 その男は、なかなか質がよいと思われる服を着てはいたが、かなり年季が入っており、全体的にあまりパッとしない見た目50がらみの男だ。

 その男はやはりこの店の主人のテッグカンで、アンコウは同行してきた男の仲介で、テッグカンと挨拶を兼ねて言葉を交わす。


 同行してきた男はすでにロイスから預かってきた紹介状をテッグカンに渡しており、大まかな用件の説明もしてくれていた。

 そしてアンコウに同行してきた男は、アンコウとテッグカンが挨拶を済ませたことを見届けると、アンコウに一言二言ひとことふたこと言葉をかけて、先に帰って行った。



「ではアンコウさん、どうぞこちらへ」


 テッグカンはアンコウよりも大分と背が低くく、風采のあがらない小男だ。そして、その声は低くかすれている。

 このカビ臭い建物にはよく似合ってるかもなと、アンコウは思った。


 テッグカンに案内された部屋は、調度品がほとんどない実に殺風景な広い部屋。

 この部屋は、客が奴隷の品定めをするために使われている部屋の1つで、これでも、この店では上客や常連の客を通す部屋として使っている部屋であった。


 アンコウは客としては上客でも常連の客でもない。上客どころか傷物の奴隷をできる限り安く買いたたいてやろうとアンコウは考えていたのだが、そこはロイスが持たせてくれた紹介状の力だ。

 ロイスの組織がこの辺りの土地に持っている影響力はどうやら本物らしい。


(………金に権力。それに腕力か。どんな生き方をしていようが、この世を生きるには力がいるよな)


 アンコウはこの場末の奴隷屋で、あらためてこの世の真理を実感する。奴隷などというのは、力なき弱者の象徴みたいなものである。


 そこに身を落とした者の惨めさは、アンコウは身に染みて知っている。

 たとえ抗魔の力をもつ者であっても、奴隷となってしまえば、力のあるただの道具になってしまい、それは生きるとは言えないだろうとアンコウは思う。


(自由だ。力があっても自由じゃなければ意味がない)


 そして、他者からその自由を奪うということは、奪った者に一種の快感を与える。

 テッグカンの奴隷屋は、貧民街にある場末のカビ臭い店だ。しかしそんなショボイ店であっても、アンコウは自分が奴隷を買うという上の立場にあるということに、何とも言えない小物の優越感を感じていた。


 アンコウ自身も、その愚かさを自覚してはいたが、こうしてここにいると、どうしようもなく快感にも似た興奮を感じてしまうのだった。


「なぁ、店主。おれは今まで知らなかったが、人を買うっていうのは気持ちいいもんなのか」


「クックッ。そうですね。客によっては奴隷を買うという行為自体が目的という方もおりますね。しかし、そのような買い方ができるのは一握りの選ばれた者の道楽と言えるでしょう。

 クックッ、アンコウさんは奴隷を買うのは初めてのようですから、ご助言いたしますが。奴隷を買うときはその者がご自分の目的に役に立つかどうか、値が高いか安いかだけで判断されたほうがよろしいかと思います。また不要になったものは早々に処分するほうがよろしいかと。

 奴隷は所詮は生きる道具。しかし奴隷には感情があり、心がある。これは奴隷主にとっては危険を孕むものでもあるのです。奴隷という道具は有用ですが、同時に危険。それをお忘れになった方は時に命を縮めることにもなります。クックッ、ご注意を」


 このテッグカンという男はかなり無駄口の多い男らしい。

 アンコウとさっき挨拶を交わしたときも、アンコウがなにげに話を止めるまで、かなり長く関係のないおしゃべりを続けていた。


「ああ、よくわかってるよ。おれも首輪をしていたときは、おれの首輪につながっているロープを持っている野郎を毎日殺してやりたいと思っていたからな」


「ほう、首輪を、」

 テッグカンはアンコウの言葉を聞いて、少し目を大きくして驚いてみせた。


「それは余計な忠告をしてしまいました。クックッ」

あるじ。もう、無駄話はいい。とっととあんたの本業をしてくれ。テレサはまだここにいるんだろ?」


「ええ。もちろんですよ。あれが売れるのはもうしばらく先かと思っていたのですが。まぁ、こちらとしてはありがたい話です。クックッ」


「まだ、買うなんて言ってないぞ。かなりひどい状態になってるっていうのは聞いてるんだ。その度合いによってはこのまま帰るからな」


「それは私も迷惑しているんです。あの連中はお得意様ではあるんですが、如何せん乱暴すぎる。まぁ、うちに人を売ってくる連中なんてものはみんな大なり小なり極道者ですが、あの女を売ってきた連中は極道者としても半端者です。

 商売物をあんなふうに扱うとは、まったく理解に苦しみますな。だいたい私が若い頃に比べて、近頃の金貸しにしても人買いにしても、」


「主!とりあえず連れてきてくれ。見ないことには話にならない」

「おっと、そうですな。クックッ」


 アンコウは軽くため息をつきながら、この店の主を見ていた。

(面倒くさい男だ)といったところだろうか。


 テッグカンは手元の呼び鈴を鳴らし、部屋に入ってきた従業員に何やら指示を出していた。

 しばらくすると、アンコウたちが入ってきた扉とは別の扉がノックされた。


コン、コン

「ご主人様。指名された者を連れてまいりました」

「よし、入ってよいぞ」


 アンコウとテッグカンは、ノックされた扉とは離れたところにある椅子に座っていた。

 テッグカンは扉の外にいる者になかに入るように言うと、手に短めの鞭のようなものを持ち、自らもおもむろに立ち上がる。


「アンコウさんはそのままでお待ちを」


 そして、その扉のほうに歩きだした。

 ノックされたドアが開かれ、従業員の男が入ってくる。その男にうながされて、続いてテレサも室内に入ってきた。


 テレサの首には魔具の1つである奴隷の首輪がしっかりとはめられている。

 そして、部屋に入ってきたテレサは、頭からかぶるタイプの一枚のボロ袋のような服を着ていた。


 そのボロ服の袖は肩まで、丈は膝ぐらいまでで、この店の一般的な売り物の奴隷が着させられているものである。また、足元は素足に木製のサンダルのようなものを履いていた。


(なるほど、ひどいな)

 アンコウのいる場所からも、テレサの顔の暴力の跡を確認することができた。


 アンコウは先程テッグカンから、テレサがこの店に売られてきてから一週間ほどになると聞いていた。来たばかりの頃はまともに歩けなかったということだったから、これでもマシになったのだろう。


(しかし、ほんとに大丈夫なのかな)


 アンコウはテレサを買うにしても、後遺症のようなものが残っていないかちゃんと確認する必要があるなと、あらためて思う。


 テッグカンは扉の近くまで歩いていき、案内役の従業員をさがらせて、テレサを伴って部屋の中ほどまで歩いてきた。


「クックッ、さぁ、アンコウさん。どうぞご確認ください」


 そのテッグカンの言葉で、初めてテレサはアンコウのほうを見た。それまで下をむき、何ら感情が見えなかったテレサの顔が驚きの表情に変わる。

 アンコウはそんなテレサの顔を見ていたが、アンコウは顔に感情を浮かべることなくテレサを観察していた。


 アンコウはおもむろに立ち上がり、テッグカンとテレサがいるところに近づいていく。


 アンコウがテレサの近くまでくるとテレサの目に驚きと何かを期待するかのような喜びの色がわずかに浮かぶ。

 アンコウは、そのテレサのわずかな感情の変化にも目ざとく気づいていたが、それにはまったく反応を示すことなく、テッグカンにむかって話しかけた。


「かなりひどいな」


 テレサの顔はまだかなり腫れていて、アンコウの知っているテレサの顔とはかなり違うものになっていた。

 それに近づいてみてわかったのだが、肌が見えている手足の部分にもかなりのアザがあり、血は止まっているようだが、何か鋭利なもので切られたような傷跡も残っている。


「ええ、ですから私としてもこの女が売り物になるのはもう少し時間がかかると思っていたんですよ」

「さっきも言ったが、買うと決めているわけじゃないんだぞ。これ大丈夫なのか」

「手足の骨は折れていません。こうして歩いていますし指もちゃんと動いています」


 テッグカンはそう言って、テレサに体をうごかすように命令する。テレサはテッグカンの指示に従って、しばらくの間アンコウの前で体を動かして見せた。


(なるほどな。確かに手足は大丈夫みたいだけど)


 テレサは体を動かす度に、痛そうな表情を浮かべていた。

 そして、一通りテッグカンの指示どおり体を動かし終えたテレサの表情からは、先程一瞬だけ見せたアンコウに対する期待のようなものは完全に消え去っていた。


 テレサがアンコウを見たときに、一瞬アンコウが自分を助けに来てくれたのかと淡い望みを抱いてしまったことは、このような状況にあれば致し方ないことだ。


 しかし、テレサはこの世の中のことを何も知らないお嬢様ではない。

 この世界の宿屋の女将として生きてきて、子供も1人育てあげている大人の女。そしていまは奴隷。十分過ぎるほど、この世界の厳しい現実を知っている。


 テレサは、アンコウがなぜここにいるのだろうという疑問は持っていたが、アンコウが自分を助けに来てくれたわけではないということはすでに理解していた。


「あるじ、手足は大丈夫みたいだが、肋骨あたりは何本か折れてるんじゃないのか」

「さぁ、それはどうでしょうか。折れていたとしても、これだけ動ければ時間薬で問題ないかと思いますよ」


 ちゃんとした診察も治療もされていないんだなと、アンコウは理解する。

(まぁ、この店は奴隷に余計な経費をかける余裕はなさそうだしな)


「クックッ、では次は服のしたも確認されますか?」

「ああ、頼む」


 テッグカンはテレサに着ている服を脱ぐように命令する。命令をされたテレサは少し服を脱ぐことをためらうような様子をみせた。

 すると、テッグカンはテレサの足元の床を手に持った鞭で叩いた。


バチッ! 小気味よい鞭音が部屋に響く。

 テレサは一度 ビクッ と、体を縮込ませた後で、慌てて服を脱ぎはじめた。


 アンコウが元いた世界の祖国の民族より、アンコウがこの世界で見る人間族の女は平均的にいって背が高く、豊満なプロポーションをもつ者が多い。テレサもそうだ。

 ここに来る前のテレサは、アンコウの目にも肉感的な魅力のある女性に映っており、太っているわけではないが少しふっくらとした印象のある女だった。


 しかし、テレサは自由を奪われて、わずか半月あまりの間に、かなり体の肉が落ちていた。心身の疲労も当然あるだろうし、この様子ではまともに食事をとることもできていないのだろうと、アンコウは思った。


 それでも服で隠されていた場所の肌は白く、胸は大きく、腰回りも女性らしいグラマラスなスタイルであることに変わりなかった。

 しかしそんなテレサの裸を見てもアンコウはまったく劣情は憶えない。


(………やっぱり、全身にアザや傷があるな。相当ひどく殴られたみたいだ。そういう趣味のヤツでもいたのかもな)

 そう、見えていた顔や手足と同様に、テレサの体は文字どおり、全身傷だらけだった。


バシッ!

 テッグカンが再び床を鞭で打つ。

「何をしている!早くそれも脱がないか!」


 テレサが着ていたものは2枚。いま脱いだボロ袋のような服と、その下に下着が一枚。

 いまテレサの大きな胸は何にも隠されることなく、アンコウやテッグカンの前にさらされていた。


 テッグカンは手に持つ鞭の先で、テレサの下半身を隠す布を指し示していた。テレサは少したじろぎ、アンコウのほうを見た。

 しかしアンコウは何も言わず、テレサの体を無感情な目で何かを調べるように見ているだけ。


バシッ!

「は、はい」

 テレサは最後の一枚の布も脱ぎ、床に置く。テレサの目は床を見て、顔をあげようとはしなくなった。


「よし。もう少し足を広げるんだ」

「は、はい」

「ちがう!もっとだ!」


 テッグカンは無造作にテレサの体に手を伸ばし、テレサの足を広げさせた。

 テッグカンはその後もアンコウに話しかけながら、テレサの胸や尻を触り、また姿勢を変えさせながら、テレサの状態の説明やどうでもいい話を長々と続けていた。


(完全にモノ扱いだな)


 アンコウはテッグカンの話は途中から聞き流していたが、テッグカンのテレサに対する扱いを見て、妙に納得というか感心していた。

 いまのテレサの所有者は、この奴隷屋の主人であるテッグカンなのだ。一応この国にも最低限の奴隷の生命や権利を守るための法はある。

 しかし、現実には奴隷の命をその奴隷の所有者が遊び半分で奪ったところで、それに対して罰が与えられるような事態にはまずならない。


 テレサという奴隷の所有者であるテッグカンが、テレサに何をしようとも、それが奴隷商としての行為である限り、ただの客であるアンコウはそれに文句を言うつもりはない。


 テッグカンがテレサを触る手にいやらしさはまったくなく、完全に商品を扱う手であり、その商品を客であるアンコウに説明するためのものだ。

 そういう意味では延々と続きそうなテッグカンの話も含めて、なかなか丁寧な接客をする店だとも言える。


(……ただ、やっぱり無駄話が多いな、このオヤジは。まぁ、だからこの程度の店の主なんだろうな)

「おい、説明はもういい。それでいくらなんだ」


 まだまだ続きそうなテッグカンの話をさえぎって、アンコウは少しうんざりとした感じで言った。


「ククッ、失礼しました。うーむ、そうですな………」


 テッグカンは両手を組んで、少しわざとらしく悩んで見せた。アンコウは長々と説明を聞いた後の、このテッグカンの様子にはさすがに少しイラッとしたようだ。


「おい、あるじ。俺はこの後の予定があるんだ。くだらない小芝居をするんだったら、俺は帰るぞ。別に今ここで、どうしても奴隷を買わないといけないわけじゃねぇんだ」

「おっと、これは失礼を。」


「わびはいい。それにできれば、値段交渉もしたくはない。なんかもう面倒になってきた。もしかして、それがあんたの狙いか。だけどボッタくるようだったら、ソッコーで帰るぞ」


「いやいや、ロイスさんのところの紹介状をお持ちの方にボッタくるようなマネはいたしませんよ。ご心配なく。

 うーむ、では新しい首輪代も込みで、このぐらいで如何でしょうか」


 そのテッグカンがアンコウに提示した額は、相場よりもかなり安いものだった。


「……いいのか」

「ええ。この女は人間族の普通人。歳も34ですか、若くはない。年増ですな。むろん処女でもない。それに今の状態がこれです。相場より値を下げる理由はあっても、あげる理由なんかはありませんよ。

 さらにロイスさんのところからのお客さんですからね。なに、それでもうちは損はしませんよ。さすがにそれ以上は値切れませんがね。クックッ」


「いいだろう。買った」


 アンコウは気負うことなく、あっさりとそう言うと、この部屋の中に1つだけあるテーブルのほうに歩いていった。


 そして、そのテーブルのところまでくると、たすき掛けにかけている亜空間収納の魔具である背嚢はいのうを、背中から体の正面のほうにまわし、その背嚢の中に手を突っ込んで金貨を鷲づかみに取り出しはじめた。

 アンコウがジャラジャラと、テーブルのうえに金貨を積んでいく。


 その様子を少し離れたところから、テッグカンとテレサが虚を突かれたような顔で見ていた。


「おい、主。なにやってんだ。金を確認してくれ」

「は、はい!これは、これは、」


 テッグカンは急いでテーブルのところまで行き、金の勘定をはじめた。


 アンコウはテレサの購入代金をきっちりテッグカンに渡し、テッグカンがそれを確認し終わると、次に必要な書類上の手続きをした。

 テッグカンは一時テレサを部屋の外に出して、店の従業員に新しい奴隷の首輪を持ってこさせた。


 アンコウは所有者識別のため、その首輪に自分の血を垂らし、次にその首輪に刻み込むべき、所有者死後の奴隷の処遇などの事項をテッグカンに伝えていく。

 奴隷に知られて困るような事柄は首輪の内側な刻み込まれ、それ以外の必須事項などは首輪の表側に刻み込まれるのが普通だ。


 この魔具の効力の1つとして、首輪が奴隷にはめられると首輪と皮膚が一体化するため、首輪の内側に刻み込まれた情報は首輪を外さない限り、他の者が見ることはできない。


 それらの手続きと必要な話が終わると、テッグカンは再びテレサを部屋の中に呼び入れた。

 アンコウたちが座るテーブルの近くまで、テレサはやって来た。すでに服は着ているものの、その表情はどこか不安げである。

 テッグカンが立ち上がり、テレサの横に立つ。


「クックッ、よいか。この方がお前を買われた。料金もいただき、手続きも無事に済んだ。これよりこのアンコウさんがお前の主となる。さぁ、ご挨拶をするんだ」

「は、はい」


 テレサがまだイスに座っているアンコウの前で両膝をつき、頭をさげる。


「わたくしのようなものをお買いいただき、ありがとうございます。今後はご主人様の忠実なる下僕として全身全霊でお勤め申しあげます。なんなりとお申しつけくださいませ、ご主人様」


 テレサが事前に教えられていたのであろう売買成立時の決まり文句を口にした。


「ん?アンコウさん、どうかなされましたか?」

 テレサの挨拶を受けたアンコウの顔が少し曇っている。

「………いや、人からこんなふうに、ご主人様なんて言われたのは初めてなんだけどな。なんていうかあんまりよくないな。言われる分には大丈夫だと思ってたんだが、ちっと嫌なことを思い出した」


 アンコウも昔、自分の所有者であった男に今のテレサ以上に無様な姿でひざまずき、

「ご主人様、お許しください」 と、泣きわめいたことも、一度や二度でなくあったのだ。

 アンコウが首をかしげながら、ひざまずいているテレサを見ている。そんなアンコウの様子を見て、テッグカンは少し不安そうな顔をしていた。


「いや、奴隷は買っていくさ。必要だからな。単に言葉の響きの問題だ。すぐに慣れるだろう」

「クックッ、そういうことでしたら、別の呼び方をさせればよろしいでしょう。少しはマシになるのでは?」

「そうだな。ご主人様以外だな」

「他の一般的な言い方となれば、たとえば、旦那様とかお殿様であるとか」

「うーん、俺は貴族じゃないし、普通の家の用事をしてもらうつもりだからな……テレサ、とりあえず旦那様で頼むよ」


 アンコウはテレサのほうを見て言った。テレサも顔をあげて、久しぶりにアンコウのほうを見た。


「は、はい。よろしくお願いします。旦那様」


 アンコウのほうを見るテレサの顔の腫れや傷は実に痛々しい。


「ああ、よろしく。わかってるとは思うが一応言っておく。俺はお前を自由にするためにここへ来たわけじゃない。ここを出てお前を待ってるのは、俺の奴隷としての生活だ」

「はい。わかっています」


 テレサの顔に落胆の色は浮かばない。何ら感情を見せることなく答えた。


「……そうか」


 テレサにとって今の状況は、つい半月前までは自由民として、トグラスの女将をしていたことを思えば間違いなく地獄だ。

 しかし、そのトグラスでの生活とて決して楽なものではなかった。日々、厳しく仕事に追われ、資金繰りに汲々とし、ろくでなしの夫はまるで貧乏神のようだった。

 そしてその貧乏神のせいで、テレサはトグラスを失い、奴隷の身に落ちた。


 しかしテレサは、ここが地獄の底ではないことも知っている。

 奴隷となった者には、その売られた先によっては、これ以上の地獄があるということをこの世界で生きてきたテレサはよく知っていた。


 生きるか死ぬか、あるいは死んだ方がマシと思うほどのひどい境遇に身を落とすかもしれないと、テレサは怯えていた。


 それを思えば、アンコウに奴隷として買われるということは、決して幸せだと思えることではなかったが、ある意味希望をつなげることでもあった。

 むろん拭えぬ不安はある。しかし、テレサはアンコウのことを知っている。長年、宿屋の女将として働いてきたテレサは、多少人を見る目に自信をもっていた。


 冒険者といわれる人種のなかには、少なからず悪人そのものというべき者たちもいる。テレサから見たアンコウも冒険者らしい冷酷さを持っていたし、何やらテレサには理解出来ないものを心に持っている男でもあった。


 しかし同時に、アンコウは弱さとやさしさも感じさせる男で、テレサには決して悪い人間には見えていなかった。


 テレサはアンコウに対して悪い感情は持っておらず、どちらかといえば好感を持っていたし、奴隷となった自分に対しても、アンコウがそれほどひどくむごい扱いをするとは思えなかった。テレサはそういう意味で、希望を持てると感じていた。


「クックッ、ではアンコウさん。新しい首輪の処理が終わりますのに2日ほどはいただきたいのですが、それまでテレサはどうされますか?」


 アンコウはそのテッグカンの質問にはすぐに答えず、突然テーブルのうえに銀貨を何枚か置き始めた。


「アンコウさんそれは?」

「そうだな。2日じゃなくて、もう半月ほど預かってて欲しいんだ。今連れて帰ってもしてもらう仕事がないからな」


 アンコウはそう言いながらも、パチリパチリと銀貨を置き続けていた。


「アンコウさん、お預かりするのは構いませんが、それは少しばかり半月の預かり賃としてはおおうございますよ」

「その分待遇をよくしてやってくれ。これだけありゃそれなりの宿屋のスイートにもひと月は泊まれるだろ………それと他の男に触らせるなよ」


 アンコウがニヤリと笑いながら、テッグカンに言った。さらにパチリパチリと銀貨を置く。


「クックッ、承りました」


 アンコウは銀貨を置き終えると、テレサのほうに向き直った。


「テレサ、立って」

「は、はい」


 体のどこかが痛んだのだろうか。テレサは少し顔をしかめながら立ち上がった。そのテレサに、アンコウは薄いピンク色の液体が入った瓶を差し出した。


「ほら、とりあえずこれを全部飲んで」

「あ、あの、これは」

「ヒールポーションだ。わかってるだろうけど、今のテレサはボロ雑巾みたいだぞ」


 アンコウのような冒険者には必須のものであるが、ヒールポーションというものも決して安いものではない。

 テレサは手を伸ばすことを少しためらい、チラリとテッグカンのほうを見た。


「テレサ、お前の主人はすでにアンコウさんなのだ。奴隷は主人の命令を聞くものだ。クックッ」

「は、はい」


 テレサはアンコウの手からポーション瓶を受けとって、一瓶丸々飲み干した。

 飲み終えるとすぐにテレサの体に赤みがさし、体に力が湧いてくるのをテレサは感じていた。


「まぁ、ごく普通のヒールポーションだからな。その体中の傷が一気に消えるってわけにはいかないだろうな」

「いえ!ありがとうございます!アンコウさ、あっ、旦那様、」


 テレサの顔にここにきてから初めて笑顔が浮かんだ。それを見てアンコウも、口元を少しほころばせる。

 アンコウはさらに亜空間背嚢に手を突っ込んで、もう2本同じような液体の入った瓶を取り出して、それをテレサに手渡した。


「あ、あの、これは」

 テレサは戸惑いながらそれを受けとった。

「今のと同じやつだ。半月ほどしたら迎えにくるから、それまでゆっくりここで傷を治しててくれ。まぁ、居心地はあまりよくないかもしれないがな」


 アンコウは少し浮かべた笑みをすぐに引っ込めて、無表情のまま言った。そのアンコウの言葉に返事を返すのは、テッグカン。


「アンコウさん、ご心配なく。いただいた金子の分は、きっちりご面倒を見させてもらいますよ。クックッ」


 アンコウはそう言ったテッグカンを見て、内心では どうだかなと思う。


「ああ、信頼してるぜ。テッグカン」


「クックッ、おまかせください。私はこう見えても商売上の信義というものを重んじてましてな。それはそれは、私の師匠というべき人に若い頃に徹底的に叩き込まれております。なんとすれば、私は今時の若い商人どもとは違い……………





「 チッ、ほんとに無駄話の多いオヤジだ」


 アンコウはテッグカンの奴隷屋の前で1人毒づく。まだまだしゃべり続けそうなテッグカンを無視して、アンコウは店を出てきた。

 いつのまにか外は、もう薄暗くなっていた。


 アンコウは薄汚れた感じのこのいかがわしい貧民街の通りを急いで歩いていく。

 早く宿屋に帰らなければ、せっかくの黄金こがね角大猪の肉を使った料理を食べ損ねてしまう。アンコウはとても楽しみにしていた。

 宿の主からも、帰りが遅くなれば肉が残っている保証はないと言われていた。


 それでもアンコウは力車を呼ばなかった。どうしても少し歩きたい気分だった。

 アンコウは初めて奴隷を買った。人をモノとして金で買った。あれほど奴隷にされたことを恨み呪っている人間が、買う側にまわった。


 それでもアンコウは後悔はしていない。この世界で奴隷の存在は当たり前、ただそれを受け入れただけ。アンコウは、自分は理想主義者でも革命家でもないと知っている。


 ただこの世界で生きのびる。そして、少しでも自分の思うがままに生きたいと願う。それは当たり前のことだとアンコウは思う。

 あの奴隷を買うことが自分にとって有益であると判断して買った。ただそれだけのこと。


 しかし、アンコウの元の世界で培った価値観が、アンコウのなかから完全に消えてなくなってしまったわけではない。

 奴隷の存在は許されざる社会の罪、金で人を売買することなど道徳的に決して許されないという価値観も、完全には消え去ることなく、未だアンコウという人間のなかに存在していた。


 ただ、この世界での4年間の経験が、それを押し込めてしまうだけの重みとして、アンコウの心のなかに乗っかっている。そしてアンコウはいまもこの世界にいる。


それが今のアンコウ。


 しかし今、その押し込められているはずの元の世界で培われた良心が、少しだけチクチクと痛んでいた。

 初めて奴隷を買った。人の自由を奪い、人をモノとして扱うことは快感をともなうのだと初めて実感した。しかし、その興奮も今はアンコウの中からきれいになくなっている。

 何かよくわからない焦燥感にも似たうずきが、アンコウの心を乱している。


 ひょっとしたら、これは良心の疼きなどではなく、アンコウの心の底に残っていた大事なものが、またひとつ消えようとしているのかもしれない。


 アンコウは、ただこの世界で生きていくだけで、少しずつ元の世界から離れ、こちらの世界に染まっていく。

 それがアンコウにとって、幸せなことなのか不幸なことなのかアンコウにもわからない。ただ、無意識の焦燥感がアンコウの心を乱し続けていた。

 

 アンコウは貧民街の裏通りを早足で歩き続ける。

 アンコウの目に映る景色は薄汚れた陰鬱な街並み、さらにアンコウの鼻につくのは何とも言えないすえた不快なニオイ。


「チッ、嫌なところだ。全部燃えちまえばいいんだ、こんなところはっ!」


 アンコウは早足で歩きながら、少し大きな声で吐き捨てた。

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