夢売りの少女

3 夢売りの少女

“Cheer up, sleepy Jean

Oh, what can it mean to a

Daydream believer and a

Homecoming queen?“

午前6時。いつもと同じ音が部屋に響く。私の夢はもうこれで終わり。太陽が毎朝元気に顔を出すのと同じで、誰にも平等に朝は来る。朝が来ないことなんかない。そりゃあ、日が永遠に上らない場所が、この地球のどこかにあるのかもしれないが、そう言う場所にだって朝は来るのだ。

朝というのは不気味な怪物の足跡みたいなもので、けっして明るい物ではない。すくなくとも、現実に目を背け続ける私は思うのだ。

早く目覚ましを止めよう。目覚ましを止めて、おきあがって、トイレに言って顔を洗ってご飯を食べて…。

頭の中に、自分がこなさなきゃいけないルーティーンがぐるぐると回れば回るほど

私の体は布団の中に、夢の世界に深く深く溺れそうになる。あと1分、あと30秒、あと10秒…数えてはみるけれどおきあがれない。やっぱり前に進めない。

夢をかなえるためには、どうしても大きな1歩を踏み出さなければいけない。そんなことはなんどもなんども言われてきたし感じてきた。朝起きるのもそれと同じだ。きっと起きてしまえば体はいうことを聞いてくれるし、頑張って現実に立ち向かおうという気持ちも芽生えるかもしれない。しかし今の私には…。

「君の仕事は学校に行くことだよ。夢を売るためにね。」

どこか遠くで聞こえたユメキの声。低くてとがっていて、しかしどこか温かい声だった。そんなことは本当に起きた話ではないと思うことにした。しかし、私の夢は、まだ覚めてはいなかったのだと気づかされる。枕元には、見慣れない…いや、さっき夢の世界でみたはずの枕と、そして分厚い本みたいなものがなぜか転がっている。こんなものを読みながら眠った記憶はない。しかも背表紙には見慣れない文字列まで書いてある。

それに気づいた瞬間、私の体は、私も不思議になるぐらい販社的におきあがっていた。

母は、もう私のドアをノックすることなく、先に仕事に出かけていた。別にそれでよかった。母に何も期待してほしくはなかったし、されたくなかった。第一、私はこの枕や本を、母にみられたくなかった。下手に没収されたり壊されたりしたら、ユメキたちに申し訳ないからだ。

顔を洗って吹くを着替えるという好意は、案外気持ちのよいことだというのは、別に学校がいやになったときも思っていたことだった。こういう作業は、考え方を買えれば、自分というものを隠すのにおあつらえ向きのやり方なのだ。裸だった自分の心を洗い流してちゃんとした服に着替える。現実世界に出るならこれぐらいの装備はしなければならないしするのが礼儀だ。

私が吹くを着替え終わったとき、あくびをしながらおきあがる音が聞こえた。私と同じ部屋に住んでいながら、私とはまったく違う生活をしている妹、スズナの声である。

彼女は私とは違う。母の言っていることに忠実に従っているだけでなく、ただ現実をみて、母の期待通りに、いや、現実世界の温床である学校の期待通りに生きている。成績もよければスポーツもできる。彼氏がいる丘は知らないが、みんなからうらやましがられる生活をしている。

別にそんな彼女のことを嫌いだとは思わないし、そういう生き方を完ぺきに否定する気はない。ただ私は彼女のことを、皮肉でも、そして自分の心の底からでも、かわいそうだと思っていた。

「お姉ちゃん、起きてたんだ。」

「うん」

私は、できるだけ今は人と口を聞きたくなかったので、足早に朝食を食べにいった。いつ起きようが私の買ってだというのが正直なところだが、妹に当たってもしょうがないことぐらい、いくら夢を信じる馬鹿な女でもわかる。

それに、学校に行くなら、あまり時間がないのも事実だった。だから、急いで準備をして、急いで外に出た。こんなルーティーンには耐えられないとか文句を言っている場合ではないほどに、私は現実世界に走り出していた。

電車に乗って改めて現実世界の怖さを理解する。

電車は変なにおいであふれている。変なにおいであふれているといっても、そのにおいの正体はおそらく1種類。人がつくる現実の悪臭だ。

どこをみても人しかいない電車の中。車窓を見る余裕なんかないほどに焦る人々の顔。朝と言うのはいつだってそういう顔でもって私に、脅迫文を送りつけてくる。どんどんと荒くなっていく呼吸を抑えて、かばんの中にしのばせた仕事道具のことを考える。私が学校に行くのは、勉強するためでも、青春を楽しむためでも、部活を本気でするためでも、彼氏を作るためでもない。私は仕事をするために学校に行くのだ。その仕事というのも、よくあるなま優しい仕事ではない。もっと強くて、もっと恐ろしい仕事をしにいくのだ。私はそうは感じないが、少なくとも現実世界の人間はそう感じるだろう。こんなモノクロで冷たい世界で夢を売っている人がいたら、きっとすぐにでも殺されてしまうだろうから。

うわさになっていることは覚悟していた22ヶ月も登校せず、人より長い夏休みを送っていえに引き子持っていたおろかな少女として、学校中、少なくとも2年生の間では、私が非常識で何もできない、馬鹿な女としてからかいの的になっていることなんて予想している。

しかし、それにしたって、人間の目、いや現実世界が私に向けてくる視線というのは、鋭い牙を持って私に襲いかかってくる。学校の最寄駅を歩いていても感じる冷たい視線。私の学校と同じ高校の征服を着た人たちが、私が感じたことのないぎょろりとした目玉でもって私を見つめてくる。まるで、この世界に存在してはいけない小さな虫を見つけて、そいつをなんとかして追い払おうと言わんばかりの目だった。

別に追い払われるのはかまわないけれど、その目でずっと見つめられるほど苦痛なことはない。小さなささやき声えすら聞こえる。何を話しているのか聞く気にはならないが、だいたいの検討はつくし、頑張って声を拾ってもいいことはないだろう。

教室というのは恐ろしい場所だ。教師という変な顔をした怪物が、私に、私たちに、夢の潰し方を教える場所といってもいい。そんな場所に私は今、ある意味反逆者として、この場所にやってきたのだ。そう思うと私の胸は晴れ晴れとする。私はこの学校の生徒ではないんだ。「夢水!」

私のそんな、悪魔みたいな意識のずっと遠くで、よく聞いたことのある声が響いた。 やっぱりあいつは、あいつらは私にお切開を焼いてくる。それならそれでいいのだけれど、私はもう彼らとは違う世界に生きているんだ…と思うことでしか

私は私を守ることができない。彼らは私の友人であるはずなのに、私はずっと彼らを意識からなんとか離そうとしている。そんなことをして何の解決になるか、私にも彼らにもわからない。

「夢水ってば。」

肩をたたかれてやっと私は反応する。

「小原…。」

「おまえ、学校これる用になったんだ。まじでうれしい。」

まるで、久しぶりに会った幼なじみとの再開を喜ぶみたいに、その小さくて子供みたいな目で私に笑いかける。

一方、彼の横に立っている闇沢は、そんなに笑ってはくれなかった。

「どうして来る気になったんだ?」

「なんとなくね。」

いくら友達でも、理由を説明できるほどの余裕はなかったし、あまりにも筋の通っていない話のように思えてきた。きっとそういう話は、少なくともこの闇沢という男は信じないだろう。

だが私はそこで、やっぱりあの使命を思い出す。確かに今私は、「なんとなくね。」としか言えない理由のために学校に来ている。けれど、その「なんとなく。」の中身を彼らに教えない限り、私のなんとなくはなんとなくのまま、つまり私は夢をかなえられないまま終わってしまう。

私は彼らの友達ではあるけれど、もういままでのようには彼らと一緒にはいられない。

「しゃきっとしろよ、夢水。久しぶりの学校なんだからさ。」

そうやって背中をたたいてくる小原を私はじっと見つめた。

「ねえ、小原。」

「なんだよ。」

「一つ、聞いていい?」

「いいけど。もしかして、うちのクラスが文化祭で何やるかとかか?それなら…。」

呑気なことをいう小原に、私はこれまでにないほどの真剣な視線を浴びせた。

「今夜みたい夢とかある?それか、かなえたい夢とか。」

「なんだよ、急に。もしかしてあれか?アンケート調査でもやってんのか?」

「いいから答えて。」

私は辛抱強く聞いた。

「やっぱ昔からの夢だった、バンドマンになる夢かな?ずっとビートルズにあこがれてるんだ、おれ。『ずっと夢を見て!』ってね!」

小原がバンドマンを目指していたことは知っていた。住んでいる家の近くで地元の友人たちと、「情熱モンキーズ」というバンドを作って路上ライブなんかもやっていると聞いたことがあった。1度誘われたこともあったけれど、確かその日は熱があって参加を見送ったのだ。それにしても、彼がどんな曲が好きで、どんなミュージシャンにあこがれていたかなんて知らなかった。そしてその曲が自分の一番好きな曲の一つだったということがわかって、私の中でますます彼をクライアントとして採用したいという気持ちが強くなっていった。

「それ、ビートルズじゃなくてモンキーズね。」

「あ、そうだっけか…。いつもわかんなくなるんだよな。」

「憧れてるなら名前ぐらいちゃんと覚えときなさいよ。まあ、いいや。じゃああたしがその夢、見せてあげる。」

小原は、その私の発言が聞こえるまでは、さっき話していたミュージシャンのいいところについて一人で勝手にしゃべっていたのだが、私の発言が聞こえると、途端に表情を変えた。

「はあ!おまえ、頭おかしくなったんじゃないか!あのな、夢っていうのは寝てて自然に見るものであって、誰かに見せてあげるって言われて、見るものじゃねえと思うぜ。」

「それはそうなんだけどっ。」

彼が混乱するのも無理はない。他人が自分の夢を捜査できる権限も能力もないことなんて、テストで赤点をたくさんとっている人にだってわかるはずだ。

でも、そんな不合理な考え方であっても、今の私にはそれを押し付ける義務が課せられているのだ。それを押し付けなければ、私のしている仕事は成功しないし、何より私のしようとしていることはまったく前に進まない。いつまで立っても現実に屈したままだ。

「やめとくよ、俺は。魔法使いとかヒーローになるんだったらまだしも、バンドマンなんか努力すればなれるしね。」

こう言われてしまったら終わりだ。みんなそういうふうにいままで宣言してきた。けれど結局「努力」という言葉にあまんじて 、努力すればかなうとか、努力は報われるなんて言い方をする。でも結局、努力なんて力の持ちようで、所詮は外圧や自分の心のもろさに気づいて潰されていく。努力なんて頼りようのない力なのだ。夢をかなえるためにはもっと必要な力がきっとある。

そんな持論をいくら展開したところで、小原が私の売ろうとする夢を買ってくれるわけもない。それどころか小原は、本に読みふける闇沢に言った。

「なあ、闇沢。どう思う。この馬鹿アスナの話。学校に来たとたんこれだぜ。」

馬鹿にされて当然なのはわかる。でも、だからこそ私は、この不合理をどう押し付けるかを考えた。

「いい加減、その夢みる少女的なところ、直したほうがいいぞ。」

なんて闇沢が言っていても、そういう声は聞こえないことにした。

私は、自分の商売道具である、その枕を机において、まだ1銭も稼いでいない自分の夢売りの存在を憂うしかできなかった。

「おまえ、もしかして居眠りするために学校に来たのか?」

「馬鹿じゃないの?枕なんか出して。」

「こいつ、本当にくるってる…!」

近くで私のことを馬鹿にする友人たちのささやき声が聞こえてくる。誰かがおもしろい

ことを言ったわけじゃないのに、何か楽しいことがあったわけじゃないのに、彼らは冷たい笑いを浮かべて私をみる。別に笑いものにされるのには慣れていたし、笑われることは悪いことではないと開き直ることにした。

でも、それにしたって、この状況を変えられないんだったら、いくら開き直ったところで何も変わらない。なんでもいいから、この状況をひっくり返すようなどんでん返しでも起こってくれないだろうか。ただ笑われるだけじゃなくて、たとえば…。

「ちょっと貸せよ。その枕。おれも眠いんだ。」

後ろ乗せ気の男子が枕を奪う。

「あ、ちょっと…変えして!」

私は運動神経もそんなにいいわけではないし、相手は私よりもかなり腕っ節の強い男子だ。そんなやつにいくら逆らったところで、私の枕がそいつの手に渡るというシナリオは変わらないらしい。

それならば…。

突然ひらめいた、というより突然舞い降りたチャンスは、私に音もなく次の行動を命じてくる。

「マジで一瞬だけ返せ、このやろう!」

自分が、あんまりそういう乱暴な言葉遣いを話したり、低い声でどなったりしたことがないことに気づいて、私は、おもわず心の中で笑った。

「うわっ、怖いなあ!こいつ。やーなこった!」

ところが、やっぱり人間というのは恐れが最初に行動に出るらしく、男子は枕から頭を挙げた。私は素早く枕を回収し、IDとパスワードを打ち込む。自分のタイピング速度が案外早いことに驚く。きっと、不登校で引き子持っていたころに、一瞬ハマったパソコンのゲームのせいだろう。

「ほら。好きに使えよ。」

私は自分のやったことがきちんと正しい方向に向かっているのか確証はなかった。でも

これが一番やりやすくて効果のある戦略だと、仮にも気づいていた。私を散々笑いものにしたこいつらに、この作戦がきちんと効くか、ちゃんとこの目で確かめようと息を吸い込む。

男子は単純だから、すぐに枕に頭を乗せた。

「あんたさあ、人の枕借りてるんだから、頭乗せる前に今日みたい夢がないかとか考えろよ。」

もう私は調子に乗っていると言われてもかまわなかった。なかなかうまくいきそうな作戦を思いついたものだと自分で感動していたからだ。

「なんだ、それ。そんな用地くさいこと考えなきゃなんないのか。でもおもしろそうだ。やってみるか。」

やつは頭を枕から離すと、しばらく何か妄想していたようだが、すぐに枕に頭を乗せた。

「ちょっと。あたしにも貸しなさいよ。」

今度は私を笑った別の女生徒が、いまだに枕に頭を乗せて半分眠りこけている男子の頬をたたいた。

「あ、わりいわりい。マジねそうだったわ。っていうかさあ、この枕やばいぜ。めっちゃ気持ち言い是。道理で不登校自が朝起きれなくなりそうな枕だ。」

「それはなかなかすごい枕ね。」

「あ、おまえ。使うなら、今日みたい夢のこととか考えてから使ったほうが雰囲気出るぜ。」

「ふーん。おもしろいじゃない。」

女はすぐに枕に顔を埋めて、1分位しておきあがった。

「すごいわ。この枕。…本当に一瞬で眠ってしまいそうよ。ほら

あなたたちも使いなさい。」

っっ私は誰にもばれないように笑っていた。人間というのは案外単純で、自分にとって都合がよかったり、自分にとっておもしろいと思ったりするものにはすぐに目がくらんで

馬鹿にしたりいじめていたりしたことなんかすぐに忘れてしまうのだ。

昼休みになったとき、私の机に枕が投げ込まれた。やつらはそこまで子供心がなかったみたいで、枕投げをして枕を壊そうとは思わなかったようだ。子供心がなかったのかわからないけれど気持ちの言い枕を壊すのは少しもったいないと思っただけなのかもしれない。

少なくともこの枕の中には、向こうの世界に夢を転送するためのシステムというかプログラムというか機械が入っているわけで、落とされたり壊されたりされては困るのである。

「おい、夢水。」

弁当を食べようとした私の肩を、小原がたたく。やつは妙に沈んだ顔をしている。

「何よ。」

「その…さっきは悪かったな…。久しぶりに学校に着たっていうのに、笑ったりなんかして…。」

「別に怒ってないけど。」

怒ってないというのは本当だったから、素直にそう言った。

小原はやっと表情を崩して、そして案の定こう言った。

「あのさあ、おれも使わせてくれ。こまえの枕。」

やっぱり人間というのは単純だ。さっきまで馬鹿にしてたものも、何か不思議な力があると気になってしまうらしいのだ。

「ハナキ。おまえ、マジで使ったのか。この枕。」

闇沢は、枕を使って頭を挙げた小原に尋ねた。

「おまえも使うか。夢水の匂いのする枕。マジで気持ち言い是。しかもな、たった1分位しか乗せてないのに、すごい眠ったみたいな気分になるんだ。」

「ばからしい。しかも、夢水の匂いって、すでに何人も頭を乗せてるんだろ?そんな匂いするわけねえだろ。」

あっさりと現実的な、というか、理にかなったことを言われてしまったから、私も小原も反論する気になれなかった。でも私は少しだけ、闇沢に恐怖を、というより怒りを抱いていた。やっぱり闇沢は現実的にものをみすぎる。私のことは否定したことはないが、彼はもう手遅れなのかもしれない。

事実、闇沢は、ほかの単純な人間たち、いうなれば救いようのある人間たちとは違って、全然枕に見向きもしないようだった。

しかし、枕の背面にあるボタンを押して、現在自分が稼いだ金額を確認すると、17人もの人間が夢を買ったということになっている。私がいままでクラスの半分以上の人間の笑いの的になっていたこと、そしてこのクラスにはそういう単純なやつらがたくさんいるということがよくわかる数値だ。

しかし今の私はそれを味方につけることができた。これでやつらは夢の力を信じてくれるはずだ。この、端から見ればただの「気持ちの言い枕」でしかない枕が、実は本当に

そのみたい夢を見せてくれる魔力を持っている、なんてことに気づいたら、やつらはどんな

顔をするだろうか。

私は、なるべく放課後までの時を、教師の話を聞かずに過ごすように心掛けた。ばれないように、最近家で読んでいる小説を読んでみたり、さっき枕に頭を乗せていたやつらの笑い顔を思い浮かべてみたり、教科書の端っこを手でいじってみたりして過ごした。なぜそういう

一見無駄なことをしているのかといえば、私にとってそれは無駄ではないからだ。教師の話を聞いてしまったら、私はまた、ただ現実に従属させられるだけの存在になるからだ。夢を潰すこんな場所で、真面目に授業を受けるべきではないんだと…。

放課後、この苦行を乗り切った私は、一人で手をたたいて喜んだものだ。今日だけで1700円も稼げたのだ。実際に私の手元にお金が入るのがいつなのかはわからないが

一日でこんなに稼げるとは上等だ。かなりいい

バイトだと思う。しかし、私にとってこの仕事は、高校生がやっているバイト以上の価値があった。この仕事がちゃんと成功すれば、私は本当に、自分の夢をかなえて、そして潰された分の夢の復讐ができるかもしれないからだ。

トイレに駆け込んで、たまっていたいろんなものを吐き出した。体がすっきりとなって

いつもよりも胸が軽くなる。でも私はそこで、ちょっと思ってしまう。これを毎日やるというのはかなり自分の体を疲弊させかねない仕事だと。私はこれからもずっと、現実世界で夢を売る、いわゆる営業の仕事ばかりやらされるのだろうか。

もちろんそれはそれで、夢の力をいろんな人に信じてもらうには絶好のやり方だけれど、私の体にとっては、心にとっては鞭で打たれるような感覚だった。そんなふうに営業をするためには、現実世界への従属、そしてそんな世界で笑われながら生きていく必要が生じるからだ。そんな屈辱を毎日耐えることで、本当に夢売りとしての仕事をまっとうしていると言えるのか、今の私はどうしても信じられなかった。

「夢水じゃないか。」

トイレを出ようとしたとき、長い髪の女性に声をかけられた。女性は、手に本を持っていた。分厚そうな英語の本だった。

私はその女性を、いや女性といっても一つしか年は変わらないのだが、かなり好きだった。学校の中でも、小原や闇沢と同じ位信頼している人だった。一つ年上の先輩で、最近まで生徒会長をしていた。

「今守る先輩?」

「おまえ、学校にこれるようになったのだな。本当によかった。このままもどっ経ろないのかと思っていたよ。」

「ご心配をおかけしました。先輩、受験勉強のほうは?」

「ああ。そりゃあもう大変だとも。君だって来年はそういう呉市いひびが続くことになるのだから、今のうちに覚悟をしておいたほうがいい

。きっと現実の厳しさをみることになる。」

私が彼女を信頼している理由は、そんな簡単には説明できない。小学校や中学校が同じで、ずっといろいろな話をしてきたからとか、そういうことは二の次として、私が彼女を信頼し

尊敬しているのは、私のように、現実世界に反抗することでしか夢を信じようとしないのではなく、ちゃんと現実世界と立ち向かうことで夢の存在を守り続けている人だからだ。彼女がい追いかけている夢は、宇宙人のいい男を見つけて結婚することだと、小学校のころ言っていた。その夢はいつか潰される。何もわかっていない私はそう思っていた。けれど、彼女は高校生になっても宇宙飛行士になる夢を追いかけ続けていた。宇宙飛行士になれなくても、なんとかして空を飛びたいと彼女は願い続けていた。

「先輩は、どうしてそんなに頑張れるんですか?」

「そりゃあ、夢をあきらめてない体とも。夢をあきらめないことでしか、私は前に進めないからな。」

彼女は私とは違う。現実のつらい風にさらされて、荒い波にさらされて、変な匂いのする空気にさらされれば、もう夢は潰されたと思ってしまう。けれど彼女は逆に、そんな自分にとって最悪な状況の中でも、ずっと夢を潰されずに持ち続けている。

「あの、先輩…。」

「なんだ?受験勉強の相談か?」

「先輩にちょっとみてほしいものがあるんです。」

私は、そんな先輩に、夢を無理やりにでも売りつけてしまうことは申し訳内ことのようにも思えた。しかし、どれだけ彼女が現実世界で夢を必死で追いかけて、潰れないようにその夢をちゃんと手に持っていたとしても、いつかその夢が潰される。そんな不条理な世界に彼女を閉じ込め続けたくはなかった。閉じこもっていてもいいら、一瞬だけでも彼女を救ってやりたかった。たとえ本当に夢がかなわなくてもいいから、一晩だけでも空に飛んでほしかった。私が彼女ほど強くないから、そんなことを考えてしまうのだろうか。

「これはなんだ?」

「枕です。先輩、よく眠れてるのかなって思って。」

「気遣い、ありがとう。確かに、夢水の言う通り、あまり最近眠れていないのは事実だ。」

「あの…今一瞬だけ使ってみませんか?」

「一瞬だけ?」

「はい。これは私の枕なので、差し上げることはできないのですが…ちょっとでも先輩の力になりたくて。」

「そうか。わかった。使ってみよう。」

先輩は1分だけ頭を置いてくれた。おきあがると笑顔になっていた。

「すごくよい枕だな。この枕があれば、君は今日もいい夢をみて、あすからもまた学校にこれるな。」

先輩の大きな瞳に見つめられて、そんな言葉をかけられたら、「ごめんなさい。私は明日も学校にこれる化はわかりません。」なんて言えなかった。先輩だけが

私に期待をしてくれているのだ。

私は、今守真というこの先輩をとても信頼しているが、そんな先輩にすら、自分の小さな夢をいまだに持ち続けていることは話せなかった。

電車の中で、今日私が学校に言った意味を考えた。私は、夢を笑う人たちに、夢を信じる私に少しだけ寄り添ってくれる人たちに、夢を追いながら現実に立ち向かう人に夢を売りつけた。それが正しいことなのかはわからない。でも、私はそうすることでしか

現実に立ち向かえない。その夢が形を持っていようが、持っていまいが、本当に力を出そうが出すまいが、私がこんなふうに学校にこれるノは、学校に行くことが目的じゃないからだ。私が朝起きるのは学校に言ったり笑顔をつくったりすることが目的じゃない。それは…。

家に帰ると、珍しくスズナが先に家に戻っていた

「おかえり、お姉ちゃん。」

「あ、スズナ。帰ってたんだ。」

「うん、部活なかったからね。お米研いどいたから。あと洗濯物も。」

「仕事が早いね、スズナは。」

妹は私と違って、仕事も早ければ勉強もできるし、母親にも気に入られている。きっと将来はいいお嫁さんになるか、それとも…私よりもずっと立派なお姫様にでもなるんだろうか。もし彼女がお姫様になるというんなら、私は彼女のライバルということになる。彼女と戦って自分が勝てるかといえば私は絶対に手も足も出ない。妹に比べて私は負けていることが明らかに多すぎるのだ。私が勝てるとすればそれは、今なんとか保持している夢売りの権力を使ったときだけだろう。

でも、スズナがお姫様になることはないだろう。なぜなら彼女は、母親と同じで、そんなメルヘンチックなことは絶対に信じないからだ。

とはいっても、彼女はまだ13歳だ。大人になりかけの子供である。本当ならまだ少しでも夢を信じていてもいい年齢だ。彼女が母親によって仕立て挙げられた現実主義者であることは承知しているが、どんな子供でも、何か一つぐらい夢を見ることぐらいはある。私は夢を見ることでしか現実から逃げられなかった子供だったからだ。きっとスズナだって、外見では現実主義者を気取っていても、彼女はただの、よくある子供だ。

私はスズナの姉であるからこそそんなことはわかっている。

「ねえ、スズ。」

二人で作ったカレーを食べながら、私はスズナに尋ねた。スズナは、流れているテレビドラマにすら目もくれずにカレーを食べている。私よりもずっと辛そうなカレーを食べている。スズナの悪い癖、と姉である私は思っているが、は、ほかの人より大人ぶるのが苦手だということだ。母に認められたいからといって、本当の自分が苦手なものに無理やり挑戦するような、つまらなくて曲がった中学生になってしまったのだ。

「何?」

そのときも、辛そうなカレーに苦戦しながら私に尋ねている。私の前ぐらい、そんなに大人部らなくてもいいのにと思うが、きっとそれは彼女なりのプライドの保持の仕方だろう。

「あのさあ…。スズって、見たい夢とか、かなえたいこととかないの?」

「馬鹿だなあ、お姉ちゃんは。ママに言われたでしょ?夢なんか見るなって。だから私は夢なんかないよ。」

予想通り、調子に乗ってそういうことを言ってくるのは私にはわかっていた。そしてそんなかっこよくもないことを、辛そうなカレーに耐えながら話す彼女の顔は最悪にかっこ悪かった。

「スズ、あんた本当にいつもそんなこと思ってるの?」

「だって…。」

でも、私にはわかっている。スズナは確かに馬鹿でかっこ悪くて、人には知られていない不器用さがあって、それがなければ彼女は、私にも負けないお姫様になれるということに。そしてそのかっこ悪さや不器用さは、案外簡単にはがれてくれることも、私は知っている。私が夢売りの権力を行使しなくても、彼女は簡単に、そのかっこ悪いかっこよさを脱ぎ捨てようとするのだ。

「だって、ママ、言ってたもん。夢を見ることは危険なことなんだって。」

「でも、それをあんたは知ってるの?何が危険なのかって。」

「わからない…。」

彼女の、カレーを食べるスピードが遅くなるのがわかる。無理をしている証拠だ。私の体からも力が抜ける。

「別に言うだけただなんだからさ。お姉ちゃんにぐらい教えてよ。あんたの見たい夢。」

スズナに、こんなにも夢について話させようとしたのは初めてだった。二人きりで食事をすることはあったけれど、なるべく彼女と対立をしないような話題を選んで話すことが多かった。要するに、夢について二人で話をしたことはなかった。なぜなら、私はそんなことで妹と喧嘩をしたくなかったし、妹のつらそうな顔は見たくなかった。何より、母親から夢の話をしないように忠告を受けている以上、母親が不在の間も、夢の話をすることははばかられたのだ。

けれど、私が夢売りになった以上は、彼女から、彼女がひそかに思い浮かべている夢の招待を知りたかった。そして、もしこの苦しくて食べるのも人苦労なカレーのような現実世界から彼女を救ってやれるなら、それが姉として当然の義務のようにも思えるのだ。それが偽善だとか余計なお世話だとか周りにさとされても、私にはそれがとても重要なことであると感じていた。

スズナは、冷めていくカレーを見ながら考えて、そして泣きそうな顔で私に教えてくれた。

「家族旅行。」

「え?」

彼女が現実主義者であって、魔法使いとかお姫様とかヒーローとか空飛ぶ車とか

そういう明らかに現実離れしたものを夢に見ないことは予想していた。しかし

家族旅行なんて簡単にかなえられる夢を、彼女がずっと夢に見ていたなんて、予想の範疇をはるかに超える場外ホームランみたいなお話だった。

「え?そんなんでいいの?家族旅行なんて。」

「そんなんって…。やっぱお姉ちゃんは馬鹿だよ。」

スプーンを机にたたきつけて、彼女は泣き崩れた。彼女はほとんど家では泣かない。少なくとも家族の前では涙を見せない。母親からは、「泣いても現実は変わらないのだ。」としつこく教えられてきたからだろう。私だって、母の前ではけっして泣かなかった。母にそう教えられたからではない。お姫様はそんなに簡単にくじけてはいけないと思ったから。そして、母に屈したくはなかったから。

スプーンをテーブルにたたきつけた彼女が切々と語ったのは、もっともな話だった。

「お姉ちゃん、うちらの現実がどういう状況かわかってる?家族旅行なんて、うちらが結婚しない限りできないんだよ。つまりうちが、家族という子供の立場で家族旅行を経験することは、お父さんがお母さんと和解しない限り、絶対に実現しない。でも、あの二人が若いするなんてありえない。ってことは、私たちがどれだけ努力しても、この現実は変えられない。

お姉ちゃんは、そんなことって言ったけど、うちらにとって、絶対にかなえられない夢なんだよ。だからそれぐらい、夢に見たっていいでしょ?もしそれをそんなことって言うなら、お姉ちゃんもママと同じ考えってこと?」

私は、残っている甘口のカレーを書き込んで、そしてスズナを抱き寄せた。彼女は私の腕を振り払うと思ったけれど、案外従順に、というより力をなくすように、腕の中で泣いていた。私が姉らしいことをしたのは、これが始めて、もしくはめったにないことの一つだったかもしれない。

「ごめんね、スズ。夢の形なんて人それぞれだよね。スズは、お父さんとお母さんと、そしてあたしと、4人で家族旅行に行きたかったんだよね。家族旅行に行って、たくさん写真を撮って、お土産も買って、自分のアルバムのページに張り付けたかったよね。じゃあ、あたしがその夢、かなえてはあげられないけど、見せて挙げる。」

「どういうこと?」

「いいから、カレー食べちゃいなさい。」

スズナはまだ放心状態のまま、カレーを食べ続けた。私が言ったことの真意を、彼女はきっと完全には理解していないだろう。けれど、それでよかった。きっと彼女が冷静な状態なら、「夢を見せるって、そんなことできるわけないじゃない。」と一喝されて終わってしまうだろう。けれど今彼女の意識は、完全にいつもの意識がはがれ落ちた、薄っぺらいそのままのスズナだったのである。

カレーを食べ終えた彼女は、風呂に入るとすぐに自分のベッドに入ってしまった。きっと気持ちの整理がつかなくなったのだろう。それともやはり眠かったのだろうか。どちらにしろ、私ニとってはうってつけのタイミングだった。

私は眠りにつく前に、彼女の枕を、営業用の夢売り枕に一瞬だけすり変えておいた。

「いい夢見てね。お姉ちゃんにはこれぐらいしかできることはないから。」

私はそうつぶやくと、自分のベッドに戻った。

今守先輩をクライアントにできたこともよいけれど、スズナという、もっとも夢から遠い存在の一人である自分の妹に、彼女が見たい夢を見せてやれたことが、私にとってはとても喜ばしいことだった。もし彼女が、私たち4人で、念願の家族旅行に行く夢を見て、家族写真を撮って、それをお土産にして学校の友人たちに自慢できる夢を見られたとしたら、きっと彼女は少しだけ、夢の可能性を信じてくれるようになるかもしれない…。母親が禁じていた、夢を見るという可能性を…。

私も息を吸い込んで布団にもぐりこむ。やっと苦しくてつらくて、けれども少しだけ現実世界に反抗できた今日という日を思いながら、そっと枕に顔を埋める。ゆっくりと新呼吸をした。

「ちょっとちょっと、アスナちゃん。君、なかなか使えるね。」

眠ってすぐに私が気づいたのは、自分が昨日の夜夢にみた場所と同じ部屋の机に、いきなり坐っていたことである。夢と言うのは不思議で、いつから夢なのかというのははっりしないら、夢として始まる前にどういう現象が起きていたかを私は推測できない。ともかく私は、ユメキからもらった分厚い本と、営業ようの枕の二つを持ってそこにいた。

私に最初「ちょっとちょっと、アスナちゃん。きみなかなか使えるね。」と叫んだのは正夢さんだった。一応私はほめられたらしい。

「ありがとうございます。」

「今日だけで19人はすごいよ。しかも最初の営業からそれって。いったいどういう手を使ったらそうなるのか教えてよ。」

笑顔の正夢さんとは対象的に、私はあまりこの営業戦略について話したくはなかった。明らかに悪魔的なやり方だからだ。どれだけ私のことを笑った現実世界の人間であっても

突然夢を見せられたら混乱するだろう。

「秘伝の手です。」

私は笑顔を浮かべてそう言ってやった。正夢さんは悔しそうにパソコンのキーをたたいた。

「もう。入社一日目から突然ものを言うようになったね…。」

すると、別の入り口から夢気、そしてミアさんがは言ってきた。

「お疲れ様。どうだった?初仕事は。」

「おもしろかったです。」

そういうありきたりなことしか言えない自分がなさけなくて、このときばかりは、もう少し学校でまともに勉強してご威力を高めておけばよかったと思った瞬間だった。

「そうか。じゃあひとまず明日もこの仕事は続けてもらうとして…。」

やはりそうなのかと半ば落胆はするけれども、なんとなく予想していたことでもあったので、そこまで驚くことはなかった。だがユメキはまだ私に何か用があるようだった。

「君にはもう一つ仕事を頼みたいんだ。というより体験してほしいのだよ。」

夢売りの仕事として規定されているのは、私が寝る前までやっていた夢を売りつける営業の仕事、そして悪夢の処理、夢のゴミ処理、そして夢の製造や点検だ。一番楽で、なおかつ危険が伴わないだろうと思われるのは夢の製造と点検だ。しかし、こんな新参者の私に、クライアントに売るための大切な夢の製造の仕事をいきなりやらせるほど、ユメキは強硬な人間ではなさそうだ。しかし、そうでないとなると、残りの二つの仕事はおそらくかなりの重労働だし、夢の世界というのがどうなっているのか、いくら夢を信じ続けるこんな私にも検討はつかなかった。

「さっそくで悪いんだが、君には悪夢の処理を頼みたい。」

やはり、一番恐れていた仕事の一つをやらされるらしい。けれども、なぜいきなり悪夢の処理を頼んできたのだろうか。新人だからいろんな仕事を経験させたいというのは、理にかなっている話なのだが、だったら、せめて、新人にお似合いのゴミ処理をやらせたほうが、新人らしさが出ているような感じもする。

「悪夢の処理?」

「君もみたことがあるだろ?悪夢ってやつを。」

あまり思い出したくはないが、うなずくしかなかった。私がみたことのある悪夢というのはたちが悪かった。

私はよく学校から帰ろうとする。そこには小原や闇沢がいることもあれば、今守先輩がいることもある。もしくは、あまり話したこのもない

夢に出てきそうもないクラスメイトがいることもある。にっくき守谷唯華がそこにいたことはほとんどなかった。ともかく、誰がそばにいたかが重要ではない。私は電車に乗って、最寄の駅で降りる。改札を通り抜けて外に出る。しばらく歩いてみると突然周りが暗くなって道がわからなくなる。歩くけど歩くけど家にはたどり着かない。あちらこちらから不気味な音がする。変な匂いもする。後ろから得体の知れない物体がまきついてきて、聞いたことがないような靴音が近づいてくる。突然地面が揺れて、耳を津ん座区金属音が響いたかと思えば、私は冷たい水の中に落ちていく。

その冷たさのせいなのか、目覚ましの制なのか、たいてい夢はそこで終わる。

「悪夢ってのは、人間に容赦なく襲いかかってきて、夢の恐ろしさを人間に伝えようとする、僕たちの敵だ。悪夢のせいで、夜眠ることを恐れる人たちはたくさんいる。君にはその悪夢を処理する役目を務めてもらう。ミア、あとは頼んだ。」

昨日と同じ用に、かごの中の物体に何かをしているミアさんが、ユメキの話が終わって20秒ぐらい経ってからやっと振り返った。

「行くわよ、夢水さん。」

「え?どこに。」

「悪夢をやりにいくんでしょ?」

ミアさんは、ラボの奥に並ぶかごの中から、いくつかの小さなケースを取り出して私に渡した。

「これはなんですか?」

「夢食い虫。悪夢を対峙するには必須アイテム。」

彼女はそれだけ言うとまたもう一つの、小さな手鏡のような、それでいてスマートホンのようなものを渡してきた。彼女の説明で、はっきりしたのは彼女がラボの奥でいつも見つめているかごというのは、夢食い虫が入った虫かごのことだったのだろう。

「これがドリームミラー。これがないと悪夢の意識に入り込めないし、万が一敵と遭遇したときには戦闘しなければいけない可能性もあるからそのときに使う。さあ早くしないと。クライアントがまってる。」

私はこのミアさんという人が何を考えているのかいまいちわからなかった。いつも虫かごのほうをみて話すし口数もほかの従業員に比べれば少ないからだ。しかしこの仕事をしてみると、きっと夢というものを守ろうという思いは、やっぱりほかの従業員と同じでとても強いのだろう。

ミラーには、目を疲れさせるほどたくさんの夢の意識が移っている。この中に

悪夢で苦しむ人たちの意識があるらしい。

「あそこよ。」

そういうとミアさんは勢いよく坂をかけ下るようにして消えていった。私も、彼女の背中が見える限りあとを追いかける。まるで、好きな人の背中を追いかけるように…。そういえば、と心の中で思い出す。私は好きな人の背中を追いかけたことがあっただろうか?

そこは真っ暗でどろどろした地下空間のような世界だった。あたりには何も見えない。たたその空間のずっと先で、低い動物の足音のようなものも絶えず響いている。そいつはどんどんこちらに近づいてくるようだ。

「来たわね。」

ミアさんは冷静に、しかし危機感を持って、危険が近づいてきたことを私に伝えた。

「何が着たんですか?」

「このクライアントの悪夢よ。」

「え?」

私が同様していると、ミアさんが叫んだ。

「ケースから虫たちを出して!早く!」

私は、扱いに慣れていないかごの中を維持くりながら、蓋をあけた。虫たちはとても小さいけれど、よく見ると鋭い牙を持っている。間違ってそいつに体の一部をかまれたり食われたりすれば、ひとたまりもなくしんでしまう、もしくは致命傷になるかもしれない。

虫たちは、当然のことながら突然かごから出されたわけで、まず私に警戒心を示した。

「深呼吸よ。深呼吸をして自分は幸せだって顔をするの。そうすれば、夢食い虫はあんたを警戒しない。」

慣れた手つきで、かごから虫たちを出しているミアさんが、私に早口で説明する。

そんなことをいきなり言われても困る。私は実際、現実世界で幸せを感じる瞬間が最近は極端に少なくなってきているからだ。とはいえ、その幸せな気持ちがなければ、虫たちは私に警戒の意思を示し続ける。

とりあえず、お姫様になった自分のことを考えながら、かごの中をじっと見つめた。すると虫たちは案外簡単に私のいうことを聞いてくれた。

私は、襲いかかってくる悪夢の実態を把握した。

悪夢というものが、そもそも生き物みたいな形を持っているということを私は始めて知った。悪夢はこの地下空間を作り出しているだけでなく、自分の体でもって、ある人間の意識をむしばんでいることがわかる。

大きすぎるその顔は土気色に染まっていて、口や鼻から変なにおいが漏れている。そして、大きな足で地面を踏み鳴らしている。

「悪夢はね、口や鼻から吐く域に毒を含んでいて、そいつでクライアントの心を苦しめるの。そして、足で床を、つまりそのクライアントの心を踏みつけることで、さらに心を痛めつける。」

かごから勢いよく夢食い虫たちを悪夢に向かって飛ばす。羽の生えた虫たちは、うまそうな巨大なえさを見るなり、小さな体でその悪夢にすがりつく。

「このクライアントはもう手遅れだわ。今日はやめておきましょう。」

「え、どうして手遅れってわかるんですか?」

私が、震えた手で虫かごのケースを占めながら効いた。

「あれをみて。」

ミアさんの指さした方向に、小さな水たまりができているのがわかる。地下空間の一番端っこのあたりに、その水たまりはあった。何の水なのかはわからないが、色は明らかに変な匂いのしそうな汚水といっていいだろう。ここはいわゆる下水処理場なのだろうか。

「あの水たまりですか?」

「あれはおねしょよ。」

「おねしょ?」

私にはおねしょにたいしていい思い出がない。いや、おそらくたいていの人がおねしょに関していい思い出を持たないと思われる。しかし私はおねしょが治らない子供だった。普通の子供は小学校に上がるころにはおねしょが少し落ち着き始め、だいたいの子が尾根所の発症を防ぐことができるようになる。しかし私はそう簡単には行かなかったのだ。おそらく小学校のころから、学校とか規範とかそういうものに反抗していた、もしくは虚偽反応を示していたせいで、朝起きるときの反抗のサインとしておねしょをやらかしたと、今の私は考えている。

ともかく、私は悪夢の意識を通しておねしょというものの存在をみたことがなかった。

「悪夢にうなされた人間の処理ができなくなる要因は主に三つ。一つは夜泣き。もう一つはおねしょ。そしてもう一つが夢遊病。不眠小患者や悪夢にうなされている人間、とくに児童に特有の症状。これを発症する前に悪夢をやらないと、こちらの作業はできなくなる。このクライアントはおそらく、ミラーで観察する限り

9歳い以下の児童。悪夢に一番やられやすいバルネラブルジェネレーション(VGチルドレン)ね。」

ミアさんの話に、正直かなりついて行くのが難しいという印象はあった。しかし、だいたい彼女のいわんとしていることを、自分の経験に則して考えれば、言っていることの意味はわかってきた。夜泣きもおねしょも夢遊病も、私はすべて経験したことがある。

「さて、また明日以降に出直そう。次のクライアントに行こう。」

私たちはミラーを捜査し、次のクライアントに移動した。次のクライアントが児童なのか大人なのかは、悪夢の意識の内部では判断ができない。しかし、私がミラー越しに少し遠くまでみてみると、まだ水たまりはできていない。

「まだ間に合いそう。さっきの同じ手順で、夢食い虫たちを出して。」

私は、慎重に、けれど安定した心で虫たちをかごから取り出した。

虫たちの動きがさっきよりはずっと軽やかだ。虫たちが悪夢にすがりついた瞬間、さっきまでその地下空間を揺らしていた悪夢の体がとまったのだ。そしてみるみるうちに空間が狭くなっていき、大きかった顔も小さくなっていく。

「おみごとね。次よ。」

ミアさんは、休むことなく仕事に当たるように私に告げると、「別行動のほうが効率がいい。」と行って、私一人に仕事を任せることにしたようだった。

何回か悪夢を倒すために戦った。そのうち1回は、ミアさんと最初に遭遇したときと同じで、すでに夜泣き、もしくはおねしょの浸食がもう始まっていて手遅れだったが、あとの悪夢はすべて対峙ができた。

胸をなでおろし、ミラーを眺めていると、ミラーの一番右側のエリアに、も屋のかかった闇が広がっているのがわかる。そしてその闇の中に、ほかのクライアント以上に激しく体を震わせてうなされている男の人の顔を見た。悪夢は体をむしばむことはないはずなのに、彼の顔はえぐれ、血だらけになっているように移っている。

「この人を助けなきゃ!」

私は正義間というものが嫌いだった。もちろんあくも嫌いだけれど、正義間というのは

非常に嘘くさくて気持ち悪い物体みたいに思えて、私は信じたことがほとんどない。というか、信じてもいいけれど自分が実行しようとは思わないのだ。

しかし、今の私の心の中には自然と正義間が燃え上がる。これこそ夢売りの仕事の神髄なのではないだろうか。悪夢にうなされている人を、この小さな虫たちの力を借りて助けること。こうすることで、私は正義の味方になれるのではないだろうか…。

そんなふうに調子に乗った私は、かごを片手に、ミラーをもう一方の手に持って、そのクライアントのところへ行った。

その悪夢は、今までみた悪夢の中でももっとも大きく、鋭い爪や牙を持っている悪夢だった。悪夢を対峙するための地下空間も、普通の悪夢以上の広さを誇っている。水たまりなんて比にならないほどの大きさの巨大な川のようなものがそこにはあった。ということは、このクライアントはおねしょや夜泣きをしまくっている可能性がある。

かごに入っている虫たちがいくら大きく成長して、さっきよりも立派な牙になったとはいえ、これでこの悪夢を対峙できるかというと不安が残る。こんな大きな悪夢だからこそ、このクライアントはほかのクライアント以上に苦しんでいた。

私は虫たちに最大級の笑顔を振りまいて、虫たちをかごから出した。虫たちは羽を広げ、一気にその悪夢に向かっている。

ところが、突然大きな悲鳴にも似た高い声が聞こえた。悪夢はまったく様子を変えていない。何が起こったのかと思って、その音の方向を見ると、悪夢の足の下に、大量の虫の死骸が転がっていたのである。

どうやってこの悪夢を対峙してやろうかといろいろと考えあぐねた末、私は1匹の夢食い虫を、その悪夢の地下空間の壁に投げて見ることにした。壁に当たった夢食い虫は痛そうに羽を震わせていたが、ふいに思いついた化のように壁を食べ始めた。そのとたん、突然地下の空間が狭くなり、もだえ苦しんでいたクライアントの顔色が変わり始めた。少しずつ落ち着いた顔立ちを取り戻し始めたのである。おかげで、その人がどういう顔をしているか

輪郭がはっきりしていた。

ところがそれを見ているうちに、悪夢があった地下の空間が崩壊し始めていたので、わたしはそこから離れざるを得なくなった。

私はとても大きな悪夢を対峙できたことに、夢売りになって一番といっていいほどの達成感を覚えていた。

だから、そっとドアをあけて、夢ラボに戻った。

ミアさんはもうすでに戻っていて、珍しくテーブルで茶を飲んでいた。

「おかえり。」

ユメキは、涼しい顔で私を出迎えた。

「この子、なかなか悪夢処理に向いているようね。」

ミアさんも安心したように私を見つめる。

「本当に、こんな新人に任せちゃってよかったの?何があっても知らないからね。」

正夢さんはまだ疑りぶかげな目で私ではなくパソコンをみている。

「まあ、なんかあったらそのときだ。」

ユメキは、悪夢処理をやったことがないのか、実に平和的な雰囲気を醸し出している。私としては、一番大きな悪夢を対峙したから、少しは悪夢処理のレベルが上がったと思っていたし、私の夢売りの株も少しは上がったと頑張って思うことにしていた。

しかしなぜか私の胸の中に、少し不気味な不安が残っていた。いったいどういう不安なのか、私自身にすらわからなかったが、強いて言うなら女の感だろうか。

その不安と関係あるのかわからないが、突然ドアをあけて入ってきたナナオさんの顔は傷だらけだった。

「ナオくん、どうしたの?まさか悪夢に襲撃された?」

「おい、ミア。おれは何度もおまえに電話したのに、なんでたすけにこなかった…。」

「私は別の仕事があったの。電話になんか出れるわけないじゃない。」

「緊急電話使ったんだからな。ほら、夢売りの仕事の心得にも書いてあるだろ?緊急電話は優先して出ることって…。」

「でもさすがにその顔はやばそうね。何があったの?」

ミアさんは、声では心配していないように聞こえる話し方をしていたが、その顔は少し不安げだった。

「誰の仕業化わからないが、リサイクル工場に爆弾がしかけてあってね。ちょっとその爆風にやられちゃったってわけ。ほら、夢ゴミって悪夢の元になる有害物質が入ってるじゃないですか。それにやられたらしくて顔がこのとおり、そこら中傷だらけになっちゃったってわけさ。」

「ミア。手当してやれ。」

ユメキは、不安そうなミアさんに支持を出した。「言われなくてもそうするつもり。」といったミアさんは、どこに持っていたのか、救急箱を取り出して、ナナオさんの手当を始めた。

私は私で夢のリサイクル工場が爆発した原因のほうが気になっていた。リサイクル工場がどういう仕組みでできているのかはわからないが、現実世界に当てはめればゴミ処理上が爆発したということになる。それはあまりにも危険だ。ごみというものには有害物質がたいていの場合含まれているからだ。まして夢のゴミが爆発したのだ。絶対何かの原因があるはずだ。

しかし、夢売りの新参者の私がそこまで考えをめぐらしたところで、乏しい情報しか持ち合わせていないのだから、これ以上詮索するだけ無駄だと思って、ナナオさんにいろいろと文句を言いながら手当をするミアさんをみていた。ミアさんは手際よく、ナナオさんの顔に何かをかぶせたり、スプレーをかけたりしている。

「さあ、アスナちゃん。君はそろそろ行く時間だ。今日もしっかり営業してきなよ。」

私はユメキの発言にはっとさせられる。そうだ。夢のゴミ処理上の爆発のことや

悪夢の処理みたいな、い世界の話も大事だが、現実世界の営業も続けなければいけないのだ。しかも、またあんなつらい思いをして、朝起きて学校に行く手続きを踏まなければいけないなんて…。

「さあ、明日が楽しみだね、アスナちゃん。」

夢の世界を出ようとしていた私に、ユメキが放ったその言葉に、私はどうも賛成できなかった。明日が楽しみなんて、今まで考えたことがなかったのだから。明日というのは大抵、いやなことしかまっていない。少なくとも現実世界においては。

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