第6話
二つの月が地面に金色と赤の影を交わらせている。
英雄の月と魔の月、と呼ばれている。英雄の月は大きく、魔の月は少し小さい。
しかしこの魔の月が現れるまでは地上は龍や精霊のすまう別天地であったという。
そのころの人間は魔法を自在にこなし、しかも非常に長命でほぼ不老不死であったという。彼らのことを今の人は魔物、魔族と呼んでいる。
魔の月はその魔力を吸い上げる。力が強いほど激しく吸い上げられるため、龍や精霊はたちまち姿を消し、人間もややあって今あるような卑小な生き物になってしまった。一部の力ある人間はあるいは魔の月の力のおよばぬ地中深くに避難し、あるいは生身を捨てて石像となり、あるいは人の姿さえ捨てて神秘的な獣となって生き延びる選択を行う時間を得たが、衰弱の早さがまるで違った龍たちにその時間はまったくなかった。
そのむかし、龍の臥所の地下には長い年月の間、その龍のたった一人の生き残りが横臥していたという。同族に処罰を受け、地下に封じられていたことが彼の命を救ったのだ。
龍をおさえこんでいた同族の魔力は彼らが死に絶えたことで絶たれた。だが、龍は外に出ればすぐに死んでしまうことを知っていたがゆえに鬱々と牢獄にくらしつづけるしかなかったのだ。
鬱屈した龍は、分厚い地盤をへだてても少しづつ失われる力を維持するために人間たちにいけにえを求めた。若く、生命力旺盛で、しかし子供のようにはかなくはなければ生贄として十分であったが、なぜか人間たちはいつも若い娘をささげてきた。
そんなある日、生贄としてその娘はやってきた。おびえ、泣き、話もできないいままでの生贄と違って、ものおじせず、いやそれどころか龍を見下すように話しかけて来る娘に退屈していた龍は興味を持つ。いくさに敗れてとらわれた隣国の姫君であったという伝もある。
娘は龍に今の話、人間たちの話をし、龍は娘に太古の話、龍の話をした。
やがて龍は娘に誘われるまま自分の体だけをさらに地下深くに眠らせ、人間の体の分身を作り出して地上で太陽にむかってその両手を広げて心地よくのびをする。
龍であった男と娘は家を建て、畑をつくり、小さき命を慈しむくらしにはいった。
娘はたくさんの子供たちを残し、二人はだんだんに老いてゆく。
龍はかりそめの体が死ねば再び地下の眠りに戻るはずであった。
だが、人間として長年連れ添った愛妻を先に失い、龍の心は死人も同然となった。
そしてその体の死とともに龍は目覚めることなく、体は永遠の生にあれど、心は死んでそれを捕らえた娘のもとへと、冥府へといってしまった。
龍の臥所の住民は龍と娘の子孫である。
ぱたん、と本を閉じてチェスマは馬車の窓の外を見た。馬車はかなりの速度を出しており、ゆれは激しい。よくぞ本を読めたものだが、それだけ集中していたのであろう。
「分家がおさめてたのか。朽ち縄家……か」
龍の子孫を蛇の名の一族が治めていたとはおもしろい。チェスマは隣で老眼鏡かけて帳簿をにらむチュのほうをちらっと見た。出費のおおまかなところは知らされている。あまり楽な話ではないが、こまかいやりくりをいとわなければなんとかなりそうだ。チュはまさにその細かいやりくりをやっているのだろう。
老眼鏡をはずして、一度帳簿を閉じたあたりを見計らって彼は尋ねてみた。
「分家の朽ち縄家があそこを治めるようになったのっていつごろだい? 」
チュはチェスマの顔を見て、まじめに聞いていると見るとこれもまじめに答えた。
「さよう、七十年ほど昔と聞き及んでおりますな」
「事情は知ってるかい? 」
「そうですなぁ」
老僕は目をつぶり、思い出そうとする。
「確か、臥所が謀反を起こそうとしたのを、朽ち縄家の開祖が未然に防いだ功績により、臥所をあずかるようになったとかでしたな」
「ふむ、どうやって防いだんだろうね」
「さあ、ただ朽ち縄開祖でないとだめであったことからして、なんぞ約定を交わしたのでしょうな。プライドの高い土地柄ではよくあることです」
「どんな約定かわかる? 」
「いや、推測しただけでそんなものがあったかどうかはわかりかねます。たいていは水利などの保障といった実利的なもの、特に頑固者の土地ではもともとの主家の地位を兼任するといったものがありますな」
「朽ち縄家の執事とかならなんか知ってそうだね」
「そうでございますな。しかし、無事のはずなのに何も知らせてよこさなかったのが気になるところでございますよ」
「なんとかして臥所にいかなければならないなぁ」
「無茶はなりませんぞ。あなたの身はいまやあなたひとりのものではないのです」
わかってる、わかってる、とチェスマは説教が始まらないようにあわてた。
いつものチュならかまわずお説教というところであるが、このときはなぜか眉間にしわこそよせていたが、いたってまじめに、しかし静かにこう問うてきた。
「殿、何か気になることがございますのか? 」
「うん。実は、さっききいたことのあたりの記録がないんだ。もともとなかったんじゃない。誰かに持ち出されたように隙間ができていた。埃の具合からして最近でもないけど何年も前じゃない」
「む」
チュは首をひねった。無断で領地の記録を持ち出せる者などそうはいない。
「バンカラ伯父だと思う」
チェスマがかわりに答えた。
「伯父は朽ち縄家を絶やしたけど、館に火もかけなかったし、主を守って逆らったわずかな者しか手にかけなかった。チュはそういったよね? 」
「はい、確かにもうしました」
「と、すれば伯父は臥所の人たちを納得させる何かをやったのだと思う。そうでなければ今のこの事態が理解できない」
「すると持ち出された記録は…」
「伯父の館のどこかにしまってると思うよ」
「遠うございますな…」
バンカラ・ンガダスの居城は反対の方向だ。
「記録があてにならないから、素直に聞くしかないと思う。それがだめなら、きっと何をやっても間に合わない」
「殿」
チュはチェスマの顔を見た。時々見せる、何か別のものに憑かれたような顔はしていない。ここにいるのは素のチェスマだ。
ならばたずねよう。
「日ごろ、領地に執着せず、うっかりすれば人にやってしまいかねぬ殿が、なにゆえ臥所にこだわりになりますのか?」
「以前お会いした黒王殿のような人にあげるのはいい。僕より領民をちゃんと見てくれるだろう。でも、領民の命や暮らしなんか一顧だにせぬ人たちにンガダス領を食い荒らさせたくはない。それだけだよ。でも、なにより臥所の人たちの真意を知りたい」
「殿は、そう読まれましたか」
「読むも何も」
チェスマは苦笑した。
「西の小路家のタケマロの様子で全部わかったよ。彼は、ンガダス家に領土を保全する実力が残ってるかどうか知りたがっていた。ならば、ご同類は他にもいるだろう。西の小路家の思惑通りにいけば彼らも手をこまねいちゃいないだろう」
「おどろきました」
ただのぼんくらではなかった。チュは目頭が熱くなった。
「学院にいれば王族貴族のそんなところはいやでもわかるよ。王子……いや陛下が玉座を暖めていなければ、チュの説得に耳なんかかさなかったな」
若く、英邁な王は宮廷で老獪な廷臣に囲まれている。チェスマがンガダス家の主として一目置かれればその助けになることは必至だ。
「殿が陛下のご学友でなければ、このチュ、死んで先代さまにおわびするはめになったところでございました」
目頭を押さえるその耳に寝息が聞こえてきた。疲れが出たのか、痩身の当主はすとんと眠りに落ちたようだ。
風邪を引かないよう毛布をかけてチュもしばし眠りに落ちた。
チュは夢を見た。
「チュよ、わしを主と認めよ。そなたが認めれば他もしたがう」
少しあいまいになった記憶の中で力強く威厳に満ちた声が呼びかける。
「なれど、当主は一族合議にて定めるものにてこの老骨一身の身勝手にて定めるものではございません。わたくしめよりも、他の一族のかたがたをまず説得なさいませ」
「よかろう、そうするとしよう」
そして他の主家一族は死に絶えた。
「さあ、あとはわしひとりの合議でわしを指名するのみ。チュよ、本館にて新しい当主の出迎えのしたくをせよ」
ほの冥い気持ちで支度を整えるチュのもとに届いたのはその訃報であった。
暗殺でもなんでもない頓死であった。
そのあと主一族の生き残りをなぜあそこまで必死にさがしたのか、王国一の武門ンガダス家の家内を初代のころより代々とりしきる家系のチュにもわからないところがある。
今、チュは実に久しぶりに少しだけ安らかな眠りを得た。
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