90.迷宮都市レストーネア―4



 いい宿に巡り会えたのは、四日目のことだった。

 噂で使いやすいと聞いていた宿は当然のように空室はなく、その他の候補に泊まってみては翌日別な宿を朝から探し……と繰り返しつつ、漸く巡り会った宿は当初の候補にはなかった、いわば穴場とも言える宿だ。


 というのもその宿、場所的にあまり日中の人出の多くない地区……つまりは、この街に暮らし働く人間が多く住む場所建つ、大部屋なしで客室がたった六つしかない小さな宿だったのである。


 同じくらいの規模の宿でも大部屋を用い客数を稼いでいたというのに、完全に少人数向けの宿である。これでまずこの宿を選ばないのは、普段から大人数である大部屋であることを気にしない冒険者たちであろう。大部屋は安い。その浮いたお金で装備を整え、回復薬を購入し、そして酒や食事といったものを豪勢にしたいと考える冒険者は多い。

 さらに、時間を大切にする商人もまた、己の戦場である賑やかな通りからかなり離れたこの場所を選びはしない。そして、それ以外に宿を利用する者たちも同じような理由で……つまりは、この街に来た目的である場所より離れた宿を利用する人間は少ないようなのである。私たちのように、とにかくこの広い街を一回あちこち探検してみよう、なんて考えなければ、ここに宿があることすら知らない者も多いだろう。


 私たちも別に時間に余裕があって暇だというわけではないのだが、ノクトマで街中を走り回り追手ししょうから逃げ回った経験もある為に、長居する予定の街を見て回るのは決して無駄なことではなかった。そしてそんな中で見つけたのがこの宿であり、そしてその場所は私たちの目的にも合致した。


 赤い屋根の宿にしてはこじんまりとした建物は手入れも行き届いていて、外観だけではなく室内の気遣いも細やかだ。当然窓が歪んで隙間風が入ったりはしないし、穴が開いた壁に適当な大きさの木の板を打ち付けたような雑な手直しの跡もない。何よりよかったのは、きちんとしたベッドに清潔なシーツがあり、室内に小さいながらシャワー室やトイレといった設備が整っていること。

 そしてなにより……食堂の利用に時間制限があること。


 これまでは気にしていなかった条件である。そもそもドルニグの宿も真夜中などは食堂は閉め切られていたが、冒険者は夜食事をし酒を飲みながらその日の疲れを癒し、情報交換を行うことが多いのだ。ドルニグの宿は女将さんの人柄かそういったことがなかったのだろうと今更ながらわかったのだが……この街の宿、とにかく真夜中までうるさい。

 ノクトマは近場に多くの飲食処があったせいか、宿内の喧噪はそこまでではなかった。スビアイは騒ぎたい冒険者はそれこそ迷宮周辺に集まっていたイメージだ。……だからこそここでは顕著であったと言える。真夜中の、その日の戦果を競うように語り健闘を称えあう冒険者たちの騒ぎ声は……日付が変わっても続き、時には朝方まで響き渡り……参加していない者にとってはとにかく騒音でしかなかったのである。


 初日の宿と三日目の宿は、宿自体は悪くなかった。だがとにかく、ベッドが揺れているのではないかと時折感じるほど騒がしかったのである。それは、一般的にも気配探知に優れた冒険者たちにとって安息の地とは余程遠い。食堂に近い二階の部屋が空いていたのも納得の煩さだった。

 二日目の宿は論外で、シーツはカビ臭く妙なシミがあり、部屋の中に虫が這っていたのであまり思い出したくはない。

 というわけで、予約制度なんて上級な部屋や宿でしか対応してないこの世界、部屋探しは運や伝手によるところが大きい為に、私たちも気長に探すしかないとあちこち歩き回り……見つけたのだ。『赤の塔』に続く通りにある、その宿を。



「あ、おはようございます! お客様、お部屋はいかがでしたでしょう?」


 五日目の朝、私たちが三階の部屋から朝食をとる為に一階へと降りたところで声をかけてきたのは、この宿の娘であった。年齢は恐らく私と同じか少し上、日の光を受け止めたかのような美しいクリーム色の髪を左右で二本にまとめ、それよりも濃い琥珀の瞳はきらきらと輝いている。元気いっぱいといった様子の少女のその頬はまるで染めたかのように赤く色づき、その視線は……当然のように、ユウに向いている。


「……いい宿だ」

「あっ、ありがとうございます! 朝食も、我が宿自慢のパンをたっぷり用意しておりますのでっ、ぜひ召し上がっていってください!」


 ぱっと耳まで赤く染め、熱い頬を冷ますように手をあて、いそいそと食堂への扉を開けて案内してくれる少女は……私を見ても顔を伏せつつぺこりと挨拶してくれているところを見るにこれまでとは少し違うようだが、その心は雄弁である。


 実はこの少女、昨日私たちがちょうど宿の前を歩いていたところで、買い出し帰りだったのか抱え込んだ袋ごとふらついて中身をぶちまけ転ぶという、それはもう漫画のような出会いをした少女である。

 ちなみに中身は果物で、当然のようにユウの目の前であり、ユウが支えて助けたというテンプレ仕様だ。どうやらあの時、自分を支え、なおかつ咄嗟の魔法で果物が潰れぬよう風を起こしたユウに一目惚れしてしまったらしい。なんかもうやっぱり、ユウは主人公属性である。いやこの場合は、少女漫画のヒーロー役か。


 昨日のことを思い出しつつユウの方をちらりと見上げた瞬間、少し不安そうなその瞳と視線がぶつかってつい、え、と声が零れた。

 しかしそれは一瞬だ。すぐさまいつもの表情を見せたユウは行こうと言って私の手を引き、顔を前に向けた私の視界には食堂の扉を支えつつどこかしょんぼりとした様子を僅かに見せたあの少女がいた。

 落ち込みながらも、僅かに燻る嫉妬の炎。それは旅を始めた当初、ドルニグの街でも私が何度も感じ怯えたもので、そしてきっと、私の魂に根付いた呪いの種にも似たような思いが込められているのだろう。


 だがあの時とは、状況が違った。


 大きな荷物を持ち、ふらりと倒れる一般人の少女の動きなど、普段から魔物と戦う私たちにとって目に追えぬものではない。私は位置的にユウより前に出て庇うことは難しかったが、だからこそ気づいてしまった。ユウが一瞬、躊躇ったことを。

 それと同時に感じたのは、確かに私の胸の内にもある嫉妬心だった。ただ助けるだけ、それだけの行為であったが、結局ユウが支えたその少女の染まる頬を見て、私は触れないで欲しいと願ってしまった。以前にも近いものはあったが、あの頃はただ『怖い』や『いつか離れなければならない寂しさ』が先行していたというのに。

 以前は怖かった嫉妬の炎が宿る視線の前でも、逃げたくないと、ユウを渡したくないという揺ぎ無い感情が、じわり、じわりと膨らんでいく。ああ、あの恐ろしい感情は、普通に私の中にも宿るものなのだ。


 気づいてしまえばあとは、ぐるぐると脳内にこびりついて暴れ狂うような思考の渦に囚われるだけである。というわけで、久しぶりに騒音もないいい部屋ではあったが今朝の私は寝不足だ。


 もそもそと朝食のスープを口に運び、パンはユウが半分に割ってくれたものをなんとか飲み込む。早々に食べ終わった天月とルリが足元でごろごろしてるのがなんとも癒されるからこそ助かった。


 納得できないわけではなかった。そもそも私は人生三回目、最初の頃は勇者と付き合ってそれこそ嫉妬心に駆られたこともあるわけだし――比較的すぐ諦めて落ち着いてしまったことは置いておくとして――二度目の人生だって、様々な物語に触れて、それが人間とは切っても切り離せない感情であることは理解している。むしろ、私にもその感情があってよかったと、わずかながら思ってしまった。


 あんなにも恐ろしかったのに、あってよかった、と思ったのは、それこそユウの存在のおかげだろう。だってもし逆であったら? きっと私は不安になる。もし私に、その感情がなかったら? ……きっとユウが不安になる。

 嫉妬心に怯えてばかりであればきっと、ユウは自分のせいで私を怯えさせているのだといつか自分を責めるようになるだろう。それは、二人で手を取り合って、生きる為に冒険者になった私たちにとって、あってはならないもののように感じる。


 ユウが、転んだあの少女を助けるその瞬間躊躇った理由は恐らく二つ。一つはあの忌々しい実験後、ユウ自身が他人に触れられるのを厭うようになってしまったこと。そしてもう一つは、私が怖がると気づいたせいだろう。ではなく、、なのだ。それをユウが心配したのだとわかる程度には、私たちは一緒に過ごして想いを打ち明けあったのだから、きっと間違いではないだろう。


 そもそも、私は転生二回目なのだ。怖いものは怖いが、自分の胸の奥にある感情の否定までしていられない。あってよかった、そう感じることができたのならば、あとはそれとどう共存するか、そこに目を向けなければならない。魔力と同じだ、制御しなければ恐ろしいものなんて、いくらでもあるだろう。


 自分でも変に達観したような感覚があったが、納得はできた。そう満足して顔を上げれば、やはりユウがどこか不安そうに、いつもよりも少し遅いペースで食事を口に運んでいた。




「ユウ、私大丈夫だよ」

「え」


 宿を出て数歩、ギルドへと向かう道すがらそう切り出した私に、ユウがぽかんと珍しい表情を見せる。


「大丈夫。怖くない、わけじゃないけど、前と違うから」

「……怖いだろ。さっきだって……いや、今だって手が冷たい。顔色も悪い」

「えっ、それはかっこ悪いね、ごめん。……うん、だから、怖くないわけじゃないんだけど……前はね、その、いざとなったら」

 そこで一瞬言葉を言い淀んだ瞬間、ユウが「俺と離れるつもりだったんだろ」とすぐ後を続けた。見上げれば、珍しくもゆらゆらと瞳を揺らがせて、どこか泣き出しそうな表情だ。

「わかってた。だから気を付けるつもりだったし……昨日も失敗――」

「やっぱり。助けたことは失敗したわけじゃないよ。ユウ、私たちが冒険者になったのは生きる為だよね。どこかに閉じこもって二人だけで生きられるなんて思わなかったし、自由に、生きる為に二人で手を取り合うことにしたんだもん。二人で自由に、それが目標だよね」

 私の言葉に、ユウが頷く。その表情は困惑だ。

 積極的に関わりたいわけではないが、他者を排除するでも、見捨てるでもない。私たちが求めているのは、二人でどこまでこの異世界冒険者生活を楽しめるか、生きられるか、そこなのである。


「ごめんね、私がものすごく怖がるから、ユウに負担かけてるのはわかってたのにずるずるきちゃった。でも違うの、前と」

 違う? と困惑した様子で繰り返すユウの手を、自分からもきゅっと握りしめる。私の手が冷たいなんて言うユウの手だって熱くはないし、……とてもわかりにくいけれど、魔力がゆらゆらと揺れている。


「私にもあったんだ。だから、受け止め方を変えることにしたの」

「……あったって、え? 嫉妬?」

「そう、昨日、ユウに触らないでって思う気持ちがね、強くて、前ともなんか違ってて、うーんなんていえばいいんだろ。とにかく逃げたいなんて思わなくて……怖かったけど」

「……ああ」

「ようはその感情も魔力と同じだと思うことにしたの。魔力だって制御できなきゃ怖いものだし、使い方によっては人を殺す。向けられたら恐ろしいものだ。……まぁ、私はユウの魔力を食べちゃったわけだけど」

「……嫉妬心を魔力に例えるのは予想外だけどまぁ、言いたいことはなんとなくわかった」

 ほっと、ユウの肩から力が抜けて、知らず強張っていた私も体に熱が戻っていくような感覚があった。だからこそまぁ、口が滑ったのかもしれない。


「本当に魔力みたいなものだよね。だってレイオスさんが私に声をかけてくれてたとき確かにユウが不機嫌だったのに、私それ自体は大して怖がらなかったんだもん」

「は?」

 え、気づいてたのかよ、とか、ちょっと待てだとか、少し慌てるユウの前で、拳を握って宣言する。

「つまりまぁ、ユウに向けてもらったものは美味しく頂いて、人に向けられたものは徹底的に叩き返す勢いがあればいいのかなって!」

「思ってたのとなんか違うしなんで斜め上に行った!? なんで好戦的! つかマジだ、マジかよ! え、マジでミナ、俺は怖がってなかったじゃん、嘘だろ……!」


 それはまるで、魔力を食べた時のように、全力で私が愛を叫んで受け入れていたのだと言わんばかりの状況で。

 俺あんなに不安だったのに! と身も蓋もなく珍しく嘆くユウに、にっこり笑みを向ける。嫉妬して、なんてこれまたテンプレなタイミングでの自覚だけど。テンプレにはテンプレで対抗してもいいんじゃないかなんて、そんなことも考えて。


「ユウ、私ユウが大好きみたい!」

「タイミング……っ」


 ずっと曖昧で、想いを交わしあいながらも両者ともにはっきりと口にはしなかった言葉だ。それを声に出した瞬間、とてもそれはしっくりと私の心に馴染んだ。


 ぐしゃりとその場で力尽きたようにしゃがみ込んだユウは耳どころか顔も、首も全部真っ赤だ。それでも繋がれた手は離されなくて、たぶん私も負けず劣らずの顔色をしているのだろうけれど、この時私たちは不器用ながらも確かにまた一歩、前に進んだのである。



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