やまない雨はない

成井露丸

やまない雨はない

「――やまない雨はない」

 月並みな言葉を口にする。


 それはそうだろう。ある場所を雲が覆って雨を降らせ続けるには、海面からの無限とも言える水蒸気の供給がいるはずだ。もしそれがあったとしても空には風が吹いていて雲は西から東へと流れていく。どんな大きな台風だって過ぎ去ってゆくのだ。数年前、大規模な低気圧が本州西側から九州を覆って大きな被害を出した。そんな雨だって最後にはやんだのだ。だから、やまない雨はきっとない。


 駆け込んだビルの内側から土砂降りの大通りをガラス越しに眺めている。そのビルの一階にはユニクロが、二階にはスターバックスコーヒーが入っている。学生時代からも時々立ち寄る施設だ。会社からの帰り道、降り出した大雨を避けるように、そんなビルの玄関口へと飛び込んだ。左手の黒い長傘からは雨水が滴り落ちて白い床をぽつぽつと濡らす。湿気を吸ったズボンが太腿に張り付いて気持ち悪い。革靴の中では水を吸った靴下がまとわりつく。むき出しの二の腕で顔を拭い、額に張り付いた前髪を中指で払った。


 ああ、あの日もこんな雨だった。

 もう三年経つのかな。

 あの日、就職活動でようやく最終面接まで進んだ僕は「就職活動のことで伝えたいことがあるんだ」って思わせぶりなメッセージだけをLINEで君に送ると、返事も待たずに雨の中を君の部屋へと向かった。頭の中では小田和正の『伝えたいことがあるんだ』が鳴っていた。


 電話を鳴らしても良かったのだけれど、やっぱり君には直接伝えたかった。いや、目の前で褒めて欲しかった。男なんて単純な生き物で、好きな娘に「良かったね」「偉いね」「大変だったね」「おめでとう」って言って貰えるだけで幸せになれるのだ。

 君の住むマンションに辿り着いて軒下に入るとスマートフォンを開く。送ってから一時間以上経つのにLINEのメッセージにまだ既読はついていなかった。

 マンションの入り口はオートロック。でもほとんどまともに機能してなくて、いつも簡単に入り込むことができた。本当は一階のロビーで部屋番号を押して来訪を告げるのがマナーなのだけれど、ちょっとした悪戯心が頭を擡げて、僕はオートロックのエントランスをすり抜けた。三階にある君の部屋に向かって階段を駆け上がる。


 三〇二号室――当時、君の住んでいた部屋の前に着いた僕は、君がちゃんと在宅中であることを知って、どこかホッとした。部屋から明かりが漏れていたのだ。

 あらためてスマートフォンを開いてみる。やっぱりLINEのメッセージに既読は付いていなくて、僕はきっと君が忙しくしているのだろうと解釈した。夕食を作っていて手が離せないのか、雨の中を帰ってきたばかりでシャワーでも浴びているのか、ネット配信で映画を見ながら感動して涙を流しているのか。能天気な僕が浮かべた想像はそんな具合のものだった。だから二つ目の悪戯心がにょきにょきと首を出した。こっそり入って君のことを驚かせてやろうと。

 ノブに手をかけて回す。鍵は掛かっていなくて扉は開いた。「不用心だなぁ」と呟きながら、チャイムも鳴らさずノックもせずに悪戯心とともに僕は開いた扉の中へと足を踏み入れた。


 玄関で視線を落とす。そこには君のパンプスに加えて黒い革靴があった。先の尖った、なんだか洒落た革靴。僕が履いている就職活動用のものとはちょっと違う、大人びた革靴だった。紐をほどかれて、少し斜めに脱がれていた。

 喘ぐような声が聞こえる。ぱんぱんと拍を打つような音が聞こえる。その声の主が君だということはすぐに分かったけれど、それは紅茶を飲みながら世間話をするような声ではなくて、ただ快楽と衝動によって押し出された嬌声のようだった。狭い廊下に甘い鳴き声が響いていた。


 さてそういう時、どういう行動が僕にとって最も合理的で適切な行動なのだろうか。経済学部でミクロ経済学とゲーム理論のゼミに所属していた僕だったから、こういう状況における合理的な意思決定主体としての適切な行動を考察してみるというのは、極めて妥当な思考だとは思う。でも当然のように、そんな状況に対する正しい行動をゲーム理論は教えてくれない。『これからの「正義」の話をしよう』で一世を風靡したマイケル・サンデル先生なら、これも哲学の問題として取り上げてくれるだろうか。トロッコ問題みたいに。

 それはさておき、結局のところ僕がとった行動は、濡れた靴を脱いで雨水を含んだ靴下のまま、一歩一歩前へと進むということだった。息を潜めるように。左手にトイレ、右手に寝室、奥にダイニングキッチン。その右手から、声は聞こえていて、音は鳴っていて、仄かな熱が漏れていた。

 ああ、今から考えたら、何も直視する必要はなかったのだ。僕が知らない男と君が体を打ち付けあっているシーンなんて。それでも僕に背中を向けていた二人は、ゆっくりと開いた寝室の扉口に立つ僕に、しばらくの間気付かなかった。

 僕はスマートフォンに目を落として、LINEのメッセージをまた確認する。

「就職活動のことで伝えたいことがあるんだ」

 脳天気な僕の思わせぶりなメッセージに、やっぱり既読はついていなかった。

 それはそうだ。君はこうやって忙しかったのだ。仕方ない。

 まだ気付かない君たち二人に、僕は何かしなくちゃいけないと思ったのだろう。

 普通なら声を出すところだけれど、どうしてだか僕の声帯は動かなかった。咽頭が熱を帯びて、僕の肺は生命維持以外の呼気を出すことを拒否していた。

 だからLINEの画面をタップしてカメラアプリを立ち上げた。そして、裸体で僕に背を向ける二人をそのスマートフォンに浮かぶ小さなフレームに収める。肌色の色相を持つ二人の躰がその一二〇〇万画素の中で律動する。そして僕は画面の下の白いボタンをタップした。

 シャッター音が鳴り、僕と君との時間ではなくて、知らない男と君との時間が、デジタルデバイスの中で永遠になった。やがてその一瞬はセキュアなクラウド上に同期される。僕の意図とは関係なく、それはもう自動的に。

 やおら鳴り響いた人工的なシャッター音に、二人が振り向いた。

 君は大きく目を見開いていて、男はしまりのない顔をしていた。きっと、僕は「やんごとなき雅なお子様」みたいな顔をしていたと思う。それがどんな顔だったかと仔細な説明を求められても困る。「麿マロにも、わからんのじゃ〜」などとおどけることくらいしかできない。

 

 あれから三年経つ。


 鬱々とした雨の日にはそんなことを思い出す。かと言って雨の日に、いつもあの日のことを思い出すわけではない。もしそうなら正直なところ精神が持たない。

 どうやら思い出すにはいくつかの条件がある。一つ目はちょっと仕事でいいことがあった時。就職活動で最終面接に進んだみたいに。二つ目は降っているのがあの日みたいに傘をさしても濡れてしまうような大雨の時。三つ目は革靴の中まで浸水して靴下まで濡れてしまっている時。そして四つ目の条件は、細身でありながら少しお尻の膨らんだセミロングの女性――君によく似た女性を目にした時だ。


 ビルの一階は白く照らされたユニクロの店舗フロア。その中でワンピースのハンガーを取り出して眺めている女性がいた。左腕に赤い長傘をぶら下げながら。

 セミロングの髪、白い半袖のシャツに、紺のパンツ。いかにも仕事終わりに立ち寄ったという感じ。もしかすると僕と同じで雨宿りが目的かもしれない。そんな君によく似た女性が店員さんでも探すように左右に首を振っている。ついついじっと見てしまっていたら、そんな彼女と目があった。カーキ色のワンピースを両手で掲げたまま、彼女は静止する。


 ――それは君だった。


 僕は「あっ」と口を開き、君は「えっ」と目を開く。あの日みたいに。


 あの日の顛末を事細かに語っても全く有益な報告書にはならないし、君との別れに至った経緯を時系列的に並べてもその時の有様を見事に描写する映像作品にはならないだろう。だからこれから話すのは、あれから起きた事柄の断片みたいなものだ。交通事故にあって大破した自転車に関して、軸の曲がったサドルと、切り替えできなくなった変速機ディレーラーと、ばきばきに折れたスポークを手にとって破損箇所を報告する程度のものだ。

 彼女が見知らぬ男と抱き合った姿を写真におさめてしまった後、僕はその部屋を飛び出して雨に濡れた。天を仰いで悲劇の主人公にもなったつもりかと自嘲気味に笑ったけれど、そのとおりじゃないかとシャツの上から水を浴び続けた。


 次の日、スターバックスコーヒーで僕は君と落ち合った。「申し開きがあるなら聞こう」とかそんな感じだと思う。どちらから声を掛けたのかは覚えていない。そこで昨日の男が君の内定先の企業の先輩社員なのだと聞いた。ただ「そうなんだね」という感想しかなかった。「そうそう、昨日言えなかったけれど、俺、最終面接に進んだんだよ」と言うと、君は「そうなんだ、おめでとう」とばつが悪そうに目を細めた。


 当然のように進む別れ話に、君はまだ躊躇しているようでもあった。

 君にとってあの男のことはただの浮気だったのだろうか、それとも新しい本命だったのだろうか? 僕には分からなかった。そして、僕は彼女の本当の気持ちを知ることもできなかった。

 なぜなら、僕には彼女の浮気現場を文字通り赤裸々に撮ってしまっていた写真があったから。


「ねぇ、昨日――その、写真……撮ってなかった?」

「え? ……うん。――その、驚いてさ。つい」

「……そっか。――消してくれないかな?」

「あ……ああ、そうだね」


 だから、僕は絶対的優位な立場にあって――簡単に言えば彼女を脅迫しうる立場に立っていた。僕がそれを使って脅せば、彼女を強引に引き止めることもできただろう。だからもし僕が君に

「それで、君はどうしたいの? 僕のことか、あの男のことかどちらが好きなの?」

 と問うた時に、きっと君は

「もちろん、あなたのことが今でも好きよ」

 だなんて返答してしまうだろう。

 それが最適戦略なのだ。ゲーム理論的意味において。だって君は写真を流出させるわけにはいかないのだから。だからこそ僕は君の言葉を信じられなくなってしまった。その写真は僕らを支配する利得行列ペイオフマトリックスを変えてしまった。傷ついたのは僕のはずなのに、その一枚で僕は君を傷つける加害者としての支配的地位を手に入れてしまっていた。

 「写真を消せばいいじゃないか」と言うかもしれない。それはそうだ。でも、本当に写真を消したと彼女に証明することは不可能なのだ。

 ファイルは無限に複製できる。自動的に同期された写真はクラウド上にある。クラウド上にあるデータを消しても、ファイル編集の履歴から復元もできる。パソコンのローカル上ではCtrl+Cを押した後にCtrl+Vを連打するだけで、デスクトップを君の裸を写したサムネイルが埋め尽くす。

 だから、君の目の前でファイルを消して見せたとしても、それは何の証明にもならない。君の性行為のあられもない姿を写したデータを消したことを、僕は君に証明できない。それは悪魔の証明。悪戯心で君の部屋に無断で踏み込んだ僕にはきっともう悪魔が憑いていたのだ。だから結局、本音なんて一切口にできないまま、あの日僕らは別れた。


 おまえ自身の気持ちはどうだったのかって?

 そんなの決まっているじゃないか。僕はずっと彼女のことが好きだった。


 大学のサークルで出会った君には高校時代から付き合っていた恋人がいて、きっと僕の方は一目惚れだったけれど、僕は友達の立場に甘んじるしかなかった。でも、それでも良かったんだ。君の笑った顔は僕を頬を緩めたし、いつも前向きな君の態度が僕は好きだった。二年生になって先輩になると、後輩を思いやる君の優しさは僕の手本だったし、サークルの執行部に君が名乗りをあげたから、僕もその後を追うように執行部入りすることにしたんだ。おかげで色々勉強することができた。

 二年生の冬に三年間付き合った恋人と別れて、君は独り身になった。いろいろあったけれど、三年生の春の終わりに僕らは付き合い出した。あの年の梅雨だけが、君と二人で紫陽花あじさいを並んで眺めることのできた季節だった。


 僕が大学生時代を通じて恋した女性は君だけで、あれから最終面接に合格して就職した会社に勤め始めた後の二年間を含めても、僕が恋した女性は君だけなのだ。

 あの日からずっと雨は降っている。やまない雨は降りつづけているのだ。


「――久しぶりだね」

 カーキ色のワンピースを服の並びに戻した君が、前を見たままそう溢す。

「うん、外、すごい雨だね。……雨宿り?」

「そう、雨宿り。ちょっと買い足そうかなっていうのもあったから、買い物はついでって感じ。そっちも?」

「ああ。雨宿り」

 久しぶりに聞く君の声が鼓膜を揺らす。いつもより沢山の血液が心臓に流れ込んで、冷えた体に溜めた熱を血液に乗せて送り出す。そうだ。君の隣に居るってこんな感じだったっけ。

「会社、ここから近いんだっけ?」

「う〜ん、言うほどでもないけど? 帰り道沿いではあるかな?」

「へー、そっか。学生時代と同じマンションに住んでいるんだっけ?」

「ううん。引っ越したよ。ちょっと、あの部屋には、ずっと住んでいたくなかったっていうか――」

 君が眉を寄せて上目遣いでこちらの表情を伺って、視線が合った。

「今は、どのあたりに住んでいるの?」

「場所はあまり変わってないよ? 前のマンションから徒歩圏内。場所自体は好きだったし。あのあたり、便利だし。――そっちは?」

「同じ部屋。通勤圏内だったからさ。就職した時に引っ越す余裕がなかったんだ。――卒業論文が炎上しかけた話ってしたっけ?」

「え〜? 聞いてないよ? そうだったの?」

 そりゃそうだ。あの日、君と別れてから、君とそんなことを気安く話す関係には戻れなかった。灰色の感情の中、義務感だけで卒業論文に向かった四年生後期は控えめに言って人生最悪の日々だった。


「そうそう。まぁ、それもあって、入社準備とかしてたら、引っ越すのも面倒くさくなってね」

「そっか。じゃあ、意外とまだご近所なんだね」

「そうみたいだね」

 君が戻したワンピースから手を離す。

「ちょっと他の服も見たいんだけど、話しながら見て回ってもいい? もし構わなければだけど? 久しぶりに……その……話したいこともあるし」

「いいよ」

 僕も君と少しでも話したいと思うから。

「買い物カゴ持とうか?」

「え、いいよー? ……いいの?」

「『いい』の意味が多義的だな」

「相変わらずちょっと理屈っぽい返しをありがとう。無理しなくていいんだよ? 別にもう今は彼氏じゃないんだし」

「別に彼氏だった時も、無理なんてしたことないよ。持ちたいから持つんだし。あ、そうそう、僕、困っている人を見ると放っておけない善人なんで」

「何それ? まぁ、否定しないけれど」

「あれ。ツッコまれないボケも辛いんだけど?」

 彼女の左手から買い物かごを受け取る。

「傘も持とうか?」

「ちょっと、優しすぎじゃない?」

「別に変わらないよ。一本も二本も」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 彼女の手からその傘を受け取る時に、彼女の華奢な左手が僕の肌に触れる。それは確かに君の感触で、その皮膚感覚が僕の記憶を呼び起こす。黒と赤の傘を二本並べて左手にぶら下げながら、僕は君と二人でユニクロの店内を練り歩く。


 学生の頃は今よりもお金が無かったからユニクロにはよくお世話になった。デートの時にこの店に立ち寄ったことも何度かあった気がする。

「なんだかこうしていると学生時代のことを思い出すね。元気だった?」

「う〜ん、まぁ普通かな。普通に社会人やってるよ。そっちは?」

「私も、普通かなー。会社に行って、クタクタになって、家に帰って寝る生活?」

「みんな一緒だよなぁ。……そういえば、彼氏とは上手くやっているの?」

 不意打ち気味な僕の質問。君は弾かれたように顔を上げた。

「――彼氏? 何のこと?」

「いや、だから、ほら。俺たちが別れるきっかけになった、会社の先輩? いたじゃん? ……あれ? 付き合ってないの?」

「何言っているのよ。――付き合ってないわよ。……付き合ってなんかないんだから」

 そう言うと君は視線を落として唇を尖らせた。

「……あ、なんかごめん。そっか。そうだったんだ」

「うん。そっちは? もう、新しい彼女とかできた? ……あ、もしかしてもう結婚しているとか?」

「無いよ、無いよ。いまだに俺が付き合ったことがあるの女性は生涯で一人だけだよ」

「あ……そうなんだ? そっか――」

「うん、そっちは?」

 どう言ったものか思案するように君は少し首を傾げる。そして一つ溜息をついた。

「私もあれから三年間ずっと独り身。ずっと彼氏がいない状況ですよ。――まったく、こんなにいい女が売れ残っているのに、世の男はどこに目をつけているんですかね〜!」

「――まったくだな!」

 頬を膨らませた君に、僕は大きく頷き返した。


 結局、君は普段着にとはじめに見ていたカーキ色のワンピースと白いブラトップをカゴに入れてセルフレジへと向かった。店の出口で僕は君を待つ。

 セルフレジで商品をスキャンしてクレジットカードで支払う君。その姿は三年前に比べると少しだけ大人っぽくて、僕らはきっと少しだけ大人になったんだなって思ったりした。でも君のその一つ一つの動きや、髪を後ろにやる仕草は何も変わらなくて、そこには三年経って変わった君以上に、三年経っても変わらない君がいた。そんな君がいたんだ。


「――お待たせ」

「おう。買えた?」

「うん!」

 白いユニクロの袋を掲げる君。ビルの出入り口。ガラス張りの扉のそばに君が来る。外はやっぱり雨で、梅雨の大雨はそう簡単にやんではくれないようだ。


「やまないね――雨」

「そうだな。そう簡単にはやまないよな――雨」

 それでも、このビルに入った時に比べると、雨足は弱くなったみたいだ。

「やむまで――待つか?」

「うーん。でもそれって、帰れなくなっちゃうやつじゃない?」

「まぁ、完全には無理だろうな〜。でも、ちょっとずつ弱くなっていくっぽいし、一時間くらい時間を潰したらあまり濡れずに帰れるくらいの雨になるんじゃないの?」

 検索した天気予報の画面を見せる。スワイプして雨雲レーダーの画面。

「あ〜確かに。一時間くらいで雨雲抜けるね!」

 画面から顔を上げる君。人差し指で長い髪を後ろに回して耳に掛ける仕草。

 僕は人差し指を立てて二階を指す。

「だからさ。久しぶりだし、ちょっと喋っていこうか? 二階にスタバあるみたいだし。三年ぶりに――」

 君の驚いたような顔。やがて、そっと目が細められる。

「――いいよ。実は明日の出勤、昼からなんだ〜。だから、ちょっと遅くなっても大丈夫なの」

「え? いや、俺は普通に朝イチからだし。そこまで遅くなる気はないよ?」

「まー、それはそれ。じゃあ、いいじゃん。行こう!」

「そうだな。あ、ユニクロの袋、持つよ」

「いいよいいよ、さすがに! 彼氏でもないしね」

「――彼氏だったら持たせるのかよ?」

「そういうこと!」


 そう言って君はエスカレーターへと歩き出した。

 振り返ってガラス越しの大通りを見遣る。梅雨の時期。雨はまだ強く降っている。


「――やまない雨はない」

 月並みな言葉を口にする。


 あの日から三年間降り続けている雨も、いつの日かやむのだろうか。

 その雨がやんだときに雲間から射した光の下で、誰かと紫陽花を見ることができるなら、その誰かはやっぱり君がいいなと思ってしまうのだ。

 水滴に濡れる紫陽花をまた一緒に愛でることができればと思うのだ。


「――何しているの?」

 エスカレーターの手前で君が振り返る。

「あ、ごめん。今行くよ」

 僕はそう言って、君の後ろをまた追いかけ始めた。


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