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スピーカーがポツポツ鳴った。
観ると彼女は、教卓の陰に綺麗に隠れてしまっている。マイクの配線をいじっているのだろう。そして瞬きの間にスッと立っている。スピーカーがまたポツポツ鳴った。
「えっと、距離は充分ですね? それじゃ失礼して──」
言うと彼女はマスクを外す。彼はそこでも意識化の問題を意識する。
(あれ彼女、マスクしてたっけ? そりゃそうだよな。ウィズコロナだもんな。でもこれってむしろ、マイケル・ポランニー的問題なのかな? 暗黙知の次元?)
どうも気張り過ぎているような気がする。何もかもをこの講義にこじつける必要はない。
(それにあの頃のこと思い出すと、芋蔓式に嫌なことも思い出しちゃうし……。俺はこれからあの時代の諸思想と、出会い直すことにしたんだ。そのためにこの講義を、聴講することにしたんだ)
最前列に学生はいない。十列目あたりからようやくチラホラ。まだ四月で私語や内職をするわけでもないだろうし、やはりソーシャルディスタンスを意識しているのだろう。いや、以前からこんなものか。
マスクを外したそのひとはギリシャ彫刻的容貌をしていた。美人と言えば美人なのだが、たとえば現代の基準に照らし、ミロのヴィーナスはいわゆる美人とは決して言えないだろう。彼個人は心の中で、「いいね!」ボタンを直ちに押したのだが……。そのヴィーナスが講義を始める。
「えっと、今日から一年間、文芸批評論を講じいく大島千遥です。ちょっと人数多いようなんで、余り対話的な授業にはならないかな? テキストに沿って、それぞれの理論については割り合い坦々と、紹介していくことになるかと思います。また私は、現象学、精神分析などについてはプロパーのひとたちには敵わないところも当然あるので、そっちのほうはお手柔らかに──」
そこで彼女がクイッと顎を上げた。そして彼は、同期したようにのけぞってしまった。と言うのが──。
(えっ? 今彼女、こっち見なかったかっ? やだなあ、自意識過剰。偶然偶然。あるいはこの歳の聴講生が、単に珍しかったってだけなのかもしんないし……)
彼女の講義は滑らかに続いていく。原稿を読み上げるアナウンサー風な感じか。やや硬い。
「文芸批評論はもうおひと方、榎木先生って方が開講されてて、現象学やフランクフルト学派など、もう少し哲学的なことも押さえておきたいって学生さんは、そっちのほうを履修してくれたほうがいいんだけど、でもこの講義、クラス指定、あるんだよね? とにかくこっちはプラグマティックに、批評の道具として使える範囲で、そういった背景にも触れていきたいと思っています」
彼はまたまたのけぞってしまう。
(榎木いいいいっ!)
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