文学の森
あんどこいぢ
ヴィーナス登壇
1
階段教室というほどではないがそれなりに傾斜がついた大教室の最上段、つまり最後列の左端から、彼はそのひとを見下ろす形になった。
そのひとは大学教授のイメージからは少しズレた、ロングの巻きスカート姿をしていた。では、大学教授に相応しい服装とは? そう自問しつつ、彼の思考は流れていった。
(やっぱシャネルスーツみたいなやつかな? 古いか? でも……)
女性を見るとどうしてもそうした思考になってしまう。値踏みしている? 改めなければならないと思う。
彼女の動きは実に滑らかだった。上背のある背筋がスッと平行移動する。
教壇へ上がった時は? 彼はまだ、彼女を意識していなかった。そこでまた彼の中で、言葉たちがつながっていく。
(前景化していなかった、なんて言い方で良かったっけ? やっぱ違うか……)
思考が微妙にこれからの講義に接近したような気がする。彼女は今から、クリステヴァやフーコー、ドゥルーズ=ガタリらについて語るはずだ。となれば、フロイトらについても……。
そこでそうした思考の流れに、やや焦げ臭い何かが加わる。
(結局みんな、精神分析なやつらだもんな。一方でヴィトゲンシュタインのあの言葉をブンまわしながら、他方で無意識なんてもんについて、よくもああまでいけしゃあしゃあと、語れるもんだぜ。無意識ってのはナンセンスじゃないのかね? ヴィトゲンシュタイン的文脈において……)
『語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない』(1)
ならば夢や自由連想法によってしか語りえないものについては、真っ先に沈黙しなければならないのではないだろうか。
そして記憶の底からの反論。彼の旧友たちの科白で、心の中でだが、そうしたひとたちの声の調子まで付随している。彼らはどこまでも冷笑的だ。本当に旧友たちと言っていいのだろうか?
『いやいや、フーコーってのはそもそも、フロイト的意味での治療って概念の一般化と、そうした一般化に必然的にともなう精神病患者の囲い込みから、近代を読み解こうとした思想家だよ。ドゥルーズ=ガタリにしたって、彼らの主著のアンチ・オイディプスってのは、当然フロイトのエディプス・コンプレックス的主体形成へのアンチってことをまず言ってるわけでさ、むしろ両者とも、フロイト批判なんだよ。それくらいわかっててほしかったなあ』
……それくらいわかっててほしかったなあ!
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(1)ウィトゲンシュタイン「論理哲学論」山元一郎訳、『世界の名著 58』責任編集 山元一郎、中央公論社、1971 年、p.429. 当時の文脈からすると、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉所収の訳から引用するほうが良いような気がするのですが……。たとえばドゥルーズ=ガタリらの著作にしても、皆さん、あの叢書に入っていた『カフカ:マイナー文学のために』(ウワッ! 新訳出てるよ! やっぱムカつくなあ……)や『機械状無意識―スキゾ分析』あたりを割り合い読んでいたようなので……。
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