第4話 煌(かぐ)の還り

 俺が蜜月みつきを伴わず、依緒音を肩に留まらせて現れると、叔父上が軽く目を見張った。

 「蜜月はその、障りだそうで。」

 言わないわけにはいかないが蜜月の話だと思うと言いにくい。叔父上は得心したようにうなずいた。

 「年頃からしておかしくはない。しかしそなたは大丈夫なのか?」

 それは俺自身が一番疑問に思っている。依緒音がいるとは言っても、蜜月なしで俺は大丈夫なんだろうか。

 しかしここでやらなければ、蜜月の主としてあまりに情けない。俺は精一杯重々しくうなずいて見せた。

 「…まあ、こちらでも注意はしておこう。慎重にやりなさい。」

 なんとなく、叔父上には全てバレている気もする。

 今は土地神のための祀りが続いている。幸いにも勅使である俺は、島宮である叔父上と一緒に、朝夕の御饌に陪席する以外はそれほど出なければならないところはない。楽や舞は基本的には楽人、舞人の領域だ。今日は夕べの御饌を乗り切ればいい。

 朝夕の御饌は楽の音の途切れる短い時間だ。静まり返った母屋の広間を叔父上に続いて歩く。

 小さな棚の座。

 平座。

 そして壇上の座。

 全ての座にはいっぱいに神霊がおわすはずだが、俺にはほとんど感じない。

 むしろ僅かに気配を感じる分、幾分不気味にも思える無人の広間があるばかりだ。

 依緒音がそっと頬にすり寄る。

 大丈夫だ。そのまま続ければいい。そう言われた気がしてほっとした。

 そういえば初めてここに入った時は、蜜月(みつき)がとても驚いていた。どの座にどの神がいるのかと聞かれたものだ。見えないからこそ神の座は完璧に覚えていた俺は、一つ一つ教えてやった。

 植物たちの気の凝った小さな神。

 磐座などに宿る神。

 特定の風や気候などが成った神。

 特別な場所に凝る神気が成った神。

 神気のある場所でも神を成らせない場所もある。

 例えばみやこの淡海。

 例えば龍眼たつのめ 

 それらは最古の神霊である龍の神気の一部だからだ。

 そしてその、最も偉大な神霊である龍は、この広間には招かれない。

 一番奥の壇上には十一柱の神が座す。

 そしてその壇上の正面に、一際高く帝の席が設けられ、その両側に控える形で島宮と勅使の席が用意されている。

 蜜月によると煌族が座につくと、居並ぶ神々が一斉に頭を垂れるのだそうだ。もちろん俺には見えないのだが。

 かんなぎによって運ばれた膳に手を合わせる。

 まずは水。それから五穀を入れて炊いた粥。最後に海のもの、山のものと箸をつける。

 再び膳に手を合わせ、退出する。

 それで御饌の次第は終わりだ。

 母屋を出た俺は大きく息をついた。蜜月がいないと言うことが、とても大きな欠損なのがわかる。肩に依緒音がとまってはいても、蜜月とは比べものにならない。

 月の忌とはどのくらいかかるのだろう。

 俺は蜜月が早く戻って来てくれることを、祈らずにはいられなかった。




 大饗は一ヶ月に及ぶ長い祀りであるだけに、特に重要な祀りがいくつかある。

 まずは各種の招き。

 それから最初の「五穀の御饌」。

 いくつかの荒ぶりやすい神の祀り。

 中でも一晩重要なのが、望の日に行われる「煌の還り」と、「新嘗の御饌」だ。

 歴代の帝を一人一人憑坐に招き、その年の斎田で取れたばかりの新米を振る舞い、その実りを分かち合う。

 この祀りは壇上の神と歴代の帝の他には煌族以外陪席できないが、実は蜜月がいなくても以外と困らない。もっとも数の多い歴代の帝は憑坐に招かれているので、仮の姿と声をもっているからだ。

 そしてどちらにしても蜜月は祀りの場に入れない。蜜月は神奈の薫餌師くのえしであって、煌族ではないからだ。

 丸二日、朝夕の御饌を乗り切ると、ほんの少し気持ちに余裕が生まれた。

 とりあえず望の日まではなんとかなる。そこまでは朝夕の御饌しかない。だから望を過ぎるまでに蜜月が復調すれば、つつがなく大饗を終わらせられるだろう。

 実際に蜜月は望の前日に忌屋から戻った。

 ところで、ああいう場合なんと声をかけるのが、主として正しいのだろう。

 早く戻って欲しいと思ってはいたが、いざ蜜月が戻ってくると、どう声をかけたものかと本当に迷った。淡々と急な不在を詫びた蜜月の方が、よほど落ち着いていたように思う。俺は結局、「お帰り」の一言で済ませてしまった。





 望の日の朝は普段よりも一層早い。

 まず自分の禊と着替えを済ませた蜜月が、禊を済ませて戻った俺に正装を着付けてゆく。

 まだ濡れた髪を半髷に結、冠を被せる。

 大口袴、表袴、重ねた白い袙。

 裾の長い白衣びゃくえをまとい、石帯はこの間の龍眼たつのめで得た黄玉を中心に誂え直したものだ。念のために紙に包んだ蜜月の薫餌を少し、懐に忍ばせる。


 くれぐれも食べないで下さいね。


 蜜月がいつもの注意を口にする。今日は依緒音も連れていかない。

 「わかっている。いざと言う時以外はさわらない。」

 初めて出会った時以外、俺は勝手には薫餌を口にはしていないが、いつもそれを口したい誘惑にはかられている。その事がわかっているのか、蜜月は俺に薫餌をもたせる時は念を押すことを忘れない。

 最後に蝙蝠かわほりを石帯に差した。

 

 できましたよ。


 蜜月もすっかり手慣れたものだ。

 「煌の還り」に同行しない蜜月も暇というわけではなく、今日は他の神々をもてなす舞人に加わるという。

 だからいつもの女童姿でなく、舞人の装束をまとっていた。

 薄い舞指貫に、細かく襞を寄せて広がるようになっている枯れ色の裙、柔らかな生地の萌黄の単の肩に白衣を留めている。舞指貫の足首につけた小さな鈴が、動くたびにさらさらとなった。

 「なんというか、変な感じだな。」


 似合ってないのは知ってます。数合わせだからいいんです。


 蜜月はそっぽを向いたが、そんな事はない。似合うか似合わないかで言えば、かなり似合っていると思う。ただ、俺は女童姿の方が落ち着く気がした。


 私の事はいいですから、気をつけて行ってらして下さい。

 

 俺は蜜月に部屋から叩き出されてしまった。俺の部屋のはずなのに理不尽だ。

 しかし叩き出された時間は早すぎなかったようで、大舟繋までいくとほどなく父上がおいでになった。

 父上は帝の貴色である黄櫨染の綺の衣の裾を長く引き、ゆるゆると歩まれる。俺はやや後ろに付き、廟堂まで供奉した。

廟堂の前には造面をつけ、手に鈴を持った憑坐たちがずらりと並んでいる。

 造面には皆数字が書かれている。何代目の帝のための憑坐であるかという数字だ。

 初めて、「煌の還り」に参加した時、造面の数字に少しゾッとした。帝とはいずれ死後にただ数字で記される存在になるのかと。

 正直に言えばいまでもそれほどいい気はしないでいる。

 叔父上が廟堂の扉を開く。

 父上と俺が続き、さらに憑坐たちが続く。俺が最後に廟堂の扉を閉め、父上や叔父上に続いて席に付くと、憑坐たちは居並び鈴を鳴らし始めた。 

 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。

 揃って鈴を鳴らし、緩慢な動作で動き始める。

 父上が御霊呼いの歌を歌う。

 歴代の帝の偉業を称え、共に実りを喜ぶために現れ給えと呼ぶ。

 憑坐たちに、帝の御霊が依りつき、依りついた憑坐から、定められた席へ座す。

 憑坐に御霊が依りつくのは、いつでも異様な光景だ。俺ですらもそう感じる。

 ごく緩慢な舞のように、同じ動きで鈴を鳴らしていた憑坐が、突然目を覚ましたかのように止まり、当たり前の人間のごとく動くのだ。

 こちらを振り向き、手を動かすような仕草をすることさえある。まるで久しぶりあった孫に、老爺が微笑みかけるがごとく。

 蜜月が嫌がるから、薫餌は口にしない。口にはしないけれど、口にすれば何が見えるのかとは思う。父上や叔父上は、いったいどんな光景を見ているのだろう。

 憑坐は一人、また一人と席へついてゆく。憑坐同士で何かを話している事さえある。一面、数字を書いた造面でありながら、集まりはとても和やかだ。

 もう、全ての座が埋まる。そう見えた時。

 「なんと、我の事を呼ばわってはくれぬとは。」

 強い声が、場を打った。

 和やかな歓談が断ち切られた。

 しん、とした中に父上の声が響く。

 「いったいいかなる御霊なるか。」

 父上が見ているのは叔父上だ。叔父上の様子が何かおかしい。

 「我は汝らと同じ、煌の龍よりなるもの。我は麒麟と呼ばれるものなり。」

 叔父上はそう、高らかに名乗った。

 麒麟なら聞いた事がある。煌の龍の眷属だ。眠る龍が眠りの中でこの世を見るために作り出し、放ったとされるもの。

 その麒麟が、叔父上に依りついているというのだろうか。

 「麒麟も我らと新嘗なされるか。」

 父上の言葉に叔父上についた麒麟が笑う。

 「所望する。我もまた煌を継ぐものなれば。」

 すでに歴代の帝は全て座についている。

 父上が、用意されていた鍋から小さな器に粥をつぐ。いつもなら初代の帝から順に運ぶが、麒麟は煌族よりも古い生き物だ。そっと造面に一の字の書かれた憑坐を見ると、うなずいた。初代もわかっておられる。

 俺は小さな折敷に粥の器を載せ、叔父上に依りついた麒麟の前に置いた。

 それから順に歴代の帝にも運んでゆく。いつもなら叔父上と二人で運ぶのを、今日は一人でやらねばならない。

 新しい米の粥の甘い香りが広間に満ちる。

 全ての粥を配り終えると俺も自分の粥を父上からいただき、席に戻った。

 父上がご自分の粥の器と匙をとり、一口粥を食べる。

 続けて歴代の帝や俺も粥を口にする。

 美味い。

 よくついた新米の粥は見事に真っ白で、米の甘みが舌の上にじわりと広がる。

 横目に伺うと麒麟も目を細めていた。

 父上が立ち上がり、今年の豊穣を喜ぶ舞を舞う。

 次は俺で、田の仕事をする早乙女たちを讃える歌を歌いながら舞う。

 歴代の帝も声を合わせて歌う。

 「早乙女の舞はないのか。」

 麒麟の言葉に、また場が静まる。

 「吾子はまさに満ちたばかりの早乙女だ。吾子の舞を希望するぞ。」

 吾子?

 吾子とは誰だ?

 父上と顔を見合わせる。見れば父上にも心当たりがないことがわかった。

 「わからぬのか?」

 面白そうに麒麟が言う。

 「そこにそなたは持っているではないか。それは吾子のものであろうに。」

 麒麟が指差したのは、俺の懐だった。

 懐にあるのは蜜月の薫餌だ。

 信じられない思いで蜜月の薫餌を取り出す。

 「そう、それだ。吾子のかぐだ。吾子はどこにいる?」

 では、本当に蜜月なのか?

 しかし、煌族でない蜜月を廟堂へ呼ぶわけにはいかない。

 「輝宮、非常の際と心得、蜜月をここへ。」

 父上が密やかに囁かれた。

 「蜜月なしでは麒麟はおさまられまい。それに蜜月がまことに麒麟の子ならば煌を含んでおるはずだ。まずは呼んでみるしかあるまい。」

 俺はうなずくと、廟堂の扉ごしに外に控えるかんなぎに、できるだけ急いで蜜月を連れて来るように伝えた。

 廟堂に煌族以外を入れないのは、煌族以外の者を守る意味もある。煌の還りの間の廟堂は生者、死者の煌に満ちる。煌族でなければ煌に当てられてしまうだろう。実際、幾度も煌の還りの憑坐をつとめたものには白内障しろそこひが多い。内外から煌に焼かれるせいだ。

 蜜月を待つ間、廟堂には静寂が満ちた。

 なぜここに麒麟が現れたのか。

 なぜ麒麟が蜜月を吾子と呼ぶのか。

 何一つわからない。

 わからないまま、ただ蜜月を待つ。


 お召によりまかりこしましてございます。


 蜜月がきた。

 扉の外に蜜月がいる。

 どうやら麒麟にも蜜月の言葉がわかるようで、僅かに身を乗り出していた。

 父上と目を合わせ、うなずく。

 不安でももう、蜜月を廟堂に入れるしかない。私は蜜月以外下がるように声をかけてから、廟堂の扉を開いた。

 

 

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