第3話 大饗
月神が菊社から渡ってくる。
月神は
招く作法は決まっている。歌い舞えば良い。神奈社に
四方位神と季節神は親しい神だ。東に春、南に夏、西に秋、北に冬。
それは同時に世界に最初に結んだという五龍の内の四龍に通じる。
東に青龍、南に紅龍、西に白龍、北に黒龍。
四方というのは基本の形だ。前後右左。そして四方を決めるのには中央が必要となる。中央を占める龍、すなわち黄龍であり、
袖を翻し、ひたすらに歌い舞う。
揃われました。
蜜月の言葉に一際大きく袖を振り、神奈社へ拝礼する。
今、社には九柱の神がそろっておられる。
そこから舞人を交代し、次の舞がはじまる。
舞庭を退いた俺は蜜月が差し出した茶を飲み、息をついた。
「
蜜月が淡海の向こうを見る。
今上はまだおいでではないかと。
その答えにうなずく。まだ日は落ちたばかりだ。
今上は朝宮の南庭に日の神、雨の神を招いて島宮へと誘う。宵の内に島へ入ってくだされば良い。
舞人が代わり歌の調子も変わる。次は恋歌だ。神霊は人の恋歌を喜ぶ。舞も一人舞ではなく、相舞となる。
そこから三番ほど舞われたところで蜜月がうなずいた。
今上が島宮に行幸遊ばしました。
舞いの切れ目で舞人を交代する。次は島宮まで招く番だ。袖を翻し、神霊を誘う。蜜月を横目に舟に乗り込み、舞い続ける。
舟が出ようとする瞬間、蜜月が妙な表情を見せた。蜜月の合図に舟を出そうとしていた柑次がとまる。
大きく袖を振り、強く招く。
舟は滑るように淡海へ走り出し、今度は蜜月も何もいわなかった。
みな、従って来られます。
舟はそのまま島宮の大舟繋へと入った。
「蜜月、先程はどうした。」
神々を母屋のそれぞれの座にお連れし、鎮まられたのを確認した後、俺と蜜月は部屋に下がった。柑次はそのまま
一瞬ですけれどなにか強い気配がして。神霊もそちらに気をそらせておいででした。まったく感じませんでしたか。
あいにく俺はまったく感じなかった。
感じてもおかしくないくらい強かったんですけど。一瞬だったからかな。ちょっと感じ取るのに時間がかかりますもんね。
自分では気づいていなかったが、俺は鈍い上にのろいらしい。
蜜月(みつき)が俺の白衣と重ねた袙を脱がして衣桁にかけ、やや着萎えた袿を羽織らせる。俺は自分で表袴を脱いで蜜月に渡した。
「蜜月も楽な衣装にしてこい。次は朝の五穀の
蜜月がうなずき、従者の部屋へ退出する。
俺は畳の上に座り、それから寝転がった。結構疲れているなと思う。
母屋の方からは楽の音が絶え間なく響いてくる。俺は目を閉じて、しばらくその響きに身を委ねた。
身体を揺らされて、目をあける。
そのまま寝ないで下さい。夕餉ですよ。
なるほど、鍋が二つと菜をのせた盆が届いていた。
起き上がってあくびをすると、蜜月が顔をしかめた。だらしないと言いたいのだろう。
「長く寝てしまっていたか。」
蜜月が首を横に振る。
それほどは。私が着替えて夕餉が届く間だけです。
蜜月が膳に菜を並べ、粥と汁をよそう。
菜は甘藷、魚の干物を炙ったもの、青菜の漬物。粥には干し鮑が入り、汁には茸とわかめが入っていた。
手を合わせ、箸を取る。
粥も汁も出汁がきいて美味かった。
俺の食事が終わると、残った物や膳を蜜月が従者の部屋に下げる。これから蜜月の食事なのだが、蜜月はその前に茶と栗の甘葛煮を運んできた。
「お茶など蜜月の食事のあとでいいのに。」
そう言うときっぱりと首を横に振られた。
それだと急いで食べなきゃいけない気になりますもん。私はゆっくりご飯をいただきたいんです。甘藷は好物ですし。
知っている。だから多めに残してある。
蜜月が部屋に下がってしまうと、やけに楽の音が耳についた。立ち上がって戸をあけると、母屋とは違う側の庭が見える。庭の向こうには黒々と淡海が広がっていた。
そういえば蜜月が甘藷が好物だと知ったのもこの部屋でだ。腹立たしいことにその事に気づいたのは俺ではなく、厳しい女官の花枝だった。
泣き声がしたような気がして目が覚めた。
起き上がって耳をすませる。
いや、そんな声は聞こえない。母屋の楽の音が遠く聞こえるだけだ。
でも。
俺は立ち上がり、隣の従者の部屋へ続く戸を開けた。
隅に敷いた畳の上で蜜月が丸まっている。頭の上から大袿を引き被り、何やらちょっと震えているようでもあった。
「蜜月?」
声をかけるが答えない。
大袿をはぐと、丸まっていた蜜月(みつき)が顔を上げた。やっぱり、泣いている。
しまったと思った。どうすればいいのかわからない。いっそ気づかぬふりをすればよかった。
父上がつけてくれた
どうすればいいのか迷って、戸惑って、とりあえず髪に触れた。そばに座って髪を撫でる。七歳の蜜月の髪はほんのりと温かかった。
蜜月の目が見開かれ、たまっていた涙が流れ落ちる。
「うわ…」
蜜月(みつき)が飛びついてきて、その思わぬ重さに驚く。
俺に抱きついた蜜月の身体は温かいというよりは熱く、単に染みてくる涙はもっと熱かった。
蜜月が泣きじゃくる。
上手くできなくて悔しいと。
上手くできなくて苦しいと。
それから謝罪と、さみしいという気持ち。
どうしようもない心細さ。
ぶつかってくる感情は痛いほどで、俺はいっそう途方にくれながらとりあえず髪を撫でる事しかできない。
そして泣きじゃくる蜜月を抱きしめ、髪を撫でているうちに気づいた。声の出ない蜜月は、泣いていても気づかれないのが普通なのだと。
蜜月を抱く腕に力が入る。
「俺がいる。俺がちゃんと気づくから。」
蜜月がしゃくりあげて俺を見る。
俺は蜜月が眠ってしまうまで、ずっと髪を撫でていた。
蜜月が花枝に干し芋をもらっているのを見たのはあの次の日だった。
花枝さんが、これを食べて頑張りなさいって。
嬉しそうな蜜月を見て、ちょっと悔しかったのを覚えている。
「甘藷が好きなのか。」
と、問うと、嬉しそうにうなずいた。
ここへ来て初めて食べたけど、美味しいです。
幼子は泣いてもそれほど目も腫れない。だから昨夜の事がなかったように思えるほど、蜜月はいつも通りだった。ほんの数日前に男女もわからなかったのが嘘のように、愛らしい女童だ。
「蜜月は食い意地がはっているんだな。次から寝る時には干し芋を用意しておくか。」
悔し紛れにそういうと、蜜月が真っ赤になった。
「そうすれば単を濡らされずにすんだのに。」
蜜月がキッと俺を睨む。
主のばかっ
そう言い放つと蜜月は走り去ってしまった。
思えば、蜜月が'俺に遠慮せず突っ込むようになったのはあれがきっかけだ。あの時はただちょっと呆然として、それから無性におかしくなって、しばらく笑い続けていた。
あのあとも、蜜月は時々泣いていた。それに気づくと俺はいつも、蜜月を膝に抱いて髪を撫でた。他にどうしていいのかまったくわからなかったからだ。だが、そうやって蜜月の髪を撫でるのは嫌いではなかった。
大饗が終わって輝宮らすようになると蜜月が泣くことはなくなり、次の年の大饗でも、もう夜中に泣き出したりはしなかった。
食事を終えると蜜月は、お茶をいれ替えに戻ってきた。すでに飲んでしまっている茶碗に、熱いお茶を注ぐ。俺は残してある栗を、蜜月の方に押しやった。蜜月は甘藷に限らず甘いものが好きだ。
蜜月が嬉しそうにに栗の器を取る。
「相変わらず食い意地がはってるなあ。」
そう笑うと冷たい目でちらっと見た。
細かい事を気にする男はモテませんよ。
「いや、結構モテてるぞ。」
俺というより煌がだが。
蜜月がふんと鼻で笑う。
皆さん男性を見る目がないですよね。
俺は笑ってお茶を飲んだ。
「さて、そろそろ寝るか。」
楽は切れ目なく続いている。
そうですね。これから毎朝禊がありますし。
大饗の間は毎朝禊を行う。単なる入浴ではなく、全身を水と塩で清める。髪も毎日洗い、濡れたまま結い上げる。
当然禊にはそれなりの時間がかかるので、夜明け前に女官が起こしにくる。
俺は奥の帳台に入ると、羽織っていた袿を大袿に重ねて被り、横になった。
大饗の毎日は案外忙しい。
毎朝禊をし、勅使と島宮は朝夕の御饌も陪食する。最初の御饌である五穀の御饌は今上が取り仕切るが、その後今上は島宮から退出し、数日毎にやってきて祀りに加わる形なので、大饗の実質的な取り回しは島宮と勅使の仕事なのだ。
「明日の土地神の祀りの舞人が一人月の障りになった。なんとか島宮の内で代わりは付きそうだが後半に響くかもしれん。」
叔父上が舞人の表を眺めてうめいている。綺の女官の月の障りは毎年の頭痛の種だ。一応考慮して組んではあるが、必ず狂いがでる。
「一応、朝宮の方に必要なら舞人をまわしてもらえるように打診しておきましょう。」
朝宮に連絡する事に書き加えて、朝の宮側からの連絡に気になる記述を見つける。
「斎田の刈り取りがやや遅れているようです。新嘗の御饌には間に合うそうですが。」
新米はとても重要な御饌だ。満の日の
「この夏は暑かったのだから育ちはよかろうに、何をしているのだ。しっかりと念をおしておいてくれ。」
先程の後ろに書き加え、少し考えて蜜月を呼んだ。
どうなさいました。
「これを朝堂のニノ兄上に頼む。」
斎田を始め、各地からの御饌の管理を徹底し、速やかに島宮へまわして欲しいと書いた文を蜜月に渡した。
蜜月が文を手に廊へ出ると、優美な尾羽を揺らして小鳥が舞い降りる。
依緒音だ。
蜜月が依緒音の足に文をくくり、
重い潔斎があり、大饗を回さねばならない我々は軽々に島を離れる事はできない。朝夕、連絡のための舟は来るが、こうした方が確実に早い。去年までは蜜月がそのあたりの鳥を一々寄せていたのだが、今年は依緒音がいることでさらに早くなった。
「あれはなんの神霊なのだろうな。」
叔父上の問いには答えようがない。おそらくは龍眼の神気が関係あるのだろうが、もともと私に仮の祭主とする神霊を、寄り付かせ形作るための媒に過ぎなかったはずの依緒音は、どういうわけか固く結んで解けなくなってしまっている。
呼んだついでに二人分のお茶も頼むと、蜜月は干し芋も一緒にもってきたので、少し休憩することにした。
「あの娘ももういくつだ? ずいぶん大きくなったな。」
叔父上が芋を摘む。
「十一、次の正月で十二です。私とちょうど十歳違いますから。」
食べてみると意外と腹が空いていたのか、芋はとても美味く感じた。
「もうそんなか。あの時はどうなるかと思ったが、二人とも育ったものだ。」
当時すでに元服済みの十七歳だった私と、まだ七つだった蜜月を一緒くたに「育った」などと言われるのは心外だが、それが叔父上の正直な実感なのだろう。
「裳着も近いだろうが、そうなると扱いが難しくなるな。」
従者は同性が多い。密接して過ごす事の多い関係上、そのほうが面倒が少ないからだ。蜜月はまだ女童だが、裳着を行えば綺の女官という扱いになる。男が女官の従者を連れている場合、その従者に手をつけている事が多い。
黒衣の公卿ならそれでいいが、白衣のそれも煌族の場合、話はちょっと面倒になる。煌族の従者は今のような潔斎の折に、唯一主の世話を焼くするために付き従う
「蜜月を手放すつもりはありません。いないと困りますから。」
実際に蜜月なしではこなせる祀りが極端に減ってしまう。それはとても困る。
「だが無策で、というわけにはいかんだろう。考えておかなければならんぞ。」
叔父上の懸念は、思いの外早く現実となった。
花枝からの耳打ちにまずは理解が追いつかなかった。
「蜜月が月の障りでございます。すでに忌屋に移しました。」
月の障り…蜜月に今までそんなものがあったろうか。
「おそらく初めてでございましょう。少々体調を崩してはいるようですが、軽くすむのではないかと存じます。」
言われてみればそろそろあっておかしくない年頃なのだろうが、そんな可能性はすっかり失念していた。
妹のような蜜月の成長が面映ゆく、つい感慨にふけってしまいそうになったが、考えてみるとそれどころではない。忌屋に入った蜜月とは話すこともできないのだ。
このあとの祀りの事を考えて青くなる。
月の忌というものは、どのくらいかかるのだろう。
考えながら部屋に戻ると依緒音がいた。足に蜜月の文が結んである。
文を開くと、慣れた蜜月の薫餌が強く香った。
文には急な月の忌を謝罪する言葉のあとに、祀りには依緒音を伴って欲しいと書かれていた。薫餌を数粒包んだ紙包みが、強い香りの源らしい。
薫餌を依緒音に与えれば俺には見えない神霊に感じて教えてくれるという。依緒音は俺の煌で結んだ神霊なので、俺と相性がいいらしい。
しかし依緒音は結局のところ鳥だ。本当に大丈夫なのだろうか。
不安は尽きないがやるしかない。蜜月だって不安だろうに精一杯手を講じてくれたのだ。たまには主として良いところを見せなければ。
「依緒音、蜜月のいない間、頼むぞ。」
ささやくと、依緒音は肩にとまり、頬にすり寄る仕草をした。
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