第2話

「……なんか疲れたな」


 俺は1人で教室の壁にもたれかかっていた。

 初日は人が多すぎて、どこの店も直ぐに売り切れていた。

 それなりに楽しめたが、人混みに揉まれるのは疲れる。歩いただけなのに体が重かった。

 暇になったのでスマホを弄っていると、突然ヒヤリとした感触が頬から伝わってきた。


「明日川さん、何してるの?」


「心乃葉、でしょ?」


 少々くせっ毛な彼女は、隣でその髪の毛をクルクルと弄っていた。


「……心乃葉。この季節に冷たいペットボトルは寒いんだけど」


「あはは、ごめんごめん」


 突然の事で、思わずイライラとした声を隠せなかったが、心乃葉は全く悪びれることも無く、ただ楽しそうに笑っていた。その笑顔は、何故か心地のいい笑顔だった。

 まだ、名前呼びは慣れそうにない。幼馴染の桜田でさえ、俺は1度も名前で読んだことは無いのだ。

 それなのに、急に名前で呼ぶのは違和感しかなかった。


「明日、一緒に文化祭回るのすっごく楽しみ。将大まさひろは行きたいところはある?」


 行きたいところか……。結局ケバブを食べれてないから、個人的には明日ケバブを食べてみたい。

 でも、心乃葉はその答えにどう思うんだろうか。

 俺は、ごく自然と顔色を伺ってしまった。まだ心乃葉のことを信用していないようで、罪悪感が募る。

 ……まあ、たかがこれだけのために顔色を伺ったって仕方がないか。

 

「ケバブは食べてみたいかな」


「私も! 今日、食べようと思ったら売り切れててさ。あれは直ぐに買いに行かないとダメだよね」


 良かった。それならケバブは迷う必要はなかった。


「他に行きたいところはある?」


 他に行きたいところか……。あまり興味を持って調べなかったから、行きたい場所なんてそうすぐには思いつかない。

 下調べくらい、すればよかった。


「いや……。ないかな。だから、心乃葉の行きたい場所に行こう。俺はどこにでも行けるから」


「そっか。うん、ありがとう」


 何故か、妙に乾いた声に聞こえた。

 そんなに行きたい場所がないから、それだったらと思って提案したが、何かいけなかったのだろうか。

 心配になったが、直ぐに心乃葉は元の調子に戻った。


「あ、じゃあ今日一緒に帰ろっ。それで、2人で一緒に考えようよ」


「あ、それいいかも」


「本当? じゃあ、すぐ帰れるように片付けてきちゃうね」


 心乃葉はすぐに立ち上がった。その瞬間、何処からか穏やかな風が彼女の髪をさらった。

 そして、仄かに花のような甘い匂いが通り過ぎた。


「……? 将大、どうしたの?」


 俺の目線に気づいたのか、不思議そうに首を傾けた。


「いや……。なんでもない」

 

 心乃葉は女子が壁の装飾を修繕しているのを手伝いに行った。

 ……思わず心乃葉のことを見つめてしまったようだ。

 肌寒い風が、今日ばかりは心地よく感じる。

 気温自体はいつもより低いはずなのに不思議だ。なんでなんだろう。

 その意味を、心乃葉が戻ってくるまでずっと考えていたが、分かることは何一つなかった。


「――呉橋くん!」


「ん? 桜田か。何?」

 

「見て〜。この動画。猫が凄い可愛くない?」


 急に大きな呼ばれたかと思えば……。まあ、そういう抜けているところが桜田らしいのだが。


「確かに。小さい子猫だね」


「うん。あ、そういえば、さっき明日川さんと話してたけど、何話してたの?」


「ああ、今日一緒に帰ろうって話」


「へぇ、そっか。せっかく彼女出来たんだもんね。一緒にいないと勿体ないよね」


 勿体ないかは分からないが、下校する時は良くカップルを見かけるし、普通ならそうするものなんだろうと思ってる。


「ということは、当分の間は酒川くんと2人で下校かー……」


 嫌そうにすんなよ。あいつが可哀想だろ。

 取り留めもないような話をしていると、心乃葉が教室の扉の近くで「終わったよー!」と言いながら手を振っていた。


「まあ、そういう事だから」


「うん。じゃあね」


 桜田のほんの少し緩めた笑みは、暖かかったが、少しだけ寂しげに見えた。


◇ ◇ ◇


 夕日に照らされた空は、淡くオレンジ色に染められている。そして、その光は心乃葉の真っ白なワイシャツも鮮やかに染め上げていた。

 この時間帯に2人で下校なんてロマンチックだが、心乃葉はその雰囲気に合わない表情で俺の事を見つめてきた。


「……あの子って、将大の幼馴染なんだっけ?」


「え? ああ、そうだけど」


 心乃葉少しだけ眉間に皺を寄せて、口を尖らせ目を逸らした。そして、何やらブツブツと言っていた。

 何を言っているかは聞き取れなかったが、機嫌を損ねてしまったのは明白だった。


「なあ、どうしたんだよ」


「どうしたんだよ。じゃない! あんな距離感で、しかも楽しそうに……。あれは肩触れてたよ。絶対に」


 どうやら、桜田が気に入らないようだった。確かに、よく考えてみると迂闊だった。


「ごめん。いつもあんな感じだったから、つい……」


「そのつい……でされたら堪ったもんじゃないんだけど」


「いや、ほんとごめんて」


 そこでようやく、やれやれ、と心乃葉が息を吐いた。


「今度から気をつけてよ。私、ああいうの見るの本当に嫌だから」


「ああ、気をつけるよ」


「よしっ。じゃあ、明日どこに行くか決めよっか。何処がいい?」


 話が終わると、途端にコロッと機嫌が治っで元気になった。

 そして、心乃葉は文化祭の冊子を取り出してペラペラと捲った。


「お化け屋敷とか面白そうだし、軽音部はライブやってるんだよ。それで、天文部はプラネタリウムをやったりしてる。後は屋台とかだったら学校で話してたケバブとか行きたいよね」


 その他にも、縁日があったり、サッカー部が試合をしていたり、バラエティに富んでいる。

 だが、時間には限りがあるし、回れる場所は限られている。まあ、そうだな。選ぶんだったら……。


「ライブとか、人多かったし行ってみようかな」


「あ、じゃあそうしよっか。他は何処に行く?」


「そうだな……じゃあプラネタリウムとか」


「じゃあって……」


 しょうがないだろう。まともに行きたいところなんて無いんだし。


「あ、将大ってここ左だっけ?」


「いや、違う真っ直ぐだよ」


「じゃあ、私こっちだから」


「うん、また」


 家、思ったより近い場所に住んでるのか。

 それにしても、こんな関係で、本当に良いんだろうか。付き合っていてもいいんだろうか。

 俺は自分にそう問いかけてみた。

 心乃葉と付き合ってみて、確かに、俺は嬉しかった。こうやって一緒に帰ったからこそ、どれだけ自分が愛されているのか、肌で感じることが出来た。俺も、愛を感じられて、触れられて、楽しかったし嬉しかった。

 でもそれと同時に、虚しさが心から溢れていた。

 どうしても、心乃葉との温度差を感じてしまう。

 でも、今更別れようなんて言えない。

 だから、少なくとも今は、心乃葉と一緒にいなくてはいけない。俺はそう決めた。

 それが、最低限俺が背負うべき責任なのだと思うから。

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