第19話 従者の忠義

 聖主モリガンの失踪により、フォルテム教団は大きく分けて2つの派閥に分裂した。穏健派と過激派だ。

 しかし過激派と言ってもそこに分類される人間が皆、同じ思想の元動いていたわけではない。モリガンが作り上げた歪な体制に各々の思惑が混ざった結果、いくつもの小派閥が生まれたのだ。

 カーリーたち穏健派と目的を同じとし、同じようにモリガンを憎みながら、その目的を達成する手段としてモリガンと同じ、もしくはそれ以上の強硬策を選んだ事で穏健派と決別した者たち。いなくなった聖主の代わりに混沌の巫女をその座に据え、フォルテム教団の復興を目論む者たち。そして……。


「正直、最初は信じられませんでした。まさか、あなたがモリガン復活派の旗頭だなんて、と。ですがここにいると言う事は……そういう事なんでしょうね」


 オズの魔法使いの想区の端。小さな花畑の地下にこのような施設が広がっているだろうと誰が想像できただろうか。石造りの階段を下り、つきあたりにある鉄のドアをロキは開ける。そこに広がっていたのは広大な空間だった。

 灰色の石灰岩で造られたそこには、天井から垂れ下がる巨大なシャンデリアと老爺の座る椅子が1つ。座ったまま首を垂れピクリとも動かない彼は、まるで眠っているかのようだった。


「……来たか」


 老爺が目を開ける。操り人形が刺繍された漆黒のローブを纏い、胸まで伸びた白い髭を蓄えた彼の体は枯れ木のように細い。しかし、肉体の衰えを感じさせない飢えた獣のようにぎらついた目は、かつてロキに師事をしていた時と全く変わらなかった。


「ご安心を。私を待ち伏せていた者たちは先に始末しておきました。大方逃げ場のない地下ここに誘い込んで一斉に襲い掛かるつもりだったのでしょうが、無駄でしたね」


「相も変わらず抜け目のない奴だ」


 ハデスがこの想区に潜伏しているとの情報を受け取った際、ロキは違和感を覚えていた。少なくともロキの知るハデスなら、自身の潜伏先を漏らすようなヘマはしない。だからこう考えた。これはハデス自身を囮にした罠だと。


「先のエロースといい、あなたたちはどうも私を警戒しすぎているような。そこまで私は恐ろしいですかね」


「しょせん穏健派は戦う事を放棄した腑抜けの集まり。儂が手を下さずとも勝手に朽ちる。だが貴様は違う、カーリーに付き従う狂犬よ。貴様が唯一にして最大の脅威なのだ」


 作戦を看破されたばかりか孤立無援の状況に置かれたのにも関わらず、ハデスは少しの動揺も見せなかった。椅子に座ったまま、まるで子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「後悔していますか? 私をカーリー様の従者にしたことを」


「なぜ後悔する必要がある。儂はあの時最良の判断をしただけだ。たとえ幾度選択を迫られようと、儂は同じ選択をしただろう」


「くふふ、相変わらずですね」


 ロキが薄く笑う。それはまるで、ハデスに師事を受けていた日々を懐かしんでいるかのようだった。


「1つ聞かせてください。なぜモリガンを復活させようとするのですか? フォルテム教団設立当初からのメンバーのあなたが、モリガンの思惑を見抜けなかったわけはないでしょう」


 モリガンの真の狙い。それはカオステラーによって物語を歪める事で想区を量産し、増えた魂を“収穫”するというものだった。全ての人を運命の書という鎖から解き放つことを使命とするフォルテム教団の教義とは真逆の思考に、ハデスが恭順するとはどうしても考えられなかった。


「全ての人間を自由にするために想区、そして運命の書を破壊する。儂の目的は変わっておらぬ。今も昔もな」


「ならば何故。モリガンを復活させたところで、その目的は達成できないと分かっているはずです」


「……青いな」


 ハデスがゆっくりと立ち上がる。

 ――—その瞬間、場の空気が変わった。対峙するだけで押しつぶされそうな、圧倒的な威圧感。それが目の前の瘦せこけた老人から発せられていると、誰が信じるだろうか。


「神―—ストーリーテラーを殺せるのは神のみ。たとえ偽神であろうと、あの魔女の力は使うに値する。それは貴様もよく分かっているだろう。運命の鳥籠に囚われていた貴様を解き放ったのが誰の力なのか、忘れたわけではあるまい」


「痛いところを突きますね……。ですが勘違いをしないでいただきたい。私を救ってくださったのは誰でもない、カーリー様です。あの方が混沌の力を捨て、それでもなおこの世界と戦おうとするのなら、私はそれに付き従うまで」


 硬い金属音がして、鉄杭が腕の装置に装填される。ロキは黒槍を構え、その切っ先をハデスに向けた。


「その意気や良し。だが現実は物語フィクションに非ず。残酷にして無常、それがこの世界の姿だ。それを己が身をもって知るがいい」


 椅子が溶け、杖の形となってハデスの手に収まる。さらにシャンデリアがいくつもの光球に姿を変えハデスの周りを漂い始めた。


「さらばだ、ロキ。女神フォルトゥナの名において、その運命に終止符をうってやろう」






 それは、まだ教団がモリガンの支配下にあった頃の話。

 「混沌の巫女」カーリー帰還の報を受けたハデスは、虚ろの想区にある教団支部へと足を運んでいた。


「ハデス様、お久しぶりです。お変わりありませんか?」


「あぁ。任務達成ご苦労だった。ゆっくりと休むがよい」


 ハデスは表情を緩め、少女の小さな頭に手を乗せる。


「“成果”はどこにいる?」


「はっ。こちらです!」


 仮面をかぶった教徒の向かった先は建物の最上階、普段ならその支部の責任者、ダグザが使っているはずの部屋だった。鉄の扉の前には物々しい武装をした衛兵が2人おり、厳重な警備が敷かれていることがうかがえる。

 しかしそれもやむなし。部屋の中にいる人間は、それだけの価値を持っているのだ。

 広い部屋の中には数人の教徒、そして青年が1人いた。ソファに腰かけ物憂げな表情を浮かべていた青年は、扉の開く音に顔を上げる。


「あなたは……」


 亡霊。それが青年の第一印象だった。全てを諦観し、一切の希望を捨てた昏い双眸には、時折強い憎悪の炎が揺れる。内に閉じ込められていたはずの炎が漏れるわずかな隙間は、カーリーによって開かれたものだろうか。


「この男に話がある。お前たちは下がれ」


「で、ですがダグザ様は彼から目を離すなと……」


「下がれと言った」

 

 その声には有無を言わさぬ迫力があった。教徒たちは電流に打たれたかのようにピシリと姿勢を正すと、我先にと部屋を出ていく。

 扉が閉まったのを見て、ハデスは窓辺に歩み寄る。


「想区の崩壊による運命の書の変化……。あの魔女が言っていた事が本当だったとはな。だがやはりあの混沌の力は利用できる。運命の書から空白の書に変わる条件さえ分かれば、想区の住人全てを救う事も不可能ではない……」


 ハデスは青年の方に振り向いた。


「貴様、カーリーの従者になりたいと言っていたそうだな」


「っ、は、はい! 必ずやカーリー様のお役に立ってみせます!」


 戸惑っていた様子の青年だったが、その質問に食いつかんばかりの勢いで返す。それを聞いたハデスの口元がほんのわずかに吊り上がった。


(やはりこやつは使。世界への溢れんばかりの憎悪、それが今結びついているのはカーリーに向けた忠誠心だ。うまく扱えば、こやつはカーリーの優秀な矛となるだろう)


「その意気や良し。だが分かっているだろうが、混沌の巫女は我が教団にとって替えのきかぬ存在。教団に入ったばかり若造に任せる事はできぬ」


「そんな……!」


「だから、1つ条件を出す」


 ハデスが手を一振りすると虚空から杖が現れた。


「半年だ。半年で、貴様に従者として必要なものを全て叩き込んでやる。もし貴様がそれについてこられたのなら、その時は貴様をカーリーの従者として推薦してやろう」


 躊躇う素振りなど一切見せず、青年は頷いた。


「どうぞよろしくお願いします、ししょ……」


 一瞬青年が言い淀む。


「ん……? あぁ、そう言えば貴様は『魔法使いの弟子』だったな。ならばちょうどいい。ここで貴様に名を授けてやろう」


「名、ですか?」


「フォルテム教団の者には旧世界の神々の名が与えられる。教徒の多くは空白の書の持ち主だ。それゆえに迫害され、心に傷を負う者も少なくない。神々の名前を与えることは辛い過去との決別、そして新しい人生の門出を意味するのだ」


 この青年は運命の書の持ち主だったが、定められた運命の枷によって苦しんできた。ならば同じように名を与えるべきだろう。


「ふむ……ロキ、という名はどうだ。権謀術数を張り巡らせる狡知の神の名だ。いずれ分かると思うが、混沌の巫女の敵はストーリーテラーだけではない。カーリーの役に立ちたいと言うのなら、ロキのように相手を欺き誑かし、惑わせる事が出来ねばな」


「ロキ……ですか。素晴らしい名前をありがとうございます。このロキ、カーリー様のお役に立てるよう精進してまいります」


 青年―—ロキはソファから立ち上がると、ハデスの前に跪く。それを見たハデスは再び薄く笑った。

 ロキ。それは権謀術数を張り巡らせる狡知の神、そして――後に神々に反旗を翻す事になる者の名である。





「参れ」


 ハデスの一声で、光球がロキに向かって放たれる。ロキは飛び退る事でそれを回避、盾を構えてハデスの左側に回り込む。

 ハデスが杖を振ると再度光球が飛来、今度は前後からロキを挟み撃ちにする。


「くっ……!」


 前からの攻撃は盾で防ぐが、後ろからくる光球を受け止める事はできない。ダメージを受けることは覚悟の上で槍を突き出し、光球を弾き飛ばす。

 だがその反動でロキの体勢が崩れた。その隙を逃さず、三度光球が襲い掛かる。

 咄嗟に転がる事で直撃は回避するが、左腕を光球が掠め鋭い痛みを残していく。


(やられっぱなしじゃありませんよ……!)


 ロキは右腕の装置をハデスに向ける。腕に力を込めたその瞬間、火薬の爆ぜる音と共に鉄杭が射出口から飛び出した。

 ハデスはこの武器ギミックの存在を知らない。さらに鉄杭の速度は矢と同じ。見てから反応する事は不可能だ。

 だが。


「なっ⁉」


 ハデスの腕が跳ね上がり、振られた杖が鉄杭を弾き飛ばした。


(まさか……!)


 今の動きは、ハデスが自分の意思で行ったものではない。まるで何かに腕を動かされたかのような不自然な動きだった。

 そしてロキは気づく。宙を漂う光球のうち、ロキを攻撃しているのは2つのみ。残る4つはハデスの傍に留まっている。目を凝らせば、その光球から出た白い糸が、それぞれハデスの四肢に絡みついているのが分かった。

 おそらくあの光球が攻撃に反応し、ハデスを動かしたのだろう。


「そういう事だ。たとえその槍が届く距離まで来ようとも、貴様は儂に一撃を入れる事すらかなわない」


「っ……」


 神話の神々の中でも最上位の力を持ち、地下のゼウスデウス・クトニオスの異名をとる冥府神ハデス。その名を冠する男が弱いわけがない。


(やはり一筋縄ではいきませんか。ならばワイルドの栞で一気に決着をつける!)


 悔しいが、ハデスの言う通りこのまま槍で戦っていても勝つビジョンは見えない。ロキは懐から小さな栞を取り出し、自身の空白の書に挟む。


 ―—……いつまでこんな事を続けるつもりですか。あなたの体はもう――!


「っ―—コネクト!」


 光の中、現れたのは骨を身にまとった白髪の魔法使い――モルテ卿。

 膨大な魔力を込めた彼の杖から放たれる雷弾がハデスを襲う。


「小賢しいっ」


 ハデスは光球を2つ纏め、雷弾にぶつける。両者は空中でぶつかり、しばし火花を出しながら競り合う。やがて衝撃に耐えきれなくなった光球は爆散。だが、雷弾もまた、軌道を反らされ天井にぶつかった。

 その衝撃で地下空間が揺れ、天井が不気味な音を立てる。


「馬鹿な……。本当に人間ですかあなた」


 いくらハデスの力が突出しているとは言っても、それは普通の人間と比較した場合の話。ヒーローであるモルテの本気の攻撃を受け流すなど、もはや人のなせる業ではない。


「……」


 ハデスは無言で杖を構える。


「なら次は最大火力で一気に決着を――――っ⁉」


 杖に全魔力を集中させたその瞬間、辺りが光りモルテの姿が掻き消える。コネクトが解けてしまったのだ。膝をついたロキの全身に猛烈な倦怠感が襲い掛かる。


(また……!)


 その隙を見逃すハデスではない。


「がはっ、ぐぁぁぁぁぁぁ!」


 心臓を貫く鈍く、獰猛な痛み。まるで幾本もの牙が心臓に突き立てられているかのようだ。あまりの痛みに左手から盾が滑り落ちる。

 さらに見えざる手がロキを掴み、宙に持ち上げた。


「貴様は『手綱』と呼んでいたようだが……この呪いを教えたのが誰か忘れたわけではあるまい」


 手足の先から感覚が消え、五感が少しずつ失われていく。しかし心臓の痛みだけはなお鋭く荒れ狂っていた。


「――――—ぐぅぅっ」


「師として最後の情けだ。最後は儂の手で殺してやろう」


 ロキの傍に歩み寄ったハデスが、その枯れ木のような手でロキの首を掴む。


(させるか……。カーリー様のため、あなただけは刺し違えてでも……)


 その時。

 誰かの声が聞こえた気がした。暗い視界に青い閃光が走った気がした。


「なにっ」


 ハデスが驚きの声をあげる。その瞬間、心臓の痛みが消え、体の感覚が戻ってくる。

 今しかない。ロキは感覚が消えてもなお、意地で握りしめていた槍を前方に突き出す。

 骨を砕く硬い感触がして、鮮血が飛ぶ。さらに間髪入れず腕の鉄杭を射出。放たれた凶弾はハデスの胸を貫通し、その体に穴をあけた。


「ぐ……あ……」


 ハデスはよろめきながら数歩下がり、天を仰ぎ倒れた。


「はぁっ、はぁっ……」


 手の力が抜け、槍が地面に落ちる。だがそれを拾う必要はもうないだろう。


「まさか……儂が負けるとは……」


 ハデスが激しく咳き込むと、赤色の泡が口元から漏れた。

 

「ハデス様……」


 ロキはハデスの元に歩み寄ると、纏っていたローブをはだけさせる。


「っ……!」


 何となく予感はしていた。フォルテム教団設立当初からのメンバーであるハデス。人の身でそれほど長い時を生きる事は不可能だ。もしそれを可能にするのならば、モリガンと同じように何らかの方法によって肉体を存続させるしかない。

 ハデスの細い肉体は、腰から胸にかけて異形の生物に侵食されていた。赤黒い肉の塊がハデスの体を取り巻き、あちこちにある目や口が絶えず動き続けている。


「儂の出自を……話した事は無かったな。儂はかつて、とある錬金術師の弟子だった。だがその錬金術師は自身の運命に背き……悪魔のもたらす堕落を受け入れようとせずカオステラーとなった……。ほどなくして想区は消滅、儂は以前よりその想区を気にかけていたシェイクスピアに拾われた……」


 ハデスは異形の肉体に手を当てて言う。


「錬金術師の名はヨハン・ファウスト。儂の肉体に……自身が契約するはずの悪魔を植え付けた男だ。もっとも、ここまで侵食が進んだのは、儂自身がこの悪魔を培養したからだがな……」


「なぜそんな事を……!」


「言ったはずだ……。神を殺せるのは神のみ。ならばその神を御すにも……人の身を捨て神に近づかなければならぬ……」


 ロキはハデスの胸に目をやる。先程と比べて、明らかに悪魔の活動が鈍ってきている。おそらくこの悪魔が死ぬとき、ハデスの命もまた尽きるのだろう。


「改めて問おう、ロキよ……。いずれ貴様らは気づくだろう。大事を為すには大いなる力が必要になる事に……そして己の無力さに。そうなった時、この選択を悔いない自信はあるか?」


「後悔などしませんよ。カーリー様が望むのであれば、私はどこまでもそれに付き従うのみ。たとえこの肉体が朽ちようとも、骸があの方の通る道になるのなら本望。それが、従者わたしの忠義ですから」


 その答えに、ハデスはかすかに笑った。


「その意気や良し……。自由の徒に……フォルテムの加護あれ……。貴様らの行く……先に……希望の未来……あ、れ……」


 悪魔の死体が黒く縮み、体から剥がれ落ちていく。

 それを見届けたロキも、その場に崩れ落ちた。

 

「……さん、ロキさん!」


 誰かがロキの名を呼びながら駆け寄ってくる。


「もう……助けないんじゃありませんでしたっけ?」


「あなたはもう……! 本当に馬鹿ですよ!」


 顔を上げると、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたキュベリエが見えた。零れた大粒の涙が、ロキの頬に落ちる。


「すみません……。後は、頼みます……」


 どうしようもなく、眠い。キュベリエの呼びかけを遠くに聞きながら、ロキの意識は深くに沈んでいった。





 ロキの帰還から数か月後。旗頭であったハデスを失った事でモリガン復活派、そして過激派全体の勢いは衰え、各地で散発的に攻撃を繰り返すのみとなった。ロキと入れ替わるように復活したカーリーが新たな聖主となれば、自然とこの争いも収束していくだろう。

 戻ったロキを待ち受けていたのは、監禁に近い療養生活だった。武器とワイルドの栞は当然没収。常に監視が付いている状態で肉体の回復に専念する事になる。この処置には女神キュベリエの強い要望があったという話もあるが、その真偽は定かではない。


 後にフォルテム最大の動乱として語られるモリガン失脚からの一連の流れ。

 しかしその動乱の収束に一役買った従者の存在は、一部の者の記憶にしか残っていない――。


 

 

 


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