第107話 幕間:アオハル影とそれなりの日々―①

「ロナウド、調べものかい?」


「スチュアート……」


 声を掛けられて振り向くと、くすんだ金髪のひょろりとした男が一人。


「まぁね。ちょっと気になることがあってな」


「……またそんな古いものまで引っ張り出してきちゃって」


 俺の手元の巻物を覗いては興味深そうに眉を上げる。


 ダールセン家の書庫の奥、長きに渡る影としての知識や技術が蓄積されたその場所で、俺は変装術についての資料を見ていた。


「なぁ、スチュアート。お前、自分のにおい気にしたことあるか?」


「におい……えっ、俺臭い?」


 そんなんじゃねぇよ、とツッコミながら目は文字を追っていく。


 これもハズレっぽいな。


 俺に声をかけてきたこの男はスチュアート・ダールセン、俺の従兄弟で現ダールセン当主の次男。そしてリカルド第二王子の影だ。影の先輩ってヤツだな。


「獣人ってさ、俺らが予想しているよりもずっと……鼻が鋭いんだなと思ってさ」


「あぁー……今回のアレね。ジーク殿下がヘマしたやつ」


「うるせぇ」


 自分に対して言われたことじゃないのに、ムッときて返事をする俺の様子を面白そうに見てはクスクス笑って、スチュアートは続けた。


「確か護衛騎士が聖女様のにおいを辿ったんだっけ?」


「そう。俺らって変装してること多いじゃん? どんなに見た目を変えてうまく化けたとしても、においでバレちまうこともあるのかなぁって思って……」


「あんまそんな話は聞いたことないけどなぁ……任務中、番いにあって失敗しちまった話なら聞いたことあるけど」


「そうだよなぁ~……」


 お仕事柄、別人になっている俺たち影にとって、その状態でもしも運命の番いに出会ってしまったら……その後大変非常にめんどくさい。

 番いに出会ってしまったらそのお仕事は諦めなさい――“万事休す”ならぬ“番事休す”ってのが俺たちの常識。


「まぁ、いいんじゃねえの? 番いに出会えたら一生幸せになれるんだし。好き好き大好き~ってずっと愛してくれるんだぜ。最高の結婚相手じゃん」


「……まあね」


 獣人人気ってのは巷じゃ結構高い。そりゃそうだ。浮気の心配もない、献身的に尽くしてくれるかけがえのない最高の相手――誰でも一度は夢を見て、選ばれたら人生ハッピー。


 間違いなく幸せになれる、俺みたいな人間の男より。


「そんなことよりも……ロナウドきゅんはいちゅになったら一人前になれるんでちゅか~?」


「うるせぇよ……」


「俺は3日だぞ~お前は何年かかってんだ?」


「それを言いに来たのかよ……ホント、余計なお世話だ」


 いたたまれなくて目を逸らしながら巻物を片づける。会うたびに自慢そうにからかってきやがって……これ以上有力な情報はなさそうだしもう退散しよう。


 次の至宝に向けた準備も山積みだし。


「なんかあれだな~お前とジークフリート殿下って……」


「……なんだよ」


 思案するように口を閉じたスチュアートの言葉を促す。


 俺と若が何だっていうんだ。


「お前ら二人、相性最悪だな!! って――ゲホッ! ゲホッ!!」


 すがすがしいくらいの爽やかな笑顔で爆弾を落とした年上の従兄弟の腹に、気持ちを乗せたパンチをお見舞いして、足早に書庫を後にした。


 本当に余計なお世話だ!!



 ♢♢♢


 涼しくなってきた日も増えてきたけれど、どうも本日の夜風様は夏の名残を惜しみたいらしい。夜空を覆う分厚い雲は月を隠し、ぬるい風が頬を撫でる。


 イイネ、悪くない夜だ。


 花の都の中心地から少し離れた場所にある立派な邸宅の、庭に生えたこれまた立派な樹に降り立ち周囲の気配を伺う。


 夜も更けたこの時間、人の気配はない。


 ――っつーか、逆に生きた人に会いたいわ。


 背中に走るゾクリとしたものを、頭を振って気にしないようにする。


 庭に並ぶおびただしい数のオブジェ。何を象徴しているかわからない、丸だの四角だのを組み合わせた象徴的なものはまだいい。むしろ今にも動き出しそうなくらいリアルな人型のモノが……チョー怖ぇ。


 綺麗なお姉さんの半裸像ならまだしも、ヒトがたくさん折り重なったモノや、苦しげな様子で何かを切実に訴えているモノなど明かりの少ない夜に見るにはあまりにも雰囲気があり過ぎて、口笛を吹いて茶化したくなる。


 ま、わざわざ音を出すなんて俺の流儀に反するのでそんなことはしねーけど。


 貴族の屋敷って、客の目を楽しませるような綺麗な花壇や噴水があるとかそういうんじゃねぇの!?


「さっすが、エルモンテ……」


 あまりにも見事すぎて、今にも動き出しそうな彫刻たちが並び立つ光景から目をそらし、邸宅の方へ顔を向ける。


 白いハンカチが吊るされた窓――あそこだな。


 さ、頭を切り替えて、気張っていきますか。



 ♢♢♢



「ニッキー、遅い! 何やってんのさ」


「……俺、時間通りにきたつもりだけど?」


 人々が灯りを消して夢の世界へと旅立つ夜が更けた時間に、やる気に満ち溢れた様子で俺を出迎えた様子に、呆れを通り越して笑えてくる。ほんと、魔法に関することに目がないな。


 今夜、俺とユキちゃんは王立図書館の禁書庫に忍び込む。


 このことを伝えにきた日はなんとなくイラついたように見えたけど、気のせいだったかな。


 若から頼まれた、“闇魔法の調査”。


 禁止された古代魔法をわざわざ調べさせるってことは……あの頑なな態度といい、若はいつから懸念していたんだろう。


 相変わらず溜め込んで……言えばいいのに。


 いや、その前にそれくらい想定して察せられるようにならないとダメなのか。


 俺は、影だし。


「なに、ボーッとしてんのさ。行くよ、ニッキー」


 今にも飛び出していきそうなその肩を押さえる。


「待て待て、落ち着けって……遠足じゃないんだから」


「それはわかってるけど」


 来るのが遅すぎて待ちくたびれたよ……って愚痴るユキちゃんを見てると肩の力が抜ける。


 だから俺は時間通りに来たっつーの。


「いいか、こっから先は俺の指示に従え。無茶したり暴走したりするなよ」


「はいはい」


「はい、は一回だ。捕まれば俺たち犯罪者で……若に迷惑がかかる。そこんとこ肝に銘じておけよ」


「はーい」


 本当にわかってんのかコイツ?


 やる気だけは十分な仔イノシシを見ていると不安になってくんなぁ〜。誰かと組んで影の仕事をするのって初めてだし。


 まぁ、考えてても仕方ねぇ。


 若がやれって言ってんだからやるまでだ。


 ヨシ、と気合を入れてユキちゃんに背を向け、しゃがむ。


「じゃあ乗れ」


「っはぁ!? なんでおんぶ? 嫌なんだけど!?」


「ちょっ、声でけぇよ!」


 俺だって好きでやってるわけじゃねぇ。


「風魔法で飛べばいいんでしょ? 僕だって使えるから!!」


「ばーか。音もなく忍び込むのが大事なんだよ。素人の動きに任せていられるか」


 普通の風魔法と一緒にするんじゃねぇよ。影の技、なめんな。


「おんぶが嫌なら……お姫様抱っこか、こう後ろから回り込んで手を握って、一緒に足を踏み出すお空のお散歩になるぞ!」


「やめろ、気色悪い!! おんぶでいい……」


「俺もおんぶがいい……」


 大変不服そうな顔を隠さずに、覆いかぶさってくるユキちゃん。俺だって、お前よりかわいい女の子を乗せたかったっつーの。


「しっかり摑まっとけよ、ユキちゃん」


 少し跳ねて、背中の荷物を抱えなおし、窓枠に足をかける。


 下から俺らを見上げる無数の無機質な瞳たち。


「……なぁ、この庭ってさ」


「……石像は野ざらしで雨風や陽の光に当たって風化するからこそ、真の美が見いだせるって父さんが……」


 次から次に作成しては庭に放置して、劣化の個性を楽しむの……本当にやめてほしい……ってぶつくさ言っている仔イノシシの言葉に納得する。


 うん、さすが稀代の彫刻家、クラウディオ・エルモンテ。エルモンテの名に恥じないその奇行っぷりはユキちゃんの親父サンだ。


 気を取り直して、窓枠にかけた足に力を入れ夜の空へと飛び出し、風に身体ごと預ける。背中のユキちゃんの身体がこわばり息をのんだのが分かったが、残念、もう止まることは出来ません。


 風の唸りを耳元で感じながら身体中いっぱいに息を吸い込む。目の前には何もない。上下左右、360度、全てから解放されるようなこの感覚が俺は結構好きだ。


 眼下に広がるおやすみ中の夜の街の景色。その風景に溶け込むように風になる。


 ――あの屋根にするかな。


 ある程度飛んだところで、当たりをつけた屋根を足場にして再び飛び上がる。


「うわぁぁぁ!! すごい!! グングン進んで行くじゃないか!! どうやってんの!! どう風を動かせば、こんなに軽々と、音もなくジャンプできるのさ。まるで、空を飛んでいるみたいじゃないか」


「興奮しすぎだ」


 初めのビビりはどこに行ったのやら、背中越しの熱が、声や体温を通して伝わってくる。ったく、普段、ひねくれてるくせに魔法が絡むといきなり素直になるところは年相応に、まぁ、かわいいんじゃねぇの。


「コツとかあるの? どうすればこんな風に音もなく飛べるのさ!!」


「コツねぇ……これは俺流だけど、一本の道が、目の前にあることを想像するんだ。そんな道を風で作って乗って、自分の背中も風で押していく感じかな」


 どこまでも続くような長い長い一本道を、歩く、というよりは追い風に押されながら滑っていくように――


「ニッキーはこんな景色を見ながら空を飛んでいたんだね。すごいや」


「…………まぁな」


 風魔法での移動は、鳥のように優雅にいつまでも空にいれる訳じゃない。川を渡る飛び石のように、風に乗って、宙を跳ねながら移動していくだけだ。


 その飛距離やスピードは、個人のセンスと力量によるわけで――褒められて悪い気はしない。


 ちょっとだけ、いつもより長い飛距離を頑張っちゃったことは、内緒だ。


 月の隠れた今日みたいな夜は、非常に忍びやすくて好都合だ。昼間に利用者のフリしてあらかじめ細工しておいた窓を開けて侵入する。足音が読書の邪魔にならないように配慮された重厚なカーペットにありがたみを感じながら、地下へ続く扉の前までやってきた。


「よし、ユキちゃんちょっと降りろ。動くなよ。余計なこともするなよ」


「マジで音出なかった……すごいな影。ルートもバッチリじゃん」


「当たり前だろ。侵入と逃走経路はしっかり下調べしておかねぇと」


 ユキちゃんに返事をしながら、ウエストポーチを漁ってお目当ての道具を出す。ここからは時間との勝負だ――興味深そうな視線を努めて意識しないようにして、歯で噛んでスイッチを入れながら、両手の道具を鍵穴に挿し込んだ。


「……何やってんの?」


「ふぃっふぃんふ」


 普段利用されない、地下への扉――頑丈に施錠されたその扉を解錠していく。


「その道具は鍵開け? その口に咥えたライトは……?? 初めて見る形だ……」


 ――うるせぇ、黙れ。気が散るだろうが。


 興味津々でグイグイくる大猪鹿ビックハバーリノを無視しながら、手元の感触を頼りに作業を進める。


「なんか時間かかってない? 僕がやろうか?」


「……させねーよ!?」


 見られてると緊張する気持ちってわかる?


「ねぇニッキー、早く早く!」


「うるせぇ、急かすな!!」


 誰かと組んで影の仕事をするのって初めてのことで……いつもだったらこれくらい秒だ、秒!


 若に言われるままに連れてきちゃったけど、ちょっぴり後悔。素人、ってか魔導具を目の前にしたユキちゃんが中々にめんどくさい。


 ――ガチャリ


 重厚な鍵の音が夜の廊下に響く。禁断の道が開いた高揚で目をキラキラ輝かせている今夜の相棒に、指先をクイッと曲げてついて来いと指示を出す。


 お互いに声を出さずに、地下へと続く階段を下りる。


 昔からの古い建物って、妙に雰囲気あるよな。でも、風の都の古代神殿を経験した後となっちゃこれくらい全然平気だ。だってここにはサルはいねぇし。


 降りきったその先に、目の前に立ちはだかる大層趣のある青銅の鉄格子。そしてその向こうには、いかにも重たそうな年代物の本棚が並んでいる。


 古い本独特の埃っぽい匂い。陽の届かない地下空間は少しヒンヤリしていて肌寒いってのに――お隣サンはそんなこと微塵も感じてないようですな。


 その様子を横目で見ながら、扉の前で再び開錠作業をしていると、またしても熱い視線が突き刺さる。


「ねぇ、ニッキー」


「らぁめ」


「ねぇねぇニッキー、いいでしょう、少しくらい?」


「らから、らめらってりゃ」


「少しその道具を触らせてくれるだけでいいから……」


「……あぁもう、これ持ってろ」


 ユキちゃんに渡した道具――蛍飴デューグリュー。直径2~3センチくらいの光の玉は、暗闇の中で作業するために開発された、ダールセンの魔導具の一つ。


「口で咥えて使うの?」


「そうすれば両手が使えるからな。作業の時に見えやすいように光源は顔の近くにあった方がいいし……それに誰か来た時に口の中に含めれば光漏れすることないからいろいろ都合がいい」


「ふぁふほふぉへ」


 そういって目を輝かせながら、口に咥えたユキちゃん。この場合、作業するのは俺だから、手で持つだけでいいんだけどなぁ。両手を空けたところでユキちゃんは見ているだけじゃん。


「楽しいのはわかったから、頼むから出し入れするな。光がないとこっちは作業できないんだから」


「ニッキーすごいよこれ。光加減が絶妙! 口に完全に含めば、一切漏れずに真っ暗になるけど、ちゃんと見えるくらいの明るさで困らない!」


「わかった、わかったから――調子に乗って飲み込むなよ?」


「ふぁーい」


 新品の予備、持ってきておいてよかったなぁ。じゃなければディープめの間接キスになるところだった。こんなこと考えてしまう俺が女々しいのか、それともこいつが大胆すぎるのか――そんなことを考えながら、ピッキングを完了させ、ようやく禁書庫に辿り着けた。


 なんか始まってもないのに、どっと疲れた。


 俺の心労なんて余所に、“ふぉー”と声を上げながら本棚に駆け寄っていくユキちゃん。


「闇魔法だぞ。他のことに目を向けるなよ」


「ふぁーい」


 少々危なっかしい雰囲気を感じながら、闇魔法に関する情報を集めていく。


「おい、本を1冊読んだら片づけてから次のに行けよ。逃げるときに大変じゃないか」


「ふぁーい」


「あぁぁぁぁ、折り目付けるな。状態が変わって怪しまれたら困るだろ」


「ふふふぁい、ふぉはぁーふぁん……」


「誰がお母さんだコラ。うるさくねぇ、最低限の常識だ」


「ニッキー……顎が痛い……」


「……我慢しろ」


「あ! あれは、“魔法薬学の真髄とその先へ”の初版本!? ヤバすぎる薬てんこ盛りで絶版になったやつじゃないか?」


「だぁかぁらぁっ! 闇魔法だって言ってるだろう!」


「お願い! チラ見でいいから! 何かメモだけでも!!」


 そんな感じでユキちゃんの奇行を見張りながら、目ぼしい本を漁っていく。


 まだ女神とその娘たちがいて、七部族だった古い時代に禁止された闇魔法。人の心に入り込んでいく危険な魔法の使い方は、情報を持つことも、集めることも禁止されている。人目につかない場所――この禁書庫ならあるかもと期待していたが……


「どれも似たようなことばかりだね……その危険性と解除法のことばかり。せっかくここまで来たのに、上で見れる本と同じじゃないか」


「…………だな」


 闇魔法の解除法だけは――いざという時のために、俺らや騎士団みたいな護衛職や、魔導士だと専門の講義を受けて、取得することが出来る。ただ、その発動の仕方を知る機会はない。


 おいそれと、人の心を操る魔法を知れるわけがねぇ。


 闇魔法を調べることは法律で禁止されている。


 悪用されないように――便利と危険は紙一重だ。


 そして今、若が知りたいのは、発動のさせ方や、その対処法で――きっと、どこかのタイミングで、闇魔法の関わりを疑っていたことが、海の都のミコトの事件で確信に変わったのだろう。


 いつもなら疑いを持った時点で調べだすあいつが躊躇した気持ちもわからないではないけれど――こっちのことなど気にせず好きに使えばいいのに。


 めんどくさい男だと思う。影は道具なのに。


「つぅーか、あのときよく咄嗟に対応できたな」


 ロザリー歌劇団の一件、闇魔法が関わっていたことはトップシークレットだ。50年前の至宝盗難事件以来の闇魔法の出現。知識として学んではいたけれど、実際に暗示にかかっている人を見たのは初めてのことで、あの場で誰も動けなかったところを、すぐに解除に動けたユキちゃんを――最年少魔導士の名は伊達じゃないなって見直したんだぜ。


「だって闇魔法の情報は解除の仕方しか漁っても漁っても出てこないんだもん。イメトレだけはバッチリだよ」


 当たり前のこと言ってんじゃないよ、って呆れた顔して返事をする小生意気な様子に少し気が抜けてくる。


 魔法に関する探究心は相変わらずあっぱれだ。


「せっかく闇魔法のことについて学べると思ったのに……これじゃあ骨折り損だよ」


「……これ一応、犯罪だって知ってる?」


「……それより知りたい気持ちが勝る」


 ――さっすが、エルモンテのご子息……


 今回のことがなければ、いつか自分で侵入して、捕まっていた未来が想像できる。こいつのストッパーになれる人はこの世のどこかにいませんかね。手遅れになる前にお願いします。


「そろそろ行くか……ここにないとしたら次はどこを当たればいいものか……」


「そもそも、シビス・マクラーレンはどこで闇魔法を学んだのかな……」


 無くなった至宝を探すだけだと思っていたのに――謎が深まっていく嫌な感じが漂う。誰が味方で誰が敵なのか――操られているのかいないのか――


「誘拐のときの街の混乱もさ、こんなときにこれ以上重なるの?ってぐらい悪いことがいっぱい起こって……あれも闇魔法? あ、この本も面白そう……」


「――ったく、もう帰るぞ」


 なんの成果も上げられなかったことは影としてプライドが許さねぇが、深入りしすぎてユキちゃんを危険に晒すわけにもいかない。まだ「ヤダ、まだ帰りたくない!」と駄々をこねるユキちゃんを促して出口へ向かう。


 あとはここと上の鍵を閉じて、帰るだけだ。


 ――キィッ


「――っつ!! 見回りか」


 階段を降りてくる足音が近づいてくる。入口から見えない位置に移動しなくては――


 蛍飴デューグリューを口に放り込んで、ユキちゃんに指で合図を送ると、緊張した顔でコクコク頷きながら、俺の後についてくる。


 見回りの動きを見計らいながら本棚の影から影へ。御丁寧に一列一列巡回する真面目な警備員サンらしい。俺一人ならどうってことないけど、慣れないユキちゃんを連れてってなると――くそっ、無駄に神経使っちまう。


 自分の呼吸の音すら、大きく聞こえるような緊張感は、遠ざかっていく足音がゼロになるまで抜けることはなかった。


 ――あぁ! 疲れたぁ!!


 今ので一気に肝が冷えた。手汗もすげぇ。


「危なかったぁ、俺らもさっさとずらかるぞ……」


「……わかった」


 抜き足、差し足、忍び足で禁書庫を出たその瞬間。


 ビービービー


 ――っつ!


 辺りに鳴り響いた警報音。バッと後ろを振り返ると、やっべっ!って顔をしたユキちゃんが慌てて懐のカバンから一冊の本を取り出す。


「ごめん、ニッキー! 一冊くらいバレないかな?って思って……」


「何やってんだ、このアホッ!!」


 もう! 強欲は紙に包んでポイってしなさいってお母さん言ったでしょうが!!

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