第104話 幕間:ライオン騎士のせわしない心―⑩

 首は、生物の急所だ。

 一番守らなくてはいけない場所なんだ。


 何言ってるんだ、馬鹿! ――そう言ってやりたくて口を開いても、言葉が出てこない。


 俺の目が、勝手に引き寄せられる。


 ミコトが触れてほしいと願うその場所は、白くて、細くて、柔らかくて――そしていいにおいがすることを、俺の頭が知っている。


 薄っすらと浮いている首筋、服の隙間から少しだけ覗いている鎖骨。


 ――まずい、一回離れよう。


 妙な興奮と、よからぬ妄想を頭から追い出して、急いで距離を取る。


 おい、なんでおれはたかが少年の首を触ることにこんなに戸惑って焦って、心臓をドキドキさせてるんだ。


 いや、違う。誰の首だって締めようと思うと緊張するはずだぞ。だからこれはミコト相手だからとかそういうことではない。断じて違う。


 くっそ――落ち着きたいから離れたのに、お前は……お前というやつは……!!


「なんでこう、突拍子もないんだ!! 」


「だって、俺明日までにどうにかしないとだもん! 一番いいと思わない? 」


「少しも思わない!! 」


「ねぇ、待ってよアル! 」


「……ついてくるな!! 」


 ――どう考えてもおかしいだろう!?


 トラウマになってしまってそれを克服したい、というお前の心意気は買ってやる。だが、だがな――その結論の前段階でもっといろいろあるだろう!?


 焦って今は頭が働かなさ過ぎて、咄嗟には思いつかないけど、おそらくほかの方法はある。絶対にある!! だから、近づいてくんじゃねぇ。お願いだから、一回冷静にさせろ!!


 どこの世界線に、自ら首を絞められたいと望む少年がいるというんだ。自分の言っている言葉の意味をこいつは理解しているのだろうか。


 ――クスッ


 そのかすかな音に足が止まる。


 久しぶりに聞いたミコトの笑い声。何がそんなに面白いのか全くわからないが――柔らかく笑ったその顔に、胸がギューッと締め付けられた。


「ねぇ、アル――」


 いつもより少し低く、小さく――甘さを孕んだその声は、脳みそを痺れさせる。


 ミコトの手が伸びてきて俺に触れる。その手を振り払おうと思えば簡単にできるはずなのに、金縛りにあったかのように指先一本も動かすことが出来ない。


 ミコトの指が、俺の手の平を味わうかのようにゆっくりなぞる。触れる触れないかくらいの力加減に、背筋にゾクゾクとしたものが駆け上がる。


 俺の目を真っすぐに見つめたその瞳は、動作も相まってかいつもよりもグッと大人っぽく見えて、思わず息をのむ。俺の指と指の間に、ミコトの細い指を絡められて、逃がさないよ、と言わんばかりにそっと握られる。


「最後に触られたのが、あいつの手って俺凄く嫌なんだけど――アルの手で上書きしてくれない? 」


「……っぐぅ…………」


 ――それは俺も嫌だ。


 そう思わされた時点で、俺の完全敗北が決定した。





 それにしてもこいつは……こんな誘い方をどこで覚えてきやがった。





 ♢♢♢



「……で? なんでここでやるんだ! 」


「え? その方がしやすいかな? と思って……。」


 真面目な顔でそう返されると反応に困る。


 ――オーケイ。落ち着け、俺。


 ベッドの上だろうとどこであろうと、やることは変わらん。


 ミコトが満足するまで首を絞める。


 ただ、それだけ。そう、それだけだ。


 くれぐれも、余計なことは考えるな。


 ミコトのトラウマ克服のお手伝いのための行為だ。言わば人助けだ。


 ――人助けの首絞めってなんだぁっ!!


 全力でツッコんでくる心の声は努めて無視する。


 ミコトからの頼みだ。なんとしても遂行させなくてはいけない。


 見ろ。こいつの目を。


 何の疑いもなさそうにこっちを真っすぐ見つめるその瞳を。


「上書き……してくれるんでしょう? 」


「……っぐぅ…………」


 ――やればいいんだろう、やれば!!


 大した力なんて込めたつもりはないのに、軽く押すだけでミコトは後ろに倒れてしまう。そのか弱さに、ゾワリとした感覚が駆け巡るのを必死で抑え込む。


「……本当にやるのか? 」


 ベッドに縫い留めて、逃げられないように上から覆いかぶさっているクセして、口から出るのは正反対の言葉。


「……いつでも来いやっ…………! 」


 場にそぐわない、間抜けな返答に力が抜けたらよかったのに、効果は全くない。


 これは別に疾しいことじゃない。


 ベッドの上で、首を絞める――言葉的にも絵面的にもアウトだが、ミコトたっての希望である。俺とミコトは男同士だし、何の問題もない。よってセーフだ……セーフか!? セーフだセーフ! そう思い込め! 余計なことは考えるな!!




 何の問題もないというのに……なんで……腕の中のミコトを見下ろすとこんなに心がざわつくんだろう。


 腹の底で熱く滾るように、熱が渦巻くんだろう。


 俺の手の震えはなんだ。


 緊張からか?


 それとも、見てみないフリをしている、ジリジリと身の内を焦がすような、俺の中で燻る欲を――無理やり抑え込んでいるからか。




「辛くなったら教えろ……は無理か。じゃあ、左手を上げろ。」


 実際に嫌がられたとき、俺はやめることは出来るのか――そんな問いは答えを出す前に一瞬で消え去っていく。


 形だけの気遣いの言葉を掛ける、こんなずるい自分は知らなかった。


 ――くっそ。やわらけぇ……


 片手だけでも、痛めつけようと思えば簡単に痛めつけられる。だからもうやめとけ、って思うのに反対の手も勝手に伸びてくる。


 獣の子は全幅の信頼をもって、その首を委ねる――ミコトのも、きっとそれだ。思い出せ、さっきの目を。


 護衛騎士として、お願いされたんだ。


 信頼されているから任された、それに応えないと。


 決して、流されるな。




 思いのままにぶつけてしまうと簡単に壊れてしまうことを、手の平で感じる柔らかさが嫌でも教えてくれる。


 ――力なんて籠められるわけねぇだろう。


 他人の急所をこのように触れることなんて初めてで、さっきから心臓が跳ねっぱなしだ。


 ――おい、ミコト。お前は何もわかっていないだろう。


 俺に全てを任せるかのように、ベッドに身を横たわらせて、目をつぶって――無防備に、他人に大事なところを明け渡してんじゃねぇよ。




 俺の、力加減一つで、ミコトを好きなように出来る。




 触れた瞬間にわかった――絶対的な力の差。

 ミコトがどうあがいても、易々とこのまま貪り食える――俺が本気を出せば。


 二人きりのこの空間がイケないのか、ベッドの上というステージがイケないのか、それともミコトから香る酩酊するようなにおいがイケないのか――溢れ出てくる暴力的な感情を必死で押し殺す。


 なんでこんなにも、全身の血が逆流しているように熱くなっている。落ち着けよ、アルフレッド・カルバン――相手は少年だ。


 伸びしろがある、育ち盛りの少年で、怖いもの知らずに無邪気に突っ込んでいく危うさがあって、目を離すとどんなことしでかすかわからない、お人好しの無邪気な少年だ。


 傷つけちゃいけない。


 ひどいことはしたくないんだ。


 なのに、どうして……




 このままお前を俺の手でめちゃめちゃにしたいと願ってしまう俺がいるんだろう。




 ミコトの潤んだ視線が俺を貫く。

 苦しいのか、顔を赤くして――その瞳いっぱいに俺を映す。


 ミコトが吐き出す熱い吐息に酔う。

 身じろいだときのシーツの音が耳からおかしくさせる。


 俺の全ての神経がミコトに集中する。




 あぁ、熱い――内側に燻る熱をこのまま解放してしまったら、お前はどんな顔をする。


 頭も、身体も、心まで全て――俺でいっぱいにしてくれるか?

 あのクソ野郎にされたこと全て忘れてくれるのか?




 あの野郎は――こんなに脆くて、弱いところを、好き勝手に蹂躙したのかよ。


 勝手に触ってんじゃねぇよ。


 簡単に触らせてんじゃねぇよ。


 乱暴に痕つけてんじゃぇねよ。


 無様に痕つけられてんじゃねぇよ。



 このまま力を込めたら、俺をこいつに刻むことが出来るのだろうか。


 あぁ、でも足りないなぁ。


 手形なんてもんじゃ足りない。


 もっと、鋭く。

 もっと、深く。


 身体の奥まで――


 俺のものだって誰が見てもわかるように――



 ――――グルゥッ



 耳慣れたその音がどこから聞こえてきたものか、湯だった頭では一瞬わからなくて――だが気づいた瞬間に、サッと頭が冷えた。


 俺は今、何をしようとしていた!?


 ミコトに、少年相手に――


「アルっ!? 」


 驚いたミコトの声に一気に頭が回りだす。


「いや、ちょっと待て! これはその、違うんだ。誤解だ!! 」


 さっきよりも更に激しく、心臓が加速している。早く落ち着いてさっさと仕舞いたいのに、見られたことやいろんな動揺が重なって、コントロールがうまくいかない。


「アル……よく見せて? 」


 止める前にその場所を撫でられ身体がビクつく。必然的に近づいた距離、敏感な耳を優しい手つきで撫でられ、思わず漏れそうになった声を必死で噛み殺す。


 そこは駄目だ。なんでこう、的確にツボを押さえて触ってくる。


 引きはがしたいのに身体にうまく力が入らない。


 くっそ、鳴き声を抑えるだけで精一杯だ。





「アル、これはどうしたの!? 」


「……知るか。わからん。」


「わからんって……何か理由があるんでしょう? 」


「…………ない。」


 ――言えるわけがない。


「嘘つき……! ねぇなんで? いきなりケモ耳? 」


「さぁな。知らん! …………もういいだろう。」


 恥ずかしさと気持ちよさと、少年相手にこのような醜態をさらけ出している自分が信じられなくて、少々乱暴にミコトを引きはがす。


「ねぇアル、しっぽは? 」


「うおっ! いきなり触るなっ!! 」


 引きはがしたというのにめげずに抱き着かれ――いつもより敏感になっている鼻にダイレクトにミコトのにおいが直撃して防御が遅れた。身体に沿わせるように手を回したものだから、わき腹から腰までの弱い部分をなぞられ、出そうになった情けない声を抑える。


「アル……これ? 」


「……っぅ…………」


 そうこうしているうちに、ミコトに見つけられたしっぽ――おい、根元を触るな! その部分は本当にヤバいから。ゾクゾクとした快感を腹緊に力を入れて耐える。


「見たいんだけど……いい? 」


 ゆっくり触りながら、そうやって上目づかいでお願いされたら――断れるヤツはいないと思う。


 半ば放心状態で、ご希望に応えるべく引っ張り出した。


 ――あぁ、俺はなんだってこんなことを。


 少年に。友人の少年相手に……


「…………かわいいっ! 」


 ――うるせぇ!!


 こっちの気も知らないで、そんなに目をキラキラさせてんじゃねぇよ!!


「もう見るな……勘弁してくれ!! 」


「え、もっと見せてよ!! 」


「うるさい、寝ろ!! いい時間だ!! 」


「寝れないよぉぉぉ。かわいすぎるもん!! 」


 ――あぁ、クッソ。


 少年相手に俺はなんてことを考えてしまったんだ。


 鼻息荒く興奮しているミコトが腹立たしく見えてくるが――そうやって純粋に喜んでいるのもミコトが異世界人で、この意味を知らないからだということに感謝する。


「今日のことは忘れて――――寝ろ。」


 これ以上余計なことをしでかさないように、ミコトにこれ以上この姿を見せないように、手を伸ばして腕の中に抱き込む。


 しばらくモゾモゾ反論していたミコトが眠りに落ちてからもずっと、脈が速いのは止まらない。



 俺たち獣人は、大人になると自然と獣化の姿を隠す――身体の奥底に眠る本能を隠すために。


 引きずり出された。


 ミコトに、ミコトの姿に、においに――その全てに、持っていかれた。


 手の跡なんかじゃまどろっこしい。その柔肌に牙を立て、荒々しく、残酷に、俺だけの所有印をその首に――


 舌で口内をまさぐると、明らかにヒトの姿の時より鋭い牙を感じる。


 ――馬鹿か、俺は。


 獣化の姿に触れることが出来るのは運命の番いだけ、これは合っているようで間違っている。


 正しくは、番いの前だと理性が、ヒトの姿が――保てず揺らぐ。


 ヒトにはない野生の強さは、同時に心をさらけ出す脆さを併せ持つ。


 嗅覚に、聴覚に、触覚に、全ての感覚が鋭敏になる。心の感じるままに、周りの都合なんてお構いなしに、身体が動く。周囲のすべて、一つ一つに必要以上に警戒してしまう獣の姿を、むやみやたらに触らせるわけねぇだろう。


 自らが触りたいと思う者、自らを触ってほしいと願う者――その相手が運命の番い。


 番いの前だと、本能が高まって、獣化しやすい。頭から足先まですべて貪り食いたい――その思いのまま傷つけてしまわぬよう、俺みたいな肉食獣は特に、コントロールに気を配る。


 完璧に抑え込んでいた獣の性――こんな簡単に剥がされるようなもんだったか?


 少年相手に、俺はどうかしている。


 こんなの間違いだ。


 ありえない。


 こんなに、コントロールが効かなくなったのは生まれて初めてだ。


 焦りと動揺を抑え込みたくて、回した腕に力が籠る。ダンジョンのときの冷たい床と違って、ベッドの中の温かい微睡は、より一層、ミコトの甘さを引き立てる。


 鼓動が高まる。身体の芯が疼く。


「何やってんだよ、俺は……。」


 ポツリと口にした言葉は、誰に聞かれることなく宙に消えていく。


 腕の中のぬくもりに、そっと視線を下ろす。俺の姿が見えないように抱き込んだこの角度だと俺からもミコトの顔は見えなくて、その頭頂部に吸い寄せられるように額を近づけた。


 ――護ると決めただろう。


 くだらないことで、自分自身を見失ってんじゃねぇよ。


 全て気のせいだ。


 噛み痕を、その首に残したいと思ったことも、俺を触るこいつの手が、意外と悪くねぇなと思ったことも。





 もっと俺に染まりきってしまえばいいと思ったことも。





 俺は、護衛騎士。


 こいつは対象者。


 番いでも何でもねぇ、ただの友人。


 それを忘れるな――


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