第100話 幕間:ライオン騎士のせわしない心―⑥


 空気を求めて手を伸ばしたのに、手を伸ばせば伸ばすほど、もがけばもがくほど、どんどん深く沈んでいったあの日の記憶が蘇ってきて、心臓が嫌な音を立てる。

 透明なハルちゃんの外に渦巻く濁流を想像しただけで息が苦しくなる。現実を見たくなくて、目を閉じながらこの苦行を耐えていた。


「……はぁっ…………」


 ――ピクッ


 ミコトが漏らした吐息がくすぐったくて、息がかかるような近距離にいることを思い出した。

 あまりの事態に意識していなかったが、そういえばミコトをずっと膝の上において抱きしめていた。これではミコトが体のいいぬいぐるみみたいじゃないか――もうガキでもないのにぬいぐるみに縋り付くなんて、格好悪すぎて罰が悪い。

 ジークのふざけた悪ノリに付き合わされて、ミコトも迷惑しているだろう。いきなり水の中に突き落とされて、もしかしたら怖がっているかもしれない。俺の胸の上に、二人の間に置かれたあいつの手は、ずっと力が入ってこわばっていて、ミコトの緊張を表しているようだ。


 ――俺の方が大人なんだから、ちゃんと守ってあげないと。


 苦手だなんだと逃げ回っているわけにはいかない。今の俺には、こいつを守るという使命があるのだから。出来るだけ周りを見ないように、ミコトの方を、下を向いてそっと目を開けた。


 腕の中にいるのは、髪の毛の綺麗な、白いワンピースの似合う可愛らしい女の子。下を向いていて表情はわからないけれど、サラサラの髪の間からチラリと見えた耳は赤く染まっている。


 ――ミコトのはずなのに、ミコトじゃないみたいだ。


 その姿を視界にいれた瞬間、そんな不思議なことを思ってしまった。


「アルっ……」


 ――っ!?!?


 潤んだ瞳で、顔を赤くして、熱っぽい声で俺の名前を呼びながら、ミコトが顔を上げてきて、戸惑っている俺にとどめを刺す。

 ミコトの声に、浮かべた表情に、魔法にかけられたみたいに頭が痺れて真っ白になる。息をする暇さえ与えないくらい、心臓が大きく脈を打つ。


「……はぁっ…………」


 今のはどっちの呼吸だ。馬鹿になってクラクラする頭では判断できない。あいつの背中に回していた手が、その柔らかさを堪能するかのように身体をなぞり上げていく。


「……んっ! 」


 声をあげながら身をよじるミコト。その様子に心奪われると同時に湧き上がる感情。


 ――すげぇかわいい。


 あれ? こいつってこんな感じだっけ? 季節が変わるくらいの時間を一緒に過ごしていたはずなのに、こんな顔知らねぇ。見たことねぇ。男に対する感情としておかしいのに、かわいいと思えて仕方がない自分がいる。


 ――もっと。もっとだ。


 俺の知らないミコトをもっと知りたい。誰も、まだ気が付いていない今のうちに……


 このまま手を伸ばすと知ることが出来る気がする。根拠はねぇけどそんな予感がして、自然にアイツを引き寄せていた。

 やたらとうるせぇ心臓の音と、沸き立った身体中の血、ハルちゃんの中の密閉された狭い空間で、ミコト自身の熱により高められていつもより濃厚に香るにおいに、まともに考えることが出来ない。


 ――そんな目で俺を見るんじゃねぇ。


 こんなに密着した、蕩けそうな雰囲気の中では、勘違いしそうになる。


 ミコトも、俺と同じくらい、興奮してくれてんじゃないかって。


 もしそうだとしたら、すげぇ嬉しいなって。


 その時、辺りが一瞬暗くなったことで、吹き飛ばされていた理性が戻ってきてフワフワしていた頭が回りだす。


 ――俺は今、何をしようとしていた……少年相手に何を考えていた!!


 さっきまでの自分自身が、今、ブーメランとなって帰ってきた。どこのお花畑にいたんだ俺は!! 呆然となって、腕の力を緩めたことで、ミコトとの間に距離が生まれた。その空いた空間でミコトは身をよじり、そして感嘆の声を上げる。


「うわぁ! カメだ!! 」


 そのワクワクした声につられて、見ないようにしていた外の世界に目を向けてしまった。


「アル~見てみて!! すごく綺麗!! 」


 ――すげぇ……


 俺の知らない世界が広がっていて、思わず目を見張った。

 俺の知っているサンゴは白くて固くて石みたいなのに、生きているサンゴは桃色、橙色、黄色や緑色など、色鮮やかに花開いて咲き誇っている。どれも違う形で、同じ色に見えても少し違っていて、一つ一つに目を奪われる。そのサンゴの周りには、個性的な魚たちが気の向くままに泳いでいる。サンゴ礁やイソギンチャクの隙間から出たり入ったり、かわいい顔を覗かせる小さな魚もいれば、ふてぶてしい顔してゆっくり泳ぐデカい魚もいて、こんなにバラバラなのに、なぜかまとまっているように見える不思議な景色に圧倒された。


「うわぁ、すごい……こんなの初めて見た! アル、反対側を向いてもいい? 」


 そうか、この体勢だと確かにミコトは見づらいかもしれない。こんな奇跡みたいな絶景は見逃しちゃ駄目だ。もったいない。


「そぉっと動くんだぞ……」


「フフフッ、わかったよ。」


 ハルちゃんが割れないように気を遣ってゆっくりと向きを変えるミコトを両手で支えながら、目の前に広がる景色に心奪われる。地上とは違う時が流れる海底の世界。どこまでも見通せる青く澄んだ中に、海面からの白い光がキラキラ挿し込んで美しい。水が苦手な俺が、海の中でこんなに穏やかに過ごすことができるとは思わなかった。


「アル、もう怖くないの? 」


 優しい声に、我に返る。あんなに緊張していたのに、 目の前の絶景と膝の上の温もりに癒されて、いつのまにか肩の力が抜けていた。


「大丈夫みたいだな。まさか海の中をこんな風に楽しめる日が来るとは思わなかった。」


 やべぇ、すっげぇ楽しい。自分には無理だと思っていたことが、こんな簡単に乗り越えられるなんて――


 一人だと、目を開けることも出来なかっただろう。ミコトに気を取られていて、水の中にいたことも、怖いなんて気持ちも、きれいさっぱり消し飛んでいたから、こんな素敵なものを見ることが出来た。


 ――ジークが使った“お守り”って言葉、あながち間違っちゃあいねぇな。


 ジークは無意識にその言葉を使っただろうし、ミコトは気にも留めていないだろう。気づいているのは俺だけだ。でもそれが何だか妙に嬉しい。膝の上のお守りの存在を、腕の中で確認しながら、思わず笑ってしまった。


「……っ……そっか。これで海底都市でもなんとかなりそうだね。」


 ――あぁ、なんとかなりそうだ。


 ミコトと一緒に、ハルちゃんの中から出なければ俺は無敵だ。こいつだけは誰にも渡さねぇ。


「アル――その腕は? 」


「あぁ……さっきやられたんだろうな……」


 ミコトに言われて腕に視線を落とすと、腕が赤くなっているのがわかった。大方、さっきの浜辺で暴れたときに誰かにつけられたんだろう。騎士にとっては日常茶飯事のことだから別に気にしなくても――


「痛そう――」


 同情の声とともに添えられた手。その手が柔らかい光を放って、患部を癒していく。なんでお前の方が、痛がっているみたいな声出すんだよ。


 その声に、一生懸命魔法を使う姿に、言いだそうとしていた言葉が止まった。光魔法で治療されることはこれまでに何度もあったけど、ミコトの魔法は心まであたたかくなるような気がする。


「助かった。闘技大会前に余計な怪我をしたくないしな。」


 普段なら放っておくような怪我も、こいつが癒してくれるなら悪くねぇ。治療が済んだ腕を曲げ伸ばしして調子を確認する。あと10回くらいフェイをぶっ倒せそうだな。


「――アル、頑張ってね。俺、知らない人と海底都市行くの嫌だよ。」


 心配の色をにじませた顔で、こちらを覗き込まれる。他のヤツと海底都市――そんなんさせるわけねぇだろう。


「おう、任せとけ。」


 茶化すように頭を撫でた。サラサラの真っ直ぐな髪は見ていて楽しいが、どうせ触るのならヅラじゃなくてこいつの、少し癖のあるフワフワした髪に直接触れたかったなぁ――その気持ちがにじみ出てしまったのか、力を入れすぎてグジャグジャになってしまった。


「やめろ、髪が乱れる!! 」


 頬を膨らませて、ミコトが抗議をしてきた。俺にだけ向けられたその表情に、なんだか愉快な気持ちになってくる。


「男だろう、そんな小さいこと気にするな。」


「なんだと~! 」


 毎朝鏡とにらめっこしているのを知っているから、少しくらい跳ねていたって気にしないのに、髪の毛を気にするミコトはまるで女子みたいだなぁと思う。

 寝グセがついているコイツも中々にいいと思う俺は、甘やかしすぎだろうか。

 ミコトが動くたびに、触角みたいにピョコピョコ揺れる寝ぐせは非常にそそられて、いつか捕まえてみたい――これは言ったら怒られそうだな。


「俺、決めた~。明日は1日、光魔法の練習をしよ! アルが怪我してもいいように! 」


「そいつは頼もしい……」


「なんで笑ってるのさ……」


「いや、別に……」


 やる気満々で宣言した様子が、あまりにもかわいくて、思わず笑いそうになるのを必死で堪えるが、揺れが伝わったみたいだ。距離が近いと、隠したいことまで知られてしまって困るな。


 ――俺のために、頑張るって言われてんだぞ。そんなの嬉しすぎるに決まってんだろうが。


 幸いなことに、湧き上がってきたこの気持ちまでは、ミコトに知られていない。このあたたかさを笑いの中に隠して、もう一度回した腕に力を込めた。


 その時、海底と同じ時間の流れで動いていたハルちゃんが、地上のスピードで動き出した。


「もう終わりみたいだね。」


「そうだな……」


 ――もう日常に戻る時間か。


 ミコトと二人、夢みたいな非日常が終わるのが少し、いやかなり残念だ。 上に戻ったら、闘技大会の準備をして、おとりになっているミコトの安否にやきもきして――


 ――そういえばジークからの指令があったな。


 視線を下ろすと、長い髪の間から覗く白いうなじが目に入り、海に沈む前に、チラリと見えたジークのいい笑顔を思い出す。あの野郎、ここまで見越していやがったな。

 もう完璧なので、その必要はないけれど……ここまでお膳立てされたのだから、ありがたく頂戴するとしよう。


 誘われるように、そのうまそうな首筋に鼻を寄せた。


「ああああアルさんっ!? 何してるんですかっ!? 」


「……嗅いでる。」


「――何でっ!? 」


 ――何でと言われても、本当のことは教えられないしなぁ。


 驚いているらしいミコトにはかわいそうだが、どう説明すればいいのかわからないのでとりあえず黙って嗅ぐ。


 ――あぁ、やっぱりすげぇいいにおいだ。


 抱きしめたり、近づいたりしたときに、自然に鼻に入ってくる時と違って、自分から鼻を寄せて嗅ぎに行くのは堪んないなぁ。なんかすげぇ満たされる。嗅げば嗅ぐほど馬鹿になっていく感じがいい。夢中になる。

 腕の中で、顔だけじゃなくて耳や首元まで真っ赤にして、身をよじるミコト。そんなに暴れてハルちゃんに穴があいたらどうするんだ。


「暴れるな、危ないだろう。これは――命令だ。おとなしく嗅がれてろ。」


 逃げ出せないように腕に力を入れて押さえつけながら、耳元でそう伝えると、フルリと震えたミコトから、ますますかぐわしい香りが立ち上っていくのがわかって、さらに大きく息を吸い込んだ。


 暴れたことで、体温が上がったのか? 今まで嗅いだのと全然違う。脳を直接刺激されるようなその香りを、目一杯堪能する。


 そう。ジークの命令なんだ。だから、俺は好き勝手に嗅ぎまわってもいいんだ。今まではちょっと罪悪感があったけど、今回は大義名分があるので――欲望のままに嗅ぎまくる。首より耳の後ろの方がにおいが濃いことがわかったので、重点的に嗅ぐ。


 嫌がって恥ずかしがっているのを無理矢理、ってのも堪らん。ぶっ飛んだ頭の隅でそんなことを思った。ミコトは抵抗しているのに、俺の好きなままにされている感じがゾクゾクする。そうだ、そのまま俺のことで頭いっぱいになれ。好きな子を苛めるヤツの心境ってこんな感じか? なるほど、これはやめたくてもやめられなくて、エスカレートしてしまう気持ちもわかる。


 そんな甘美な時間も、周りの世界が青から橙に変わっていくことで、おしまいなことを悟った。こんなことなら、もっと最初からしておけばよかった。出そうになる舌打ちを我慢する。最後に大きく深呼吸して腹いっぱいに吸い込んで、腕の力を緩めた。


 海面に顔を出したハルちゃんから見えた砂浜には、人っ子一人見当たらない。あと一回くらい……と頭をよぎった悪い考えを抑え込んで、腕の中のミコトに視線を落とす。


 いつの間にか抵抗を諦めて大人しくなっていたミコトは、俺の視線に気づいたのか、閉じていた目をゆっくり開いた。


 ――おい、なんだその顔は。


 少し開いた濡れた唇。涙目で潤んだ瞳。リンゴみたいに真っ赤になった頬。乱れた髪。力を抜いてクタリと俺に預けられた身体。その全てに一瞬で心を鷲掴みにされて、慌てて目を逸らした。


 砂浜についたハルちゃんが、俺ら二人を置いてプヨンと抜け出した。砂の上で後ろから抱きかかえるように座る俺たち。傍から見れば、カップルが夕陽を眺めているようにしか見えねぇんじゃないか。


 ――いや、待て。カップルってなんだ。


 そう思った瞬間、急速に胸が高鳴る。ミコトは男だぞ。こんな格好してるけど、れっきとした男だぞ。何かの間違いが起こる前に、急いで帰らなくては。


「立てるか――」


 そう尋ねると、黙って頷いたミコトは力なく立ち上がる。おぼつかない足取りで歩き出したミコトの後を追って俺も腰を上げた。


 触らなくてもわかるくらい、耳が熱いのは夕陽のせいで、呼吸が苦しいくらい心臓が脈打っているのは酸欠のせいだ。


 そして、ミコトをめちゃくちゃかわいいと思ってしまうのは、夏の魔法のせいだ。


 かわいい、その恰好似合ってる、男であるはずのミコトにそのような考えを抱いてしまうことに、俺はこんなにも戸惑っているのに、何も考えずにそう素直に伝えられるジークやフェイが羨ましく思えた。


 ♢♢♢


「――なぁ、アル。ちょっといいか……」


 横になるとすぐ寝るタイプのミコトが完全に夢の世界へ飛び立っていった時間、俺もそろそろ寝ようかと準備していたらニッキーに声を掛けられた。


 窓の外から。


「……別に構わないが、なんで窓から入ってくる。」


「あんま知られたくないんだよ。少し外、出ようぜ。」


 窓枠に腰掛けたニッキーにクイッと親指で外の方を指し示しながら誘われる。俺も窓から出ろってか? 


 俺の靴まで準備してくる用意周到さはさすがだと思う。そのまま風魔法で音もなく屋根に上登ったニッキーの後を追って、窓枠に手をかける。風魔法のない俺は、腕力とジャンプの勢いで屋根まで行くしかない。


「風魔法ってやっぱりカッコいいな。身軽で羨ましい。」


 上で待っていたニッキーにそう声をかけると、目を丸くしたあとに視線を逸らされた。


「俺は、アルたち獣人の方が羨ましいけどな。自分の純粋な力だけで――欲しいものを手に入れられる。」


 その落とされた声に違和感を覚えるが、俺が口を開くよりも先にニッキーの方が早かった。


「そんなことよりも! なんか、若、変だと思わないか? 」


「今日の昼のあれか……? 」


 壁を作ったように、踏み込ませなかったジークの冷笑を思い浮かべる。


「無茶な作戦はこれまでもいっぱい立ててきたけど、いつもは違うんだよ。ちゃんと周りの意見を聞いてから、吟味して立てていくんだよ。あいつのスタイルは。あんな風にぶった切ったのは初めて見た――。」


 あのジークには確かに心がざわついた。うまく言葉に出来なかった違和感を、付き合いの長いニッキーの方が感じ取ったのだろう。


「たぶん、何か隠して、抱え込んでいるんだと思うんだよ……」


「ジークが何を隠すんだよ。」


「それがわからないから――アルに聞いて欲しくってさ。」


「はぁ!? なんで俺が……」


 こういうのはお前の方が適任だろう? ずっとジークと一緒にいたんだし、俺より先に気づいているんだから。


「ちょっと俺からじゃマズいからさ……頼むよ!アル!! 」


「おい、待て……何で俺が……」


 言いかける前にニッキーは俺の肩を叩いて軽やかに戻っていった。勝手な奴め。


 ――自分で気づいてるくせに、何で俺に押し付けてくるんだ。


 面倒くせぇことになってきやがった。こういう聞きだす系の役割は俺じゃなくてフェイ担当なんだけどなぁ。ガシガシ頭を掻きながら部屋に戻って、ベッドに横になる。


 ジークは腹に一物があるし、ニッキーは何かに遠慮しているし、あの主従関係はどうなっていやがる。チームの不和はミコトの安全に関わるため、早急に対処しなくてはならないが――俺からよりもニッキーから聞いた方が、ジークは答えそうな気がするんだよなぁ。


 浮かべた疑問は睡魔に押し流され、そのまま眠りについた。

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