重なる日常と「非」日常

 初春の朝日が、差し込む浴場。

 ー…ジャァァァァァァ…。

 歌音は、程よく熱したシャワーでその肢体から湧き出た汗を流していた。

 百五十センチ程の身長にも関わらず、寝巻きからは汗で張り付くまで分からない程の、豊かで、かつ滑らかな肢体が露わになっていた。無毛で、傷一つない肌に、腕と脚、腰は細く、ウエストに括れが出来ている。ヒップも後ろに突き出るほど大変立派で、落ちた水滴は見事な曲線をツツーと伝ってポトリと足元に落ちてゆく。

 そして何より…。

 「ん…」

 前方からの重みが気になり、歌音は自らの乳房を下から持ち上げた。

 「ふふっ、また、おっきくなっちゃったかな…」

 その膨らみは手のひらに収まらない位に実っており、持ち上げようとする度に、手からこぼれる。その小柄な身長に反して大きく育った胸は、彼女自身の悩みの種であり、己の自己主張を示す象徴でもあり、最高の遊具でもあった。

 歌音は、自らの乳房を見て、少し困りながらも微笑んだ。

 …だが、いつまでもそうして自分の体に見惚れているわけにもいかなかった。

 「うっ…はぁっ…はぁっ…」

 鏡に映る全裸の自分を見る度に、息遣いが荒くなる。顔が蒼白に染まる。瞳孔が開く。体もよろめく。その脳裏に浮かぶのは、あの夢に出てくる全裸の子供たち。

 「早く、早く出なきゃ…服、着なくちゃ…っ!」

 いつまでもこうやって裸体を晒していたら、あの子供たちのように狂い出すのではないか、毎日四六時中そう感じていた。実際、夢の中の子供たちは、皆恐怖で怯えていたのだろう、何処か異常だった。そうでなければ、檻の中で平気な顔で失禁したり出来ないし、増してや…とにかく、あんな所に閉じ込められて、よく平然とこういう事が出来るものだ。自分では考えられない。

 もしや、あの夢の見すぎで自分もあんな風になってしまうのだろうか?

 「これ以上になっちゃったら、ぼく…狂っちゃうよぉ…怖いよぉ…」

 歌音は恐怖のあまり、涙を浮かべる。だが体は止まらず、敏感な所に手を伸ばしはじめる。いけないと解っているのに、体が言うことを聞かない。念じても、止まらない。

もう無理だ。

 そう観念した、その時だった。


 -姉さん!


 ガラス戸の向こうから少女の声が響く。歌音はその声を聞き、ハッと我に返る。

 「…ううん、しっかりしなきゃ!」

 でなければ、朝起きた時に折角己にかけた暗示も無駄になる。

 毎日笑って暮らせないし、みんな暗い気持ちになる。

 そしてまた、自殺願望が浮き彫りになる。

そう思った歌音は、呪縛から体を解放してすぐに涙を拭うと、深く深呼吸し、勢いよく両頬をパンパンと平手打ちし、心身に気合を入れる。

 「…よし!」

 気合が入り、ようやく笑顔になった歌音は、シャワーのお湯を止めると直ぐに浴場から飛び出す。


 「姉さん、お早う」

 眼前には、自分とほぼ同じ背丈の、赤髪の少女が、長身で、流麗な顔立ちをした、白髪の、黒スーツの人物を伴って立っていた。

 少女は微笑んではいるが、その眼は笑っていない。スーツの人物に至っては、笑ってすらおらず、無表情を貫いている。

 「遅い」と言わんばかりに、少女から発せられるオーラは非常に殺風景なもので、とにかく、空気が重く感じられた。

 …が、歌音は表情一つ変えず…。

 「あっ、おはようかなちゃん。あと、ウロコさんも」

 「…っ!」

 歌音の発言に、スーツの人物は大きく反応する。

 「誰がウロコだ…自分の名は緋壱憐だ、ひ・い・ち・れ・ん!何度も言わすな!」

 スーツの人物=緋壱憐ひいち れんは思わず、声を荒げ歌音に対し怒鳴りだす。その発せられた声は低くも、かつカン高かった。

 歌音に詰め寄ろうとする憐を、少女が制す。

 「憐さん、姉さんに乱暴をしないでもらえます?」

 「でっ…ですが…」

 「ですがも何もございません。それに、朝っぱらから大声を出してはなりませんよ。近所迷惑ですから」

 「は、はい…奏ちゃま…」

少女=聖鳴奏ひじりな かなでに制され、憐は下がる。

 「姉さん困るわ、いくら春休みの最中だからといっても、今日が最終日よ。もうそろそろしっかりしてくれないと」

 「あはは、そうだったね、ごめん…」

 「全くもう…まあ、姉さんらしいといえばらしいけど」

 姉妹の談話をよそに、憐がゴホンと咳き込む。

 「あ~、談笑の途中水を注すようで申し訳ないが」

 「ん?」

 「はい?」

 憐は、歌音を指差す。

 「ねえ、どしてウロコさんはミーを指差すの?」

 「だから憐と呼べ。それより、自分の姿を見ろ」

 「すが…た?」

 歌音は憐に言われるがままに、自分の身体を見る。

 まだ、浴槽から上がったばかりの全裸のままだった。

 「…あ、通りでちょっと寒いなって思ってたら…はぁ、はぁっ…」

 自分の生まれたばかりの姿を見て、またも息を荒くする歌音。一分もしない内に、その場に倒れこんでしまった。

 「ちょっ、ちょっと姉さん!」

 奏が、フックに架かっていたバスタオルを手に取って歌音の傍に駆け寄り、地に伏す前にその肢体を受け止める。同時にバスタオルで歌音の身体をくるりと包む。

 「…あれ?み、ミー…」

 タオルの感触に触れたのか、歌音は正気に戻る。

 「よかった…憐さん、貴方また…!」

 「す、すみません、このままでは姉君が風邪を引かれるかと…」

 「言い訳は結構、私はここで姉さんを看てますから、憐さんは早くお着替えの準備を!早く!」

 「はっ、はい、かしこまりました!」

憐は奏に命じられ、大慌てで籠の中にあったシャツや下着、スカートを取り出す。

 「…それにしても」

 歌音の身体を抱える奏のまっさらな胸元に、ふかふかした感触が伝わる。そこに視線を向けると、大きな二つの膨らみが大迫力で迫ってくる。

 「姉さん…また育ってない?」

 「え、何が?」

 「…胸」

 「うん。何か重いなって思って持ち上げてみたら、また大きくなっちゃったみたい」

 「…なっ…⁉」

 それを聞いた憐が、歌音の服や下着を落とす。

 その顔は蒼白に染まる。

 「…ウロコさん?」

 「あらあら…ふふっ…」

 何が起きたのか分からず、キョトンとする姉と、呆れて頭をかしげながらも微笑む妹。         

 その後、歌音は真っ白に染まったまま動かなくなった憐をよそに衣服を身に纏い、奏に引っ張られて風呂場から去っていった。


 先ほどの寝巻きから一転、可憐ながらもカジュアルな服装に身を包んだ歌音は、奏に手を引っ張られながら、居間に足を踏み入れた。

 その眼前には洋風のテーブルの前で椅子に腰かけている二人の男女がいた。


 「おとーさーん、おかーさーん、おはよー」

 「ああ、おはよう歌音、奏」

 「おはよう、歌音ちゃん。奏ちゃん、朝ご飯出来てるわよ」

 その内の二人の男女…両親は笑顔で居間に入る姉妹を迎え入れた。

 白いカッターシャツを着た父はコーヒー片手に新聞を読み、母は家族のサラダを取り分けていた。

 『それでは、本日届いているニュースはこちらです』

 二人が見ている大型液晶デジタルテレビに流れているのは、報道番組。

 ニュースの一覧に並んでいる項目は、

 『残る元首相の死刑執行は』

 『愛禁法被害者のデモに数百人』 

 『エリアXでテロ再び X-RASEの犯行か』

 『形骸化する法律群の行方は』

 『全裸生活も 痣付きの子供また増加』

 『鳩の涙会長が怒りの会見』

 『鴉狩りか前狩り関与か 複数の男の変死体が』

 『神河区清掃員襲撃死者六十人に』

 -…ピッ。

 母がテレビのリモコンを操作し、電源を落とす。

 父も、連動するように新聞を畳む。

 「あれ、お母さんテレビ見ないの?お父さんも…」

 「…いいの、今日はお休み最後の日でしょ?楽しい気分で過ごさなきゃ」

 「そうだぞ。たまには何も気にせずに、気楽でいることも重要だそ~」

 歌音はあれ、何だか両親の様子がおかしい、と思いつつも、まあ、いいやと開き直り朝のディナーを確認する。

 「えーと、今日の朝ご飯はサラダと、ベーコンエッグと、コーンシリアルと、バナナヨーグルトか~、今日もおいし…あ、ヨダレが出てきちゃった」

 「もう、姉さんったらお行儀が悪いわ。けど、とても美味しそうね」

 「ははは、またヨダレか~、まあそうなるのも仕方ない、だっていつも母さんの料理は天下一品だからな~、僕の自慢だよ」

 「ま、三人ともうれしい事言ってくれるじゃない」

 「おかげで、ミーも料理が上手になったんだよ、お父さん」歌音がえっへんと威張る。

 「分かってる分かってる。母さんがいない時はよく味わってるからね~、そうだ、歌音、最近また料理の腕を上げたんじゃないか?」

 「えっ、そうかなぁ~、ミー実感ないなー」

 「私も、たまに姉さんのお料理を食べているけど、本当に美味しいわ。もう最高よ」

 「いつかは、お母さんも歌音ちゃんの手料理を存分に味わいたいわね」

 「じゃあ、また今度作ってあげるね」

 歌音と父の煽てに母がクスリと笑い、歌音の自慢に両親がウキウキし、奏もまた歌音の成長を称える。

 親子の楽しい団欒が、部屋中に広がってゆく…、

 …しかし。

 「…あれ?」

 歌音はテーブル周辺を見渡す。眼前にある椅子は、五脚。現在、居間にいるのは自分と奏、両親の四人のみ。

 「ウロコさん、まだ来そうに無いね」

 「ええ、じゃあ、いっそ私たちで憐さんの分の朝ご飯も食べちゃいましょう?残すのも勿体無いし」

 「うん、そだね。それじゃ…」

 「待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ‼」

 歌音たちが憐の分の朝食に手を伸ばそうとしたその時、憐がダッシュで居間に滑り込む。

 「あ、早かったねウロコさん」

 「早かったね、では無い!聖鳴歌音、貴様、人の食事に許しも無く手を伸ばそうなど…」

 「だって、ウロコさんがさんがミーたちと一緒に来なかったのがいけなかったんだよ?当然だよ」

 「何だ貴様、宛て付けのつもりか?」

 「憐さん、姉さんの言うとおりよ。それに、貴方の分の朝食も食べてしまおうかと提案したのも私。それでも姉さんを睨むの?」

 「し、しかしですね…」

 「そもそも、食べ物に対する思いからすれば、本来他者の為に作られた分も残さず食べる、これも一つの術よ。十分理に適うわ。私がここまで言っても、貴方に反論できて?」

 「うっ…」

 姉妹の言葉が正論だと察し、反論も出来ない憐は、そのまま席に座る。

 続いて、歌音も自分の席に座り、奏も自分の位置につく。

 「よし、全員揃ったな。では、お手てを合わせて…」

 「「「「「いただきます」」」」」

 両親と歌音、奏、憐の五人は眼前の洋食ランチに手を伸ばし、それを口に運んだ。

 「ん~、美味しいよ母さん、特にこのベーコンエッグが最高だよ~!」

 「あらお父さんたら、大袈裟ね」

 「…ん~おいひ~!」

 「こらこら歌音、口に物を入れたまま喋っちゃダメだろう」

 「そうよ姉さん、もう…十七になるのよ、しっかりしなさい」

 「ええい、あの姉程とまではいかぬまでも、もっと喰わねば…もっと喰わねば…)奥様、おかわりをっ!」

 五人は食べ物を次々と口に運び、風味を味わいながら、大きな声で談笑した。

 こうして朝の時間はあっという間に過ぎる。

 だが、そう長く楽しんでもいられない。

 「旦那様、もうそろそろん出勤のお時間では?」

 「ん?」

 憐に促された父が壁掛け時計に視線を向ける。

 現在、午前七時半。

 「うぉぉぉぉぉぉぉっ~、母さんの手料理に舌鼓を売っていたらこんな時間か~!」

父がまるで、箱から飛び出したビックリ箱の人形の様に、勢いよく立ち上がる。

 「お父さん、急がないと遅刻どころじゃないよ~!もしかしたらお給料減らされたり降格されたりクビになったり…あ~大変だよ~!」

 「あ~そうなれば私たちは家を追い出され、何も食べれず飲めず学べず…あれ~大変ですわ~」

 「おい、奏様はとにかく、そこの姉、それは少々大袈裟すぎるだろうよ…」

 「い~やいや緋壱君、こうも急がなきゃホントに…っといけない、じゃあ、行ってきまぁ~…」

 「お父さん、待って」

 「あ、ごめんごめん、急いでて忘れてたよ~。はい」

 「それじゃ、ん」

 チュッ。

 父を引き止めた母が、父の頬に口付けをする。

 父の顔がほころぶ。

 「…そのバカップル振りもいい加減にしてもらわないと、いつかお子様も呆れかえりますよ…」

 憐は額に手を当てながら、熱すぎる夫婦の光景に呆れる。

 「それに、ハイ。忘れていったら上司の人に怒られるわよ?」

 母は、父にビジネスバッグを手渡す。

 「ああ、本当にごめん。はは…僕はいつも慌てやすいからね…」

 「ホント、ちゃんとしてよ?」と、母は愛する夫の頬に口づけをする。

 「じゃ、母さん、歌音、奏、行ってくるよ。あと緋壱君、今日もよろしく頼むよ」

 「行ってらっしゃ~い!」

 「行ってらっしゃい」

 「行ってらっしゃいませ、旦那様」

 「毎日の事だけど、くれぐれも気をつけてね。お父さん」

 「分かってるって、僕は大丈夫だから。じゃ」

 父は、三人に手を振りながら居間から急ぎ足で飛び出していった。

 「それでは奏ちゃま、そろそろ部屋に戻りましょうか」

 「そうね。では姉さん、お先に」

 奏は憐に付き添われ、居間から出て行った。

 居間に残った母は家族が平らげた後の食器を台所で洗い流し、歌音は食べ終えたばかりながらも既に元気良く立ち、外出の支度を済ませていた。

 「あ、歌音ちゃん、ちょっと」

 「ん?」

 母が、出かけようとした歌音を引き止める。その手には、綺麗に畳まれた白いナプキンが握られていた。

 母は、そのナプキンで、歌音の顔についた調味料汚れを拭う。

 「ちゃんとお顔拭かなきゃ、みっともないでしょ?」

 「あはは…ごめん」

 自分の無頓着さに、笑いながら謝るしかない歌音。

 そんな日常の風景をよそに、ピンポーンと、インターホンの音が部屋に鳴り響く。

 「あら、誰か来たみたい。ちょっと見て来るわね」

 娘の顔を拭き終えた母が、玄関まで急ぎ足で歩いていく。

 数分も経たない内に、母が戻ってきた。

 「歌音ちゃん」

 「どしたの?」

 「お友達が来てるわよ、ほら、いらっしゃい」

 歌音は母に促され階段へ向かうと、そこには一人の、茶髪のショートカットの少女が歌音の前に姿を現す。その背丈は歌音よりも高い。Vネックシャツから覗く胸元にはあの、鳥型の痣があった。

 「ジャッジャーン、みんなのおね~ちゃん金石藍良本日も只今すいさぁ~ん!おっはよ~歌音」

 「あっ、あいちゃんおっはよ~!」

 歌音は、少女=金石藍良このいし あいらと元気にハイタッチした。

 「あれ、今日はみんなのお世話やバイトはいいの?」

 「大丈夫、今日は近所のオバチャン達がミニ遊園地まで連れて行って面倒見てくれるってさ。バイトも今日はシフト入ってないし、ちょっと遅くまで遊べるよ」

 藍良はどういう経緯があったのかは教えてくれないが、幼い頃に両親を亡くし、現在は孤児院で暮らしている。普段は、年長者(かつ唯一の高校生)として同じ孤児院で暮らす子供たちの世話とバイトに奮闘している。

 「本当は、一緒に行きたかったんでしょ?」

 「あ、うん、けどあたし一応高校生だしさ、うん、流石にあのミニアトラクションじゃ、ねぇ…」

 歌音は敢えてこれ以上、何も聞かなかった。自分も今の会話である程度は想像した。

ミニコースターやミニーメリーゴーランドで、子連れでもない、大きな人間が、大人に引率される小人の中に混ざってはしゃぐ姿を。しかももう、高校生の思春期の女の子が、一人で…

 …うん、コレは無いな。

 「…でも、歌音はこの成りだから、多分混ざっても問題な…」

 「ううん、それはやめとく」

 藍良の振りにキッパリと返答する歌音。

 その直後、藍良がまじまじと歌音の胸を見つめる。

「ん~、しっかし~、歌音さぁ、あたしの見立てからすればまたそのたわわなお乳がもっと大きくなったんじゃなぁ~い?」

 何処かのスケベ親父の如くニンマリと笑いながら両手をワキワキさせ、歌音のたわわに実った乳房に迫る。

 「む~、あいちゃんやめてっ!」

 バチィン!

 歌音が手をワキワキさせながら自分の胸に迫る藍良の頬を勢いよく平手打ちする。

 藍良は、その場に倒れる。しかしその表情は…まだ笑みが浮かんでいる。

 「ブフォッ…でもこれもあたしにとっちやご褒美さぁ…」

 「ぶ~、いっつもぼくに会ったらこ~なんだからあいちゃんは~!」

 藍良のセクハラ未遂にふくれ面の歌音を尻目に、動じぬ母が藍良に話しかける。

 「藍良ちゃん、今日も元気ねぇ」

 「いえいえ、おばさんも相も変わらずお綺麗で…」

 「うふふ、お世辞言ったって何にも出ないわよ?」

 「ん~や、お世辞じゃねぇですよぉ~、こんなにデカいお子さん二人もいらっしゃるのに、こうも若いんですからぁ~、一体どうやったらこうも立派に育つんですかねぇ~」

 「いえいえ、立派だなんて、うちの子はグローバルな世界で育って来たのよ、とても追いつけないわよ」

 「でもだからこそ誰彼構わずフレンドリーじゃぁ~ないっスかぁ~、特にお姉さんの方がぁ~。ほんっとうちの悪ガキにも教えてあげたい位…」

 つんつん。

 母との談笑に愛しむ藍良の肩を、歌音がつつく。

 「ん、どしたん歌音」藍良が歌音の方へ振り向く。

 「ねぇ、あいちゃん」

 「ん、何?」

 「…時間」

 「は、じ、時間…?」

 藍良は歌音に促されるようにして腕時計を確認する。と…、

 「ヌォォォォォッ!?もうこんな時間!?」

 「そうだよ、急がないとあの店のクレープ全部なくなっちゃうよぉ!」

 「みんな、朝っぱらから並んで買いにくるからなぁ~、この時間から並ばないと売り切れちゃうのよね~!」

 「早く、早くぅ~!」

 時間に間に合わせようと慌てて駆け出す二人。

 「じゃ、お母さん、そろそろ行くね!」

 「ではおばさん、ご機嫌よぉ~!」

 「あらあら、あわてん坊さんなんだから。行ってらっしゃい。遅くなる前に帰ってくるのよ~」

「「は~い!」」

二人は、足早に洋間から駆け出して行った。


 「はぁ、はぁ、ちょっと早すぎっ…待って…」

 「ふふ~ん、ダメだよ休んだら。急がないと置いてっちゃうよぉ~!」

 早朝で、出勤、配達、ただの趣味…車道は何十台もの車やバイクが走り抜けるが、歩道はまだ人だかりの少ない商店街を駆け抜ける二人。

 コンビニはとにかく、街の店舗はまだその多くがシャッターを閉めており、シャッター開けている店も、その殆どが準備中でその日の営業をまだ始めていない。

 「ねぇ、あいちゃん」

 「うわっ、またゴミが…掃除屋の人達も大変だねぇ」

 道路には、大量のゴミが散乱していた。紙やペットボトル、空き缶はまだしも、家具や調理器具、家電、スクラップ、ペットの死骸、骨、他諸々…本来道路に転がっていること事態稀な物が、今では所々に散らばっていた。

 それに唖然としながら走っていたら…。

 ドンッ。

 「うわっ」

 歌音が、路地裏から飛び出してきた、茶髪の、小さい少女にぶつかった。二人はお互いに尻餅をつく。

 「ちょっ…大丈夫!?」

 藍良が二人に駆け寄る。

 「う、うん、ぼくはね…大丈夫?ごめんね」

 「ん…」

 無表情の、まだ10歳位のその女の子は素足だった。また、着ている服もピンクのワンピースに見えるが、明らかに大人用のワイシャツで、よく見ると袖は切り取られており、粗末に染めた物なのか、ムラがあり所々で色が違う。

 しかも、

 「この子…穿いてないよ…」

 シャツの隙間から見えるその下には下着も、ショーツも、何も着けていない。ただシールを貼って、恥部や局部を隠していただけだった。

 二人共、「どうしてそんな格好なの?」、「買って貰えなかったの?」と、女の子に聞きたかったが、こういう身なりの子供は今や当たり前、黙って怪我の有無を確認することにした。

 「…ああ、やっぱり怪我してる…」

 幸いにも、転んだ時の傷は無かったが、彼女の足の裏はここまででガラスやら何かを踏んだのだろう、所々切創が出来ていた。両足共だ。出血もしており、彼女が渡って来たのだろう道路には、微かだが血液が付いていた。

 「ねぇ、痛く、無いの?」歌音が少女に尋ねる。

 「うん、いたく、ない…」

 弱々しいその返答に、二人は少女が我慢している事を察した。

 「ねぇ、歌音」

 「ん、何?」

 「この子、こんな所に痣がある…」

 二人は彼女の踝に、あの鳥の形をした痣を見つけた。

 「…っ!」歌音は、ふと思ってしまった。

 まさか、この子も…なのか?あの暗い檻の中で裸で苦しめられたのだろうか?あの白装束の男達に、拷問を…。

 「…ううん、其れ処じゃ無い!」

 もし、この子のこの怪我が、将来命に関わるようなものだとしたら。

 もし、この子がそれで体が不自由になって、もう二度と自分の足で駆け回る事が出来なくなってしまったら…。

 それを考えていたら、歌音には、暗い気持ちになっている暇は無かった。

 「…あいちゃん!」

 「えっ、ちょっ、ここで急に!?」

 「ちょっと痛むよ、ごめんね」

 「えっ…」

 歌音は怪我をしている足を掴み、目を閉じる。

 「…よし!」藍良は少し慌てながらも周りを見回し、自分たち以外の人間がいない事を確認する。

 「歌音、まだ!?」

 「うん、もう、行けるよっ!」

 歌音の両手から、光がほとばしり、少女の体を包む。

 着ていた服の形が、変わってゆく。

 足の傷も、引いてゆく。

 「しっかり、目を瞑っててね」

 少女は歌音に促され、両目を閉じる。

 「儀式」の準備が、整った瞬間だった。

 「よーしっ、行くよ!」

 ーいたーいのいたいのっ…とぉーんでけぇ~!

 その光は歌音と、少女の周りを包み込み、やがて二人は見えなくなる。

 「う~ん、いつ見ても凄いなぁ…」

 藍良は圧倒されるが、驚かない。

 いたいのいたいのとんでいけ。

 子供っぽい合い言葉と共に光が放たれ、全てが治る…いや、全ては言い過ぎか…。

 -シュウウウウウ…。

 光が、止んだ。

 そこにいたのは歌音と、着ていた服こそ若干薄手の綺麗なワンピースで、痣を隠す目的もあったのか、靴下と靴も履いていたが、間違いなくあの少女だった。

 「もう、目を開けていいよ」

 歌音に言われて目を開けた少女は、靴と靴下を脱ぎ、両足の裏を確認する。

 「いたく…ない、なおってる!」

 少女は満面の笑みを浮かべた。足の裏の傷は、綺麗さっぱり無くなっていた。

 「…ぴっかりさん…ぴっかりさんがきてくれたんだ!」と、少女は手を挙げ、はしゃぎ回る。

 その表情は、本当に嬉しそうだった。

 「ありがとう、ぴっかりさん!」

 少女は、ダンスをするかのように跳ね回り、喜びながら二人の元を去って行く。ふわりと舞ったスカートからは、さっきまでシールだったのがしっかりとした下着になっていた。

 「服はおまけしたのかぁ。けど、あれはちょっと生地が薄すぎない?特にパンツ」

 「仕方ないでしょ、元はシールなんだから。あいちゃんだって、昔はバンソーコーやシールで隠してたでしょ?」

 「だってぇ、楽だったんだもん」

 「ズボンだったからだよね。それがスカートだったらどうするの?しかもスパッツ無しで」

 「…弁解のしようもありません」

 歌音と藍良は喜ぶ少女の姿を見てふざけ会う。しかし、気持ちは複雑だった。

 何故なら、これは日常茶飯事の出来事で、いつも見てきた光景だからだ。

 「この州も、『戦争』…がなかったら、もっとよかったのかなぁ…」

 「だね…本当許せないわ。『ニホン』を…ううんジパングを、『国』じゃなくしたんだからね…」

 藍良は、怒りに震えた。

 「あんな法律を、立てさえしなきゃ…!」


 今からおよそ、かつて存在した政党『国家修正党』が十二年前に成立・施行した、『愛禁法』…正式名称『自然環境保護のための資源保全法』と呼ばれる法律がこの国…いやこの地、アメリカ合衆国・ジパング州を壊した。政府は己の権力を誇示し、世のため人のためと偽り、国民から多くの物を奪い去った。

 今や、愛禁法と呼ばれるその法律は、元々年々悪化する自然環境を保護し、かつ、やがて枯渇する資源の消費を抑制し、再生可能エネルギーの開発・使用を促進するために立てられた物だった。

 これにより州民…当時は国民の、環境と資源の保護意識を高め、いずれ国際社会においても、その意識を普及促進する事を目的としていた…、

 …はずだった。

 「そのせいで、ここにすむ人達は、酷く苦しめられたんだよね…」

 「しかも、その標的にされたのはあたし達子供…」

 その内容は、歌音が憐れみ、藍良が怒る程の物だった。

 この法律は、藍良曰く『何処かの漫画や、アニメといった各種創作物で見るような悪法』で、アニメ、漫画、ゲーム、玩具、甘味、公園、テーマパーク…主に子供の好きな物を中心とした娯楽物、諸侯品ほぼ全てを『環境の敵』、『資源消費の温床』と弾劾し、それらを『資源保護』、『法律違反』の名目で、規制・弾圧し、それを作り、与えた者にも容赦なく罰を与えた。

 反抗した為に、大勢の死者も出た。

 更に悪いことに…、

 「困ってる人や、弱い人を、助けようとして、捕まったり、殺されちゃったりした人もたくさんいた…」

 「うん、あたしも散々見たわ…」

 国は、弱肉強食を国民に強制したのだ。

 政府は、これまでに自分たちが国民を護るために立てた他の法律が、旧保全法の力を阻害しないよう、条項を書き換え、その力を抑制した。全ての法の上に立つ、憲法の存在も無視し、旧保全法の暴走を助長した。

 時の権力者達も、弱きを助けることを禁じた代わりに、私腹を肥やす事を奨励した。手を差し伸べる者を処罰し、助けを求める者の命を奪った者にも、褒美を与えた。英雄として称えた。

 こうして国は、救いの手を伸ばすことを、一切禁じ、更に全てを剥ぎ取った。

 何があっても、国は手と手を取り合うことを、這い上がる事を許さなかった。独自にやることすらも。

 弱者を切り捨て、強き者のみを生かし、この州の先住民は数を、半数以上に減らしてしまったのだ。

 「ここまでが『愛禁法事変』だったんだよね」

「そう。それが国際社会に公になって、国連で決議されてアメリカ処か、色んな国からも酷く叩かれてね…」 

 「で、色々あって、『愛禁法戦争』っていう争いを、アメリカと二国間だけでしちゃったんだよね…」

 その争いも、たった一年近くの期間だったとはいえ、

 戦火で花は踏みにじられ、

 木々は倒れ、

 大地は焼かれ、

 空は黒く、

 海も血で赤く染まり、

 あらゆる建築物は鉄と、コンクリートの塊に砕かれ、

 生きとし生ける物は、物言えぬ肉の塊に変貌していった…。

 核をはじめとした大量殺戮兵器こそ使われなかったものの、それでもかつての第二次世界大戦をも超える犠牲を被った事で『ニホン』は、その国名と共に『国』としての形を棄て、『ジパング州』となって延命する道を選択したのだ。

 「お陰で、ニホン人は愛禁法が出来る前の生活が送れてるんだよね…」

 「まあ」藍良は、クシャクシャになって捨てられていた紙を拾う。

 広げると、黒をバックにした、泣いている裸の…モザイク越しとは言え、本来ある『モノ』が無いため分からないが男児をメインビジュアルに、『ねえ、ぼくのおちんちん返して』のキャッチコピーが書いてある。

 「…酷く歪だけどね」

 その証拠が、辺りに貼ってある張り紙だ。

見回すと、

 「ギブミー・ショーツ」

 「ギブミー・ウェア」

 「ギブミー・トイズ」 

 「ギブミー・アニメーション」

 「ワンモア・ギブミー・チョコレート」

 「死刑を廃止すれば、奴らが増殖(ふ)える」

 「かつてのこの国を、返せ」

 と、いった張り紙が、掲示板や壁面に並んでいる。

 それに混じり、誰かの家族や友人のみならず、事変前に活躍していた有名アイドルや、タレント、スポーツ選手、著名人の顔もあったか、行方不明者の捜索願も、あちらこちらに貼られている。

 ゴロゴロと散らばるゴミもそうだ。紙やペットボトルがポイ捨てされているのはまだ分かる。今では本来粗大ゴミやスクラップとして扱われる物までも普通に路上に捨てられている。

 業者や有志はそのゴミを片付けようとするが、日中は暴徒が凶器を持って襲撃するので一カ所も清掃できないし、ようやく活動出来る夕方や夜ですら、警察の協力が必要不可欠となる。

 「だからあの子もあんなケガすんのよね」 

 「邪魔する人のせいで片付けるのも夜からだし!」

 二人は憤慨した。

 それは、遷都された事により、新たな首都となった天正都(てんしょうと)、そこにある自分たちの暮らすこの街…神河区(かみかわく)も例外では無い。

 ジパング州の中央に位置するこの地は、今や巨大な経済特区となり、文字通りこの州の中枢を握っている。

 そんな重要な地でも、人が破ってはならない、最低限のモラルを守れていないのだ。

 半分は生きとし生ける物が存在できぬ世界…通称エリアXへと変貌し、残り半分は『江戸上府(えどがみふ』として、それぞれ残ることとなったかつての首都・東京でも、観光目的で訪れた人間による不法投棄が、頻繁に行われているとも報道されている。

 本当は慣れてはいけないのに、これが人の性という物か…。

 「まあ、それはそうとして…」

 藍良は、歌音に視線を向ける。

 「ぴっかりさんかぁ…アレ結構目立つんだよねぇ」

 「だって仕方ないでしょ。こうしないと治せないんだから」

 藍良にとってはだが、ぴっかりさん…歌音が『能力』を使う時もそうだ。こうしないと、歌音は好気の目で見られ、まともな一日を暮らせなくなる。自分と、今までのように悪ふざけ出来なくなる。こうやって、遊びにも行けなくなるし、誰かの助けにも、応えられなくなる。

 藍良は、それが耐えられなかった…。 

 …しかし、二人に過去や、普段の恒例行事に深けている時間は無かった。

 「ねぇ、あいちゃん…時計見て…」

 「え?」

 何かを思い出した歌音に促され、藍良は動いている壁面時計に目を向ける…。

 「「…あーーーーーー、忘れてたぁーーーーーーっ!!」」

 本来の目的を思い出した二人は言葉にならない言葉を上げて再び走り出した。


 「…うおっ!?」

 慌てふためきながら道を駆ける二人の少女が、黒髪の少女の傍を通り過ぎる。

 「…何だ?」 

 少女は、二人の方に振り向く。

 「あ~、あの二人に悪い事したかなぁ…」

 彼女は、手に持っているビニール袋を見つめて気まずい気持ちになった。

 中に入っているのは、フルーツがふんだんに入っているクレープが三房。

 「もう、バカ高いヤツ一品しか残って無いんだが…」

 多分、着いたら絶望感に苛まれるんだろうなあ。

 ああなった時の二人の顔が目に浮かぶ…、

 ー…ちゃん!

 「…っ!?」

  少女の記憶がフラッシュバックする。 

 「…そうだ」

 一方の少女は見覚えがある。

 髪、顔、仕草、走り方…、

 覚えている限りの情報が巡り巡り、それらが綿密に組み合わさっていく…。

 「あの子、もしや…」

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