第一章第十節
車の窓を大粒の雨が打っていた。
撥水加工のされた窓を、雨水が流れ落ちていく。視界が歪み、流れ落ちる幾筋もの水滴の通り道で元通りになるものの、またすぐに濡れていく。
ワイパーの動きとハザードランプの点滅の音が、静かに聞こえていた。
榊は助手席から、外を眺めていた。
かつて見慣れていた景色。
見通しのよい、広い道を子供たちが歩いていく。
黒、赤、水色、濃い緑。色とりどりのランドセルを傘の中で揺らしながら、子供たちが学校の正門へと入っていく。
正門では学校長が笑顔で子供たちを出迎えていた。
低学年の子供たちが大きな声で挨拶をしているのが聞こえてくる。声の大きさを競い合っているのだろうか。
かつての職場を車の中から見る榊は、ふと口元が綻んでいることに気づいた。どんなにきついことがあっても、子供たちを前にすれば自然と微笑みが浮かんでいた。耳障りだと思う人もいるだろうが、ホームルームが始まる前の朝の教室の喧騒は、榊にとって居心地がいい場所の一つだった。
それは今や、彼の手を離れていた。
もはやあの場所は自分がいるべき場所ではない。
病気の療養のため、榊は長期に仕事を休むことになったと学校には伝えられているという話を聞いた。恐らく、五年生の教室には代替の教員が配置されていることだろう。子供たちの日常はそれで続く。何の変哲もなく、退屈な日常。
しかし、と榊は思い返した。
太田や黒川の日常はどうなるのだろうか。
自らの内から沸き起こる願いとはいえ、太田はスポーツを、黒川は両親を失った。そしてそれらは二度と取り戻すことのできないものとして、二人の日常に痕跡を残すだろう。
そのとき、榊は子供たちの流れの中に、黒川を見つけた。
黒川は祖父母の家に引き取られたと聞いた。幸い、近隣に住んでいた祖父母の家から通える距離だったため、転校はせずに済んだのだという。明るいピンクの傘を揺らしながら、黒川は低学年の女の子と手をつないで歩いていく。
「黒川さんが願ったのは……アイドルグループとして人気の少年たちと、友達になりたいという願いだったそうだよ」
運転席で玖城が呟く。
そんな、たったそれだけのことで。
その願いが、両親を失うだけの価値のあるものなのだろうか。
否。
それは結果を知る者だからこそ、気づくことができることだ。
我々は日々、願いながら生きている。
小さな願いもあれば、到底叶うはずもない願いもある。そして、何かを願うときには、何かを失うことになろうとは、微塵も考えない。
ただ、手に入れることができた自分だけを想い、願う。
金、物、愛情、絆。それらを願い、生きていく。
「……車を出してください」
「もういいのかね」
玖城の確認に、榊は頷いた。
身を包んでいる、黒いスーツ。
それは、榊が教諭という職を辞し、組織の一員となったことを示していた。
玖城はギアを切り替え、車はゆっくりと走り出した。
「ようこそ、
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