第一章第九節
部屋はさして広くもない、納戸のようなところだった。
小さな電灯が一つだけついているような、調度品も何もないところだった。
板張りの床の上には、腰の高さほどもある樽が並んでいた。
樽というものは、現代日本ではおよそ見ることの少なくなったものの一つだろう。榊自身、職人の手によるものであろう樽を見るのは初めてだった。
しかし、驚いたのは樽ではなかった。
黒川の母親は、そこにいた。樽の中に蹲っているのか、首から上だけを出した恰好でいた。
かつて家庭訪問で優し気に微笑んでいた美しい顔はそこにはなかった。
両目があった場所は赤黒い眼窩を残すのみ。眼球が失われ、頬には乾いた血の痕跡がこびりついたままになっている。虚ろな穴から蚯蚓のように垂れ下がっているのは視神経の残滓だろうか。だらしなく開いた口から血の混じった涎を垂らしており、頭が僅かに上下することからかろうじて生きているのであろうことは分かった。
樽は白いもので満たされていた。小さな結晶のようなものが樽いっぱいに詰め込まれており、黒川の母親はそこに埋められていた。
樽は七つ。
そのうち、人間が入っているものは四つだった。
隣には黒川の父親が、残りの二人は見知らぬ人間だった。
父親のほうはさらに凄惨を極めていた。
げっそりとこけた頬と虚ろな瞳。表情はなかった。
頭部は額のあたりからごっそりと欠落していた。頭蓋骨は鋭利なもので切断されており、露出した脳はところどころに欠損があった。
そして、残りの二人は首から上は無事ではあったものの、発狂しているのか、絶え間なく笑っていた。
なんだ、これは。
榊は理解ができなかった。
どうして、このようなものが、ここにある。
彼等はどうしてここに連れてこられ、このような拷問に晒されているのか。
「お前……」
吐瀉物を拭いながら、怒りに歪んだ顔で古要が老人を睨みつけた。
「伝承を悪意で捻じ曲げたな……!」
ミラのニコラオスには様々な伝承が残されている。
もっとも有名な伝承は、貧しい商人への贈り物というものがある。
かつては豪商であったその者は、財産を失い貧しい生活を余儀なくされていた。貧しい生活は日に日に悪化し、ついに娘を身売りせざるを得なくなってしまった。二コラオスは真夜中に商人の家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。金貨は暖炉にかかった靴下の中に入った。この金貨のおかげで商人は娘を売らずに済み、商人はついに二コラオスと出会い感涙に臥せったという。
だが別の伝承もあった。
子供を誘拐し、解体し、売り捌いていた肉屋に赴き、殺され塩漬けにされていた七人の子供を蘇らせたという逸話も語られている。
「悪意、とのう」
あたかも些末な疑問であるという顔をし、老人が首を傾げた。
「悪意もなく善意もない。わしはただ、神の御心のままに」
そのとき、不意に部屋の中に一羽の鳩が舞い込んできた。
鳩は老人の肩に留まる。細い足には丸められた紙が結わえられていた。
老人は急ぐ様子もなく、逃げもしない鳩の足から紙を取り、広げた。
「S’ll vous plaît, restaurez les yeux de votre père……目か」
老人は何のためらいもなく手を伸ばした。
黒川の父親の顔に指が近づき、そして眼窩に潜り込んだ。
相当な苦痛があろうが、父親は悲鳴すら上げなかった。指が眼窩の底を掻くように曲がり、濁った血液とともに左の眼球が抉り出される。無造作に視神経を引き千切り、掌に眼球を乗せた。
「おぁ、あっ、あぁう…ど、どっ、Domine, fac me instrumentum pacis Tuae」
嗚咽とも慟哭とも取れるような声を発していた父親は、目を抉られながらも微笑みを浮かべていた。その声が突如としてラテン語を紡ぐ。繰り返し同じ文言を呟き、そして笑う。
血に濡れた眼球は次第に光に包まれていった。そしてすっかり光の粒になったかと思うと、空中に立ち上るようにして消えた。
その一部始終を、榊は半ば茫然として見ていた。
ややあって、榊は口を開いた。
「今、何をした」
「遠い国の娘が願った……父が事故で光を失った。故に、父の目を治したい、と」
「子供の願いを叶えるために、代償として奪ったというのか」
「この世界に奇跡などはない。求めれば失う。大きい願いであれば、失うものもまた」
「だからって!」
古要が言葉を挟んできた。
「人質を取ってこうやって苦しめて……それが正しい行いだとでもいうの!?」
老人は血に濡れた掌を拭い、そして語り出した。
「この世界では数多くの奇跡が語られている……聞いたことがあるだろう? 医者に死を宣告された病が治っていた、もはや動かぬとされていた足で走ることができた、目覚めぬと言われていた者が起き上がった」
老人は並ぶ樽を見下ろした。
「それが本当に奇跡だと? 得たものは語られ、失ったものは忘れられるのだ。かなわぬ望みをもつ者は大抵こう祈る……全てを失ってもいいから、願いを叶えてほしいと」
榊は何も言い返せなかった。
どれだけの時間がそのまま過ぎ去ったことか。
「我は<ミラのニコラオス>……幼子の守護聖人の力をもつ者なり」
老人は振り返り、再び本に埋もれかけた籐椅子に身を横たえた。
もはや、黒川の両親は戻らぬ。
戻ったところで、あの容態では命を長らえることすらできはしまい。
想像したくはないが、塩に満たされた樽の中に埋もれ隠れた体がどのようになっているのかさえ、分からないのだ。
そして、黒川の両親を取り戻せない以上、ここにいる理由もない。
先程まで何故か聞こえなかった蝉の音が、再び二人を包み込んでいた。
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