第一章第八節
榊はゆっくりと足を進めた。
強い日差しのせいで真っ暗にしか見えなかった家の中は、次第に薄暗がりの中に浮かび上がってきた。
まず気づいたのは、無数の本だった。
決して広いとは言えない居間の壁面のほぼ全てを覆うようにして、木製の古い本棚が並んでいた。
そして本棚の全てに、ハードカバーから文庫から古い和綴じの本に至るまで、書物と名の付くあらゆるものが保管されているように見えた。あるところは整然と、あるところは乱雑に。僅かな間隙すらも惜しむように、横にして押し込まれているものもあった。
本はそれだけではなく、もしかすると棚にあるよりも多くの本たちが床にうず高く積み上げられていた。無数の高さの本の壁が不規則な稜線を描く中、榊は見た。
籐椅子に身を横たえている、一人の老人がいた。
豊かな顎鬚は絡まっているように見えるが、手入れは整えられていた。唇を覆い隠すほどの髭を蓄えた風貌は、日本人のようには見えなかった。
皺の刻まれた顔は、彼の過ごしてきた時間が長いものであることを物語っていた。彼は眠っているようだったが、ゆっくりと目を開けた。
榊の足音に気づいたのか、それとも気配を読み取ったのか。
老人はゆっくりと体を起こし、榊を見た。最初は驚くような表情を見せたが、すぐに柔和な笑顔を作る。
「やあ、いらっしゃい」
だが老人が発したのは流暢な日本語だった。
話の通りだ。森の中の家、出迎える老人。全てが話の通りの夢だ。
老人の言葉にどう返そうかと逡巡する榊を遮るように、後ろから少女の声がした。
「待って」
振り向くと、古要が立っていた。
まさか、本当に同じ夢の世界に入ってきたとは。強烈な暗示のせいかとも思ったが、あまりにも出来すぎている。不自然さを疑うほどの不自然さだ。
「まだ、言葉を交わさないで」
それはどういう意味なのか。
質問する前に、老人もまた髪結に気づいたようだった。
「可愛らしいお嬢さんも一緒なんだね、よろしい……おや」
長く伸びた眉を押し上げるように、老人は古要を見る目を大きく見開いた。
「素晴らしい、君はあの戦いを生き抜いたのだね」
唐突に、榊の耳に無数の嗚咽や慟哭が聞こえてきた。皆が歯を食いしばり、同胞を撃つ無念さに咽び泣いている。
雨に打たれ、風にあおられ、それでも敬礼を崩すことなく、暗い水面を見つめている、無数の男たち。
しかし、それは一瞬だった。
「無駄話はそこまで」
古要の言葉が、榊の感覚を現実に引き戻した。
口元を苛立ちか怒りに歪め、古要は老人を剃刀のような視線でねめつけていた。
「気に障ったのなら謝ろう。さて」
老人は椅子に座りなおし、深いため息とともに髭を撫でる。
「では、君たちの……」
「希望を伝えにきたのではないの」
老人にしゃべらせないようにするかのように言葉を遮り、古要はゆっくりとした歩みで榊の隣まで来た。
「あなたが連れ去った、女の子のご両親を連れ戻しに来たのよ」
古要の言葉に、老人は怪訝そうな表情を浮かべた。
「はて、女の子の両親、とな……ここを訪れる者は非常に多いからのう……」
「<ミラのニコラオス>」
低い声で、古要は老人の名を呼んだ。千年以上も語り継がれてきた、老人の名だ。
「今すぐご両親を返しなさい」
気迫に気圧されたか、それとも演技だったのか。
しばし無言で宙を見つめていた老人は、すぐに何かを思い出したのか、声を上げた。
「おお、そういえば昨日、お嬢さんの言うような日本人の夫婦が来とったのぅ」
老人は一度身をかがめると、緩慢な動作で立ち上がった。
「あの二人なら奥にいるよ、こっちに来なさい……ただのぅ」
こちらに背を向けて奥に歩いていく老人の背後で、古要は榊のほうに視線を向けた。
「ここから先はあなたが頼りなの。黒川さんのご両親かどうか、あの男が嘘を言ってないかどうか、確かめて」
「わかった」
一瞬迷ったが、榊は靴のまま家の中にあがった。
老人はどうやらこちらに危害を加える様子はなかった。やろうと思えば、後ろから押し倒すこともできそうだ。武器のようなものを持っている様子もない。
だが次の瞬間、榊は耳を疑った。
「まだ、形が残っておったかのぅ」
古要が弾かれたように動いた。
榊を突き飛ばすように押しのけると、すぐ眼前をゆっくりと歩く老人の行く先に体を割り込ませる。
さして広くもない家の中、目的地はすぐ目の前のドアの先だった。
古要はドアノブを引き抜かんばかりの力で開け放つ。
突き飛ばされ、よろめいた榊もまた体を起こし、古要を見る。
こちらに背を向けていた古要が、不意に体を二つに折った。
体を波打たせ、膝をつき、嘔吐していた。
ドアの先に何があるのか。
嫌な予感に耐え切れず、榊もまた古要の元に駆け寄った。
ドアの先には、信じられない光景があった。
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