第一章第七節

 榊は数年ぶりに清々しい目覚めを味わっていた。

 夜半すぎに目覚めることも、不快な夢や寝汗に邪魔されることもない。アラームの無機質な音に遮られることなく、体が欲するままに眠りに落ち、そして自ら目覚める。

 だが、時刻は分からなかった。空調が効いているのか、やや空気が冷たい。ゆっくりと体を起こし、首を鳴らすと少しずつ記憶が戻ってきた。

 自分が<歴史補填局S.H.M.N.>に必要とされているのは、恐らく黒川と面識があるからだろう。ということは、今後は黒川の両親を見つけ出すことになるのだろうか。

 学校の周辺では顔を知られている。それに仕事に行かずに捜索するわけにもいくまい。ではどのようにして探すというのか。

 コップ一杯の水を飲み、少しずつ体が目覚めてきたころにインターホンが鳴った。

「玖城だ。入ってもいいかね」

 短い挨拶を交わした玖城は、すぐに用件を切り出してきた。

「もう分かっているとは思うが、榊さんには黒川さんのご両親を見つけ出す手助けをしてほしい。個人情報は……まあ、いろいろと面倒でね」

 面倒ということは、それでも入手する方法はあるということだ。警察関係でなければ、法律の外にある可能性も強い。

「それは構いませんが、私の顔もあの地区では知られています。出勤もせずに住民に見られることがあっては、お互いに厄介なことになりませんか」

「それについては問題ない」

 懸念していた質問をすると、玖城は頷いた。

「ご両親を捜索するのは、夢の中だ」


 白いシャツと黒のスラックスに着替えて向かった先には、昨日の少女がいた。

 歯科にあるような、背もたれが倒れる椅子が数脚。周囲には小さい機材が並んでいる奇妙な部屋だった。

 その椅子の中の一つに座り、目を閉じていた少女は、部屋のドアが開いた音で体を起こした。しかし少女は玖城が手を上げても榊と目が合っても、小さく会釈をするだけだった。

 玖城にはともかく、自分とは会ってまだ一日も経っていないとすれば、当然か。反射的に笑顔を浮かべて挨拶をするが、少女からの反応はない。

「今回は二人で夢の中に向かい、ご両親を見つけ出す。その際、他の人間に出会う可能性も考慮し、榊さんを伴って向かってもらう」

 玖城は少女の隣の椅子を指し示した。靴を脱ぎ、榊は柔らかいソファのような椅子に身を横たえる。

「同じ任務に当たるのだから、名前も伝えておこう。この子は古要こよう沙紫さき。この子の力で、例の夢の中に入ることになる」

 聞きたいことは山ほどあった。だが全てに答えてもらえる保証はない上に、妙に警戒されることになるかもしれない。

 だから榊は相手が見せてきた手の内の中から、探ることにした。

「この子の力って……どういうことですか? 昨日の夜、主任に何かしたように見えましたが?」

「さすがだね、榊さん」

 玖城は満足げに微笑んだ。

「私も古要も、力をもっているがためにここにいる。古要の力は、本人が望んだ結果を引き寄せる力……それによって、榊さんと古要は同じ夢を見る、という現実を作り出す」

 全てが不確実で、不安定に思える。そんな物語の中のような話が現実にあるものなのか。

「私たちの力にも源はある。<不誠実な隣人Neighbors>の源が<始祖Origins>であるのと同様に、私たちはこの力の源を<絆侶Comrade>と呼んでいる」

「玖城さん」

 険しい表情で古要が顔を上げた。

 自分の力のことを断りもなく語る玖城への抗議だろうか。それとも、力のことを口外すべきではなかったのだろうか。

 否、それは当然であった。このようなところに居るとはいえ、榊は部外者だ。超法規的組織であればこそ、自分に組織の内情を語ることは禁止されて然るべきだ。

 しかし玖城は涼しい顔で古要の抗議を受け流した。

「さて、ではあの夢の世界に向かうとしようか」

 それ以上の追求はできなかった。

 言葉遣いは穏やかだが、玖城には抗いがたい気配があった。それが元々の彼の特性なのか、それとも彼の力によるものなのかはわからない。

 ここでこれ以上の質問をしたところで、大きな違いはないだろう。

 榊は言われるがままに椅子に身を預けた。

「リラックスして、呼吸を穏やかに」

 目を閉じる。四肢の力を抜く。

 だがそれは思ったよりも困難だった。

 ここが自室のベッドの中であれば、それは可能だっただろう。しかし昨日出会ったばかりの人間の前で眠れと言われて眠ることができる人間は、多くはない。

 ふと、視界が暗くなった。瞼を閉じていても、部屋の光は感じられる。

 薄く目を開けると、玖城が掌を顔のすぐ上にかざしていた。自分と古要の椅子の真ん中に立ち、二人の顔の上に指を開くようにして掌を向けている。

 驚くような視線を向ける榊に、指の間から玖城が微笑んだ。


 意識はそこで途切れていた。


 眠りから目覚めるときというものは、いつも感覚が一体となって押し寄せてくる。

 音、光、匂い、温度。それらが微かに残る夢の残滓に入り混じる形で五感に襲い掛かる。感覚は混乱し、ただ重い体を持ち上げるようにして目覚めるのだ。

 榊がまず感じたのは蝉時雨だった。あまりにも多くの蝉が一斉に鳴いているために、それは波のように榊の周囲を包み込み、耳を聾せんばかりに反響する。

 じっとりとした湿気と熱気。草いきれ。目を開けるとそこは土の上だった。

 榊は苔むした樹にもたれるようにして眠っていた。

 顔を濡らす汗を拭い、視線を上げる。

 林の中に、榊は一人立っていた。

 周囲には木々の枝や幹が重なり合い、そして茂った葉によって奥に何があるのかが見えない。山の中なのか、住宅地の中なのか、それすらも分からない。

 見上げれば、青い空が広がっている。降り注ぐ強い日差しは容赦なく肌を焼く。高い湿気のせいで、動かずとも汗が滲んでくる。

 木々の間に、踏み固められた道が伸びていた。

 舗装などはされていないが、何度も人々が同じ場所を通り、歩んできたためにその部分だけ草が生えず、固く乾いた土が覗いていた。

 胸騒ぎがした榊は、その道を辿っていった。

 眠っていた場所から、道は緩やかに曲がりながら続いていた。

 一度、二度曲がった先に、建物が現れた。

 蔦に覆われた白い木造の家。

 白樺で出来た庇の上には藤棚が茂っていた。涼しげな日陰の向こうには、大きく窓が開け放たれた家があった。


 あの夢だ。

 江崎が話し、太田と黒川が見たであろう、あの夢。

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