第一章第三節
この日は、時間が経つにつれて、加速度的に事態は深刻に、また奇妙な方向に発展していくことになるのであった。
翌日。黒川が欠席した。
榊はこのとき、然程違和感を感じてはいなかった。珍しいこともあるものだ、と思いながら職員室に連絡。欠席した児童の中で保護者から連絡がなかった件については、こちらから確認の電話をすることになっている。
一時間目が終わった時点で、榊は教頭から「黒川の保護者と連絡が取れない」ことを聞いた。こんなことはこれまでに一度もなかった。榊は気がかりに思いながら、時間が空くと必ず職員室に出向き何度も確認した。
結局下校時間になるまで、黒川の保護者は電話に出なかった。
榊は仕方なく、家が近いほかの児童に配付プリントをまとめた袋を渡し、黒川の家のポストに入れてもらうように頼んだ。
結局今日はこのことばかりが気になり、太田に夢の話を聞くどころではなかった。
午後六時過ぎ。
この日もまた、定時を過ぎているにもかかわらず職員室にはほぼ教員は揃っていた。大して意味のない報告書や文書作成、そして来週の授業計画や時数調整。やることは細々とではあるが山ほどある。
パソコンに向かってキーを打っていた榊は、ふと名前を呼ばれた気がして顔を上げた。
職員室の入り口のところから、女性教員がこちらを見ていた。目が合うと、もう一度名前を呼ばれた。
「子どもが来てます、榊先生」
「わかりました」
下校時刻を過ぎても児童が職員室を訪れることは珍しくない。落とし物や忘れ物、理由は様々だ。
しかし蒸し暑い廊下に出るなり、榊は息を飲んだ。
立っていたのは黒川恵美だった。眼鏡を握りしめ、下を向いて嗚咽している。その横で低学年を担任している年配の女性教員が慰めるように何度も背中をさすっている。
聞きたいことが頭の中で回転する。
今日休んだのはなぜか。
何故、泣いているのか。
親は昼間どこにいたのか。
そして、何故、今こうして学校にいるのか。
だが何から聞けばいい。否、黒川はそれらの質問に答えられるのだろうか。
「黒川……」
「先生」
泣き腫らした赤い目を上げ、黒川が顔を上げた。
「お母さんが……いなくなっちゃった」
黒川の一言をきっかけに、職員室は騒然となった。
管理職は警察へ連絡。市の教育委員会へも連絡しようとしたが、しかし今回の捜索対象は児童ではなく保護者だ。対応が違う。
他の教員たちもまた、動きつつも戸惑いを隠せなかった。下校後の児童が帰宅していないという事態は今までにも何度もあった。そうしたときは近隣の公園や公民館、友人宅へ連絡するのが普通だが、今回は当てはまらない。
そもそも、大人の行動半径など教員が対応しきれるものではない。
ひとまず黒川を別室に待機させて落ち着かせつつ、榊は教務主任と共に黒川宅へと向かうことになった。
何かの用事で帰宅が遅れ、家について見れば明かりが灯っており、保護者が「子供と連絡がつかなくて……」と話す。そんな状況であればよかったが、可能性は限りなく低かった。
黒川宅は広く緩やかな斜面に面した住宅地にあった。時刻は午後七時。夏とはいえ陽も落ちて暗くなってきている。ずらりと並んだ住宅地には明かりがついている中、黒くぼんやりと浮かび上がる黒川宅は異様な雰囲気だった。
春に一度家庭訪問でここを訪れたことがある榊は思い出していた。
家の中はきちんと片付けられ、微かに柑橘系のアロマが薫る。母親は柔和な笑顔で出迎え、高価なグラスに冷たいハーブティーを入れてもてなしてくれた。
だが、今は。
家の周囲をぐるりと回り、通りに面した玄関に戻ってきた榊は教務主任からスマホを渡された。
「榊くん、教頭が話したいって」
「はい」
耳に当てると、教頭の低く強張った声が聞こえてきた。
曰く、昨日の黒川に変わった様子はないか。夏休み明けの提出物は出ているか。保護者からの連絡帳等による手紙はなかったか。
いずれにも榊には心当たりはなかった。一つ一つに答えていくうち、榊はふとあるものに目が留まった。
道の反対側に誰かがいた。
黄昏時を過ぎているために顔は見えないが、一人は長身の男性、もう一人は制服を着た少女のようだ。その二人が、通りを挟んでこちら側をじっと見ている。
教務主任もその二人に気づいたようだった。
周囲の住民が無人の家の周りをうろついている男二人に通報したのだろうか。教務主任は自分たちが近くの小学校の職員であることを説明しながら、通りを渡って男性に近づいて行った。
榊はそれを見ていた。
途中までは何もおかしいところはなかった。
主任のほうへ男性も近づいてくる。二人は道の半ばで止まり、男性が主任に何かを囁く。
主任はそこで動きを止めた。
何を言うでもなく、動くでもなく。手をだらりと両側へ垂らし、直立したまま動きを止める。
耳元で教頭が何かを言っていたが、榊にはもう耳に入らなかった。
男性はそのままこちらへと向かって歩いてくる。榊は急いで通話を切る。
それは笑顔を浮かべた、白髪で痩身の男性だった。この暑い中、スーツを着てネクタイを締めている。昼間出会っていれば、洗練された紳士に映っていただろう。
「君が、黒川さんの担任の先生だね」
男性にこちらのことは知られている。ここは下手に隠す必要もあるまい。
「はい、榊と言います。失礼ですが、お名前をうかがってもよろしいですか」
緊張した声。男性は笑顔をそのままに、頷いた。
「榊くん、だね。君は礼儀を心得ているようだ……私は
質問の形をしていたが、榊に選択肢はなかった。榊は迷うそぶりを見せつつも、頷くしかなかった。
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