第一章第二節
「お前、もしかして、あの<夢>見たんじゃね?」
顔を近づけ、何気ない軽口のように言った一言に、太田はもう一度顔を上げた。
「まじか、太田お前あれ見たんじゃねえの? だからずっと宿題したり本読んだり……」
「……別に」
低く小さな声。太田はそれきりまた本の世界へと入っていく。
榊の耳にも、それは届いていた。
夢だと。
子供がよく話す、昨日見た夢とはいささかニュアンスが違うようだ。だがそれを聞きたくとも、太田は友人との会話すら望んではいないようだ。今の彼から無理に聞き出すことは止めた方がいい。
とすれば、聞く相手は一人。
太田に話しかけ、廊下に向かったもう一人の男子だ。
「江崎、ちょっと聞いてもいいか」
「なんすか?」
学級の中のムードメーカーといえば聞こえはいいが、この男子はいささか礼儀に欠けるところがある。だが今はそれを気にしている時間はない。
「さっき、太田に夢を見たって話してたよな、あれ、何の話だ?」
聞かれた江崎は笑顔になった。
「ああ、あれ。なんか噂になってるやつですよ。三組の人も話してるし、俺も兄ちゃんから聞いたんですけど」
子供の間で広まっている噂か。取るに足らぬと笑い飛ばせばそれまでだが、太田の変わりぶりが気になっていた榊はさらに聞いてみることにした。
「それ、先生にも教えてくれないか」
「あれ、先生も怖い話好きなんすか? 赤い部屋とかトイレの怖い話とか?」
茶化す江崎を交わしながら、榊は残り少ない休み時間を気にしつつ江崎の話に耳を傾けた。
<夢>とは、何の前触れもなく唐突に訪れるものだという。
それは真夏の昼下がり。どことも知れぬ住宅街を歩いている場面から、夢は始まる。
人によって小さな差はあれど、決まって辿り着くのは住宅街の中に姿を現す林。そして古いブロック塀と私道。
蝉時雨を浴びつつ中に入っていくと、小さな家がそこにあるのだという。
白い壁には無数の蔦が伝い、年季の入った家なのだそうだ。訪問者は、その家の縁側に続く窓が大きく開かれ、そこには無数の本がうず高く積まれた書斎と、大きな革張りの安楽椅子に身を沈めながら読書をする老人と出会う。
老人は突然の訪問にもかかわらずにこやかに出迎えてくれる。名乗ることもあるが、たいていは起きる頃には忘れている。
他愛のない話を交わしたあと、老人は次のように話を切り出してくる。
「君には何か望みはないかね。手に入れたいと願うものはないかね。君が大切にしているものと引き換えに、君にそれを上げよう」
「だけど夢だから、自分が願い事をしたのかどうか、わかんないんですよ」
江崎はそう締めくくった。
話自体はどこにでもありそうな話だ。子供が好きな怪談をテーマにした本によく出てきそうなものだ。
しかしそれは創作であればこそ。榊には太田のことについて、思い当たるところがあった。
夏休みに入る前、榊は太田を呼び出して昼休みに話をしたことがあった。今のままでは授業に遅れ、分からないことが増えるだけだ。だから少しずつでもいいから家で勉強をしてくれ、と伝えたのだった。
太田は首を縦に振らなかった。放課後のサッカーチームの練習がほぼ毎日、夜八時くらいまである。だから家に帰っても疲れて勉強する時間がないと言った。
あれがきっかけで太田は夢で、勉強ができるようになりたいと言ったのか。そして彼は……
そこまで考えて、榊はその考えを振り払った。
教え子が勉強をする気になっただけではないか。何を気にしているのか。今はいささか没頭しすぎだが、それはおいおい友達との時間も取るようにアドバイスをしてあげればいいだけの話だ。宿題もやってきている、字も丁寧に書いている。何も心配はない。
そう、思っていた。
子供たちを下校させ、定時の直前まで詰め込まれた意味のない会議が終わると、榊は誰よりも早く職員室に戻った。
宿題のノートの間にある、プリントの束を取り出す。それは今日の五時間目に実施した、夏休み明けの国語と算数の実力テストだった。
談笑しながら職員室に戻ってくる同僚たちを後目に、榊は採点を始めた。名簿順に並べられた解答用紙の束から、太田の答案はすぐに見つかった。
自分たちが作成した問題だから、模範解答を見ずともある程度の点数は予測できた。
結果は、国語が九五点、算数が百点。
さすがに榊は不安になってきた。問題作成時、学年主任が言っていた言葉を思い出す。
『どちらの教科にも応用問題を一つずつ入れましょう。問題文を注意深く読まないといけないようなものを入れて、思考力を伸ばすきっかけを作りましょう』
その結果、満点を取る児童は激減した。二教科、七十二枚の答案の中で太田よりも点が高かったのは黒川恵美、一人。つまりは太田は学級二位の高得点を取っている。太田が失点したのは国語の一問のみ。応用問題は記述式のものもあったが、太田はどちらもパーフェクトだった。
「君には何か望みはないかね。手に入れたいと願うものはないかね。君が大切にしているものと引き換えに、君にそれを上げよう」
「だけど夢だから、自分が願い事をしたのかどうか、わかんないんですよ」
昼間の江崎の話が耳の中に蘇ってくる。
冷房の利いた職員室の中で、榊は腕に鳥肌が立っているのを感じていた。学力がぐんと伸びることはある。突然にやる気を見せることもある。
しかしこれはやりすぎだ。
榊は席を立ち、児童名簿から太田の母親の携帯に電話をかけてみることにした。もしかしたら、家での様子に変化があったかもしれない。太田のこの変わりようの原因を聞くことができるかもしれない。
しかし電話は通じなかった。言い知れぬ不安を感じ、榊はオフィスチェアに腰を下ろす。
答えが戻ってこなくてもいい。明日、太田に夢のことを聞いてみよう。しかし、こちらの動揺を悟られてはいけない。感情を顔に出さず、相手に緊張させずに聞き出さなくては。
顛末がどうなるか、誰にもわからない。もしかすると、太田が誰かの答案を見た可能性もある。しかし彼ほどの高得点がクラスに一人しかおらず、しかも太田と黒川は席が離れていることを考えれば、その確率は低くなる。
難しい仕事だ。しかし放置するわけにはいかない。
榊は太田にどう話を切り出すか、迷いながら職員室を後にした。
だが、翌日はそれどころではなくなることになるのだった。
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