第一章 聖者の贈り物 The gift of the Saint
第一章第一節
August 27 Tuesday, 2019
Saitama Japan
約四十日ぶりの喧騒が遠くから聞こえてくる。
今日は八月二十七日。まだ暑さが残るとはいえ、ようやく気温も三十度前後になってきた頃合いだ。このまま涼しくなってくれれば有難いのだが、そうもいかないのだろう。
児童の健康管理簿、夏休み明けの連絡事項を書き込んだ大学ノート、そして筆記用具を手早くまとめると職員室を出る。窓は空いているが、風がないために廊下は蒸し暑い。そんな中、児童玄関からは子供たちの声が次第に近づいてきていた。
子供が登校してくるのを心待ちにしていたかといえばそうでもない。しかしへ辟易しているかといえばそこまででもない。大人たちばかりを相手に研修や会議が続いていた夏季休業中の業務から一転、今日からはまた学級担任の仕事が戻ってくる。大人ばかりの中、最低限の相互理解ができていた空気が懐かしいだけなのかもしれない、と胸の中で結論づけ、榊は階段を昇っていった。
目指す教室は三階、五年二組。
高学年部の教室が並ぶ廊下に着くのと、反対側から子供たちが来るのとはほぼ同時だった。
さすがに高学年ともなれば「大きな声で」「元気に」挨拶をしてくる子供はぐんと少なくなる。先頭を歩いている男子の集団も、榊と目が合うとまるで義務を果たしているのだと言わんばかりに小さく会釈をしてくるだけだ。
だがそれでいい、と榊は思っていた。「子供らしく、元気に礼儀正しく挨拶」なんて、言われてすることではない。そのまま二組の教室に入り、教卓の上に荷物を置くと、廊下の喧騒も次第に大きくなっていった。
今日からまた、子供たちとの時間が始まる。
騒々しく、エネルギッシュで、そして幾許かの憂鬱で満たされた日々が。
夏休みの宿題を提出し、全校朝会までの短い時間に級友とのおしゃべりに花を咲かせる子供たちと手元に積みあがってくるノートやワークブックを交互に見ているうちに、榊はふと違和感に気づいた。
大した事ではないのだが、先ほど視界の隅に捉えたものが気になったのだ。
それは二組の中でも学力が厳しい児童の一人、太田慎司が提出した宿題だった。四月から七月までの一学期、太田はほとんどと言ってよいほどに宿題を出さなかった。家庭学習もままならず、学力も厳しい。しかし先程お調子者の男子たちに交じり、太田は確かにノートを提出していた。
榊は急いでノートの山を確認する。間違いなく太田のノートはあった。何気なく開いてみると、そこには彼にしては整っている漢字や筆算が並んでいた。
親の声かけか、それとも本人が変わろうとしたのか。これはあとで励ましてやらねばなるまい。嬉しい誤算というものは、いつも教師の予想の外からやってくるものだ。
顔を上げて教室の中から太田を探す。
いた。
いつもなら、真っ先にボールを持って何名かの男子と教室を飛び出し、時間ぎりぎりにならないと帰ってこない太田が、今日は本を読んでいる。書名までは見えないが、それなりに厚みのある物語の本だ。
励ましの声かけをするべきか、それとも彼の時間をそっと見守るべきか。
迷った瞬間、スピーカーからチャイムの音が聞こえてきた。
ばらばらと子供たちが自分の席に戻る中、榊もまた教卓に戻っていった。
何気ない日常。
何の変哲もない日々。
昨日はかつて来た今日。明日はいずれ来る今日。
それらに大きな差異はなく、だからこそ人々は日々を受け入れることができるのだ。
全校朝会が終わってからの休み時間にも、太田はまだ本を読み続けていた。
一学期のころの彼を知っている榊からすれば、それはさすがに奇異に映るものとなってきていた。それはおそらく、昨年度の前担任も同じだろう。
だが面と向かって聞くのは逆効果だ。榊はさりげなく教室の後ろの黒板に向かうふりをして、太田の横を通り過ぎる。
オレンジ色の装丁がされた本は、ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの書いた「モモ」という物語だった。人々から時間を奪い取っていく灰色の男たちに立ち向かう少女、モモとその仲間の物語。榊もかつて子供の頃に読んだ覚えがある。
そこをきっかけとして話しかけようとしたときだった。
「お前またそれ読んでんのかよ」
声をかけてきたのは太田の友人の男子だった。近くに担任がいたせいか、若干言葉を選びつつも、朝から本を読んでいた太田に話しかけてきた。言葉はやや乱暴だったが、そこに威圧的な響きはない。
太田は僅かに顔を上げてそちらを見るが、何も言わずにまた本へと戻る。
「先生もなんか言ってやってくださいよぉ、こいつずっと本読んでて、こっちが遊ぼうって誘ってんのに無視してんですよ」
男子は話し相手をこちらに向けてくる。
でもそれでいい。自然な形で太田に声をかけられる。
「そうなのか? 夏休みの間、あんまり遊んでないのか?」
「あんまりっつーか、全然。七月のうちは毎日遊んでたんだけど、な」
男子は話を聞いて集まってきた友人に同意を求める。
何度もうなずくもう一人の男子が、にやにやと意味深な笑みを浮かべながら、本を読み続ける太田に顔を近づける。
「お前、もしかして、あの<夢>見たんじゃね?」
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