「くじらのゆめのなか」洲桃

 夏が本格的に辺りに居座り始めましたが、いかがお過ごしでしょうか。私はエアコンとしそジュースで毎日部屋から夏を撃退しています。


 さて、今回書評させて頂くのは


 「くじらのゆめのなか」洲桃/穂稿社


 この本はツイッター出身の洲桃(すももと読むそうです)さんの、中学生の時のものから書き下ろしまでを含めた詩集です。構成は4つのテーマごとに詩が分けられ、また詩集としては珍しい、ツイートも含んだ作品になっています。テーマは順に「破瓜」「喃語」「身辺」「くじらのゆめのなか」となっていますが、明確に詩のテーマが分割されているわけではなく、なんとなくの分類になっているような印象でした。


 洲桃さんは特にツイッターでは有名な方らしいのですが、どうやら俗にいう「メンヘラ」というジャンルの方らしく、リストカットやODの画像なども載せられているようだったので、自分はツイッターを見る勇気がありませんでした。(洲桃さんというお名前も、お兄さんに殴られて顔がすもものように腫れあがったところかららしいです)ただ、元々はツイートが評価されて有名になられた方のようでしたので、そういう画像が大丈夫な方は覗いてみてもよいかもしれません。


 まず感想の前に、いくつか短い詩を引用させていただきたいと思います。


ずっと乳白色のシャボン玉の中で寝ていたい

外気に触れればたちまち崩れる培養液漬けのか弱い四肢だから

ずっと触れない溶媒が身体を水和していてほしい

ため息と叫び声の充満していないところに行きたいから


宇宙船、あたしを分子にもどsぢてください


地獄に行きたい!あったかいし、生まれてきたつみ償えるし、産まれなおせるし。天国じゃん。


夕焼けと朝焼けのキメラが東の空で暴れ回る。やがて暗闇と無音の洪水が押し寄せて、ぜんぶまっくろに塗りつぶされて、私はその更地に壊れた夢の破片を星屑にして放流する。きらめく欠片はそれぞれ時間を孕んでいて、置いてけぼりになってる。それなのに私たちは、その子達を、無遠慮な硬い線で繋いで、ひとつひとつのまたたきには目もくれず、勝手に作った枠の形だけをありがたがってる。

地面は相変わらず不毛な土地で、ちょっとの死にかけのバラと、それを覆いつくすばかりの水仙で色づいている。水やりはここ最近毎日してる。涙と血と吐瀉物をやると奴らはみるみる肥大化する。

空に星、地に花、愛はどこですか


お風呂に潜ると不自由が私を抱擁してくる。


 全体としてはこの詩たちのように、暗澹としたアングラ系とメルヘンなファンシー系の雰囲気が同居しているような感じでした。


 正直あまり、ぎゅっとこの詩集を掴めた気があまりしないので、また後日追記するかもしれません。


【追記】22/09/16


 先日読み直したところ、新しい発見があったので追記します。


 まず、テーマの分類についてのもやもやがなんとなく晴れました。テーマは4つになっているのですが、読み直すと実質2つ、「破瓜、喃語、くじらのゆめのなか」と「身辺」の対立構造になっているように見えました。対立というのは、前者は妄想や願望、後者は現実という対比をしているように思えます。よくよく読んでみれば、身辺は3人称、それ以外は1人称になっているものが多いですね。


 また、それぞれのテーマの意味するところも

破瓜: 産まれてきたことへの後悔や絶望

喃語: 著者の呪詛やODしたときの崩れた文章、ふとした気づきを取り上げたものなどが雑多に混ぜられている?

身辺: 著者の現実の出来事

くじらのゆめのなか: 著者の作り上げた、ぼやけた妄想の世界とも言うべき世界での出来事。(他が漢字ふたつという、硬い印象を受けるなかで、これだけがひらがなですこし長く、柔らかい印象を受けるのも、そういった妄想の雰囲気を暗示している…?)

という風に大まかに分類できるように思えます。


 また、この詩集の隠れた一貫したテーマとして、胎内回帰願望のようなものが見えてきました。最後のテーマ以外では生まれてきたことへの後悔と共に、ここでないどこかへ行きたいというような逃避欲求がうすく通底しているように思えましたが、最後の、くじらのゆめのなかでだけは、そういったものを、自分は感じませんでした。

 ここからはかなり自分勝手な考察になるのですが、くじらのゆめのなかというのは、洲桃さんにとっての胎内のようなものなのではないかと思いました。生まれてきたくなんてなかった、だけど死にたくだってない。そんな彼女が逃げられる先は、外界から閉じられて、つねに温かく、母親の心臓の音が近くに聞こえ続ける胎内のような場所だったのではないかと思いました。

 少し長いので載せられないのですが、この詩集の一編に、生まれる前にはあれほど夢を託されて、どんな可愛い子が産まれてきて、どんな人生を送るのだろうと希望に満ちた期待を寄せられていたのに、結局生まれ落ちたのはこんな努力もできない社会不適合者だというのを嘆くようなものが(相当端折っていますが)ありました。この詩が、タイトルともっとも関係が深い詩のようにわたしには思えました。

 つまり、くじら、というのは胎内にいる時の、大きな大きな、安心と温かさの象徴であって、ゆめ、というのは生まれる前の淡く実体のない期待で、その中にずっといられればよかった、というように私は読みました。

 けれど、洲桃さんは「破瓜」を経て、産まれてしまったし、もうそこへと還ることはできません。だから彼女は、ゆめを見たのだと思います。彼女は「喃語」を吐きながら、辛く苦しい「身辺」と相対する日々の中、大きな大きなくじらの、きらきらしたゆめの、まさしく、「くじらのゆめのなか」の世界へと突き進んでいったのではないか、なんて、すこしこじつけが過ぎますかね。


 今日はやっと、夏の終わりを感じました。ベランダに出ると涼しい風が頬を撫でて、億劫だった洗濯物の取り込みもなんとなく体が軽く感じます。ハンガーに吊るされたお気に入りのTシャツを取り込んでいる時、うちのアパートに面した道路を、妊婦さんが日傘を差して歩いているのが見えました。私はその姿が、以前と比べ、なんだか少し違った風に見えました。


 

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エア書評 森エルダット @short_tongue

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