第一章1 『記憶喪失の少女』

 汽車が止まってから約十分。

 あしは小太りな四十前後の男性の車掌さんと共に、徒歩で線路沿いを歩いていた。

 車掌さんは神経質そうに眼鏡の位置を直しながら、震えた声で訊いてきた。


「もう一度お尋ねするでやんすが、本当に女の子が車両から飛び降りたんすね?」

「正確には、車両の天井からじゃ」

「……どうしてそんな所に女の子がいたでやんすか?」

「それはあしの方が訊きたいのう」


「もなかね、文字の匂いを辿ってきたって聞いたよ」

『そうだったわね。鼻をひくひく鳴らしてたし』


 あしと車掌さんは同時にばっと後ろを振り返り、二人して「ちょいぃっ!?」と叫んでいた。

「なんでおまん等ついてきているぜよ!?」

『わたくし達も目撃者ですので、ご一緒した方がよろしいかと』

「もなかもね、見たの。女の子が汽車の後ろにぴゅーって飛ばされてくところ」


「いらん、いらん! えずいもんがあるかもしれんのに、女子供を連れて行けるはずないろうが!!」

「えずいって、なに?」

「女子供に見せられんもんって意味じゃ!」


「ああでも、その心配はないみたいでやんすよ」

「なして?」

「車両から落ちたのって、あそこに寝転がってる子じゃないでやんすか?」

 車掌さんが指差した場所には、一人の女の子が倒れていた。


 烏濡れ羽の長髪、平安の頃のやんごとなき方が召していた十二単(じゅうにひとえ)に身を包んでいる。駆け寄って顔を覗き込んでみると、なるほどさっきの少女じゃった。

 じゃけんどにわかには信じられんかった。汚れに着物のほつれは至るところにあるが、ケガに関してはかすり傷一つさえ見当たらない。


「……なして無傷なんじゃ?」

「お兄さん、本当にこの子は車両の上から落ちたんでやんすね?」

「ああ、そのはずじゃが……」

「じゃあたぶん、この子は神さんでやんす」

「なるほどのう……それなら筋が通るな」


 納得のいったあしの横で、もなかが美甘に訊いていた。

「ねえねえお姉ちゃん、なんで神さんはケガしてないの?」

『神さんは基本的に現世(うつしよ)のものの影響で外傷を負ったりしないの。もなかが夢の中でケガをしても平気なようにね』

「んー? じゃあ、この世界は神さんの夢なの?」

『それはわからないけど。少なくとも神さんは現世では汽車から落ちても、川で溺れても平気ってこと』

「いいなー、それ。もなかも神さんになりたい!」

『確かに神さんになった人もいるけど、そんなのは滅多にないことよ』


 あしは少女を念入りに調べたが、絹のように白い素肌には傷一つついていなかった。

「手慣れてるでやんすね」

「師匠に生き死にに関する知識はしっかとつけちょけって躾けられてな」

「お師匠さん? お兄さんは何してるでやんすか」

「あしは……」

 言いかけたところで、少女から「んぅ……」と声が漏れた。


「お、気ぃついたか」

 顔を覗き込むと、長い睫毛を持ち上げ瞼が開いた。

 ぼんやりした瞳があしを見返してくる。

「あんた……、誰?」

「あしか? あしは手田……」

「――へくしっ!」

「おお、すまんすまん。服を脱がせたままじゃったのう」

「まったく、ちゃんと着せなさ――って……?」


 少女の目線が、御開帳となった自身の体の方へ向く。

 たちまち顔が赤くなっていくのは、羞恥心のせいじゃろう。

「別に貧層でもよか。太いことが正義とは限らんぜよ」

「……なっ、なんで脱がせてんのよ!?」

 服の前を掻き合わせ、少女は口角泡飛ばしてくる。ついさっき走行中の汽車から落ちたとは思えん元気っぷりじゃった。


「ケガしとらんか調べとったんじゃ。別に他意はない」

「け、ケガ!? あたし、ケガしてんの?」

「いや、しとらん。さすが神さんじゃ、傷一つ見当たらんかった」

「神さん? あたし、神なの?」

 きょとんとした顔の少女。あしと車掌さんは顔を見合わせ眉をひそめた。


「嬢ちゃん、神さんじゃないかや?」

「ええと……」

「普通の人間かや?」

「うーん……」


 少女は腕を組んで難しい顔で唸り始める。

 あしはもしやと思い、恐る恐る尋ねた。


「……嬢ちゃん、おまんの名前を教えてくれんか?」

「あたしの名前? あたしは……」

 口が開いたまま停止する。そのまま短くない時間が経ち、少女は首を傾いだ。


「あたし、誰?」

 こりゃ間違いない。


「お姉ちゃん、この女の子あれ? きおくそーしつ?」

『しーっ、静かにしてなさい』

 もなかの言葉を聞き、少女の顔がみるみる青ざめていく。


「うそっ、うそっ、うっそぉ……!? あっ、あたし、記憶喪失ッ!?」

「落ち着き。なんでもいいから、思い出せることはないがか?」

「お、思い出せること、思い出せること……」

 頭を掻きむしって考え込み始める様からは鬼気迫る迫力があったが、一向に焦り顔が変わる気配はない。


「だめだめだめっ、何も思い出せない……。そもそもあたしはどうしてこんなに汚れてんのよ!?」

「汽車の客用車両の屋根から落ちたんじゃ。ほれ、あそこの」

「はぁ!? 汽車の屋根にいるとかバカじゃないの!? ソイツ死ぬ気ッ!?」

「……おまんのことじゃ、おまんの」

「あたし? あはは、まさか。あたしがそんなことするわけないじゃない」

 髪をさらっと手櫛で梳き、胸を張る少女。いくら容姿が整っていようが、土埃塗れでは恰好なんて米粒ほどもついておらん。


「大した自信じゃのう、記憶喪失のくせに」

「う、うっさいわね! 大体、どんな理由があれば走ってる汽車の屋根に行くなんて命知らずな真似するのよ? 常識的に考えて、そんなバカなことするわけないじゃない」


「運賃分の金を持ってのうて、タダ乗りしようとでも思うたんやないのか?」

「はっ、バカバカしい。話にならないわね」

「あやかしいと思うなら、入場券を見せてみい」

「いいわよ。絶対どこかにあるから」


 少女は袖の中を探したが、あしが調べた後じゃ、見つかりっこない。

 またもや少女の顔が青ざめていく。

『あの、これあなたのものじゃないですか?』

 美甘が差し出した桜柄の巾着袋を見て、少女の顔がぱっと輝く。


「そうそう、多分そうよ、きっとそうよ! 恩に着るわっ、あんた!」

 少女は美甘をぎゅっと抱きしめて感謝する。美甘は困惑気な顔をし取ったが、絵魔保が口に当てられなくなってしまい、どうすることもできんようじゃった。

 やめるよう言うべきかと思うたが、その前に少女はあっさり美甘を解放して巾着の口を開いた。


「さてと、この中を探せばきっと入場券が……」

 少女は中を覗きつつ手で探る。

 探り続ける。

 探って探って探り続けるも。


「入場券が……」

 出てこない。


「ほら、入場券が……」

 一向に出てこない。


 ついに声すら出てこなくなり、代わりに顔面から汗がだらだら出始めた。


 やがて。

「どぉおおおおおしてないのよッ!?」

 巾着を地面にたたきつけ八つ当たり。頭から角がにょきにょき生えるほどの憤怒っぷりだった。


「わかったわ、きっと車両から落下した時に風に飛ばされてなくなったのよ!」

「ほんなら金は?」

「それはきっとあるわよ。待ってなさい、すぐに出すから」


 少女は巾着袋を拾い上げ、またも中を覗き込む。

 がさごそがさごそ。

 さっきと似た光景。顔色も元通り青くなる。


「どぉおおおおおしてないのよッ!?」

 まっこと既視感覚える怒りっぷり。メンコの要領で巾着が地面に叩きつけられるのもそのまんまだった。


 肩で息をして少女は言う。

「謎は全て解けたわ。きっと車両から落下した時に風で飛ばされてなくなったのね」

「巾着はあるやか」

「甘いわね。巾着が一つとは限らないわ。入場券もきっとそっちに入ってるのよ」


「……じゃあ、なして車両の屋根になんかおったん?」

「そんなの作り話に決まってるじゃない。つまりあんた達が嘘つきってことよ!」

「な、なんだってー……」

 大げさな反応をしちゃろうと思ったが、度を過ぎたあほさ加減にゃついていけず全然少女の調子に合わせられんかった。


 まあ、あしと美甘はいい。少女のぼけさくな言い訳も聞き流せる程度の余裕は持ち合わせちょる。

 問題は、残された一人じゃった。

「嘘なんか、ついてないもん……」

「……え?」


 少女はうろたえ、声の主を見やる。

「本当だもん。本当に、屋根の上から逆さまに窓に顔べたってしてるの、見たもん。もなか嘘ついてないもんッ!」


 感情を制御できず、嗚咽混じりにうったえるもなか。

 少女はおろおろしながらも、もなかをなだめんと試みる。


「みっ、見間違いとか、そういうんじゃないの?」

「もなか見たっ! お兄ちゃんが窓開けたら、顔だけ中に入ってきたもん! おしゃべりだってしてたもん!!」

「え、あ、じゃあ……あたしのそっくりさんってことは?」

「そんなことないもん! 顔も声も同じだもん、違くないもん!」


「ええっと……」

「違くないもん、違くないもん、違くないもんッ!」

「……すみません、あたしがやりました」


 がっくり肩を落とし、少女は自首した。

 もなかは手の甲で涙を拭い、むっつりとした顔で黙りこくった。


「まあ、なんじゃ。記憶にもないことで責めてすまんのう」

「いえ……自業自得と言えば、自業自得だし。……納得はいかないけど」

 少女は「はぁあ……」と嘆息しながら首を振った。

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