序章3 『墨の香りに誘われて』
もなかは座面に膝を立て背もたれから身を乗り出し、「ここだよお姉ちゃん!」と声の主に答える。
すぐにブーツ特有のくぐもった硬質な音が近づいてきて、座席の背もたれの向こうから声の主だろう女子は姿を現した。
ほうと思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
女子は髪を昔の貴族みたいに下ろして、両側だけ一房ずつまとめていた。“つーさいどあっぷ”とかいう名前だったじゃろうか。
髪型こそ奇天烈やが、彼女の愛らしい小顔になかなかどうして似合っていて、めんこい女子じゃのうと見惚れてしまう。
橙色の丈の短い着物に緑の帯、黒いハイソックスに茶色いブーツ。もしも右手に唐草模様の風呂敷を持っていなかったら外国人の仮装かと勘違いしたかもしれん。
女子はあしに気付いて、軽く頭を下げて、もなかとぶっちゅう(同じ)首から下げた絵馬で口元を隠して言った。
『申し訳ありません。もなかがご迷惑をおかけしていたみたいで』
「いいや、ほがなことない。むしろあしの方が相手してもらっちょった感じじゃ」
「お姉ちゃんっ、見て見て! もなかね、名前書いたんだよ、ほら!」
もなかがつい先刻名前を書いた和装本を女子の眼前にずずいっとやると、彼女は『あらまあ』と目を細めた。
『ほんと、上手ね』
やはりもなかと話す時も女子は口元を絵馬で隠していた。
「えへへ、でしょ? お兄ちゃんに手伝ってもらって書いたの」
『まあ、この方に? それはそれは、なんとお礼を申し上げたらいいか……』
ぺこぺこ頭を下げる女子に、あしは手を伸ばし制した。
「ほがあなことせんでええ。好きでやったことじゃし」
『そうですか。でも珍しいですね、今時文字が書けるなんて』
「別に字を書けるぐらい、なんちゅーことないき」
『……土紗(とさ)の方でしょうか? あの、土にうすぎぬの紗と書く……』
「あはは、方言は分からんよな」
『すみません、不勉強なもので……』
「気気にせんでええぜよ。おまん、もなかのお姉(ねえ)か?」
女子は緩やかにうなずき、胸に手を添え名乗った。
『わたくし、茶乃間仁美甘(ちゃのまにみかん)と申します。以後、お見知りおきを』
「もなかはね、もなかはね」
姉の真似をしてか再び名乗ろうとするもなかをあしはやんわり制した。
「おまんのはさっき聞いたぜよ」
「あ、そっかー。じゃあ、お兄ちゃんは?」
「あし? あしはじゃな」
和装本の真っ白なところを開き、もなかと使っていた筆を手に取り、さらさらと筆を走らせる。毛先は生き物のように淀みなく動いていき、あっちゅう間に四つの文字を書き上げた。
その半紙を二人に見せ、あしは名乗った。
「手田(ただ)継愛。手だけどたって読むのが変わっちょるじゃろ」
「……んー? ねえねえお姉ちゃん、どれをけいあいって読むの?」
『ええと……、これかしら?』
美甘は自信なさそうに愛の字を指す。それをあしは手を振って否定する。
「違う、違う。ほれだけじゃあ、あいとしか読まん。上の継ぐの字も合わせて『けいあい』じゃ」
『……すみません、字にはとんと疎くて』
申し訳なさそうに深々と頭を下げる美甘にあしは「よかよか」と言ってやめさせてから訊いた。
「おまんも字は書けんと?」
『ええ。今は書けなくても、生活に困りませんので』
「絵魔保(えまほ)があるもんね」
もなかが紐を手に持ち、首から下げていた絵馬みたいなもんを見せてきた。
一見するとほりゃあただの五角形の板やが、すぐその表面に頭部だけが馬の細い(小さな)人形みたいな絵が表示されて、『何か御用ですかヒヒーン?』と声を発した。美甘とまるきりぶっちゅう声じゃった。
「難しいことは全部絵魔保とお話しすれば教えてくれるんだ」
「美甘とぶっちゅう声じゃな」
「お姉ちゃんはね、絵魔保を使って話してるんだよ」
絵魔保をひっくり返すと、上部辺りに戯画風の人間の眼が黒い墨で描かれていた。
「この目に口の動きを見せると絵魔保が代わりにしゃべってくれる機能があってね、それ使ってるんだって」
「無言でもしゃべれるっちゅうわけか。美甘は声が出せんのか?」
「昔は普通にしゃべってたよね?」
『はい。ですが、ある時から声が出なくなってしまって』
「そうか、そりゃ大変じゃのう」
『お気遣いいただきありがとうございます。ですが、絵魔保のおかげで不便なく生活できていますので、わたしは大丈夫です』
ぺこっとお辞儀をする美甘。慇懃な女子だと思っとったが、それは普通に声が出せない彼女なりの処世術なのかもしれん。
「統京に住んじゅう人はみんな絵魔保を持っちょるのか?」
「うん。どこかの神さんが作って、みんなにくれたんだって! こんな小さいのにすごいたくさんのことができるんだよ。遠くの人とお話ししたり、伝言を伝えてくれたり、動く絵とか、人とか見れるの! あとねあとね、目の前の景色を保存したりもできるの!」
「ほほう。それなら、文字を使えばもっとおもしろうことができそうじゃがな」
「どうして? おしゃべりだけで済むなら、わざわざ文字なんて書く必要なくない?」
「ほがなことない。文字にしかできんことも、こじゃんとある」
「こじゃん?」
「たくさんっちゅう意味じゃ」
「へえ! それで、文字にしかできないことって?」
「肉筆の文字には、自分の素直な気持ちが宿る。表情や声でどれだけ取り繕うことができようとも、筆跡は胸中の思いを包み隠さずを打ち明ける。じゃから口では言えん、口頭では表せん思いも、直筆の文字でなら伝えることができるんじゃ」
「……えっ?」
「どうした、そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
見やればもなかだけでなく、美甘もあっぽろけたような顔をしてあしのこと……いや、あしの後ろを見やっちょる。
二人してほがな表情をしとったら、さすがに気になる。あしもつられて背後を振り返り。
「……は?」
我が目を疑った。
窓の外、そこにべたりとはりつく上下さかしまの少女の顔が一つ。
鼻が豚のようになるまで顔を押し付けたその子は、黒く長い髪をすだれのように垂らしてじっとこっちへ両眼を向けてきちょる。まんま怪談じゃ。
あしは薄気味悪さにちっくと身震いしながらも窓に手を伸ばし、ゆっくりと上に持ち上げて開いた。
少女は一旦窓から身を引き、それからすぐ車内に顔を突っ込んできて犬さながらに鼻をぴくぴく動かした。
「やっぱり、ここからよね」
「……嬢ちゃん、そげなところで何しちょるん?」
「決まってるでしょ、文字の匂いを辿ってきたのよ!」
甲高い声に耳がやられ、飛んできた唾液に顔が濡れた。雷鳴伴う通り雨か。じゃけんど夕立にしちゃ、まだ早い。
「……おまん、クモ女か?」
「はあ? 何言ってんのあんた。どう見たらあたしがクモに見えんのよ?」
「今の自分の姿を客観的に見てみい」
少女は顎に手をやり、しばし考えた後に呟くように言うた。
「……まあ、確かにこうして走行中の機関車の窓に急に美少女が現れたら、はて妖怪かと思うかもしれないわね」
「おまけに夕立も降らせてきたしのう」
「夕立?」
「なんちゃーないよ。とりあえず、そんな所におらんで中に入ってきたらどうじゃ?」
「ええ、そうさせてもらう……わぅッ!?」
天井から身を乗り出しすぎたんじゃろうか、少女は手を真下に突き出し地面に落下していく。その姿は右に流れていき、見えなくなり。遅れてドガッゴシャッガガガガガガッと耳障りな音を立てた。
『……落ちましたよね?』
「落ちたね」
「イヤな音がしてたのう……」
音の失せた周囲一帯の空気が冷え込んでいく。
それから誰からともなく走りだし。
『車掌さん、車掌さん!』
「汽車、汽車止めて~!」
「人が、人が落ちたんじゃッ!」
あし等は悲鳴に近い声を上げ、車両を前へ後ろへ駆けまわった。
何も知らない汽車はプォーッと景気のいい音を響かせひたすらに走り続けていた。
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